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悲しい、現実

 悲鳴が、響いた。その前に響いたのは、茶器を取り落とす音。その音を、光景を見ていながら、王太子・イグジリスは表面上は淡々としていた。彼と相席していた者達が、茶器を取り落とし、咳き込み、倒れていく。その光景を見て、彼は、今まさに口を付けようとしていた紅茶を、そっとおろした。

「医師を」
「既に呼びに行かせております」
「そうか」

 傍らに戻ってきた近衛騎士・シュライトに対して、イグジリスは小さくご苦労と告げた。給仕をしていた者達も、席に座っていた者達の従者達も、慌ててその場に倒れている主達を気遣っている。この場で無事で居るのは、紅茶を飲まずにいたイグジリスのみ。
 ふぅ、とイグジリスが小さく息を吐く。溜息に似ていたが、人間離れした美貌ゆえにか、その行動は人目を引いた。まさか、と誰かが呟く声が聞こえたが、イグジリスは何も反応をしなかった。その傍らに立つシュライトだけが、ぴくり、と眉を動かしたぐらいだ。
 まさか、貴方様が、と言いたかったのだろう。しかし、相手はこの国の王太子。確証もなくそんなことを告げられるわけも無い。そうこうしているうちに医師が現れ、具合を悪くし、血を吐いていた人々の手当が開始される。幸か不幸か、命を落とした者はいなかった。だがそれでも、王太子の茶会に招かれた人々が毒で倒れたという話は即座に広がり、唯一無傷であったイグジリスに対する周囲の恐れは、また、強くなった。
 その騒ぎから数日後、イグジリスは自室で紅茶を飲んでいた。煎れたのはシュライトだ。未だ主に飲ませるほどでは無いと渋る相手を説き伏せて、手ずから煎れさせた紅茶を、イグジリスは静かに飲んでいる。毒味の必要の無い、安全な紅茶を。

「彼らには、悪いことをしたな」
「殿下……」
「どう考えても、私の巻き添えだろう。しかし、あそこまで大がかりなことをするとはな」

 淡々と語る主に、シュライトは答えない。それは確かに事実だろうと、シュライトも解っていた。あの毒入り紅茶の事件は、他の誰で無くイグジリスを狙ったものだろう。何故ならば、あのときに使われていた毒は、あの場にいた人々ならば数日寝込む程度で回復したとしても、イグジリスの病弱な身体には猛毒であったのだから。彼が口を付けなかったのは、不幸中の幸いだった。
 たとえ、周囲から毒を盛ったのだと疑われたのだとしても、それでも、イグジリスが無傷であることの方が重要だった。イグジリスは己の肉体が弱いことを知っている。病弱に生まれついた彼は、他者が耐えられる程度の病にも、毒にも、ひどく苦しめられるのだから。
 狙われたのがイグジリスであることは間違いがない。成人を間近に迎えた王太子。この国の次期国王として確定している彼を狙う勢力は、減るどころか増えている。そして、彼の死を最も願っているだろう存在を、イグジリスは知っていた。

「陛下達の差し金であろうか」
「いえ、違うと思われます」
「別段、気を遣う必要はないぞ、シュライト。私は彼の方々に疎まれている。私がいては、王子が王になれぬからな」

 淡々と、感情を見せずにイグジリスは語る。両親を陛下達と呼び、弟を王子と呼ぶ。イグジリスにとって彼らは、血族ではあっても、家族ではなかった。父と呼び、母と呼び、弟妹の名を呼ぶという当たり前の関係を、彼は知らない。そんなものは最初から、与えられてはいなかった。
 だからこその、冷静な判断。自分の死を誰より望むのが両親であろうと彼は知っている。弟に王位を継がせたいと彼らが願っていることも。それならば、さっさと廃嫡してくれればよいものをとイグジリスは常にぼやくが、その願いが叶うことは無い。この国は嫡子相続が優先されるのだ。生きている以上、王の責務が果たせる以上、イグジリスが王冠から逃げることは出来ない。
 それらの事情を踏まえて、それでもシュライトは目の前の主の言葉を否定した。違います、と再度告げる己の騎士に、王太子は不思議そうな顔をした。何を持ってそこまで断言するのか、と言いたげだった。そんな主に、シュライトはそっと目を伏せたまま、静かに、答えを口にした。
 それはきっと、ただ、命を狙われるということ以上に悲しい、現実であった。

「陛下がお望みなのは、殿下の病死か事故死です。兄を毒殺して王位についたなどという醜聞を、王子に着せることはお望みではないと思います」
「……あぁ、なるほど」
「……ですので、今回の一件は、別口かと思われます」
「そうか。……あぁ、そうだな。その通りだ。お前の言うとおりだな、シュライト」

 静かに、本当に静かにイグジリスは呟いた。シュライトが口にした理由を、イグジリスは正しく理解した。愛する我が子を王位につけたいと思いながらも、その愛しさ故に醜聞など決して許さないだろう国王夫妻を、イグジリスは知っている。異形の彼を疎み、遠ざけ、忌んできた両親が、その反動のように弟妹にはとても温かいことも、彼は知っていた。
 誰が見ても、王子に疑いのかからぬ形での、死を。それを望まれているのだと知って、理解して、イグジリスはそれでも、感情を乱すことはなかった。その程度のこと、もうとっくに理解していた。己は生きていることが既に邪魔なのだと、彼はずっとずっと、知った上で生き続けてきたのだから。
 恐る恐るというように、シュライトの掌がイグジリスの方へと伸ばされる。けれどそれは途中で動きを止めて、王太子に忠実な騎士は、唇を噛みしめて逡巡した。その掌に、イグジリスは手を伸ばし、手袋に包まれたシュライトの手に、触れる。元々の色白さに加えて病弱なイグジリスの肌は白く、病的なまでに白く、そうだというのに人目を引くほどに、美しかった。

「殿下……」
「残念だ」
「……殿下?」
「そういうことならば、私は毒を煽って死ぬことすら、許されんということだな」
「殿下、それは」

 咎めるようなシュライトの言葉に、イグジリスは笑った。美しい微笑みだった。寂しげな微笑みだった。まるで殉教者のような悲しい笑顔に、シュライトは言葉を失う。いつもいつでも、世界はイグジリスに残酷だった。身を削り、血を吐き、それでも国に尽くすために必死に生きている彼に対して、周囲の全てはあまりにも冷酷だった。
 その存在が罪なのだと。お前などいらないのだと。そう言いながら、役目を果たせと迫ってくる世界の醜悪さに、それでもイグジリスは耐えている。抗うのではなく、耐えている。いつか終わりが来るその日までと、心を凍らせて、身をすり減らして、生きている。

「戯れ言だ。気にするな。むざむざ死ぬつもりはない。……お前がいてくれるならば、私は、耐えられる」
「そのようなことを」
「事実だ。……だって、そうだろう?」

 そこで、イグジリスはまるで、幼い頃のような言葉を使った。傍らに立つシュライトの手を握ったままで、言葉を紡ぐ。端正な、人形めいた美貌に浮かぶのは、今にも壊れてしまいそうな儚い微笑みだった。

「お前だけは、私の生を、願ってくれるのだから」

 その言葉に、シュライトは何も言えなかった。事実だと、彼は知っていたからだ。この美しい王太子の存在を受け容れて、彼に生きていて欲しいのだと、そこに生きていて良いのだと願うのは、己ぐらいしかいないと、近衛騎士は知っていた。それほどに異形の王子は美し過ぎて、有能すぎて、まるで魔物のように、恐れられているのだから。


 世界は広く、命は無数にあるはずだというのに、哀れに生まれついた孤独な王太子を願い、望み、慈しんでくれるのは、その傍らの愚かな騎士、ただ一人だった。

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