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墜落

「戻って、来る?」リューシュンは訊き返した。
「ああ」リンケイは空を見上げたまま答えた。
「陽世に、か」
「ああ」リューシュンを見る。「空にある、天心地胆からな」

「どうして」

「無論、打鬼棒を取り戻す為さ」

「あ──」

「ということは」再び空を見上げ、二指を唇に当てる。



 ──ジライを狙って来るぞ。

 ──ジライを?



 リョーマが念にて訊き返してくる。



 ──打鬼棒を持ってるから?

 ──そうだ。しっかりと守りなさい。



「陰陽師」



 リューシュンが呼ぶ。



「何だ」

「俺が打鬼棒に打たれたら、どうなると思う」

「どうなる、って」リンケイは瞬きした。「血となって、流れるのだろう」

「本当に、そうかな」

「何故」

「スルグーンは……消えた」

「そう言っていたな」リンケイは頷いた。

「けどあいつは、まだ生きている」

「──ああ」つまり、雷獣のスルグーンの方だ。

「俺は、どうなんだろうな」リューシュンは、俯いていた顔を陰陽師の方へ向けた。

「──」リンケイは少しの間、返答できずにいた。

「まあいい。行って来る」



 リューシュンは背を向け、リンケイが手を挙げると同時、そして声を掛けるよりも速く、ふ、と姿を消した。



「間違っても、試したりなどするなよ」

 リンケイは、聡明鬼の消えた地点に向かって呟いた。





          ◇◆◇





「待て」





 陰陽界に出た途端、コントクの叫びを聞いたのだ。

 リューシュンはすぐに、その声のする方向にテンニのいることを察し走った。





 ざあああ





 風の音も今はリューシュンの心に届かず足も止めなかった。

 ただ夢中で走った。





 そして暗い灰色の陰陽界の中で聡明鬼は、黒焦げになり果てながらいまだ眸には憎悪に満ちた光を湛えている元降妖師に、正面から出会った。



 互いに走り寄ろうとしたのも束の間、テンニはいきなり横へと進路を変えリューシュンからもコントクからも遠ざかりはじめた。





「待て」





 今度はリューシュンとコントクの叫ぶ声が重なった。





「聡明鬼」

「ああ」





 二足の土地爺は目を見交わし軽く頷き合いしてすぐにテンニを追った。



 その二足の鬼たちから離れたところを鼬もまた走っていた。

 だが鬼たちの後ろを追っているのではない。

 鬼たちに並び、だが距離は離れたところを走っていたのだ。



 鼬はテンニが、打鬼棒を取り戻しにまた陽世へ飛び出るだろうと読んでいた。

 そしてそのために使う天心地胆は、空に浮かぶものであるはずだとも思っていた。

 テンニは空中からリョーマの背の上に乗り、その上にいるジライの手から斬妖剣と、その鎖に巻かれている打鬼棒とを取り上げるつもりだ。



 そう読んでいたからケイキョは、コントクとは違う道、つまり空へとつながる天心地胆のある所を選んで先回りを仕掛けてきたのだ。





 だがテンニは今まで、ケイキョのにらんだ天心地胆のどれにも近寄ろうとしなかった。

 鼬が来ていることに気づいているようにも見えない。

 とすると、意図してそれらの天心地胆を使わずにいるのだ。

 他に何か、考えがあるのだろうか──





 その時テンニが、走りながらほんの一瞬肩越しに後ろを振り返った。





「?」





 ケイキョは鼬の額に皺を寄せ不審に思った。

 だが元降妖師はすぐまた前に向き直った。

 そして向き直りざま、口元ににやり、と笑みを浮かべたのだ。





「──」

 鼬もまた走りながら自分の肩越しに後ろを振り向いてみた。

 灰色の大地と空しか、背後に見えるものはない。

 ずっと走って来たから、すべてが後ろに遠ざかっていった。

 すべて──

「森羅、殿──」

 思わず呟く。





 そして鼬は、ハッと前を向いた。





「森羅殿から、一番遠い所──」





 鼬は悟ったのだ。

 テンニは振り向き、森羅殿から十分に遠ざかったことを確認して満足を覚え、ために口元でニヤリと笑ったのだ。



 森羅殿から一番遠い所に来たテンニは今、森羅殿から一番遠い位置にある天心地胆をただ目指して走っているのだ。



 それはつまるところ、上天に一番近い所にある天心地胆なのであった。





「聡明鬼さん、コントクさん」鼬は声の限り叫んだ。「早く、陽世へ。ジライさんの所へ、リョーマさんの所へ」



「ケイキョ?」走りながらリューシュンは声のする方へ顔を向けた。



「あいつも、来たのか」コントクも同じようにする。



「陽世へ、と言ってるな」走りながらリューシュンは眉をしかめる。「何事だ?」



「わからん、しかし」コントクはぎり、と牙を噛み締めた。「あ奴がすぐそこにいるというのに、ここで逃すことはできん」前方の元降妖師の焦げた背を睨み付ける。



「うん……」リューシュンにもコントクの気持ちは自分の気持ちとして同意できた、だがケイキョ、陰陽師がリョーマの次代の主と認めたあの鼬が、必死の声で訴えてくるというのは、ただ事ではないはずだ。



 天心地胆から、今すぐに飛び出すべきなのか。



「それに」コントクは走りながら尚も言った。「ジライ達の所へというが、それはまさにテンニが今から行こうとしている所だろう。ならばこのまま奴を追えばケイキョの言う通り我々もジライやリョーマのいる所へ出るはずだ」



「あ」リューシュンは走りながら天を見た。





 確かにそうだ。

 このまま走ってゆけば、自分たちもジライとリョーマのいる所へ出るはずだ。

 しかし、ならば何故ケイキョは敢えてわざわざあんな事を必死で叫んだのか?



 必死で──





 ──遅かった。





 ケイキョははっきりとそう思った。

 テンニの狙いに気づくのが、あまりにも遅すぎた。

 鼬に今できるのは、ただ必死で走り、少しでも早く元降妖師に追いつくことだけだった。

 だが──





 ──遅かった!





 鼬がぎり、と歯を食いしばると同時に、テンニはその天心地胆に飛び込んだ。



 上天に、一番近いところにある天心地胆であった。





          ◇◆◇





 風が冷たくなった。

 山が近づいたのもあるが、寧ろ雨が近づいたからだろう。

 湿った空気が鼻先に当たる。

 リョーマはそういった感覚を受けながらも、辺りを隈なく見渡し続けることを怠らなかった。

 天心地胆。

 自分にも、それは見える。

 黒い淵のようなものだ。

 大気の中に突然ぽっかりと、罠のように存在している。

 見えるが、それを抜けることはできない。

 ケイキョのように、聡明鬼のようにそこを抜け出ることは、どうしてか自分には出来ないのだ。

 ケイキョは精霊王だから出来るのか──

 そんな風にも思う。

 フラもまた、天心地胆が見えるがそれを抜けることができないからだ。

 しかし注意深く見てきたところ、他の精霊達、いわゆる雑霊の中にも、天心地胆を抜けて陰陽界に出て行く者がいくらかはいるようだ。

 選ばれた者だけが、抜けられるのか──

 しかしそうだとすれば、何をもって、何を根拠として天心地胆の抜けられる、抜けられぬが定まるものなのか。



 そんなことを今考えても仕方がないというのは重々わかっているのだが、要するに自分は口惜しいのだと、リョーマはそれもわかっていた。

 自分が、天心地胆を抜けられたなら!

 ケイキョの後に、ついて行けたなら!

 無論それは、鼬に出来て龍馬である自分にできない事を口惜しがっているのでは決してない。

 ケイキョ、自分の“次の”主と決めた相手を、近くで護りたいという願いが叶わぬことへの口惜しさだ。

 自分の力のなさを痛感してしまうのだ。

 リンケイが聞けば、それが物事の理であるから仕方がないのだと、自分に説くだろう。

 けれどそれではなかなか納得がいかないのだ。

 なぜそんな理があるのか。

 なぜ自分は天心地胆を潜り抜けられないのか。



 若き龍馬はいらいらとしていた。

 いらいらとしながら、迫り来る天心地胆からは身をくねらせ遠ざかりつつ、飛び続けた。





          ◇◆◇





 テンニが飛び出してからひと呼吸もする間があっただろうか、それほど短い時の後に、リューシュンも、そしてコントクも同じ天心地胆から陽世へと飛び出した。





 何も、なかった。





「──え?」

 聡明鬼は、自分が間違えて違う世界に出て来てしまったのかと思った。

 そこには山も海もなく、人も鬼もいず、光すらもなかったのだ。





 何もない、闇の世界だった。





 と思ったのは、ただ一瞬の間だけだった。

 光は、すぐに目に届いた。

 蒼い光だ。



 リューシュンはぱちぱちと瞬きし、そしてすぐに、自分が地に足を着いておらず、まっすぐにものすごい速さで落下してゆきつつある事を知った。





「うわあ!?」

 叫ぶ。

 だがその声すらも、あっという間に上方へ置き去りとなり自分の耳にすら届かない。

「どこだ、ここは!?」







 上天にいちばん近い所です。







 はっ、と目を見開く。

 足元から轟音を立てて空気がぶつかって来る。







 弟よ。







 落ちながら、上を見上げる。

 玉帝?





 だがその姿は見えない。

 声として、それが聞こえたのかも判らない。

 それはもしかすると──







 さようなら、我が弟よ。







「兄さん」

 呟くと、眸から涙が溢れ、それもあっという間に上方へ振り払われていった。





 そうだ。

 そうか。

 俺はかつて、これと同じように、上天から落ちたのだ。

 スルグーンと共に──





「見えたぞ」

 コントクが頭上で叫ぶ。



 またしてもリューシュンはハッと目を見開き、今度は落ちてゆく先、足下を見た。



 奇妙に湾曲した形で緑と茶の色をした大地、真っ青な海、それらが遥か遠く見えた。

 そして目を凝らしよくよく見る先に、長く伸びる龍と馬の合わさった体が身をくねらせながら飛ぶのが見えた。



「リョーマか」



 そう認めた、だがなんと遠いのだろう。

 リューシュンは目をすがめた。





 ──テンニは?





 焼け焦げた降妖師の姿を探す、だがそれはなかなか見つけられずにいた。

 遥か下に見えるリョーマ、その背に乗っているであろうジライ、テンニの狙いは確かにその二足のはずだが、今風にぶつかられ続けている鬼の目には、その忌まわしき姿が入って来ないのだった。





 ──なんだってあいつは、こんな……





 そう思うがその答えはすぐにわかった。

 ただ落下するだけしか出来ぬ今の状況であれば、リューシュンもコントクも、決してテンニに追いつくことができない。

 己の脚で走るのであれば、時間さえあれば追いつくことも可能だったはずだが、今この時、いかな聡明鬼であっても、ただ落ちてゆくに身を任せることしか成し得ぬのだ。





 ──それでケイキョは。





 テンニの狙いを見定めた鼬は、すぐにリョーマとジライのいる所、こんな上空でなくもっと地に近い所へ移って、テンニよりも先に二足の許へ辿り着けと、そう言いたかったのだ。





 ──くそっ!!





 悔しさに牙を剥く鬼の目に龍馬の体はぐんぐんと近づき、そして突然その黒い点が、龍馬と鬼の目の間に現れた。



 元降妖師の姿が、そこでやっと認められたのだ。





「テンニ」

 声を限りに叫ぶ。



 答えるかのようにテンニは焦げた顔を上に向け、そしてにい、と笑った。

 それから降妖師は両腕を左右に大きく広げて、若き龍馬の背の上に真っ直ぐ降りて行ったのだ。



 最後にリューシュンは、こちらを見上げ、テンニと自分とその兄の姿を同時に見つけ、





「兄さん」





と叫んだジライの声を聞いた。





          ◇◆◇





 ──リョーマさん!





 唐突に、ケイキョの叫ぶ声がした。

 はっ、とリョーマは龍の首を左右に振った、だがその声の主の姿は見えなかった。





 ──上でやす!





 その思念の声が届くと同時に、





「ぐふッ」





 自分の馬の背の上でジライのくぐもった声がするのと、どすんと重いものが突然飛び乗って来た感触とが同時にあった。



 はっ、と再び息を呑み振り向く龍の目に、体半分を斬り取られたジライの腰から下のみが映った。

しおり