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2026年 春 六花 2

人はかなしく、しかしかなしいなりきに美しい。


「形見だったんじゃないかと思うんです」
六花の発言に、どういうこと、と向かいのソファに座る早ゆり婦人は穏やかに問うた。
「今までの日記を振り返ってみると、どうもそんな風に思うんです」
六花はあちこち前後しながら、日記の記述や婦人から聞いていた話を基に自分の立てた仮説を説明する。実母と行ったなんでもない幼い日の夏祭りの思い出、そこで掬った金魚のこと、実母はその金魚より先に亡くなったこと、辛い事があると決まって金魚池を覗く癖、『留根千代』への過度の執着……。

「──多分、実のお母さんが亡くなった時、幼い果穂子さんに遺されたのはその金魚一匹だけだったんじゃないでしょうか。金魚は佐伯邸の池に放されて、その後金魚邸に移されて。果穂子さんはお母さんの死をうまく受け止められずに遺された金魚にお母さんを重ねていたのかも知れません。そうしたら、果穂子さんが思い切り縋ったのが昱子さんでもテイさんでもないのも納得出来るなって思ったんです」
婦人は六花が説明を終えても暫くは黙ったままだった。それからやっと、しみじみと頷いた。
「──金魚しか、愛せなかった方なのね」
あなたの予想をお聞きして、わたくしもようやっと腑に落ちました──何かから解放されたような婦人の顔は瑞々しい美しさを持つ少女のようだった。
「あなたの考えは(あた)っているのだと思うわ。晩年の狂気じみた歪みが果穂子姉様に留根千代を異常なほど愛させたのね」
ちょっと待ってね、と婦人は席を立ち、暫くしていつかのアルバム帳を胸に抱えて戻ってきた。前回の様に迷いなく例の写真のある頁を開く。
「生きずらい方だったでしょうね。繊細で、誰も愛せなくて」
独白のような早ゆり婦人の言葉を、六花はただ黙って聞いていた。
「母のことだって、心の底では本当は愛していたのでしょ。でもそこから堂々と踏み込むのが怖かったのだわ。一度愛した人をお小さい頃に失っていらしたから。──ひょっとしたら、母は果穂子姉様のお母様に嫉妬していたのかも知れない」
え、と漏らすと婦人はアルバム帳をこちらに寄せた。
「この写真と同じよ。幾ら一緒に過ごしてもお互いに見つめ合っても、果穂子姉様の心はぜんぶ居もしないお母様で占められているのだもの。まるで写真の中の相手と見つめ合っているような感覚だったのではないかしら」
あの時の母の独り言の意味が分かった気がするわ──意識してかそうでないのか、婦人は写真の中の美少女のままの昱子を何度も指の腹でなぞった。
──果穂子さんの心の中には誰も居ないの。
「なんというか、不幸ですね」
あまりにもどかしい昱子と果穂子の関係。こんな救いようのないままに二人は死に別れてしまったのだと思うとやるせない。
「──だけどね、」
婦人は顔を上げて六花に真っ直ぐ視線を合わせ、口許で笑んだ。
「救いはちゃんとあったのよ」
六花がその意味を把握しかねている間に、婦人はアルバム帳の別の頁を開く。
彼女が開いたのは一番最後の、裏表紙の見返し部分だった。
「これ──」
六花が婦人に目で問うと、彼女は大きく頷いた。見返しの上部の糊付けが剥がされている。写真が挟み込まれていた図書館の資料本と同じように。
「思い返せば大事な紙類をここに隠すの、母の常套手段だったの。あなたから写真を見つけた場所をお聞きした時すぐに思い出せれば良かったのだけれど。この間漸くはっとしてね。もしやと思ってここも見てみたらね」
「──取り出しても、良いですか」
気が逸った。剥がれた見返しの端からほんのわずか白い紙切れが覗いている。摘んで引くと、それは簡単に引き出され、上質なのに皺だらけの便箋がぺらりと一枚現れた。
細々とした毛筆書き。流れるような濃く深い黒で書かれたなじみの字体。

『昱子姉様へ』で始まる果穂子の手紙だった。

そこには二人にしか分からない、ごく個人的な思い出や感謝や謝罪、そして昱子への率直な想いが記されていた。純粋に、美しく、切々と。

『……わたくしが望むのは、永遠に残る証です。
佐伯果穂子がこの場所この時に生きていたといふ、存在の証が欲しいのです。

死とは一体何なのでせう。死とは、生き返らないもののことを呼ぶのでせうか。もしもそうならば、果穂子はきつと生き返つてみせます。そうしたら、死んだことにはならないのでせう。』

──あなたが残るなら、果穂子は。

果穂子がどんな事を本当に願ったのか、今となっては正確なことはもう分からない。だから六花の予測や思うことはどれも微妙に不正解だ。きっとそうなのだ。

昱子姉様、大好き。



大好き。





「素敵な手紙でしょう」
早ゆり婦人の声で、六花は我に返った。とても、と答えてテーブルの上の便箋を改めて眺める。
「でも、こんなに大切に挟み込んでいた手紙なのに、どうして皺々な感じなんですかね」
「本当。きっと、何かいろいろあったのでしょ」
けれどそれはわたくしたちが知らなくても良い事なのだわ──婦人は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。










「るねちよ、もうすぐお家に連れて帰れるんでしょ」
淡い水色のスカートを揺らしながらぴょこぴょこ帰り道を歩く果音は六花の袖を引っ張ってこちらを見上げた。うん、と六花は応える。
「来週くらいからなら大丈夫って言われたよ。水槽と、赤ちゃん用の餌も一緒にくれるって」

定期的に図書館の金魚池の管理をしてくれる業者が、水草に産みつけられた卵が孵っていると教えてくれたのは前回のメンテナンス時のことだった。覗きに行った池には、言われないと分からないようなメダカのような頼りない稚魚が何匹か漂っていた。体が赤くなるのはもう少し成長してからだそうで、まだ金魚らしさは感じられない。その中の一匹を六花が貰える事となり、迎え入れる予定の金魚は果音と相談して留根千代と名付けたのだった。果音もまた六花があの日携帯端末の写真に収めた、もうひとつの大机の裏の元祖『留根千代』の絵を見てすっかり金魚が好きになったらしい。

果音は三年生になった。
彼女によるとクラス替えはどの学年でも行われなかったそうだ。南小学校と統合されても四クラスしかない小規模な学校なので、他クラスの子どもでも顔を知らないということもないのだろう。それが果音にとって良かったのか良くなかったのか、六花は知らない。果音はいつも言葉少なで、学校生活を楽しんでいるのか耐えているのか、分からない。
──他人と関わり合うことは難しい。
未だに、というか果穂子の人生をなぞった今だからこそ改めてそう思う。人の想いはデリケートで複雑で、人間関係のいかに繊細なバランスで成り立っているかを思い知る。
果音と同時に、美貴に関することもずっと気にはなっていた。気にしてはいるものの二の足を踏んだままで、どうしたものかと六花は若干途方に暮れていた。そもそも顔を合わせる機会がないのだ。
──あの時、私はどうしていたら良かったのだろう。
あれから幾度も考えた。
きっと、あの状態の美貴を本来の美貴だと捉えてはいけないのだろう。息抜き出来る場所がなく、毎日がいっぱいいっぱいで余裕がないのだ。だからあんなピリピリした態度を取ったのだろう。というか、六花の彼女を刺激するような言い方にもおそらく問題があった。
けれど、難しい。六花は一番に果音の味方でいたい。果音があんな風に、日常無意識に傷付けられていると思ったら我慢ならなかったのだ。ストレスを受け流す機能が未発達な子供が健全に生活できるのは、泣きたいときに思いきり泣くことができるからなのだそうだ。それを上手に出来ない果音が幼い自分と重なり、どうしても肩を持ちたくなる。それは単なるエゴイズムなのだろうか。

「果穂子さんを追っていて何度か感じたんですけど、私の臆病さは果穂子さんとよく似ているんです」
あの後、六花は早ゆり婦人にそう漏らした。
「きっと感性そのものが似ていらっしゃるのね。……おかしな言い方になるのだけれど、だからこそ果穂子姉様はあなたを選んだのだと思うわ。素敵なことよ」
でも、と六花は言いかけてやめる。今の六花は果穂子の長所と、その裏返しの短所もよく知っている。亜莉亜にもあのとき言われた。もし、自分も大事な場面で果穂子のような頑なさを発揮してしまうのだとしたら。
「大丈夫。あなたは何とかしたいと思っていらっしゃるのでしょ」
軽々と早ゆり婦人はそんな事を言ってのける。
「苦しかったら苦しんだら良いし、悲しかったら悲しんだら良いってわたくしは思うの。そうして散々迷えばいい。人になかなか心を開けなくてもそれは生まれ持った性質だもの、責めることではないわ。だけど、孤立したら駄目よ。孤立したら駄目。歳をとってからしみじみ思うの」
ねえ、あなたに提案があるのだけれど──婦人はきらきらとした瞳で六花の耳元で内緒話でもするように囁いた。

果音を原田家に送り届けた帰り、普段と違う道を通った。冬と比べると随分と日が延びてきて明るい。
歩きながら早ゆり婦人の言葉を反芻していた。
──孤立しては駄目よ。
多分それは六花だけでなく、早ゆり婦人も、果音も、美貴も、亜莉亜も、誰でも。だから、婦人の提案は特別誰の為というものではない。誰も気兼ねする必要のないものなのだと思う。
普段の道では目にすることのない月極駐車場の脇を通り過ぎる途中、何の気なしに疎らに停まる車を眺めていた六花はあっと小さく声を上げてぴたりと立ち止まった。車の一台に、美貴が乗っていた。エンジンも掛かっていない。不自然な動き方をした六花にあちらも気付いたらしく目が合った。
手で顔を拭う仕草で、泣いていたのだと分かってしまう。気まずいけれどそのまま立ち去るわけにも行かず、六花は頭を下げた。美貴も気まずそうに車から出て来る。
「お疲れ様です」
「いえ」
美貴は頭を下げた。
「この前は──本当にすみませんでした。美貴さんの状況も知らないのに、生意気なことを言いました」
「いえ」
気まずさからか、美貴は前回のような覇気もなく短い返事をするだけだ。
沈黙に突入してしまうのが怖くて、まだお仕事中ですかと聞こうとして車内に目を遣ると、助手席にスーパーの袋に入った野菜やら冷凍食品やらが目に入った。今はまだ18時前のはずだ。果音は美貴が帰宅するのは大抵19時半くらいだと言っていた。何を言っていいのか、言葉に詰まる。
「──わからないの」
突如、美貴がそう呟いた。
「自分でも子どもたちが寂しそうなのは気付いてたんです。でもどうすれば良いのかわからないの。全部カバーすることなんか出来ないし、せめて週に一回は早く帰るように調整もしてみたんだけど──」
私もう、どうやって子どもたちと他愛ないお喋りをしたら良いのかも分からないって気付いたの──そう言って美貴は果音そっくりな仕方でほろほろと涙を溢した。
「いつもあれしなさいこれしなさいって言うだけで、いざ時間ができても他に何にも言葉が出てこないの」
美貴は無理矢理涙を切り上げて顔を拭い、息を整えた。
「変なところを見せてしまってごめんなさい」
美貴は助手席のレジ袋を取り出して車をロックし、六花に一礼する。色々な感情が渦巻いて呆然と立っていた六花は立ち去ろうとする美貴に慌てて声を掛けた。
「美貴さん」
あの、と逡巡してから言葉を繋げる。
「そしたら週に一回、みんなで一緒に夕飯を食べませんか」
六花の唐突な提案に、目元の化粧が崩れた美貴は怪訝な顔をする。
「私たちが料理しますから。週に一回、美貴さんがご飯を作らなくても良い日ができるように。図書館のそばに住んでいる、三石さんというおばあさんに果音ちゃんが懐いているんです。三石さんが(うち)でそうして貰えたら嬉しいって。私もそうして貰えたら嬉しいです。他愛ないお喋りって、気が張っていると出ないものだと思うので。美貴さんは仕事帰り、息子さんと来ていただくだけですから」
──他人と関わり合うことは難しい。

難しいけれど、少しでも分かり合えたら、うれしい。

神妙な顔で固まっていた美貴は不意に噴き出した。歳と比べて幼い、半分化粧の取れた美貴の笑顔は六花の好きな笑顔だった。
考えてみます──美貴は笑った顔のまま、もう一度頭を下げてアパートの方へ去って行った。
──言えた。
亜莉亜にメールしよう、美貴の背中を見送りながら何故かそんな事を思った。亜莉亜にメールして、近頃起こった様々なことや、留根千代のことも果穂子の手紙のことも話そう。それから、ずっと気にかけてくれてありがとうと送ってみようか。
















白川町記念図書館は、街全体を見下ろすかたちで建っている。

六花は相も変わらず職員用休憩室の小窓で昼休憩を過ごすのを日課としている。ガラス越しに見下ろすと、坂のふもとからやって来るバスが、子どもの玩具みたいにことこと移動している。

その昔、この辺り一帯は資産家の住まいがひしめき合う活気づいたところだったそうだ。今は図書館となっているこの建物も、当時は資産家の住む邸宅でそれは立派な様子だったらしい。その家の佐伯果穂子という娘は、特殊な家族関係を経験し、唯一無二の友情を築いて青春を過ごしたあと、結核に罹って十九年という短い生涯を閉じたそうだ。
今では彼女のことを知る人は無きに等しい。百年も経てば彼女に限らずほとんどの人が忘れ去られたまま、これからも人々の記憶に上ることはない。

完璧とは程遠い人々が、生まれて死んで、生まれて死んで、その結果無数の小さな幸せや切なさが発生して消える。その繰り返し。当人にとってはその人生のどれもがかけがえのない特別なもので、けれど他人にはどうでもいい話。
街は様変わりしてくる、くるりと人だけが綺麗に入れ替わり、私たちは僅かに残った断片から当時を読み取るしか無い。それも本当の事なのか、間違っているのか、もう分からない。

でも、二台の大机に残された果穂子の日記と留根千代の絵は、次の百年にも残っているといい。六花は勝手にそう願うのだ。





昼休憩から上がる間際窓から見下ろすと、ふもとから上ってきたバスが図書館前の停留所で止まり、乗客がぞろぞろ降車してきた。












しおり