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2025年 盛夏 六花 1

『佐伯善彦は1865年佐伯兼彦の三男として生まれる。生家は裕福で、幼少の頃より高い教育を施されて育った。1891年、旧制大学外国語科卒業。1892年渡米。1895年帰国。早くから海外貿易の発達したこの地で、同年アメリカ留学の経験を生かし鉄鋼輸出を主とした貿易会社『佐伯商会」を立ち上げる。佐伯の優れた手腕や第一次世界大戦の大戦景気、いわゆる「大正バブル」の波に乗り事業は概ね好調だった。1929年、自身は退任し、当時佐伯の右腕だった加藤|重清《しげきよ》に社長の座を譲る。しかし1939年第二次世界大戦が始まり、アメリカを主な取引相手としていた同商社は大打撃を受け倒産した。』
佐伯善彦に関しての情報をくまなく探る。どこかに果穂子へ通じる糸口はないか。それだけに焦点を絞る。内容を読み込む。頁を捲る。休館日の午後、六花は自分の世界に集中していた。

不意に首振り扇風機の風が六花の前髪を逆立てるのが気になった。窓の外ではミンミンゼミがけたたましく鳴いている。
集中力がふっと途切れて、六花はぶんぶんと頭を振って仰向けに寝転ぶ。タンクトップ型のワンピースから伸びる剥き出しの肩に黄ばんだ畳のざらざらした繊維が当たって少し痛い。そのまま首を傾けると相変わらず本で膨らんだイエローグリーンのバッグが視界に入った。
──持たせて。
幼馴染みの亜莉亜(ありあ)にそう言われたことがある。自分の方で気まぐれに言い出した癖に、六花の手からそれを受け取るなり「重っ」と顔をしかめて即座に返して来た。
──重い重すぎ、殺人的な重さ。
あはは、と気の抜けた声で笑う。確かに六花のバッグは詰まった本のせいで大体いつも重かった。この家でルームシェアしていた彼女が美容師になると言い出して、他県の専門学校へ行ったのは丁度一年前のことである。連絡もろくに取っていないが、どうしているだろうか。猫のように気ままなところがある亜莉亜は行動が読めない。
六花を取り巻く環境は少しずつ変化し始めていた。
亜莉亜が行ってしまってから輪をかけて独りで行動するようになった六花に変化を呼び込んだのは果音である。果穂子に関する謎も、果音が持ち込んだと言っていい。あの日、彼女が消しゴムを落とさなければ。机の下に潜り込んだりしなければ。六花はずっと机の裏の文章に気が付くことはなかったし、佐伯邸の歴史をそこまで深く知ろうと思う事もなかった。同時に果音の存在を気にすることすら無かっただろう。果音は六花に妙に懐いてきている。遅くまで図書館に残ることの多い彼女を放っておけなくて、六花はほぼ毎日閉館後果音を家まで送るようになっていた。最初のうちは口数の少なかった彼女も、慣れてきたのか色々なことを話してくれるようになった。国語が好きなこと。可愛い消しゴムを集めた宝箱を持っていること。教室で飼っている金魚はあまり顔が可愛くないこと。
「お母さんともそういうこと話すの」
何気ない風を装って訊いたつもりだったけれど、途端に果音は黙り込んで小さく首を振った。
今まで聞いた話を総合すると、果音の家族は母子家庭のようだった。中学生の兄が一人いて、仕事で午後七時頃まで家に帰れない母親に代わり、スペアの鍵は彼が預かっている。元々中学校の方が下校時間が遅いのに加え、兄は放課後友達の家に寄り道することが多いらしく大体五時過ぎ辺りにならないと家に入れないそうだ。果音の母には未だ会ったことがない。一度、「お母さんに渡して」と言って六花が図書館の職員であり果音を家まで送っている旨と、休館日は兄が帰るまで六花の部屋で預かっている旨をメモに書いて果音に託した事がある。翌日果音が菓子折を持ってきて驚いた。「お母さんが『宜しく』って」という言葉を添えて。本当を言えば、六花が期待していたのはそういう事では無かった。もっと『なんとかしてほしい』という思いだったのだけれど。でも、と自分のその曖昧な思いに笑う。『なんとか』って、何だろう。六花はどこまで人の家庭に首を突っ込んでいいものか分からずにいる。

起き上がってもう一度頭を振る。窓を締め切り扇風機からクーラーに切り替え、ペンケースから耳栓を取り出した。今は果穂子のことに集中しよう。変幻自在の素材を細長く形作り、圧縮する。耳の縁を斜め上に引っ張り捻りながら挿入すると上手くいく。やがてミシミシと音を立てながら、耳の内部空間に隙間なく充満していく。
静かに息を吐く。世界は再び『私』と『その他』に分類された。夏の音はもうどこかへ行ってしまう。目を上げると、もうよその世界だった。
果音とあの読みにくい家系図を一緒に見て以来、六花は佐伯家に関する膨大な資料を片っ端から調べている。佐伯善彦の事業の功績から、佐伯邸の建築構造の詳しい解説に至るまで。
今調べているのは、佐伯善彦の生い立ちに関するものだ。資料によると、佐伯善彦は四人兄弟の三男坊。上に兄三人、下に弟一人の男ばかりの兄弟の中で育ったようだ。いわゆる『良いとこのお坊ちゃん』で、それだけに留まらずどうやら商売の才能もあったらしい。出生地はここではないようだし、あの机は自身がアメリカから買い付けた家具だと考えるのが自然だろう。六花は本を閉じて表紙のぼやけた白黒写真を見つめる。堂々たる佇まい。身を包むスーツはサイズがきちんと合っており、似合っている。多分普段から着慣れていたのだろう。この時代特有の立派な髭を蓄えたその顔は若干気難しそうな印象で、五十代後半くらいに見える。本をもう一度開いて続きから読み始める。
『──私生活においては、三十七歳の時島崎家の十六歳の娘、(たまき)と婚姻。長年子供に恵まれずにいたが、五十七歳の時長男、秋彦が誕生。大変子煩悩な一面があったという。また、留学した経験からアメリカ式の生活を好み、それがそのまま佐伯邸の洋風の住宅様式に反映されている。息子にも自分のことを「パパ」と呼ばせていた。また、熱心な金魚収集家としても知られ、貿易相手国に含まれていた中国から珍しい種を買い付けるなどしていた。1947年、八十二歳没。』
一人の人の人生を──それがその人の全てを網羅している訳ではないとしても──一冊の本に纏められてしまう事を思うと何とも言えない気持ちになる。奥付を見てみると1992年十月十八日初版発行とある。佐伯が亡くなって四十五年経ってから発行されたものだ。つまりこの本の編集者も恐らく佐伯善彦という人物を個人的に知っている訳ではない。『昔の人』の情報をただ載せたに過ぎないという事だ。佐伯の人となりや事情を知る訳ではなく、思い入れもない。この本からはこれ以上個人的な情報は知れそうもない。
今まで調べてみて分かったことだが、佐伯善彦には娘がいなかった。それどころか、佐伯という一族は揃って男系のようで、従姉妹や姪といった女性の親族さえ皆無だった。記録を見ると、女の子が産まれても彼女達は揃って短命で皆幼くして亡くなっているようだ。女性といえば母と、兄弟それぞれの妻くらいのものである。息子の秋彦には娘はないのかと思ったのだが、青春時代が太平洋戦争の時期と重なった秋彦は二十一の時陸軍に入隊し、独身で子供も持たないまま1945年、フィリピンのルソン島で戦死している。一人息子しかいなかった佐伯家はここであっさり家系が途絶えているのだ。
はっきり言って行き詰まっていた。果穂子に繋がる糸が見つからない。百年以上前の人物だ。そう簡単に知ることの出来るものではないのかも知れない。同年代の人も当然亡くなっているし、子孫もいない。そうなると、全ての情報は資料頼みだ。

佐伯家に該当する娘がいないとなると、あの人はどうだろう。加藤重清。佐伯商会を継いだ二代目社長。彼なら佐伯邸に頻繁に出入りしていてもおかしくない。年頃の娘もいたかも知れない。日記に書かれていた日付、大正十四年──1925年──辺りの時期に加藤の娘が十代だったとしたら。佐伯家と加藤家が毎年佐伯家の別荘で一緒に休暇を過ごす間柄だったとしたら。佐伯が加藤に会社を譲ったのは彼が六十四歳の時だ。当然後継者として選ばれた加藤は佐伯より年下だと考えて良いだろう。加藤が当時四十代や五十代だとしたら、そのくらいの娘がいてもおかしくない。
──正解かも。
バッグの中を探って大判の本を取り出した。佐伯一族と、佐伯一族と親交のあった人々の写真が収められている写真資料だ。
まず最初の方の頁は佐伯善彦を中心に写された家族写真が何枚か連なる。ステッキまで持った立派な洋装姿の善彦とは対照的に、妻と息子は和服である。夫婦の年の差二十一歳とあって、初老の域に達した善彦に比べて妻の方はずっと若そうだ。派手ではないが、アーチ型の細眉に小作りに整った顔は上品で気品がある。難点は唇の端にある黒子(ほくろ)だろうか。唇からもう少し離れていれば色気があるのだろうけれど、その位置から食べかすのように見えてしまう。袴に“着られている感”がある秋彦はまだ幼児である。写真の下の注記に『1924年撮影』とあった。
家族写真が終わると次は善彦のバストアップ写真だ。先程見ていた資料の表紙になった写真もその中にある。続いて妻の環。そして中学生くらいに成長した学帽を被った秋彦。それを捲るとようやく佐伯商会関連の人物写真が出てきた。そこで六花は手を止めて息を漏らした。
──違った。
果穂子は加藤の娘ではない。二代目社長加藤重清、と記されている注記には続いて『1929年撮影。この年三十一歳となった加藤は若き二代目として佐伯商会を継ぐ。同年に清水斉子(せいこ)と婚姻』とあった。また果穂子に近づけると期待した途端遠のいた。

果穂子は本当に何者なのだろう。これだけ調べてもその影すら掴めない。六花は探ってはいけない領域に踏み込んでしまっているのだろうか。もはや誰かが果穂子を意図的に隠しているのではないかと思う程である。何だか力が抜けて、惰性で頁を捲っていく。
ふと手を止めた。
どこかの家族写真の中に十代半ばの若い娘が写っている。しかもとびきり美しい。濃い眉、はっきりした目元、滑らかな額。微笑んだ唇の弧の描き方まで完璧だ。大正時代特有の大きく膨らんだ奇抜な髪型なのに、そんなものまるで気にならない。今の時代にいてもモデルや女優にでもなれそうな、はっとするほどの美少女だった。そんなに大きく写っている訳でもないのにやけに目を惹く。
『佐伯と深い親交があった高篠準造(たかしのじゅんぞう)とその家族。妻の条子(ながこ)、長男の正一郎(せいいちろう)、長女の昱子(いくこ)と共に。高篠は洋反物の輸入を主に扱う『高篠商会』の社長で、佐伯家とは家族ぐるみの付き合いであった。』
注記にはそうあった。娘は昱子という名らしい。成る程、父親の濃い顔が良い具合に娘に遺伝している。またしても彼女が果穂子でないことに僅かに失望しつつも、『家族ぐるみ』という一文に目が行く。恐らく大机のあった佐伯家の別荘にも遊びに行ける間柄。もしかすると彼女は。彼女こそが──。
考えている途中、不意に視線の端にちらりと動く赤い何かを捉えて、狼狽えた六花は派手に仰け反った。耳栓による世界の遮断効果は絶大だ。慌てて外す。
「おじゃましますって言ったよ」
六花の尋常でない驚き様に目を丸くして、赤いスカートの果音は畳の上にとすんと座った。







「六花ちゃん、これなんて読む? 」
透明なコップにこぽこぽと音を立てながら麦茶を注ぐ六花を上目遣いに見て、果音は頁の一箇所を指さした。果音の知識欲は旺盛だ。知らない知識はどんどん取り込もうとする。
「んー? 」
図書館の休館日に限って、ここは果音専用の児童館と化す。以前六花が「私、本当は子供なんだよね」と言った一言が効いたのか、彼女は六花のことをいつの間にか『六花ちゃん』と呼ぶようになった。
「それは“婚姻”」
「こんいん? 」
「結婚ってこと」
「じゃあ何でけっこんって書かないの」
毎回質問攻めである。適当な言い訳をぐだぐだ述べながら相手をしている。自分はこういう時間が割と好きだったのだと、最近気づいて驚いている。果音は六花が先程まで見ていた写真資料を興味深そうに捲っていた。ふと気になる。
「ねえ、果音ちゃんのおばあちゃんも色んな難しい漢字教えてくれるの? 」
果音は手を止めて顔を上げる。
「おばあちゃん? 」
前に果穂子の『穂』って漢字教えてくれたって言ったでしょ、六花が言い添えると果音はふるふると首を振った。
「果音のおばあちゃんじゃないよ」
「え? 」
聞き返すも、
「果音のおばあちゃんじゃない」
と繰り返す。
「じゃあ、誰」
果音は少し考えて、図書館で会ったおばあちゃん──と答えた。
「前にね、ソファーのとこに漢字ノート置きっ放しのまま忘れちゃったことがあってね、そしたらおばあちゃんが忘れてるよって教えてくれてね、果音の名前見て、『かほこねえさまと一緒の字なのね』って言った。穂って字はその時教わった」
「“かほこねえさま”? 」
思わず乗り出して食い付く。
「机の裏の果穂子と同じ字のかほこ? 」
果音は頷く。
「──ねえ、そのおばあちゃん、机の裏に日記を書いた果穂子のこと、知ってるんじゃない? 」
果音はあっと息を呑む。
果穂子を知る人物が、まだ生きている? 資料本ではなく何かしらの経緯で果穂子のことを知る人物が。仮に果穂子が1925年時点で十五歳だと仮定しても、生きていれば今年で百十五歳だ。その果穂子の事を果音の言う『おばあちゃん』が本当に知っていたとして、彼女は果穂子とどういう間柄なのだろう。実の妹と考えてもかなり高齢だし、そうでないとしたらなぜ『姉様』と呼ぶのだろうか。
「六花ちゃん」
逡巡していると、果音がぽつりと六花を呼んだ。見ていた写真資料を差し出す。
「ここ、なんか入ってると思う」
「入ってるって?」
「ここの隙間になんか挟まってると思う」
果音が示したのは資料の裏表紙だった。見た目ではよく分からないが、触ってみると確かに一箇所が不自然に膨らんでいる。
「ちょっと貸して」
ハードカバーの裏に貼られた薄黄色の見返しの紙は、よく見ると上の部分に隙間が開いていて表紙とくっついていない。隙間を覗くと確かに紙切れのようなものが確認できた。いたずらだろうか。でも、普段この写真資料はあまり閲覧されていないし、貸出不可のため館内でしか見ることが出来ないものだ。そんな本にわざわざ館内でこんな事をするだろうか。
本を傷めないよう細心の注意を払って、ピンセットで紙切れを引き出せないか試みてみた。何回か試した後、ついにピンセットの先で紙切れを挟むことに成功し、そのままゆっくり引き出す。思ったよりしっかりした紙質だった。書き込みのようなものは見えない。固唾を飲んで見守っていた果音はその裏側を覗きこんで声を上げる。
「写真──」
全部を引き出したその紙は確かに古い写真のようだった。裏返したそこには、白黒のぼやけた画質で二人の少女が写っていた。そのうち一人には見覚えがある。モデルの様な美しい顔立ち。はっきりした目元に濃い眉、滑らかな額。
「いくこ」
果音は呟く。そう、資料で見た高篠昱子なのだった。髪型や服装こそ違うけれど、間違いない。資料に載っていた家族写真の彼女よりこちらの方が幾分大人びて見える。
並んで微笑んでいる少女に心当たりはない。けれど不思議な魅力がある娘だった。顔の造形だけ見れば昱子の方が整っているのだが、そういう基準で推し量れない求心力がある。年の頃は昱子と同じくらい。同級生だろうか。下がり気味の眉に華奢な撫で肩と細い首。おっとりとカーブした口元と、笑っているせいなのか殊更強調された涙袋と。そこに長い下睫毛が影を作っている。昱子が意志の強さを感じさせる正統派美人とするならば、この娘は如何にも大正的で、儚げな雰囲気美人といったところだった。
「お揃いのリボンしてるね」
言われて頭を見れば、確かに頭からはみ出す程の大きなリボンは同じ縞柄のようだ。色までは分からないけれど。
誰が、いつ、何の為にこの写真を忍び込ませたのか。全く分からず、何の根拠もないのだけれど。
「──見つけた」
果穂子だ。そうすとんと胸に落ちた。誰かが果穂子を意図的に隠しているのではという六花の妄想はあながち間違っていないのかも知れない。果穂子がこんな形でしか写真を残して貰えないような人物ならば、いくら資料を調べても痕跡を探れないのは当然だ。

「果音ちゃん」
六花と同じく写真に見入っている果音に掠れた声で呼び掛ける。
「その『おばあちゃん』にこの写真、見せてみようか」


口を尖らせた果音は六花を見上げてゆっくりと頷いた。




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