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2025年 晩秋 六花 3

軽やかなリズムだった。その澄んだ声は幼心にもなにか心惹かれるものがあった。
そうだ。六花はコーラスの出どころを探ろうと邸のあちらこちらを覗きまわったのだ。そうして、吸い寄せられるようにあの引き戸の前へ辿り着いた。
幼いなりの力を込めて、六花は開けた。果穂子の世界を。



結局何か分からないことが出るとこの人を頼ってしまう。
「いらっしゃるたびに人数が増えるのね」
早ゆり婦人はいそいそと四人分のティーカップを運びながら笑って言った。
「すみません」
「金魚邸の跡地にまで行かれたなんて吃驚よ。若い方は行動力が違うわ」
「いえ」
行動力があるのは亜莉亜である。彼女の発言がなければ金魚邸の場所など突き止められないものと思っていたのだから。手土産にあの街で買って来たロールケーキを各皿に並べるのを手伝いながら六花は頭を下げた。
結局、六花たち三人は戻ってきたその足で、早ゆり婦人の家を訪ねたのだった。あそこで何か探ろうとしても、足りていないピースが圧倒的に多いと実感したのだ。
「──いえね、あなたとお知り合いになってからここのところ本当に楽しいの。うちにいらっしゃる方といえばずっとヘルパーさんかご近所さんだけだったから」
こうして若い方と仲良く出来るなんて願ってもいないことよ、早ゆり婦人が突然の訪問を温かく受け入れてくれるので少しほっとする。彼女の言葉がまんざら社交辞令でもないのが伝わるのも嬉しい。
「あら果音ちゃん、今日は髪の毛がとっても可愛いのね」
「私がやってみました。可愛いですよね! 」
亜莉亜が茶葉を取り出しながら満面の笑みで自画自賛する。それを受けて果音までが照れてもじもじしだす。きっかけが出来た亜莉亜と早ゆり婦人との間でしばらくヘアスタイル談義に花が咲き、とうとう六花にまで飛び火する。六花には冒険が足りないだの、若いのに勿体ないだの、果ては亜莉亜にプロデュースして貰ったらいいだの具体的な案まで出て辟易した。確かに六花の髪は染めもいじりもしないシンプルな黒いストレートだけれど。婦人まで亜莉亜と一緒になって、まるで女子大生だ。
今更だが、考えてみれば早ゆり婦人はあの高篠昱子の娘なのである。新しい物好きで時代の先をゆくカリスマ性のある昱子の娘。こんな場面でそういうところを実感して何だかおかしく、少し不思議にも感じる。









金魚邸跡の最寄駅前にある昔ながらの食堂で昼食を取ると、すっかり亜莉亜は元気と意欲を取り戻した。水を継ぎ足しに来てくれた年配の女性に亜莉亜は躊躇うことなく明るく話しかけた。
「私達、観光で来たんですけど」
観光、という言葉選びにやや驚く。言われてみれば観光と言えなくもないし、そう言った方が相手もこちらの状況を理解しやすいのだろうけれど。
「さっき乗ったバス停の名前が『南小学校前』ってなってたんです。でも、近くに小学校っぽいのがないのがちょっと気になって」
店の女性は、あー、と合点がいったというようにぱっと目を見開いて、持っていたピッチャーをテーブルの上にどん、と置いた。
「あそこはなあ、どっかの小学校と統合されたんだわ」
亜利亜の質問は呼び水となったようだった。
「せってもそんな昔の話でもねえな。確か五、六年くらい前だったかや、子どもも少ねえし割と小さいとこだったからしょうねえやな。今あそこは食品工場が買い取っちまったからまぁんず跡形もねえけど──」
エプロンをした腰に手を当てて店中に響くようなヴォリュームで次々話しだす。いや、思い返してみればこの人は最初の『いらっしゃい』からこれ位の声量だったかも知れない。常連らしき店内の客達は誰一人として動じないのでいつもここはこういう雰囲気なのだろう。若干度肝を抜かれたが、それはそれとしても彼女の証言で金魚邸跡の向かいに五、六年前までは小学校があったという事実は確証されたと言える。亜莉亜は期待の篭った目で六花と果音を一瞬見て女性に視線を戻し、
「おばちゃん昔からここの人? 」
全く動じることなく会話を続ける。さり気なく敬語が抜けている。女性はそうだがや、と肯定した。
「じゃあその向かいにあった金魚邸のことも知ってる? 」
「なに、お姉ちゃん達金魚邸見に来たんか」
たまげたなあ、女性は一層声を高くした。
「あそこを見に来る観光客がいるとは思わねかったわ! 」
聞けば、女性が子どもの頃から、金魚邸は滅多に持ち主が訪れない、ひっそりとした場所だったそうだ。大人たちがそこを『金魚邸』と呼んでおり、子どもらも訳も分からず真似して同じように呼んでいたという。けれど、そこに金魚など一匹もおらず、それが幼心に不思議だったと、女性は語った。
「まあ確かに立派な建物だったけどな。取り壊されっちまってお姉ちゃん達残念だったに。あんなとこ良く知ってたなあ」
女性は感心する。
「あの、ちなみに──その金魚邸繋がりで『るねちよ』っていう人のことを聞かれたことはありませんか」
「おれは知らねえな。初めて聞いたわ」
六花が尋ねると、女性は何やら神妙な面持ちで首を傾げた。








「──そんなことがあったの」
六花の説明を聞いて、早ゆり婦人は手を胸に当てながら何度か頷いた。
「結局分かった情報は、私と亜莉亜が初めて金魚邸に行った頃は向かいにまだ小学校があったということ位でした。でも、それを聞いているうちはっきり思い出したんです。どうして私があの時あそこにいたのか」
婦人はそうなの、とだけ言って六花から目を逸らさず、続く言葉を穏やかに促した。
「歌声の出処を探していたんです」
開け放たれた雨戸から差し込む眩むような白い日差し。初めての場所。大人達はあちこち動き回っていて、亜莉亜は自分の母親にくっ付いていた。六花はただ独り自由の身でそこにいた。だだっ広い畳の部屋の向こうに見える庭が何やら面白そうで、六花は靴も履かずに庭へ下りた。その時だった。不意に歌声が聞こえたのは。
「あの歌声に導かれるようにして、私はあそこに居たんです」
そう。導かれるように。
実際ピアノと合唱の()は通り向かいの小学校から聞こえて来たのだろうけれど、あの時の六花にはそれが分からず、邸の敷地内中をうろうろと探ったのだった。
そうしているうちに恐らく勝手口だろうが、庭の方からも入れる入口を発見して躊躇なくがらりと開けた。中は土間になっていて、がらんとした不思議な空間だった。ひとまわり見回すと、邸の奥へ続きそうな薄いガラスが嵌め込まれた戸とは別に、一際ひっそりと日の届かない空間に、厚みのある重そうな木の引き戸があるのに気が付いた。
──歌声はあそこからきこえるんだ。
あの時の六花にはどうしてもそう思えた。だから、小さな体に目一杯力を込めて戸を押したり引いたりした。引戸はずず、と少しずつ空間を広げ、六花はその空間に自分の身体をねじ込んだ。
「そこで例の大机を見たという訳ね? 」
婦人は納得したという風に尋ねた。
「はい。実際そこに入ったら、置いてある色々な珍しいものや大机に関心が移ってしまって、合唱はただのBGMになってしまったんですけど」
「その時机は立て掛けられていた? 裏側は見なかったの? 」
「え? 」
言われて初めてはっとした。
「──今のところ机のことで鮮明に思い出せるのは、机に積もる埃と端に縁取るように彫られた装飾だけで、置かれ方に違和感を感じた記憶は特になくて──」
「机に埃が積もっていた、ということは普通の置き方をされていた可能性が高いわね」
「そう──ですね」
早ゆり婦人は鋭い。六花は目が開かれた思いだった。
「裏側まで見たかどうかは、正直微妙なところです」
見たか、見ないか。今のところ断言は出来ない。けれど、机の下に(しゃが)み込んで潜った記憶は無いように感じたのだった。

皆でロールケーキを食べ終えひと息ついたところで、六花は最終部分まで全てプリントアウトした日記を早ゆり婦人に差し出した。
「これに就いても手掛かりを掴めなかったんですが──。早ゆりさんは『留根千代』という人のこと、お聞きになったことはありますか」
婦人は不可解な顔で紅茶のカップを置く。
「なあに」
「日記の後半で、唐突にこの人についての記述が幾つも出てくるんです」
六花は記述のある部分を指し示す。
「しかも日記を追うごとにどんどん増えてくるし、果穂子さんの執着具合がちょっと怖いくらいなんです」
聞いたことないわね、と言いながらも婦人は眼鏡を外して顔を寄せ注視した。
「読みが分からないので、私達は勝手にるねちよと呼んでいるんですけど」
「るねちよ、ね」
少し読ませて、と婦人はしばらく日記を顔から離したり近づけたりして読み込む。やがて読み終えた婦人は日記をテーブルに戻した。
「確かに、依存していると言って良いくらいの執着だわね。あなた達としては、この方は果穂子さんにとってどんな存在だと考えているの? 」
亜莉亜の方に顔を向けると、彼女は果音の紅茶にミルクを足してやりながら、六花にそのまま続けるように目で促した。
「果穂子さんはこの人と恋愛関係だったんじゃないかという気がして……。昱子さんにまで関係を隠すなんて、よっぽどのことだと思うんです」
「そうね。確かにそうだわ。でも──」
婦人は不可解そうに顔を顰めた。
「そうだとしたら、何故母に隠さなければならなかったのかしら。それにいくら内緒にしている関係だと言っても、母がそのことに全く感づかないというのも不自然なように思うの」
納得いかないというように首を傾げる。
「わたくしの存じている限りでは、生涯果穂子姉様といちばん親しくしていたのは母だったと認識しているのだけれど──」
婦人は日記のその部分にもう一度視線を向ける。
「それにしても変わったお名前ね。母の時代、こんなお名前なら相当目立つはずなのだけれど。母の名前でさえ、昱の字がちょっと珍しいから割合と浮いたみたいよ。でもこの方の場合はさらに──」
婦人は日記のその部分に目を落として暫く考え込む。
「るねちよ、と読むのだとしても、この人、ちょっと疑問ね。こんな人本当にいらしたのかしら」
え、と婦人以外の三人が声を上げた。婦人は変わらぬトーンで続ける。
「そもそも──男性なのか女性なのか分からないわ」

留根千代。
実在性を疑われ、しかも性別不明。早ゆり婦人の言葉は六花にとって衝撃だった。恋人に宛てた手紙のようなその文面から、てっきり留根千代は男性だという固定観念があったのだ。
「よく考えたらあれ、本名じゃないかも知れないしね。二人の間だけで通じる渾名(あだな)とか。果穂子が作り上げた架空の人物とかさ」
婦人宅からの帰り道、亜莉亜がぼんやりとそんなことを嘯く。確かに、そう考える方が自然なのかも知れない。今日は何だか色々疲れた。各々何か思うところがあるのか、道中三人とも言葉少なだった。亜莉亜は夕飯を食べ終えたら今日のうちに夜行バスに乗って今の住まいに戻るという。
「なんか分かったら私にも教えて」
「そうする」
亜莉亜に答えながら思案する。留根千代に就いては、明日からもっと違う仕方で探らなければならない。









果音を送り届けてから亜莉亜と二人で食材の買い出しをして家に戻った。何だかこういうのは久し振りで、少し懐かしく感じる。
亜莉亜が帰りの準備をしている間に六花の方は夕食の準備を進めた。勝手を知っている家の中で、彼女は洗濯した服を取り込んだり美容道具を仕舞い込んだりしている。
互いに背中合わせの状態で、亜莉亜がふいと話しかけてきた。
「果音ちゃんの親って忙しい人なの? 」
何でもないようなさりげなさを装ってはいるが、どこか探るような言い方だった。今日送り届けた時も、日曜なのにも(かかわ)らず家には母も兄も不在だった。事前に果音の母親に許可を取りはしたが、昼食も跨いで一日連れ回したにも拘らず、アパートに行ってみればあんな様子だ。果音はお母さんは仕事が忙しいからとしか言わないが、本当にそれだけが理由なのだろうか。
「一応忙しい人だとは聞いてる。シングルマザーだって」
振り返って答えると、ふうんと亜莉亜は靴下をひと組みにまとめ、何やら考え込んでいた。
「果音ちゃんってさ、緊張すると物凄く顔が(こわ)ばるでしょ。一見睨んでるようにも見えるやつ」
そうだ。図書館で消しゴムを落とした時も、亜莉亜に髪を巻いてもらった時も果音は緊張を感じると決まってあの表情になった。
「気にしてくれてんの」
「六花と、似てるなと思った」
「私、あんな顔してた? 」
面食らって思わず声が高くなる。
「子供の頃はよくそうなってたよ。多分果音ちゃんと同じ。緊張してる時にああなってたんだと思う」
性質が似ている自覚はあった。それゆえに助けたいと思い関わり合いになったのだ。
「あと、聞き分け良過ぎない? 親離れも出来過ぎてる気がする」
亜莉亜がそう指摘したとき、六花の胸に重大な嘘が暴かれた時のような緊張と恐ろしさと居心地悪さが一気に襲った。
「六花、実家には帰ってる? 」
「──なんで」
意地悪な質問だ。亜莉亜は知っている癖に。
「果音ちゃんも心配。だけど私が心配してるのは六花のほう」
六花は亜莉亜に背を向けたままひたすら野菜を切り刻み続けた。そうせずにはいられなかった。やめて欲しい。もうこの話題はやめて欲しい。
「六花は自分の感情にわざと鈍感になってるでしょ。出来るだけ自分の傷のことは考えないようにしてるでしょ。そうやって安定を保とうとしてる」
普段はふわふわしているのに、亜莉亜は時々容赦ない言い方をする。マイナスのことを考えないようにする事のどこが悪いというのだ。いつまでもうじうじと考えた方が良いとでもいうのだろうか。
「──別に。古傷だし」
「いつもそう言うけど、古傷じゃないよね、それ」
思いがけない言葉に六花は手を止める。包丁を置いて、背後の亜莉亜をゆっくりと顧みた。光量の足らない蛍光灯の下で、亜莉亜の奇抜な髪色は矢張り目に痛い。
「傷のとこ、定期的に自分で押し拡げて痛がってるよね。だからいつまでも治らない。拡げたその形のまんま、癖がついちゃってもう戻んないんでしょ」
果穂子と同じじゃん、と亜莉亜は言った。
「辛いことは考えようとしない、人に頼らない、踏み込んで行かない果穂子と同じじゃん」
(まばた)きさえも忘れた。多分、六花は今亜莉亜を睨むような目で見ている。子どもの頃みたいに。
別に実家に帰んなくたって良いよ、私も良いとは思えないし──、畳んだ洗濯物を膝の上に積んだまま亜莉亜は静かな声音でそう言った。
「でも癒せるよ、それ。六花自身だって無自覚だけど癒そうとしてる。果音ちゃんに関わるのも、果穂子を追うのも、本当は自分を癒したいと思ってるからじゃん」


同情なんかしてあげないからね、亜莉亜の声は抑揚なく響いた。





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