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2025年 晩秋 六花 1

「あのね、これで最後」
閉館後の帰り際、入り口の手前で果音が湿ったちいさな手を翳して、屈んだ六花の耳にそう囁いた。
「最後? 」
問うと果音は口をすぼめて頷く。
「日記、今日で机の端っこまで撮り終わった。これで終わり」
「えっほんと」
「ほんと」
六花の間抜けな返事に果音は笑う。
「るねちよのこと分かるといいね」
そうだね、と六花は頷く。留根千代。彼についての詳細は依然謎に包まれたままだった。読みが不明なので、二人の間では当てずっぽうで『るねちよ』と読むかたちで落ち着いた。ありがとね、助かったよと六花も囁き返す。
「じゃあ鍵閉めるよー。果音ちゃん、忘れ物ない? 」
施錠当番のペアになっている金木さんがドアの外から果音に声を掛けた。
「大丈夫」
果音は徐々に交流の幅を広げているようだった。六花と親しくなったのを切っ掛けとして、他の図書館職員にも少しずつ慣れて来たらしい。はじめは硬かった態度や表情も最近では影を潜めているし、こと優しくてこまやかに気の利く金木さんに対しては、全く緊張しなくなっている様子だった。最初、果音と自分はよく似ていると勝手に仲間意識を持っていた六花だったが、付き合ってみれば彼女の方がずっと適応力も社交性も高い。
「そういえば、柳さん聞いてる? 」
不意に自分に話題が振られたので、完全に油断していた六花の返事はワンテンポ遅れた。
「ええと、何を──ですか? 」
「館長がなんかここのやり方を変えるって。もっと商業的な感じでやってくとか、そうじゃないとか。噂程度だけど」
その内容に思わず不快な気持ちが表情に出てしまう。
「噂、ですか」
図書館の核をなす大事なものが削がれる。噂が本当ならばそんな変化になるような予感がする。館長の価値観は司書の価値観と違うから。意外にも、金木さんも不快さを顔に滲ませて頷いた。
「噂だけど、何にもなければそんな話は出ないからね。私、結構ここの図書館好きだから、下手に変わるのはやだなと思って」
思わず金木さんの顔をぽかんと見つめてしまった。彼女も同じことを心配していた。同じことを思っていた。六花がただ頷くと、まあ無いかも知れない話で悩むのも馬鹿らしいから、悩むならせめて正式に話が出てからだよね、と笑った。

金木さんの言っていた“噂”にもやもやしてしまって何やら晴れない気分になってしまう。果音はそんな六花に慣れっ子なので、いつもの習慣通り平気な顔で六花と並んで歩く。一歩ごとに彼女の首の後ろで結んだマフラーの先端が揺れるのが可愛らしい。元々ひっきりなしにお喋りをしたいタイプの子ではなくて助かった。この季節は夕方になってから暗くなるまでが本当に早い。都会ではないとはいえ、果音がこの道を一人で帰ることにならなくて良かったと思う。去年はそうしていたのだろうかと考えるとぞっとしない。
そんな事々を考えていると、いつの間にか六花の家の近くの道まで来ていた。果音の家に向かう途中の道なりに見えるのだ。六花はなんとなくそちらに目を向けて、向けた瞬間げんなりした。
「電気ついてる」
果音が見たままを言う。誰も居ない六花の部屋に、明かりが煌々と点いていた。やらかした、と後悔する。今朝家を出るとき消し忘れたのだったか。
「またやっちゃったよ」
(たま)にそんな失敗をするのだ。慌てて家を出ると帰宅してからしまった、となる事が時折ある。
「今消してく? 」
「うん。ごめん」
果音の言葉に甘えて、少しだけ進路を変えた。
少し焦っていたので、深く考えずに手早く鍵を回して玄関扉を開ける。途端に暖かい空気と美味しそうな匂いが流れてきた。思考が追い付かなくて混乱する。
「お帰りー」
混乱している間にのんきな声が奥から聞こえてきた。声を聞いてやっと事態を把握する。まだ訳の分からない果音の方は、六花に体を寄せて不安そうな面持ちでこちらを見上げた。説明する間も無く、声の主がドタドタとこちらへ向かって来る。
「ごめんごめんいきなりでちょっと悪いと思ったんだけどさあ──」
やって来た幼馴染、亜莉亜──木内亜莉亜(きうちありあ)──のオレンジっぽい金髪のショートマッシュが蛍光灯に照らされて目にちかちかした。来るなり隣の果音を凝視する。
「何そのちびっこ」
疑問をそのまま口に出す亜莉亜に、果音が一気に硬直した。







果音を送り届けて再び自分の家の玄関扉の前に立ったとき、六花の口から思わず溜め息が漏れた。
亜莉亜はいつもそう。常識を疑うほどにマイペースで自由なのだ。たしかに六花は去年まで亜莉亜とここで一緒に暮らしていた。勿論その頃はお互いこの家に自由に出入りしていたし、元々幼稚園からの幼馴染で、家族のような間柄でもある。
でも、だからと言ってあんまり突飛過ぎる。昔はどうあれ、今は六花の独り住まいなのだから事情が違うのである。そもそも学校はどうしたのだ。他県の美容専門学校に通っていたのではなかったか。頭に『中退』の二文字がちらつく。本気であり得そうな話で怖い。今日は果穂子の日記の最終部分を読み込むつもりだったのに、これは出来そうもないなと諦める。
ただいま、と力なく言って扉を開けると、おー、と適当な返事が返って来た。

「三連休で戻ってきただけだから。そんだけ」
亜莉亜はよそったご飯を六花にぽんと手渡す。彼女は甲斐甲斐しくも夕食の支度をすっかり整えていた。促されるまま向かい合わせに席に着く。テーブルには湯気を立てた味噌汁にサラダに生姜焼き。そしてなんだか分からない煮物。奇抜な外見に似合わず亜莉亜は案外家庭的だ。というより彼女は割と何でもそつなくこなせるバランスタイプの人間なのである。
「三連休? 」
「勤労感謝の日! あと振替休日! ついでにうちの学校は今日も都合で休み! 」
「そうなんだ……」
忘れていた。図書館は週末でも祝日でも開館するのでカレンダー通りの休日に疎くなってしまう。
「まあ、そんで夏休みのときも帰ってなかったから。ちょっと戻ろうかなって」
そこは普通実家に帰るでしょ、と返したら実家にはもう顔は出したからいいと平気な顔で言う。
「六花に会いたかったんだもん」
味噌汁を啜りながら亜莉亜は気の抜けるようなふわっとした顔で笑う。こういう調子の良いところは昔から変わらない。
「分かった。それは分かった。だけど正直いきなり来てびっくりしたから。せめてメールしとくとか、あるでしょ」
「うんごめん」
全然響いていない。六花は肩を落とす。幼馴染でなかったら絶対友達にならないタイプなのは確実だ。ただ、いまいち憎めない。
「──その髪、思い切ったよね」
六花は諦めて話題を変え、彼女の頭髪を見上げた。先程目が眩んだアニメみたいな明るい髪色に、何やらお洒落っぽいショート。たしかこの家を出たときは無難なミディアムの茶髪だった。
「良いでしょ。こういう毛色の猿いるじゃん、知ってる? それを参考にした」
「猿」
「そう猿」
駄目だ。いくら話題を変えても亜莉亜のペースだ。
「六花も変わったよね」
一転して真顔でこちらをじっと見てくるので面食らう。
「そう? 」
あの女の子のこと、と言って亜莉亜はごくごく水を飲んだ。
「さっき、いつも家まで送ってるって言ってたでしょ。そんな事するんだって正直びっくりした。小さい子好きだったっけ? 」
確かに(はた)から見れば二人は不思議な組み合わせなのかも知れない。
「なんか流れで仲良くなって。友達になったの」
「え、お世話してるんじゃなくて友達なの? 」
亜莉亜は興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「なんで? 」
訊かれて、まだ味の染みない煮物を噛み締めて暫く考える。果音は果穂子の日記のことを亜莉亜に知られるのを嫌がるだろうか。でも、事情を知っていそうな早ゆり婦人に打ち明けることは厭わなかった。ならば、亜莉亜も同じ立場にいることになる。
「──図書館で、偶然昔の日記を一緒に見付けたんだよね」
ここだけの話だと釘を刺して、六花はせっかちな亜莉亜が早とちりしない様に出来るだけ丁寧に果穂子の日記を追っている経緯(いきさつ)を説明していった。日記が大机の裏に書き込まれていたこと。書き主は佐伯果穂子という旧佐伯邸の訳ありの令嬢であったこと。資料本に隠されていた写真から早ゆり婦人と知り合い、少しずつ背景が見えてきたこと。実際日記を読み込んで更に深い事情が分かり、今は新たに「留根千代」なる人物の正体と果穂子の関係性を探っていること。今日もそのために日記の読み込みをしようと思っていたこと──。亜莉亜は想定外のおとなしさで時折ふんふんと相槌を打ちながら聞いていた。ひと通り聞き終えて何やら首を傾げる。
「──あの大机、元々は別荘にあったんだ」
「館長からはそう聞いたよ」
「そこに昔果穂子っていうお嬢様が住んでて? 」
「うん。さっき言ったじゃん」
六花が意図も分からず肯定すると、私その話聞いたことあるかもしれない──と亜莉亜はことんとテーブルにコップを置いた。
「いつ」
驚いた。もしかすると力になってくれるかも知れないとは思っていたが、こんなに直接的なことを言われるとは予想外だった。
「いや、多分私達子どもの頃その別荘行ったことあるよ。あそこが『金魚邸』だったんだ。そこに行った時に伯父さんとお父さんがそんなこと話しててさ」
「待って、“私達”って? そこに私もいたの? 」
思わず亜莉亜の言葉を遮ってしまう。話の急な展開について行けない。
「私、そんな記憶ないよ」
「嘘っそ。覚えてないの? 」
本当に覚えてないの、亜莉亜は念押しして目を丸くした。







不可解な記憶がある。
記憶の中で、小さい六花はどこか知らない薄暗い部屋の中を歩いている。遠くに聞こえる何かの合唱。中は土蔵のようにしんと涼しく匂いもやはり土蔵のようで、六花はたった一人その中をきょろきょろと進む。理由があってそこにいたのか、それとも不本意に迷い込んだのか。
長い間誰も入っていないらしいそこは、あらゆるものに白い埃が厚く積もっている。六花が動くと埃も乱れて、どこか高いところにあった窓から洩れる光に当たって落ち着きなくゆらゆら揺れた。置いてある家具に施された独特の彫り飾りを目でなぞり、ふと見上げると強烈な赤い色が襲いかかりそうに目に痛くて思わず幾度か瞬きをした。

あれがもし、夢でなかったとしたら。あれが金魚邸に行った時の思い出なのだとしたら。
もしかすると六花は、忘れているだけで既にに果穂子の仕掛けの真相に辿り着いているのかも知れない。

亜莉亜の説明によると『別荘』を訪れたのは十九年前。亜莉亜が五つ、六花が四つの頃だったという。六花が館長から聞いた別荘の取り壊しというのはその後に行われ、取り壊しの前の荷物整理の際、亜莉亜の母方の伯父に木内家が駆り出されたというのが真相のようだ。六花がそこに居合わせたのは全くの偶然だった。いつものように木内家で亜莉亜と遊んでいて、ついでに連れて行ってもらったというのだ。
白川町には佐伯姓が多い。経済的に成功した善彦を頼って兄弟の何人かがこの土地に移り住み、彼の仕事に関わっていた過去があるからだ。とはいえ起業者である善彦の家系はとうの昔に途絶えてしまったし、佐伯商会も既に無い。旧佐伯邸が町の財産になっている今では佐伯家は別段特別な家柄という訳でもなかった。ただ善彦の所有物や財産は兄弟たちの間で分配され、その中であの別荘──金魚邸──は亜莉亜の母親の家系が譲り受けたというのだ。亜莉亜の母親、旧姓佐伯恭子は、佐伯家の末裔の一人なのである。亜莉亜に果穂子の日記の事を話したのも、彼女なら母親繋がりで佐伯家の情報を何か持っているのではと期待したからだった。
知る事ができたのは別荘を譲り受けたはいいが使い道がなく持て余し、先の代から放置されていたそれをその時にやっと取り壊したという金魚邸の末路だった。
「まあ、四歳の頃って記憶が曖昧なところがあるからね。六花が忘れてても不思議じゃないか。私は五歳だったから割とちゃんと憶えてるけど」
その時にね、カホコって人が昔住んでたみたいな事を大人が話してたんだよね、私は全然興味ないからふーんって感じだったんだけど、と亜莉亜は頬杖をつく。
「広まりはしなかったけど、果穂子の事、知ってる人は知ってたのかもね」
──ただ、興味が無かっただけで。
興味を持たれない事と忘れ去られる事の間に一体どれほどの違いがあるのだろうと六花は思う。もしかすると大半の人は果穂子の事が明るみに出たとしても興味を持たないのかも知れない。
けれども、自分の想いを忘れて欲しくなくて果穂子は足掻いた。果穂子を決して忘れて欲しくなかった人達も確かにいた。細い糸のように連綿と、それは目立たぬながらもずっと繋がってきた。だから六花も、それを繋げる。繋げたい、と思う。
「──私ね、夢か現実か分からない記憶があったの。ずっと気になってて。でも子供の頃に金魚邸に行った事があるんだったら、説明がつく」
私多分あの大机、子供の頃に一回見てた──、六花は思い出の中の机と大閲覧室の机を重ね合わせる。
「だってあの机、金魚邸から持ってきたんでしょ。あの時見た縁の彫り飾りのデザインが同じなんだもん。そうしたらあれと一緒に見た記憶も現実って事になるよね」
「どんな? 」
頬杖を崩してテーブルに頭を乗せた亜莉亜が上目遣いで問う。
「まず音。ピアノとそれに合わせた合唱みたいなのが聞こえるの。私は埃だらけの薄暗い部屋にいて、ひとりで歩いてる。他には誰も居なくて。そこにあの大机があって。すごく大きい机だなって思った。その後、どこかを見上げた時によく分からない赤いのが見えたんだよね。そこで記憶が途切れちゃってるんだけど──」
「赤いの? 色だけ憶えてんの? 」
なんか本当に夢か現実か分かんないような光景だなー、亜莉亜は訝るような顔をする。と、次の瞬間あっと声と頭を上げた。
「思い出した! そうだ、そうかも! 」
いちいちリアクションが大袈裟な亜莉亜はテーブル越しに両手で六花の肩をぱんぱん叩いた。反応に困った六花はただ無表情で亜莉亜の顔を見返す。
「六花、あの時独りでどっか消えちゃったって結構騒ぎになったんだった」
「え? 」
「なんだったけな、急にいなくなっちゃって、うちのお母さんとかすごい慌てちゃってさ。でも騒いでるうちにひょっこり自分で戻ってきたんだよ。その時さあ、もう六花埃まみれ。ほんと忘れてた。確かそんな事あったわ」
じゃあ。じゃあ本当に、あの記憶は。
不確かだったものが段々と繋がってくる。空いていた穴が徐々に埋まっていく。
──辿り着ける。
留根千代のことも、赤い記憶の正体も。
このタイミングで帰ってきて良かった、亜莉亜はふうっと息を吐いて言う。
「ね、あそこにもう一度行ってみない? 果音って子も誘って三人でさ」

まずは予習させてよ、と亜莉亜は果穂子の日記画像が詰まった六花の携帯端末に手を伸ばした。











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