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こぼれ落ちた、弱さ

 けほけほと、乾いた咳の音が響いた。ひんやりとした室内に、その咳の音は響いていく。壁に当たって反響するその音は、咳の主には届いていなかった。苦しげに眉を寄せ、眠りに落ちながらも咳き込む姿は痛々しい。……そして、そうでありながら、まるで作り物めいて美しい姿も、相変わらずだった。
 イグジリスは、生まれながらに病弱であった。だがそれは、常に室内で生活することを余儀なくされる程ではなかった。彼にとっての不幸は、彼の病弱さが、「次期国王の責務を果たせぬほどではない」ということだろう。仮にそれほどまでに病弱であったのならば、彼は嫡子といえども王太子とは呼ばれずに、離宮で養生をすることで時を過ごせただろうから。
 けれど世界は常に彼にとって残酷で、常人よりも弱い肉体のイグジリスに、常人よりも過酷な生き方を強いてくる。睡眠時間を削って学び、国と民のために尽くすことを求められる生活は、イグジリスの身体を確実に蝕んでいく。けれど、蝕まれてなお、彼の身体は休めばそれなりには回復するのだ。寝たきりのように弱ければ、繰り返される過酷な日々から抜け出せるだろうに、そんな温情すら、彼には与えられなかった。

「……しゅらい、と……?」
「お目覚めですか、殿下?」
「……水、を」
「はい」

 唐突に聞こえた主の掠れた声にも、騎士シュライトは穏やかに対応した。王太子の居室で、彼の看病をしているのは、近衛騎士のシュライトただ一人だった。侍女も侍従も存在しない。医師は定期的に訪れるが、尊き存在に対するものとしてはこの状況はあまりにも歪であった。だが、それもまた、いつものことだった。シュライト以外の誰も、役目を越えてこの美しく悲しい王太子を慈しむことは無いのだ。
 手渡されたグラスの中の冷たい水を、イグジリスはそろそろと口に運ぶ。身体を起こすのすら億劫そうな主に、シュライトは断ってからその身体を支えて起き上がるのを手伝った。背もたれ代わりに枕を腰の後ろに当てた状態でやっと姿勢を保っているイグジリスであるが、その顔色は寝こんだ当初よりは幾分回復していた。まるで幽鬼のように青白く血の気を失った主の姿には、流石のシュライトも肝が冷えた。
 普段、イグジリスは病弱であることを感じさせない。それほどに彼は、気丈に責務と向き合っている。だが、やはり常に張り詰めた様な状態を続けているのは負担になるのだろう。時折こうやって寝こむことがあった。特に寒い季節はそれが多く、病床でさえ政務に励む姿には、シュライトも胸を痛めた。お休み下さいと諫めても、役目だからと頑として譲らないイグジリスの生真面目さは、まるで、それ以外に生き方を知らないようだった。

「……お前は、側にいてくれるのだな」
「……殿下?」
「……王子も寝込んでいるらしい」

 ぽつり、と零された言葉の意味を、シュライトは図りかねた。瞬きを繰り返す己の騎士を、イグジリスは静かな表情で見ている。幾分赤みが戻ってはいるが、相変わらず体調不良を示すように青白い顔をしていた。そんな主の美しい顔に浮かぶ凪いだ表情に、シュライトは小さく息を呑んだ。
 その先を、言わせてはならない。その傷に、触れさせてはならない。短くない付き合いの中でシュライトが知った、その顔は、イグジリスが無自覚に己の傷跡を抉るときの顔だった。全てを諦め、全てを捨て去り、何も望まず、ただそこに生きる。そのような歪みが己にとって正しいことなのだと反芻するときの表情だと、シュライトは知っていた。
 だが、シュライトの喉は言葉を発することが出来なかった。何と言って主を止めれば良いのか解らなかった。そもそも、主の言葉を遮るのは不敬だ。その一瞬の躊躇の間に、イグジリスは静かに、本当に静かに言葉を紡いだ。

「妃殿下が、付き添っておられるそうだ」

 それは、ただ、事実を告げるだけの言葉だった。何の感情も含まない、淡々とした言葉。けれど、だからこそ、イグジリスが抱えた傷跡が浮き彫りになる。
 病弱な身体を押して政務に励むイグジリスが倒れても、国王も王妃も、彼を労ることは無かった。ただ役目を果たせと淡々と突きつけられる現実を、イグジリスは常に粛々と受け容れてきた。それが、己が生かされている理由だと彼は重々承知していた。
 だが、だからこそ。……だからこそ、道具のように扱われる己と異なる弟の存在は、ただそこに在るだけで、イグジリスの目に見えない傷跡を抉り続ける。
 生死の境をさまよっても、高熱にうなされても、咳き込み喉を痛めて血を吐いても、優しい言葉一つかけられることは無かった。労られることもなかった。見舞いなど、イグジリスが物心ついてから、一度とてされたことがない。いっそそのまま朽ちてしまえと思われているのだとイグジリスは知っている。知っていた。
 ……知っていても、意識しない場所で心が傷ついていくのは、どうにも出来なかった。

「そうですか。王子が寝込んでおられるとは初耳です」
「何だ?知らなかったのか?」
「はい。存じ上げませんでした」

 シュライトはことさら何でも無いことのように告げた。知らぬ、と明言する己の騎士に、王太子は不思議そうに彼を見た。何故、と問いかけられて、シュライトは静かに、大真面目に、言い切った。

「殿下が倒れられたので、他のことなど気にする余力がありませんでした」
「……は」
「お目覚めになられて何よりです」

 当たり前のことのようにシュライトが告げた言葉に、イグジリスは目を見開いた。次いで、小さく笑った。そうか、とこぼれ落ちた言葉は、ひどく安堵したような声音だった。実際イグジリスは、何かに安堵したのだ。それが何かなど、彼には解りもしなかったが。
 内心の苛立ちを押し隠し、シュライトはいつも通りに微笑んでいる。告げた言葉は全て真実だった。ただ1人の主が倒れているのだ。他のことなど気にする余裕などありはしなかった。いつものことと言ってしまえばそれまでだが、それでもイグジリスが倒れたというのはシュライトにとって大きなことなのだ。
 だが、だからこそ、シュライトのいない間にイグジリスに余計なことを吹き込んでくれた輩には、苛立ちだけがこみ上げる。病床の王太子に何を吹き込んだ、と。ただでさえ体調が悪ければ気力も衰えるだろうに、傷口に劇薬を塗りつけるような真似をしてくれて、と思ったのだ。
 そんなシュライトの苛立ちを知らぬイグジリスは、そうか、ともう一度呟いていた。未だ病みやつれた顔だったが、そこに浮かぶのは柔らかな表情だった。先ほどまでの人形のような、何かをそぎ落としたような表情はもう、存在しなかった。

「殿下……?」
「……誰もいないと思っていたが、私には、お前が、いてくれるのだな」
「……当たり前ではありませんか。私は、この命尽きるまで、殿下の騎士なのですから」
「ありがとう」

 万感を込めてシュライトが心中を吐露すれば、イグジリスは彼に出来る精一杯の微笑みを浮かべて、己の騎士に礼を告げた。忌まれる命を慈しんでくれる、たった一人だけの、優しい騎士に。

「……私、は」
「……」
「……生きて、いても、良いのだろうか……」

 静かに、静かに、答えを求めぬその問いに、シュライトは何も言わなかった。ただ、一言断ってからイグジリスの手を両手で包みこむ。手袋越しに触れる騎士の体温に、孤独な王太子は幼い子供のように寂しげに笑った。
 そして、ゆるりと一度閉ざされた瞼の隙間から、一筋の涙が色の白い肌を伝って、落ちた。


 親の庇護を求めることすら諦めて生きてきた青年が、ただ一つその手に掴んだ温もりは、凍えて朽ちかけるその心を、いつも優しく、包み込んでいた。

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