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喰うべきは

 コントクは天心地胆を抜けた後、特に急ぐこともせずゆっくりと歩いた。
 急いだからといって、すぐに弟に会えるものではない。

 弟ジライはまず閻羅王の許へ行き、生前の行いを検分され、死因を確かめられ、しばらく待たされた後で転生の道をゆくか十八層地獄へ堕とされるかの審判を下される。

 無論コントクに、よもや弟が十八層地獄へ堕とされるのではないかなどという心配は微塵もなかった。

 ジライ、あれほどに優れた降妖師、人の世に災いをもたらす悪鬼どもを何足となく駆逐してきた男だ。
 それも欲をかいて不当なまでに高額な報酬を求めたことなど一度たりとてない。

 それだからこそ、自分はジライともっと近づきたい、親しくなりたいと望んだのだ。
 信用し、信頼のできる人間だと、判断したのだ。
 そして、尊崇も。


「兄さん」


 初めてジライがそう呼んだ時、面映い気持ちがまったくないこともなかったのだが、コントクはジライの呼びかけに自然に答えていた。
 生まれてからずっと一緒にいた、まさに本当の兄弟のごとく、二人は信頼し合い支え合ってきた。


 やがて、行く先の灰色の大地の上に、森羅殿の姿が浮かび上がってきた。


 --もしかすると、テンニの奴もあそこへ向かっているのかも知れない。


 胸中にその考えが湧く。
 不安の雲がたちまち拡がるが、コントクはそれでも急ぐことなくゆっくりと歩いた。

 森羅殿、遥かいにしえより陰府の鬼も陽間の人も、すべての者がその行く末を任せてきたあの場所が、きのう今日鬼と成ったばかりの新参者などの手でどうにかなるはずがない。
 決して、森羅殿は揺るぎはしない。
 そこには閻羅王が居り、牛頭馬頭が居り、無数の鬼差どもが居り、そして此度鬼の仲間入りをした我が弟ジライが居る。
 そして自分も。

 聡明鬼も。


 --これからあの場所で、我々の闘いが始まるのだな……惜しむらくは、陰陽師殿の居ない事だ。


 コントクは歩きながらそう想った。


 --だが彼には陽世を、龍馬たちと共に守ってもらえばいい。


 コントクは無論、その陰陽師リンケイが聡明鬼に告げた決意のことを知らなかった。


          ◇◆◇


「先生」
「先生、ぜひお力を」
「我らに力をお貸し下さい」
「共に闘いましょう」
「鬼の手から、我ら人間の手に、この陽世を取り戻しましょう」
「先生」



 門の外で呼ぶ声は、朝からひっきりなしに続く。
 だが屋敷の主は一切姿を見せずにいた。



「先生の法力で、鬼どもを蹴散らして下さい」
「先生の法珠で、あ奴等をふっ飛ばして下さい」
「先生」
「先生」



 --そんなことを、降妖師でなく陰陽師に頼みに来るのだな--



 リンケイは筆を進めながら、そう想う。
 無論、巷の降妖師たちの元へも挙って人々は力を頼みに馳せ参じていることだろう。

 だが今、テンニ、そしてジライという、有力な降妖師二足が鬼と成ってしまったことは、衆人の知るところとなった。
 その経緯を知る者がどれほどいるものかは知れぬが、頼みとなすべき降妖師の御大二名が鬼籍にいる今となっては、陰陽師にでもすがるしか道はないのだろう。


 リンケイは黙々と、巻紙に筆を走らせ続けた。
 長く、それは続いた。


 門は勿論のこと、雨戸も障子もすべて締め切っている。
 灯りは式神の少年が持ち、リョーマは部屋の片隅で、リンケイの仕事を邪魔せぬよう丸まっている。


 部屋の中は静かで、ただ外からひっきりなしに呼ぶ人間たちの声だけが遠く小さく届いてくるのみだ。



 --新月まで、あと十日--



 リンケイは目を細め、“その時”のことに想いを馳せた。

 今はただ、その時までに整えておくべきを整えるのみだ。
 ただそれだけに、全霊を傾ける。



 --法珠で鬼を吹っ飛ばすのは、それからだ。


          ◇◆◇


 町は、ひっそりと静まり返っていた。
 リューシュンは、そんな町中を歩いていた。

 独りではない。
 ケイキョが、並んでちょこちょこと足を運んでいる。
 鼬の姿のままだ。


 双方とも、何も言わない。

 異様に静まり返った町--人っ子一人姿を見せぬ町の様子について、どちらも言葉を口にすることはなかった。
 二足とも、知っているのだ。

 人々が、決して町からいなくなったのではないということを。

 ただ姿を見せぬだけだ。
 それは、鬼が来ているからだ。
 つまり、リューシュンが。


 これが他所の町、土地爺がリューシュンでない町ならば、もしかしたら人々は逆に踊り出て闘いを挑みに来るのかも知れない。
 だがリューシュンにそれを仕掛ける者は、今のところいないようだった。
 それは--


 --幸甚、てことなのかな。


 リューシュンは想い、歩きながら鬼の瞼を閉じた。
 幸いだ。

 この町の人々は、リューシュンを敵として正面から傷つけることを選ばずにいてくれるのだ。
 それは、土地爺としてのリューシュンが今まで町のために、人のためにどれだけ尽くしてきたかを、皆覚えてくれているからだ。
 だがそれもいつか、人々の心から忘れられてしまう日がくるのかも知れない。
 いつか、人々はリューシュンのことを、ただの鬼、ただの敵だと思い、石を投げ、刀や槍を向けてくるようになるのかも知れない。


 --もし、戦いになってこの俺が、人を殺めてしまったなら。


 リューシュンは歩きながら想った。


 --俺はその人の鬼魂を取り込んでやることが、できるのだろうか。


 せめてもの償いと慰めに、自分が殺した人間を自分の手で上天に上げてやることを、リューシュンは考えた。
 だがリューシュンの手によって殺された人間が、果たしてそれを望むのか。


 --望む、だろうな。


 リューシュンは歩きながら、ふうと息をついた。
 人間とは、そういうものだ。


 くるしみとかなしみは、できるものならばすべて自分の手の届かぬところへすべて押しやってしまいたい--押しやってもらいたい。
 たとえそれが自分を殺した者の手による仕業であったとしても、自分を楽にしてくれるのであれば、構わない。


 --人間が怖い、とは、こういう事か--


 リューシュンは陰陽師の言葉を思い出し、もう一度ふう、と息をついた。
 鼬が足許から、ちょこちょこと歩きながらちら、と見上げた。


 --新月まで、あと十日--


 歩きながら、空を見上げる。
 このところぐずつく気候が多く、天日を数日拝んでいない。
 見上げる空はどんよりと灰色にくすみ、ひんやりとした風が肌を撫でる。


 --兄さんは……玉帝は、どう想うのだろうな。


 空を見ながら、そう考える。
 何を想うのか。
 玉帝は陰陽師に、弟の力になってやって欲しいと頼んだのだという。
 その頼んだ相手である陰陽師こそが、閻羅王に力を貸す者であった、というそのことを、もし知ったとたら--否、恐らくすでに玉帝は知っているのだろう。

 そのことについて、どう想うのだろうか。

 陰陽師に裏切られた、と想うだろうか。
 しかしリューシュンは、もしそうだとしてもそれは違う、と声を大きくして兄、玉帝に異を唱えるだろうと思うのだった。

 裏切ったのではない。
 玉帝をも、自分をも。

 だからこそ陰陽師は自分に、新月の夜訪ねてくれと望んだのだ。

 裏切りではなく、それこそが自分の力になることだと信じているからだ。
 陰陽師自身も、そして自分も。


 --閻羅王にじゃない、俺に力を貸すつもりなんだ。


 真の筋立てはそういうことなのだと、リューシュンは地を見下ろしてそう思った。


 --だから、兄さん……あんたの頼みを、あいつは今まさに、かなえようとしている所なんだ。


 答える声は聞えてこない。
 リューシュンはもう一度、天を見上げた。



 さようなら、我が弟よ。



 テンニを追い飛び出した天心地胆、そこから墜ちる時にふと聞いた、過去の呼び声--記憶。
 それは、地から遠く、上天にいちばん近い所にある天心地胆だったからこそ、聞こえたものだったのかも知れない。

 玉帝の、声。

 その声の中にリューシュンは、大いなる哀しみを聞いた。
 そしてその哀しみとは他でもない、自分自身が玉帝に対し与えたものだったのだ。


 --俺は、あんたを裏切ったんだな--


 天を見上げ、そう思う。


 --だがあいつは、そんなことはしない。


「哀しそうで、やすね」


 鼬の声が、聞える。
 見下ろすと、ケイキョは前を向いたまますたすたと歩を進めている。


「陰陽師さんに、やめろとは言わねえんでやすかい」

「--」

 リューシュンは、答える言葉をすぐに見つけられなかった。

「後戻りは、できねえんでやしょう」鼬はさらに訊く。

「--」


 --やめろ、とは--


 リューシュンは、言われてふと気づいた。
 陰陽師の口からそれを聞いた当初は、まさか、とも、信じ難い、とも思ったのだが、陰陽師の眸を見た後は不思議と、それを止める言葉などついぞ口から出ては来なかったのだ。
 思いとどまらせることなど、考えもしてこなかった。


「--ああ」リューシュンは、低く答えた。「止めはしないよ……俺が止めて、止められるような奴でも、ないしな」

 鼬は歩きながら、リューシュンを見上げた。「確かに、そうでやすね」

「わかってるんなら、訊くなよ」リューシュンは苦笑した。

「けど、哀しそうに見えやしたんで」鼬は首をすい、とすくめた。

「--」リューシュンは、歩きながら少し唇をすぼめた。


         ◇◆◇


 スルグーンは、洞窟の入り口に降り立った。
 空を飛んで来たのだ。

 傷は、まだ完全に癒えたとは言えぬが、それは足の傷であり、翼を使うにはそれほど難儀しなかった。


「戻ってきたのね」


 声が聞え、はっとして周りを見回す。


「ここよ」少し怒ったような声が続く。


 スルグーンはさらに眸をきょろきょろさせ、それから足許の、海から続く川に気づいた。
 一度話をした、目のない魚だ。


「友達には、会えたの?」魚は泳ぎながら訊く。

「--」スルグーンはしばらく魚を見下ろしていた。「会えた、チイ」

「そう」魚はまた言った。「これからずっとここに、住むの?」

「それは」スルグーンは迷った。「わからない、キイ」

「どうして?」魚は訊いた。「そんならなんで戻って来たの?」

「--」スルグーンは、眸を洞窟の外に向けた。「もしかしたら」

「もしかしたら?」

「戦に、なるかも知れないからだチイ」

「戦? それ何?」魚は訝しげな声を出した。

「要するに、喰うか喰われるかってことだキイ」

「うえ」魚は嫌そうな声を出した。「外の世界でもあるのね、そんなのが」

「どこでだってあるチイ」スルグーンは話しながら、洞窟の奥へと進んだ。

「あんたもそれ、やるっていうの? 戦とかいう、それ」魚も話しながら、ついて来る。

「--わからないキイ」呟くように答える。

「あんたを喰おうとするのって、どんな奴?」魚は泳ぎながらまた訊く。

「--おれを?」

「喰うか喰われるか、なんでしょ。あんたは誰を喰うの?」

「--」


 誰だろう--


 スルグーンが戦の話を聞いたのは、山で傷の手当てを受け体が幾分回復してきた時だった。
 それを告げたのは、フラという生き物--龍馬だった。

 スルグーンを斬ったテンニという鬼、それが陰曺地府の鬼どもを次々に手にかけ、そして陽世にいる人間どもが今、鬼に敵意を向けている。
 テンニは閻羅王を斃し陰曺地府の覇者となり、次に人間どもを支配しようとしている。

 様相としてはそうだが、スルグーン自身は人間でもなければ鬼でもない--鬼となっていたスルグーンの“欠片”はもう、テンニの手にかかって亡き者とされた。
 とすれば自分は、何と闘うのか--


 --それは。


「決まってるチイ」スルグーンは立ち停まり、その岩壁を見上げて答えた。



 彼の描いた龍馬の絵が、そこに残っていた。



「おれは、おれの友達を喰おうとする奴を、喰うキイ」

しおり