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共に在るもの

 しかし、どうなのだろう――





 閻羅王は今、手許の生死簿を見下ろしていた。

 いつもの所作ではある。

 だが今日それを眺めつつ想うことは、不可思議の念の下にあった。



 手許に開くのは、リンケイについて書かれてある所だ。



 そこには、マトウという女――リンケイと師を同じくするという陰陽師の名が、恰もまとわりつくかのように散りばめられている。

 だがリンケイ本人は、それほどにもマトウという女を重く見ているようではなかった――それどころか名は思い出してもすぐに顔までは思い出せずにいたほどだ。

 見たところそれは決して、リンケイがわざと知らぬ振りをしているというのでもなさそうだった。



 けれど今見ている生死簿には――



「見方によっては」閻羅王は独り呟いた。「龍駿――聡明鬼よりもずっと重大な存在として記されておるな」



 ふう、と息をつく。



 このことは、さきほどまで一緒に居たリンケイに告げることはなかった。

 不可思議ではあるが、まだリンケイ本人が知るべきことではない。



 まだ、リンケイ本人が知ってよいことでは、ない。



「その時が来れば」また、独り呟く。「本人にも、儂にも判ることだ」





          ◇◆◇





「逃げるのではない」マトウは力の籠もった声で皆に語った。「道を探すのだ。あるべき、正しき理の下の道を」



「では」群衆の中の一人が問う。「鬼が襲って来ても、闘ってはならぬというのですか」



「身を隠し護りながら、言葉をかける術を探るのだ」マトウは答える。



「そんなこと」

「できっこありません」

「鬼に言葉など通じるわけがない」

 人々は口々に訴える。



「闘えば我等尊き人間が、鬼と同じ類の者となってしまう」マトウはひるまない。「我等人間は闘いではなく理と智をこそ、鬼たちに示し向けねばならぬ」



「――」

「でも」

「どう、やって」

 人々は戸惑う。





 今日のマトウの話の内容は、群集たちをまさに戸惑わせるものであった。

 人々が期待していたのは、もっと卑近な、実行し易い心の持ち方、行いの在り方についての教えだったのだ。

 しかし今日のマトウは、突然のように現実的な、そして出来る事ならば誰しもが見えぬ振りをして通り越してしまいたい“もの“を、直視させようと働きかけてくるのだった。



 群集の後ろの方に並ぶ者の中には、そっと足音を忍ばせて場を立ち去る者さえ幾足かいた。



 周囲に立つリシら従者は、そういった者たちを引き止めるべからずとの指示をあらかじめマトウより受けていた。

 なのでその場に佇んだまま微動だにしなかった。





「今、鬼に対峙できる降妖師たちとの連携を図っているところだ」マトウは声を張り上げる。「今、地獄の鬼どもは、一人の鬼の持つ打鬼棒という武器を恐れ、陽世に逃げ込んで来ている。そいつらが土地爺をそそのかし、脅かして、人間たちを足元にひれ伏させようと目論んでいるのだ。人間に打鬼棒は効かぬ。逆にそれを持つ降妖師が味方についてくれれば、我等とて鬼を恐れることなど少しもないのだ」



「打鬼棒」

「降妖師」

「おお」

「それがあれば」

「その人が居れば」

「鬼に勝てる!」

「我ら人間が、鬼に勝てる!」



「違う」マトウは首を振る。「勝つ負けるなどは考えるな。ただそれがあれば身を護れるというだけのことだ」



「しかし鬼どもに話など通じませんよ」

「叩き殺すしかありません」

「そうだ」

「そうだ」



「話を聞け」マトウは叫ぶが、人間たちはもはや従おうともしない。



「マトウ様」リシが流石に見かね、声をかけた。「収めましょうか」



「――」マトウは唇を噛む。



「お前たち」リシは振り向き、わあわあと騒ぐ聴衆に呼びかけた。



「玉帝さまがついていて下さる」だが続けて叫んだのは、マトウだった。



 群集は、しんと静かになった。



「私には、玉帝さまのご加護があるのだ」マトウは自分の胸に手を当てた。「鬼など、恐れてはいない。だが玉帝さまは血で血を争う地獄の様相など、この陽世の上に求めておられるだろうか。断じてそれはない」



「玉帝、さま」人々の口に、今初めてその名を聞いたかのように恐る恐るその名が上った。



「そうだ。玉帝さまだ」マトウは大きく頷く。「お前たちが私に従い、私と共にあるならば、無論お前たちも玉帝さまの加護の下に入れるのだ」



「玉帝さまが、我々をお守り下さるのですか」

「おお」

「素晴らしい」

「マトウ様と共に」

「我等もマトウ様と共に!」

 新たな叫びが次々と群集たちの中に巻き起こる。



「人間として、智恵と理性を取り戻すのだ」マトウはまとめにかかった。「鬼どもの足下になど、決してひれ伏さぬ。我等には玉帝さまの加護の光が常にあるのだ」言いながらマトウは、己の懐から胸に下げる碧の玉を取り出し、鎖を首から外して高く持ち上げた。



 壁の玉は陽の光を受け、きらきらと眩く輝いた。



 リシもまた、その碧の玉を眩しそうに眼を細めて仰いだ。





 ――聡明鬼……





 胸に想うのは、蓬髪と逞しく大きな背、そして自分の頬にそっと触れた、無骨な手。





「マトウの傍に居ろ」





 囁くように自分に告げた、声。





「皆の者」リシは碧玉を仰いだまま、声を高めた。「マトウ様と共にあらん」



「おお」

「うおお」

 人々は一斉に腕を高く掲げ、声を揃えた。



 マトウがリシを見、にこりと微笑む。

 リシもそれに応え、深く頷いた。



 共に心に在るのはきっと、碧の色を持つ眸だ。





          ◇◆◇





「鬼たちの様子はどのようになっているか」リンケイはことある毎に鬼差たちに訊いて回った。



 鬼差たちの答えは、初めは「特に変わりはない」「不穏な様子ではない」というものだった。

 だが次第に、少しずつ「なんだかそわそわして落ち着かぬ風だ」「我等が近づくだけでも体をびくつかせたり縮こまったりする鬼が出てきた」というものが交ざって来たのだ。



 リンケイは腕を組み、考えた。



 恐らくは、テンニが戻ってきたのだろう。

 体は――もしかすると、回復してしまったのかも知れぬ。

 どのようにしてか、それは今考えても埒の開かぬ事だ。





 自分への呪いの儀式の後、リューシュンはすぐに陰曺地府へは来なかった。

 それが恐らくは、このテンニの復帰、ないし回復に関わりのある事には違いないだろう。

 そして実際にテンニが復帰、回復したのであれば、リューシュンは――或いはリューシュンとキオウ、ケイキョ、スルグーンらは、その手立てに失敗したのだ。



 事態は、猶予ならぬものとなって来たというわけだ。



 リンケイはくるりと向きを変え、コントクとジライの元を目指し走った。

 彼らは今、牛頭と馬頭の元にて三叉の手ほどきを受けていた。



 まずは、伝えよう。

 テンニが間もなく、森羅殿へとやって来るだろう事を。



 そして自分も剣を抜き、いつでも対峙できるよう態勢を整えておくのだ。





 リューシュンは――





 今、聡明鬼がどのような状態でどこを歩きまたは走っているのか、それも与り知らぬことではある。

 だが確実に、間違いなく、リューシュンもまた森羅殿を目指しているはずだ。



 どちらが、早く辿り着くのか。



 リンケイは走りながら、腰の鞘から斬妖剣を抜いた。





 ――共に、闘おうぞ。





 心に、黒き蓬髪と碧の色の眸を持つ鬼の顔を思い描き、にこりと笑いかける。

 聡明鬼が、深く頷く様子が眼に浮んだ。





          ◇◆◇





「山へ、行こうチイ」





 スルグーンは、そう提案した。

 提案したのは、ケイキョ、リョーマ、そして従者として得たフラにである。



「山?」皆は当然のように訊き返した。



「山って……山賊たちのいる、あの山ですかい?」ケイキョが問う。



「うん。そうだキイ」スルグーンは頷く。



「でも、何をしに?」リョーマも問う。



「おれたちが去った後、どうなったかを確かめに行くんだチイ」スルグーンは応える。



「つまり……山賊が勝ったのか、鬼どもが勝ったのか、を?」フラも問う。



「そうだキイ」もう一度頷く。



「それを確かめて、それからどうするんでやすか?」またケイキョが問う。



「山賊が勝っていたなら、それはそれでひとまず置いといていいチイ」スルグーンは皆を見回す。「けど、もしも鬼どもが勝っていたなら――」



「――」三足は、言葉をなくした。

 それぞれが、肌にうすら寒いものを感じたような顔をする。



「人間が、危ないってことだチイ」スルグーンは低く言った。「今、マトウとリシが、人間たちにいろいろ説いている所だキイ」



「――ああ」ケイキョが呑み込めた顔で頷く。「鬼どもがそれを知ったら」



「そうだチイ」スルグーンはばさり、と翼をはたいて空中に浮んだ。「マトウとリシが、危ないことになるキイ。行くぞチイ」





 そうして二頭の龍馬と、それぞれの背に乗った精霊そして奇獣は、山へと向かった。

 そこで見たものは、草木のすっかり焼け落ちた、乾いてからからの砂ばかりとなった山肌、瓦礫と化した山賊たちの元の住処、投げ飛ばされあちこちに転がる大小の岩、動物の、鳥の、そして人間の、骸の数々――





「鬼どもが、いない」リョーマが慄然と呟く。



「逃げたのか」フラも、辺りを見回しながら言う。



「死んでるのは人間たちだけでやす、ね」ケイキョは声を絞り出すように見た様を口にする。



「鬼どもは、殺されたとしても陰曺地府に戻ったか」スルグーンが考えを述べる。「鬼同士で喰らい合ったかチイ」



「うぐ」ケイキョが鼬の顔を歪める。



「どっちにしても、人間が勝ったようには見えないキイ」スルグーンは猫の眼を左右に揺らして言った。「鬼どもは山を降りて行ったんだチイ」



「じゃあ」リョーマがしゅるり、と馬の尾を巻く。「マトウたちの所へ」



「うん」スルグーンも頷く。「急ごうキイ」





 四足は、壮絶な戦の跡と成り果てた山を離れ、再び飛んだ。





          ◇◆◇





 天心地胆を抜けようとして、リューシュンははっと立ち止まった。

 自分が抜け出るのを押し戻すかのように、邪悪なものの気がその黒い淵の向こうから近づいて来るのを察したからだ。

 案の定、リューシュンよりも先にわらわらと、幾足もの鬼どもが姿を現して来たのだった。



「お前ら、何処に行くんだ」リューシュンは声を張り上げた。



「なんだ」

「お前は」

「聡明鬼か」

「お前こそ何処に行く」

「打鬼棒で血にされに行くのか」

「馬鹿な奴だ」

 鬼どもは肩を揺すってリューシュンを馬鹿にし笑い、さっさと立ち去ろうとした。



「待て」リューシュンは怒鳴った。「テンニがまた来たんだな。陰曺地府に」



「ああ」

「来た」

「自分で見て来ればいい」

「そうしてさっさと血にされてしまえ」

 遠ざかりながら鬼どもは答える。



「それでお前らは、何処へ行くんだ。まさかまた、陽世に行くつもりじゃないだろうな」



 リューシュンの、怒声の問いかけに鬼どもは答えず、さっさと行こうとした。



「行かせるか」リューシュンは走り、近くの鬼から肩を掴んで引き戻した。



「貴様」

「離せ」

「人間の手下になりやがって」



「違う」リューシュンは怒りながらも鬼どもに手を伸ばす。「違うが、お前らの手下でもない。人間たちを傷つけに行くことは許さん」

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