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あの時の言葉

 ざあああああ





 陰陽界の風の音を、久しぶりに聞く気がした。

 ずっとそれは鳴り続けていたのだろうが、鬼どもがここにひしめいて暴れ回っていた間、その喚き散らす声に隠れ風の音は聞えていなかったのだ。





 スルグーンは、何も言わなかった。

 ここを、前には気味が悪い所だと言ったが、今は特に何も言わずにいた。

 相変わらず気味が悪いと思っているのかも知れないが、今はそれを特に口にしたいとも思わないのだろう。

 リューシュンにしても、気味の好い所だと思っているわけでは決してない。





 ――あいつも、この音を聞いたのだろうか。





 飛びながら、そう思う。

 無論、聞いたのであろう。

 そこを通って、陰曺地府へ行ったのだから。



 ただ一度きり、ここを通り、これを聞いたのだ。



 二度は、なかった。

 陽世へ帰ることは、なかったのだから。







「あ、そういやあ」







 リューシュンは飛びながらふと、口にした。



「なんだチイ?」スルグーンがすぐに訊き返す。



「うん」リューシュンは飛びながら答える。「コントクとジライに、何も言わずに来ちまったな」



「――」スルグーンはすぐに返事をしなかった。



「せめて挨拶だけでもして来ればよかったな」



「――お前、キイ」



「え」



「そんな事」



「そんな事って?」



「――」スルグーンは、また黙る。「挨拶どころじゃないのかと思ってたキイ」



「なんでだ?」



「――」



「まあ、また遭うこともあるだろうからな。いいか」



「お前」スルグーンが、半分咳き込むようにして訊く。「また、陰曺地府へ行くつもりかチイ」



「え、駄目か?」リューシュンは飛びながら訊く。「でもこうやって陰陽界に入れたんだから、また行くこともできるだろう」



「いや……そういう事じゃなくてキイ」



「なんだ?」



「――」スルグーンはまた黙り、少ししてはあ、とため息をついた。





 そんなやり取りをする内にも、二足は潜るべき天心地胆を見つけ、潜り抜けた。





          ◇◆◇





 陽はすっかり翳っていた。

 星々が空に姿を現し、地上の景色は暗き影の中に包み込まれている。



 リューシュンはスルグーンを馬の背に乗せ、街中を見下ろしつつ飛んだ。



 龍馬の背に乗ってではなく、自らの眼、自らの体を使ってこんな高みからの景色を眺め、飛び進むのは無論初めてのことだった。

 だが今その見下ろす町は瓦礫の山と化し、見る影もなきものとなっていた。

 そしてそれを、闇が、まるで覆い隠すように包み込んでいるのだ。





 目指す邸が、やがて見えてきた。

 それもまた、元の姿をもはやとどめてはおらぬことが闇夜に慣れた眼にも判った。

 邸は傾き、破壊され、今にも力尽きて地に崩れ落ちそうな様相を示していた。





 仲間たちは庭にいた。

 庭――といってもそれもまた、塀も櫓も樹木もすべてが崩れ、倒れ、取り壊され、ただのっぺりとした荒地と化して、見晴らしだけがよくなっているものだった。



 リューシュンは静かに、仲間たちの傍に滑るように降りた。





 最初は、誰も名を呼んでこなかった。

 呼ぶことが憚られたのだろう。

 何しろ今は、白き龍馬の姿をしている。

 とても「聡明鬼」とは呼べないのも、無理はなかった。





「よう」だからリューシュンは、自分の方から仲間を呼んだ。「ケイキョ。リョーマ。フラ。無事だったか」



「……聡明、鬼、さん?」恐々のようにその名を口にしたのは、鼬の精霊ケイキョだった。



「ああ。俺だ」リューシュンは頷き、それから下を向いて己の体を自ら見下ろした。



 スルグーンはとうに馬の背から飛び降り、仲間たちの傍に佇んでいる。



「こんな姿になっちまった」



「どう……して」ケイキョが恐る恐る訊く。



「打鬼棒に打たれたんだ」リューシュンは龍の眼でケイキョを見ながら答えた。「そしたら、血にはならずにこの姿になった」



「こいつの、元の姿だチイ」スルグーンが低く言葉を添える。「……多分な、キイ」



「打鬼棒に、打たれたんでやすか」ケイキョは黒い眸を震わせる。「それじゃ、テンニは」



「閻羅王に、打たれた」リューシュンはありのままを答えた。「閻羅王は、打鬼棒を持っても消えたりしなかったんだ」



「閻羅王――」ケイキョは声を失う。



「ああ」リューシュンはまた頷く。「テンニは、閻羅王によって打鬼棒に打たれ、血となって流れて消えた」



「――どうして」ケイキョは声のなきまま囁く。「閻羅王は最初から、そうしなかったんでやすか……散々、テンニに好きなだけ悪業をやらせといて」



「それは」リューシュンは俯いた。「そうあるべき事だったから、だろう」



「そ」ケイキョは慄然と身を震わせる。「そんな……」







「リンケイさまはどうなったの」







 若い少年の声が、訊ねた。

 リューシュンとケイキョ、スルグーンとフラも、皆が声の主を見る。



 リョーマだ。





 リューシュンは、ただじっとリョーマを見つめた。



「リンケイは」声を絞り出して答えたのは、スルグーンだった。「鬼になったマトウを打鬼棒から護って――テンニの刀に眉間を刺されて、死んだチイ」



 陽世にて闘ってきた三足は揃って息を呑んだ。



「そ、それで陰陽師さんは」ケイキョが慌てたように後のことを訊く。「まさか打鬼棒、で」



「いや」リューシュンは首を振った。「それが当たる寸前に、閻羅王が十八層地獄へと送った」





 全員が、地の上に釘で打ちつけられたかのように立ち竦んだ。

 長い間、誰もそこから動けなかった。





「閻羅王が」やがてリョーマが、息を震わせて言葉を発した。「もっと早くにテンニをやっつけていれば――」



 リューシュンは龍の眼を少し細めた。



「ご主人さまは、死なないで済んだんだ」





 ぐおおおおおお





 リョーマは、空に向かって吼えた。



「閻羅王が早くそうしなかったからだ!」





「リョーマ」リューシュンは、静かに呼んだ。「閻羅王の、せいじゃない」



「閻羅王のせいだ」リョーマは被せて叫ぶ。



「違う。テンニのせいだ」



「――」



「閻羅王は生死を管理する、しかし生死を決めることはできない。それを決めるのは生死簿だ」リューシュンは静かに話した。「閻羅王がテンニを消したのは、テンニが閻羅王に攻撃をしたからだ」



「攻撃を?」ケイキョが訊く。



「ああ。テンニがコントクとジライを狙って投げた打鬼棒が、ちょうどそこに来た閻羅王に当たった。それで閻羅王は怒って、テンニを打ったんだ」



「そういうことに……なるのか、キイ」スルグーンは陰曺地府での光景を思い出しながら呟いた。



「そうだ。だからこれは、テンニの」







「違う」







 リョーマが腹の底から怒鳴って否定する。



「閻羅王のせいじゃないんなら、聡明鬼、お前のせいだ」

 蒼き龍の眼がかッと見開かれ、リューシュンを射抜かんとばかりに睨みつける。



 そしてまた、全員が頭のてっぺんから釘を打たれたように固まった。



「お前がリンケイさまを護らなかったからだ」



「リョーマさん」

「リョーマ」

「――」

 ケイキョとフラとスルグーンが呼び止めるが、誰も「それは違う」とまでは言い切れずにいた。



 リョーマの心中を思えば今、その叫びをとどめることはできずにいたのだ。

 そしてそれは、リューシュンもまた同じだった。





「お前だけが生き残って戻って来て、どうして、どうしてリンケイ様だけが」





 リョーマは、白き龍馬に向け焔を吐かんと龍の口を大きく開いた。







「リョーマ」







 その時、その叫びが龍の耳を打った。

 そしてリョーマは、見た。







 目の前に、待ち焦がれていたリンケイの姿が大きく現れていた。







 その貌は、リョーマが悪戯に庭の草木を薙ぎ倒したり噛み付いて千切ったりした時に叱った時と同じものだった。

 リョーマは龍の眸を震わせ、次にリンケイが言う声をすでに耳に聞いていた。





「やめなさい」





 そしてそう言うと陰陽師は、リョーマの鼻を軽く突き、それからふ、と苦笑した。

 いつも、そうだった。





「リンケイ、さま」





 リョーマは龍の眼から涙を溢れさせ、がくりとその首を垂れた。

「リンケイさま」

 しゃくり上げながら、その名を何度も呼ぶ。

「リンケイさま――リンケイさま」





 戻っては、来ないのだ。

 もはやその姿を見ることも、声を聞くことも、その手に触れてもらうことも、叶わないのだ。



 リョーマは振り仰ぎ、白き龍馬を見た。

 リューシュンはリョーマを黙って見ていたが、ゆっくりと瞬きをした。





「マトウは、どうなったの」リョーマは訊いた。「リンケイさまが護ろうとしたっていう、マトウは」



「無事だ」リューシュンは龍の首で頷いた。「無論、衝撃と悲哀に打ちのめされはしたがな……今も陰曺地府にいる」





「リョーマ」フラが、呼び掛けた。



 リョーマがその方を見る。



「俺は、今のお前の気持ちがどんなだか、判る」フラは言った。「俺も同じ気持ちになった時があったから」



「――」リョーマは、あ、と気づいた風な表情をした。



「その時お前が俺に言った言葉を、覚えているか」



「――」リョーマは少し項垂れた。「ああ」小さく答える。







 スルグーンに仕えたらどうだ







 憶えている。

 自分は確かに、キオウを失ったばかりのフラに向かい、その言葉をかけた。

 そして今なら、痛いほどにわかる。

 その言葉がこの紅き眼を持つ龍馬にとって、どんなに惨い言葉であったのか――



 ちらり、とケイキョを見る。

 自分はリンケイからも言われ、また自分自身でもそう、決めた。

 これからは、ケイキョを主として仕えていくのだと。



 鼬の精霊王はただじっとそこに座ったまま、心配そうにリョーマを見ている。

 決して自分のことを蔑ろにされたなどとは思っていないだろう。



 わかっている。

 今なら、わかる。

 けれど――





「それと同じ事を」フラは静かに続けた。「俺は、言わない」



「え」リョーマは少し驚いて顔を挙げる。



「頭に来たからな」フラは言い、少しだけ笑った。「俺はあの時」



「――」リョーマはまたあ、という顔をし、項垂れた。「ごめん」



「けど」フラは、馬の尾をくるりと回した。「俺も心の中では今、同じことを思っている」

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