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呼声

「糞どもめが」
「貴様ごときに言われる筋合いのものではないわ」
「己れ」
「八つ裂きにしてくれる」
「こちらの科白じゃ」
「死ね」



 口汚く罵り合う、怒鳴り声が聞こえる。
 どうして、そんなひどいことを言うのだろう――



 スンキは薄く眼を開けてみた。



 棘のたくさんついた、棍棒が見えた。
 それは黒い影絵で、棍棒は逞しい体つきの者が手に握っているのだった。
 逞しい、体つき――スンキの眼には、その者の頭の上に二本の角の影が見えた。



 鬼だ。



 鬼の影絵は、手に持った棍棒を眼にも止まらぬ速さで振り下ろした。




「ぎゃああああ」




 途端、耳を劈くような男の悲鳴が挙がった。
 はっと息を呑み、スンキは眼をはっきりと開けた。
 身を起こそうとする、しかし体が思うように動かせない。
 眼だけを悲鳴の聞こえた方に向ける。



 今まさに、棍棒を持った者とは別の者が、スンキの視界の片隅でばさりと大地に倒れ伏すところだった。



 棍棒を振り下ろした者――鬼は、その棍棒を頭上に高々と持ち上げ「うおおおお」と咆哮した。



 うおおおお



 それに答え、周りの見えないところからも雄叫びがいくつも上がる。
 鬼たちだ。
 鬼たちが、いるのだ。
 鬼たちが――




 人間を、棍棒で殴りつけているのだ。




「ぎゃあああ」
「ぐぁあああ」
「助けてええ」




 スンキが最初に思ったことは、逃げなければ、という事だった。
 自分のお腹の中には、赤子がいる。
 自分と子供を、無事な所まで自分で逃げさせなければ。



 立ち上がろうとした。
 だが足が動かない。
 声を出そうと思った。
 だがそれも出来ない。




 ――キオウ。




 その名が頭に浮かんだ瞬間、スンキはそれが誰の名であったのかさえも判らずにいた。




 ――スンキ。




 だがすぐ、そう呼び返す若い鬼の顔が脳裡に浮かんだのだ。
 そうだ。
 キオウ、キオウは夫だ。
 自分と、このお腹の子供の家族、夫であり父親だ。




 キオウ!




 涙が溢れた。
「キ」震える喉元から、嗚咽のような声が絞り出される。「オ、ウ」



「なんじゃ、起きたのか」野太い声が、上から降ってきた。



「――」スンキは涙に濡れた眸を、声の方へと向けた。



「心配はない」声の主は影絵のごとく黒い姿をしていたが、その眼だけはじろりとスンキを見下ろしていた。「儂らは天心地胆に隠れているから危害を被ることはない。ただ奴ら、鬼どもと人間どもが互いに殺しあっておるだけだ」



「――」スンキは返事もできず、その黒い者を見上げた。



 その者の頭にも、角が生えている――それもまた、黒くなっている。



「お前の夫が来るまでは、もうしばらく眠っていろ」声の主はそう言うと、スンキから眼を離し前方を見た。



 確かにスンキは、自分がすっかり疲弊してしまっていることを感じていた。
 体を動かしたわけでもないのに、疲れ切ってしまっているのだ。
 眼を閉じる。




 スンキ。




 最後に幻のごとくその顔と声が浮かんだ後、スンキの意識は再び深く沈みこんでいった。




          ◇◆◇




「龍駿」閻羅王はその名を今一度口にした。「奴はまだ、ここには来ないのか」



「今はまだ、陽世でやらなければならぬ事があるようです」リンケイは答えた。「それも恐らく、テンニに関わることには違いないのでしょうが」



「ふむ」閻羅王は生死簿を懐にしまい、襟を整えた。「陽世では少しずつ、均衡が崩れて来ておるようじゃな」



「均衡が」リンケイは繰り返した。「つまり、人間と鬼の間の」



「うむ」閻羅王は、頷いた。「今の陽世、共生ではなく寄生の様態にある」



「寄生?」リンケイは、訊いた。



「うむ」閻羅王は、頷いた。



「つまり人間と鬼とが、寄生の関係にあると、そういう事でござりまするか」



「そうじゃ」



「それは」リンケイは、地獄の王の炎のような眸をじっと見た。「どちらが、どちらに――寄生している、と」



「そうじゃのう」閻羅王はため息をつきながら天井に眼を向けた。「人間たちからすれば鬼が人間に、となろうし、鬼どもからすれば逆に、人間が鬼に、となろうの」



「ああ」リンケイは理解した。「なるほど、そういうことですな」



「寄生じゃ」閻羅王はもう一度、ため息をついた。「共生ではなく」



「そして今、互いが互いを排除せんと動き始めている――いや」リンケイは考えを述べたがそれを自ら遮った。



「うん?」閻羅王は陰陽師を見る。



「互いが、ではなく」リンケイも閻羅王を見る。「人間が、ですな。主に人間の方が今、自分たちに“寄生”する鬼どもを排除せんと、目論んでいる」



「うむ」閻羅王はまた頷く。「鬼どもの方は、高をくくっておる嫌いがなきにしもあらずじゃがな」



「特に何も考えてはいないのでしょうな」リンケイは思慮深げに腕組みをした。「鬼というものは得てしてそうですからな」



「手厳しい事を言う」閻羅王はいささか苦笑した。「確かに鬼には、人間であった頃ほどに物事を深く考えることはできぬようじゃ。まあ中には例外もおるがな」



「はい」リンケイはにこりと笑い頷く。「私の知るところではリューシュン、そしてキオウ」



「うむ」閻羅王も頷く。「そして……残念ながら打鬼棒の犠牲となってしもうたが、スルグーン」



「スルグーン……ああ、鬼差としてここにいたスルグーンですな」リンケイは納得した。「それは、私めも一度逢っておきたかったものですな。残念です」



「しかしあいつは自ら打鬼棒に向かってゆき、それでむざむざ打たれ消えたのだからな、それを思うとやはり、余り深く考える奴ではなかったのやも知れぬ」



「ああ」リンケイは肩を竦めた。「そうでしたか」



「じゃがあいつの話には大いに興味をそそられた」閻羅王は懐かしむように紅き眸を細めた。「儂に金銀の宝玉を持って来る土地爺の中にも、あれほどに面白き話をもたらす者は一足とおらなんだ」



 リンケイはただ微笑んだ。




 ――俺も、早くまた聞きたいところだ。




 微笑みながら、そう思う。




 ――今度会う時にはどんな面白い話を聞かせてくれる。聡明鬼、リューシュンよ。




          ◇◆◇




「山が見えてきた」
 伝えたのはリョーマ。
「山が見えてきたそうでやす」
 そしてそれをリューシュンに伝えたのはケイキョだった。



「見えたか」リューシュンはリョーマの背の上で上体を伸ばし、目を細めた。



「山?」リシが隣を飛ぶトハキの背の上から訊く。



「ああ」リューシュンは前方を見たまま答えた。「山だ。あそこにいる」



「――ムイ中毒の、男がか」



「ああ」リューシュンは答え、手元の甕を今一度見下ろし確かめた。「今はもう、鬼だがな」



「――そう、だったな」リシもその甕を見る。「しかし囚われた女だけを取り戻し、ムイは渡さずにおくとは、一体どのようにして――」



「簡単さ。まずは交換だ」リューシュンはリシを見た。「この甕を奴に渡し、スンキをこちらに帰してもらう」



「渡すのか」リシは眼を丸くする。「そして?」



「そしてその甕を叩き壊す」



「――」リシは言葉を失くした。



「ムイは粉になってるから、空中に散らばるだろ。そこをリョーマとフラの焔で黒焦げになるまで焼き尽くしつつ飛び散らせる。それだけだ」



「できるのか」リシは戦慄の声で訊いた。「そんなこと」



「まあ、大概大丈夫さ」リューシュンは肩を竦めた。「なんなら、お前の龍馬にも手伝わせてやるよ」



「――」リシはトハキの黒い首を見やったが、やはり答えの言葉を失くしていた。



「ただお前には、引っ込んでおいてもらった方が助かる」リューシュンは眉を持ち上げ続けた。



「何故だ」リシは驚き訊ねた。



「今教えただろ、どうやるのかを。そこに、お前の出る幕はないってこった」



「――」



「下手に手出しされると却って邪魔だ。手伝うならお前の龍馬だけにしろ」



「――く」リシには返す言葉もなかった。だが彼女はふと思いつき問うた。「しかし、それをし遂げた後も何かやらねばならぬのだろう。それは何なのだ」



「地獄へ行く」リューシュンはまた前を見たまま答えた。



「えっ」リシはまた眼を丸くした。「地獄?」



「いいのか、そんなに話してしまっても」キオウがフラの背の上から声をかける。



「いいさ」リューシュンは笑った。「教えないと、こいつ地獄の果てまで追いかけてきて質問攻めにしやがるからな」



「なんだと」リシは声を荒げた。



「まあそういうことだから、どっちにしてもお前に手伝える事はないってわけだ。着くぞ」



 リューシュンが言った時、三頭の龍馬の下には確かに山があり、その山腹には山賊たちの隠れ家が並んでいた。
 そしてそこでは今、山賊たちと多数の鬼どもとが、武器を手に争いを繰り広げていた。



「何やってんだ、こいつら」リューシュンは眉をしかめて呟き、
「この鬼ども、一体何処から来たんでやすか」ケイキョがリョーマの背の上で縮こまり、
「どこって、陰曺地府からだろうキイ」とスルグーンが呆然と答え、
「どうして今ここで鬼と人間が争ってるんだ」キオウが改めて事の経緯を問いかけた。「テンニはどこだ」




「キオウ様だ」
「キオウ様」
 山賊どもがフラの存在に気づき空を見上げ叫ぶ。
「この鬼どもが突然やって来て、山を明け渡せと言います」
「鬼どもを焼き尽くして下さい」



「山を?」キオウは呟いた。



「やかましい」
「人間どもめが」
「人間を恐れる儂らではないわ」
 鬼どももまた怒鳴り散らし、手当たり次第に人間を殴りつけ締め上げ、手折り握り潰していた。



 力に劣る人間たちは罠や落とし穴、弓矢や鉄筒という策略また道具で鬼どもに立ち向かう。
 鬼どもは網に吊るされまた穴に落とされ、その後矢だの銀玉だのを打ち込まれ煙と消されてゆく。



「すごい……」思わず口にしたのはリシだった。「この者たちは、どこでこんなに鬼と闘う術を身につけたのだ」



「無論、俺の手解きだ」答える声にリシがはっと顔を上げると、フラの背の上でキオウが眉をしかめ下を見下ろしていた。「だが――何故、今」



「無論、テンニの手解きさ」リューシュンがキオウに答える。「探そう」



「テンニ」キオウが大気を震わすほどの大声で叫ぶ。「どこにいる。出て来い」



「お前の欲しがっていたものを持って来てやったぞ」リューシュンも手に持つ甕を高く差し上げ叫ぶ。「これが何かわかるか。テンニ」



「スンキ」次にキオウは妻の名を叫ぶ。「スンキ。俺だ、キオウだ。スンキ」



「スンキ、というのはあの鬼の妻の名だな」リシが、近くに浮かぶスルグーンに訊く。



「ああキイ」スルグーンは猫の眼を陰陽師見習いに向ける。「そうだチイ」



「今は鬼だというが、まだ人間であった時に鬼の妻になったというのは……本当なのか」リシは訊いた。



「本当でやす」答えたのは、いつの間にかトハキの背に乗り移っていたケイキョだった――リョーマとフラが龍の首を立てたので、魔焔を吐く準備をし始めたと見て退避したのだ。



「何故」リシは鼬を見た。



「何故、って……」ケイキョは身をすくめ躊躇した。「そいつぁ」



「そいつは、何だ」



「――男と女の」ケイキョはぼそぼそと続けたが、それは陰陽師――リンケイの言葉の受け売りに過ぎなかった。



「男と女の、何だ」リシは誤魔化しを金輪際許さぬ構えだ。



「――」ケイキョは鼬の口の端を下げた。
 リンケイの口からはその先が聞けなかったのだ、リューシュンが遮ったがために。
「鼬のあっしにはよくわかりやせん」仕方なく、その時リンケイが言ったそのままを繰り返す。「人間のことは」



「――あの若い鬼は」リシはキオウを見遣る。「何故、人間の女を妻にしようなどと思ったのだ」



「だから、男と女の何やかんやでやすよ」ケイキョはため息混じりに言いながら、トハキの背の上からも退避すべきか、しかし一体何処へ逃げるべきかと逡巡していた。



「人間と鬼とは、本来あのように」リシは地上を見下ろす。「互いに相容れぬ存在のはずだ」




「スンキ」
「テンニ」
 キオウとリューシュンの叫び声はいまだ重なり合って響いていた。







「儂の欲しい物を持って来ただと」






 突如耳に届いた他の声に、リシははっと振り向いた。



 そこには楕円に口開く闇の淵が、音も無く、だが凡てに毒をもたらす本質のものであることを隠そうともせず、立ち上がっていた。



「――まさかな」その真っ黒な淵から、黒焦げの顔がゆらりと幻想のごとく現れる。




「その、まさかさ」




 今度は背後にその声が聞こえた。
 リシは振り向いた。



 聡明鬼が龍馬の背の上で、リシの手渡した甕を肩の上に持ち上げ不敵の笑みを浮かべていた。



「ムイだ」

しおり