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1.迷いそうなコグマ

 大久保通りと早稲田通りが交差する神楽坂交差点を渡って、東京メトロ東西線の神楽坂駅方面へ進み、賑やかな商店街の途中で、不動産屋にクドいほど「見落さないように」と注意された看板を見つけ、本当に公道なのかどうかをやや疑いながら、細い路地へと曲がる。
 そこからはうねうねとした小路を迷路のように歩き、幾つか騙されそうな角を曲がった先に、不動産屋に紹介された ”キングオブロックンロール神楽坂ビル” がある。
 このビルの三階に部屋を借りて一週間になるが、僕はまだ自分の部屋と職場との往復中に、ダンジョンのような路地で迷子になってしまうんじゃないかと、ドキドキしている。

「よ〜う、コグマ! おかえり!」

 ビルの前に並べてあるプランターの手入れをしてた人が、声を掛けてきた。
 このバカげたビルの名称を考案し、僕の借りた部屋の大家である、東雲柊一サンだ。

「ただいま柊一サン、今日は売れ残り、無いんですか?」
「飽きずに毎回聞いてくるなぁ! ウチは売れ残りなんて出さねェよ」

 柊一サンはこのビルの一階で、中古レコードショップ《MAESTRO神楽坂》を経営しながら、併設のカフェ向けにキッシュやピザを焼いている。
 ただし、それらの惣菜はあくまでも柊一サンの気まぐれで作られるので、その日によってあったりなかったりする。
 僕は引っ越してきた初日に、柊一サンから入居祝いにと、キッシュとピザをもらった。
 あんまり美味しかったので、すっかりファンになってしまったのだが、前述の通り商品があったりなかったりする。
 柊一サンのキッシュのファンはMAESTRO神楽坂のフォロワーになっていて、柊一サンが窯に火を入れた日は情報が発信されるのだけど、呟きから一時間もするとあらかた売れてしまうのだ。

「僕は柊一サンの呟きを見たからって、直ぐに買いに来られないですよ! 仕事してるんですから」

 勤めていた物産会社がいきなり左前になり、留学経験を生かして通訳の仕事をしていた僕はすっかりやる事が無くなって、給料も大幅に下がってしまった。
 居心地の悪さに自主退職をしたものの、丁度世間は新年度に入ってしまったばかりで求職が全く無く、ようやく見つけた仕事は、英会話教室の講師の仕事だった。
 教室は駅近だけど、以前に住んでいたアパートからはアクセスが悪く、通勤に時間が掛かり過ぎる。
 だから教室の近隣でアパートを探したのだが、地価相応に値の張る物件ばかりだった。
 不便でも給料と折り合いのつく部屋で、我慢するしかないかと思っていたところで見つけたのが、この賃貸部屋 ”メゾン・マエストロ” だ。
 ちなみに近所からは、バカげたビル名はほぼ無視されていて、外観の赤レンガから通称 ”赤ビル” と呼ばれている。
 外観の赤レンガは今時のお洒落レトロを狙ったデザインではなく、本物のレトロ…つまり、かなりの経年オンボロ物件だ。
 周囲の相場より格安な部屋代の理由は、そのオンボロに起因している。

「でも今日ンとこは、可哀想な店子のために、特別に取り置きをしてやってあるぜ!」

 柊一サンは、なんだかモノスゴイ下心がありそうな、まるで不思議の国のアリスに出てくるチシャ猫みたいな顔で笑うと、ラップを掛けたお皿を出してきた。

「わあ、本当ですか?! 嬉しいな!」
「その代わり、また俺の英会話付き合ってくれよな」

 僕が皿を手に取る前に、柊一サンはサッと皿を引っ込める。

「いいですけど。二人っきりになれますか?」
「二人っきりはダメだ。コグマは、セクハラが激しいから」
「ツレないなぁ。僕は多聞サンなんかより、ずっと色々役に立ちますよ?」
「コグマは俺の趣味から、ちょ〜っとハズレてんだよなぁ」

 ふふんと笑いながらも、僕の口説きにまんざらでもなさそうな顔をする。
 柊一サンはクセモノだが、”おだて” には弱い。
 だけどそれで上手く攻略出来るかと思いきや、クセモノはあくまでもクセモノで、エサだけ取られる事もあれば、手痛いしっぺ返しを食う事もある。
 僕はこういう色白で、目ヂカラのある美形が大好きだ。
 ビルのオンボロさにビックリしながら、即入居を決めたのは、この大家さんの端正な美貌に一目惚れしたからというのが、一番の理由だったりする。
 だから入居した初日に、柊一サンが引越し祝いと称してキッシュとピザを持ってきてくれた時、部屋に招き入れて丁重に口説いた。
 でも、いつもだったら成功率ほぼ100%の僕のアピールは、あっさり断られてしまった。
 曰く「俺、カレシいっから」だ。
 そのカレシと言うのもこのアパートに住んでいて、しかもこの店舗で働いている、多聞蓮太郎という男だ。
 背ばかり高くてガリガリに痩せた、マッチ棒か豆もやしみたいなヤツで、しかもものすごく変な顔をしているので、ハッキリ言ってルックスは僕の方が絶対に勝っている。
 僕は女性よりも男性が好きなので、身体はバッチリ鍛えてある。
 家系の何代か前にイギリス人がいて、先祖返りか隔世遺伝か、僕は生まれつき髪は濃い目の金髪だし、瞳の色も暗めの青緑色だ。
 だから自分で言うのもなんだけど、ヘラクレスみたいにカッコイイ。
 背丈は、マッチ棒が異常に背高なのでアッチの方が高いけど、それでも僕だって、日本人の平均身長からは抜きん出ている。
 ちなみにちゃんと日本人で、名前もオグマ イタルと平凡だ。
 入居した時に書類に署名をしたら、苗字の ”小熊” という字面を見て、柊一サンは「でっけーコグマ!」と言って腹を抱えて笑い、その後どんなに訂正しても僕を「コグマ」と呼ぶ。

「じゃあ、お店がヒマな時に、お店のテーブルでやりませんか?」
「そんならまぁ、ダイジョブか。それじゃお教室の授業がナイ時に、頼まぁ」

 僕が差し出した手の上に、柊一サンはキッシュの乗った皿を、ポンッと乗せた。

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