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儀式

 森羅殿に向かったのではなかった。


 テンニは、陰曺地府の片隅に身を潜め考え続けていた。
 龍馬の魔焔に焼き焦がされた鬼の体を、回復させる方策が必要だった。

 陰陽師、乃至降妖師の力を借りるしか、なさそうだと思った。
 それを思うと、つい苦笑いが出る。

 自分にとって最大の敵となった者達と、同じ職業の者達を頼らねばならぬという現状にだ。

 だが、だからといって迷ってなどはいられない。

 陽世で陰陽師や降妖師として仕事をしていた鬼どもを見つけ、そいつ等から方策だけを聞き出し、陽世に戻り治癒に当る。
 そういう策に従うべく、テンニは腰を上げた。


 陰曺地府の暗い大気の中、黒焦げになったままの両腕--片方は手首までしかない、それは鼬によって、喰い千切られたのだ--を拡げ、伸ばしてみる。
 灰色の空を仰ぎ見た時、テンニはふとある事に思い至った。


 --ふむ。


 その思いつきに、独り笑いを浮かべる。


 --陰陽師、降妖師ではなく。


 腕を下ろし、焼け焦げた手で顎をつまむ。


 --鬼に頼む、という手もあるか。


 くくく、と喉の奥で笑う。


 --龍馬にやられたものについては、さぞ龍馬を飼う者がよく知っておろうよ。


 元降妖師の鬼は、歩き出した。


 --今度は儂がお前を雇う番だな。キオウ。


          ◇◆◇


 森羅殿に、着いた。


 ジライは、ごくりと喉を鳴らし、殿内に一歩、足を踏み入れた。

 森羅殿の周囲、また内部の壁や天井のあちこちには、いまだテンニの打鬼棒により血と化して流れた鬼どものその跡が、ところどころうっすらと残っている。

 陽世においても兄コントクと共に同様の惨状を目の当たりにしたジライは、眉をひそめた。
 ここでこんなことが行われたがゆえに、鬼どもが恐れ人間たちの世界へと大勢逃げ出して来、そうしてあのような暴虐を働いたのだ。

 許すまじ、という想いが改めて湧き起こる。


 殿内にいる鬼差や小鬼に、閻羅王のいる場所を尋ね、歩く。


 やがてそこに、ジライは独り、着いた。

 閻羅王は玉座に、やはり独りで坐っていた。
 今はもう、傍に仕えるスルグーンはいない。

 とはいえジライにとって、閻羅王を見るのはこれが初めてだった。
 スルグーンという鬼差がいたことなども無論、知らない。

 だが同じ部屋の中にいた、牛頭馬頭のことは知っていた。


 かつて兄コントク、聡明鬼、そして陰陽師と共に、だまくらかしてやったことがあるからだ。
 鼬ケイキョを兄に化けさせ、ここへ連れて来させた。


 --まさか、あれをほじくり返して十八層地獄へ堕とされるということはなかろうな。


 苦笑いしたくもあり、冷や汗を拭いたくもありしながら、ジライは黙って閻羅王の前へ進んで行った。



「ジライ、か」



 地獄の王は、生死簿に目を落として訊ねた。



「はい」ジライは神妙に頭を下げた。「ジライです」

「--」閻羅王はしばらく黙って生死簿に書かれてあることを読んでいた。

 ジライも黙って、待った。

「そうか」やがて地獄の王は目を上げ、ジライを見た。「テンニに、やられたか」

「はい」

「なんと」
「テンニに」
 牛頭馬頭が驚く。

 どうやら、牛頭馬頭を騙したことについては深く問わずにおいてくれるらしい--

 ジライは内心、ほっと胸を撫で下ろした。

「テンニは恐らく、ここへまたやって来るだろう」閻羅王は予測を述べた。「怖いと思うか」

「まさか」ジライは首を振った。「私も恐らく奴がまたここに来るだろうと思ったからこそ、ここへ来たのです」

「--つまり」閻羅王は訊いた。

「私に、地獄の武器をお与え下さい」ジライは答えた。「あ奴を、二度と悪行の働けぬよう叩きのめしてやります」


          ◇◆◇


「髪が、伸びたようだな」庭先でリンケイは顎に手をやり、聡明鬼を検分するかのように眺めた。

「そんなには経ってないだろう」リューシュンは苦笑した。

「まあ、上がれ」リンケイも笑いながら背を向け、先に縁側へ上がった。「ひとまず茶を淹れさせよう」


 新月の空には小さな星々がひしめき合い、賑やかな様相を見せている。

 リューシュンが陰陽師の屋敷に着いた頃には、陰陽師に鬼退治を呼びかける人々の姿もすっかり消え失せていた。
 というよりも、日が経つにつれ陰陽師に鬼退治を頼む人の数さえも次第に減ってきていた。


 それは、あの日以来鬼どもは陽世に姿を見せなくなったからであり、それはテンニが陰曺地府に姿を見せなくなっていたからであった。
 一見すると平穏な日々だが、本当のところはこれがどういう状況であるのか、誰にもはかり知れぬものであるはずだ。

 だが、とりあえず自分の身に危険が及ぶことがないとなると、人はすぐに気持ちを緩め、のんびりと気楽な生活に戻ってしまうものなのだ。

 陰陽師に説明を聞かずとも、リューシュンにも今はそれがよくわかっていた。

 だから敢えて「人が少なくなったな」とは言わずにいた。


 式神の少年が茶を淹れ、運んで来る。


 虫の鳴く音が疎らに聞える庭の片隅、潅木の根元の辺りに、仔犬の坐る影が見える。
 その後ろには、低く身を伸ばした鼬がいる。

 リョーマと、ケイキョだ。

 二匹は今宵、追いかけっこをするでもなくただ大人しく坐り、伏せていた。
 ケイキョが聡明鬼について庭に入って来たことを、リンケイは特に咎め立てたりしなかった。
 寧ろ、リョーマを気遣いやって来てくれたケイキョに、感謝を示すかのように頷いたのだ。

 そして二匹の精霊たちは、潅木の茂みの根元で向かい合い、何か話しているのか、どちらも黙り込んでいるのか、とにかく静かだった。



「三年、か」


 湯呑を持ったまま、ふとリンケイが空を見上げ言った。


「ん」茶をすすりながらリューシュンは陰陽師を見た。「何が──ああ」

 三年、とは、リューシュンがここ陽世において土地爺となってからの月日のことだ。


「お前」リンケイは呼んでから、茶をすすった。「この三年の間、女を抱いた事があったか」

「あ?」リューシュンは眉を寄せた。手に持つ湯呑の中の茶が波立つ。「--ない」口をすぼめて答える。

「そうか」陰陽師は、ふうと息を吹いた。「俺の勝ちだな」

「何がだ」リューシュンは更に眉を寄せた。

「俺は抱いたからだ」

「どうせ精霊の類だろう」リューシュンは陰陽師を湯呑を持たぬ方の手で指差した。

「精霊ではない」陰陽師はまた茶をすする。

「じゃあ式神か」

「──」

「なんだ、図星か」リューシュンはにやりと牙を見せた。

「呆れただけだ」リンケイは湯呑を盆の上に置いた。「じゃあ、そろそろ」

「いや、図星だろう」リューシュンは陰陽師の言葉を遮った。「お前が抱いたのは式神だ。それは女を抱いた事にはならん。お前が自分で」

「もういい。始めるぞ」リンケイも聡明鬼を遮り立ち上がった。「こっちへ来い」


 リューシュンは口をすぼめて立ち上がり、陰陽師について室内に入った。


「これへ」リンケイは、床の一点を指で指し降ろしながら告げた。「坐ってくれ」

「ここ、か」リューシュンは確かめながら、言われた場所へ膝を折り坐った。
 坐ると目の前に、陰陽師が常日頃腰に挿している斬妖剣が置かれてあった。

「うん」陰陽師は答えながら、縁と室を隔てる障子をそっと引き、閉めた。



 閉める間際、もう一度リンケイは、潅木の根元に坐るその小さな影を眸に映した。



 リョーマは、何も言わずにいた。
 何も言わず、ただ坐って、主の--リンケイの障子を引く姿を、見ていた。

 ケイキョも、何も言わずにいた。
 何も言わず、長い尻尾をゆるり、とリョーマに巻きつけた。


 --おいらが、ここにいやすよ。


 そのことを、リョーマに知っておいてもらいたかったからだ。



「今から、俺に呪いをかける」リンケイは言いながら聡明鬼の前に、聡明鬼に背を向け坐った。

「うん」リューシュンは表情を引き締め、頷いた。

「まず、俺が呪を唱える。そして後ろに手を伸ばす。お前はそこから」リンケイは首だけで振り向いた。「坐ったままでいい、俺にその斬妖剣を渡してくれ」剣を指差す。「俺は背を向けたまま、それをお前から後ろ手に受け取る」

「うん」

「それだけでいい」

「え」リューシュンは少し驚いた。「それだけか」

「うん」今度は陰陽師が頷く。「それだけだ」

「--そうか」聡明鬼は眸を少し揺らしたが「わかった」そう言って頷いた。

「何か、訊きたいことはあるか」陰陽師は言う。

「訊きたいことか」リューシュンは少し考え「お前、嫁を娶ることは考えたことなかったのか」と訊いた。

「--」リンケイは少しの間無言で聡明鬼を見、それから顔を少し逸らし「ないこともないが」と答えた。

「なんでもらわなかったんだ」

「面倒だからだ」

「面倒?」リューシュンは眉を寄せた。

「嫁というのは、生きている人間だからな」リンケイは肩をすくめた。「俺には荷が重過ぎる」

「まあ、お前らしいといえばそうだがな」

「お前こそ、嫁をもらわないのか」リンケイの方が訊く。「キオウのように」

「俺は」リューシュンは声をくぐもらせた。「鬼になってからはまだ三年しか経っていないし、そういうのはよく分らん」

「そういうの、とは」

「つまり、男と女がどうこういうようなことがだ」

「なるほど」リンケイは顔を前に向け、頷いた。「お前はまだ、子供だったんだな」

「--知らん」リューシュンはますます声をくぐもらせた。

「他にはないか」リンケイは前を向いたまま問うた。「訊いておきたいことが」

「--」リューシュンは陰陽師の、黒く艶を放つ髪を見た。「戻って来れるのか」呟くように訊く。

「--」リンケイは少し置いてから「いや」と答えた。

「--」リューシュンは目を落とした。

 斬妖剣が、そこにある。

「そうか」リューシュンは、言った。

「始めるぞ」

「うん」


 リューシュンは、待った。
 まず陰陽師が、呪を唱える--


「そうだ」だがリンケイは顔を上げ、また上体だけ振り向いた。

「何だ」リューシュンは片眉をしかめた。



「リンケイ」陰陽師は言った。「俺の名だ」



「--」リューシュンは目を丸くした。



 リンケイはそれきり微笑んでいる。



「あ、リ、リューシュン」聡明鬼は慌てて返した。「俺の名は、リューシュン」

「リューシュン」リンケイはただ一度呼び、「ではな」と再び背を向ける。

「リンケイ」リューシュンはその背に向かって呼んだ。

「オボチススヂマヂチウルヂ」リンケイは答える代わりに呪を唱え、後ろに手を伸ばした。

「リンケイ」リューシュンはもう一度、声にならぬままその名を唇にしながら、斬妖剣を片手に握って差し出した。

「リューシュン」斬妖剣を受け取りながら応えるリンケイの声もまた声にならなかったが、その囁きは聡明鬼の耳に確かに届いた。


 風が起こった。




 ざあああ




 その音を、リューシュンは知っていた。
 よく聞く風の音だ。
 そう--


 陰陽界に吹く、大気の動きではない風の音だ。
 穢れの地府の扉が、リンケイを呑み込むため口を開いたのだ。


 リューシュンが瞬きをする暇もなく、陰陽師の姿は消えていた。

しおり