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治癒

「閻羅王さま」牛頭が牛の顔を真っ青にして叫んだ。「鬼差どもが、こちらへ向かって来ます」



「向かって来る?」閻羅王は生死簿から眼を上げた。「何ぞ儂に用向きでもあるのか」



「い、いえ」馬頭も馬の顔を青くしている。「閻羅王さまを捕えよ、との声が挙がっております」



「--儂を?」閻羅王は眉根を寄せた。「鬼差どもがか? 鬼差どもが儂を捕えると申すか」



「は」
「はい」牛頭と馬頭は牛と馬の頭を下げ答えた。



「彼奴らは何をとち狂うておるのか」閻羅王は訊ねた。「儂を怖れることを忘れたというのか」



「さきほど聡明鬼が叫んでおりました、打鬼棒というものでございます」牛頭が、恰も自分がそれによって打たれたかのように顔をしかめた。



「打鬼棒……ああ」閻羅王は思い出して頷いた。「その棒がどうしたのじゃ」



「それを手にしているテンニという元降妖師が鬼差どもを、閻羅王を捕えねばその棒で打つと、脅しているようです」馬頭が馬の顔を憎悪にしかめて答えた。「それゆえに鬼差どもがとち狂うております」



「ふむ」閻羅王はふたたび生死簿に眼を落とした。「その棒、十八層地獄よりも恐るべきものであるというのか」



「--」牛頭も馬頭も、答えることができずにいた。



「来たければ来るがよいわ」閻羅王の口調は飽くまで静かなものであった。「ここ陰曺地府というところの在り方が、昨日今日で培われたものではないということ、簡単にそれを崩したり変貌させたりするなど到底かなわぬことを、とくと知らしめてやろう」



「は」
「は、はい」牛頭と馬頭は揃って首を垂れたが、そうかといって自分たち従者が閻羅王の身の保護を怠ってよい理由など微塵もなかった。



 二足は武器を取り、閻羅王の居室の入り口付近に仁王立ちした。
 彼らの下に仕える妖鬼や小鬼たちも、武器を取らせ入り口の外に侍らせてある。



 迫り来る鬼差ども、鬼とはいえ決して闘いに慣れては居らぬ差官どもだ。
 牛頭馬頭の名にかけて、この室に一歩たりとも侵入させるなど決してあってはならなかった。




          ◇◆◇





 今思えば、父と母は大層仲の良い夫婦だったのだろう。



 厳密にはいろいろと互いに不足を覚えることもあったのかも知れないが、傍から見れば常に寄り添い、協力し合い、助け合い、支え合い、さまざまな問題や試練というものを共に乗り越えて行く、素朴ながら幸せな家族であったのだろう。



 あるいは相性というものに恵まれていたのかも知れない。



 そういえば、ついに二人の生命天宮図を作ることはなかった。




 --とんだ親不孝かも知れぬな。




 リンケイは、目の前の鬼の夫婦--キオウとスンキを見ながらふとそんなことを思った。
 子供であった目と今の自分の目とでは、また自身の両親である夫婦を見る目と赤の他人である夫婦を見る目とでは、見方が違うのは確かであろう。



 わかってはいるのだが、今目の前にいる鬼の夫婦の姿の上に、幻のごとく自分の父と母の姿が写しだされているような気がするのだ。
 さらには、陰陽師であった父が筆を取り生命天宮図を描く傍らでそれに見入っている幼少の頃の自分、その姿をまるで上天から俯瞰するかのように眺めている気持ちにさえなる。




 --懐かしいが、しかし何故今このような気分になるのかな。




 リンケイは微笑みながらもそう思った。



 思ううちにも、病に倒れた父と母の、最後に見た姿--並べ敷かれた布団に横たわる姿が脳裡に蘇る。



 病の治癒を頼まれ足を運んだその依頼元の家で、二人は同じ病をもらい倒れ伏したのだ。



 リンケイはそれから、移る病であるからと言われ、父の友である別の陰陽師の家にしばらく引き取られることとなったが、ほどなくそのまま父と母が鬼籍に入ったことを人伝に聞かされたのであった。




 --ああ、そうだ。




 リンケイは思い出し、天を仰いだ。
 空は青く、薄い雲がいくつか掛かり、陽は西に向かおうとしているところだ。
 間もなくその方角から龍馬が、背にコントクとジライを載せ飛び戻ってくるはずだ。




 --その、預けられた先の家で、リョーマに出遭ったのだったな。




 その家の庭である日仔犬を見つけ、家人に訊ねても飼ってはいない、捨て犬だろうと言われたのだが、何故か自分に妙に懐いてくる。
 特に嫌でもなかったし同じ年頃の子供もいない家だったので、その犬を遊び相手と考えるようになったのだ。
 不憫に思ったのかその家の主も禁ずることなく、それからその犬はリンケイの傍にいつもいるようになった。




 --では俺はあの時、やはり心が折れかけていたということなのかな。




 実のところ両親の死というものをその時の自分は、その年齢にそぐわずそれほど理不尽と考えたりしなかった。
 それは常日頃から、病についての知識、認識を培われていたからだろう。
 病の治癒をする以上、同じ病に罹ることはあり得るのだと、リンケイは実際に両親が倒れたとき既に知っていた。
 なので両親が死んだと聞いた時にも、治癒よりも病の方が疾かったのだなと考えた。



 しかしそのような理屈とは無関係に、本来ならば自分は自らの感情に押し流され押し潰されしてもおかしくはなかっただろう。



 その時すでに、リョーマは傍にいた。
 いて、くれていた。
 だから、心がすっかりへし折れてしまうということにはならなかったのだ。



 そういう記憶が、自分の中にはないのだ。




 玉帝が、差し向けてくれたのかも知れない。
 リョーマを、自分の許へ。
 或いは、父母が。




 --俺の生命天宮図を作ってみれば、そういうことがすべて描かれているのだろうがな。




 眼を閉じ、大きく呼吸をして顔を地に向け戻す。




 --まあ、金輪際そんなもの作る気にはならんが。




「陰陽師」




 叫ぶ声がすると同時に立ち上がっていた。
 振り向くと、聡明鬼がその腕に小さな動物を載せ走って来るところだった。




「スルグーン?」リンケイは眉を寄せた。




 奇獣は大量に血を流し、聡明鬼の腕からそれは滴り落ちている。
 猫の貌は苦しげに歪められており、嘴は小さく震えている。




「テンニに、やられた」聡明鬼はぜいぜいと肩で息をしながら、リンケイの方にスルグーンの小さな体を差し出した。「急いでこいつを助けてやってくれ」



「承知した」
 リンケイは素早くスルグーンの全身に眼を走らせ、傷の位置が脚の付け根であること、出血の状態から急所を僅かに外れていることを読み取り、まずは止血の為の薬葉を早急に用意する、などの手順を咄嗟に組み立てた。
「それへ」
 背後の、上面が平らな岩を指差す。
「ケイキョ」声を高め、電光石火のごとく走り寄る鼬に「ムイと、シノブノハを採って来てくれ」指示をする。



「へい」鼬は先に姿を消し、声だけが後からそう返事した。



「俺は何をすればいい」リューシュンもまた叫ぶ。「何を採ってくる」



「まずは事情を話せ」リンケイは飲み水とは別の竹筒から水を手に振りかけ、それからスルグーンの傷にもかけた。




 チイイイ




 弱いながら、奇獣が苦痛の声を挙げる。




「俺の声が聞えるか」リンケイは言葉を掛けた。「お前の名を言え」



「--ス」雷獣は泣きべそのようなか細い声で答えた。「スル、グーン」



「これがスルグーンか」キオウが瞬きも忘れて初見の幻獣を見下ろす。



「初めて見たわ、こんな--」スンキも口を抑えながら、驚きを隠せないように言った。



「もう一人のスルグーンは、やられた」リューシュンは自分が傷みに耐えるのような声で話した。「テンニの打鬼棒に、あいつ自分から進んでいきやがって--その後すぐに、こっちのスルグーンが現れたんだ」



「陰曺地府に?」リンケイは聡明鬼を見上げて訊き返した。「龍馬の入れない天心地胆に、こいつは入れるのか」



「いやな、所だチイ」スルグーンは眼をぎゅっと瞑ったまま低く呟いた。「気分が、悪かったキイ」



「陰陽界がか」リンケイは見下ろし、少し笑った。「けどいいな、俺も行ってみたいところだ」



「またそんな事を」リューシュンが首を振る。「趣味の悪い」



「しかし、鬼差のスルグーンがやられたとなると」キオウが言葉を継ぐ。「閻羅王はこの先、どうなるのか」



「別に、案ずることはないさ」リューシュンは肩をすくめた。「閻羅王本来の、理屈もへったくれもねえ力ずくのやり方でねじ伏せてお終いだ」



「なるほど」リンケイは頷いた。「打鬼棒など、恐るるに足らぬというわけだな」



「あいつは打たれたりしないさ」リューシュンは考え深そうな目をして言った。「あんな、テンニごときに」





「採ってきやした」ケイキョが言われた植物を尻尾に巻きつけ走り戻って来た。




「ご苦労」リンケイは手早く止血と鎮痛を施し、次なる薬草をケイキョに告げ、採りに走らせた。



「リョーマは、どこに行ったんだ?」リューシュンが辺りを見回して訊く。



「コントクとジライを呼びに行かせたんだが……そういえば、遅いな」リンケイは空を仰いだ。



 陽は当然ながら先刻よりもさらに西側へ傾いている。



 リンケイは指を唇に当て、眼を閉じた。
 低く呪を唱え、それから口を閉じ何かを静かに聞き取る。




「鬼どもが、陽世に押し寄せて来ているらしい」リンケイはやがて言った。



「鬼どもが」リューシュンとキオウが揃って慄然たる叫びを発し、スンキは息を呑んだ。



「恐らく、打鬼棒から逃れんがためだろうな」リンケイは唇から指を離した。「キオウ、フラを使えるか」



「ああ」模糊鬼は、従者である黒犬を見下ろした。「フラ、俺と聡明鬼を載せていってくれ」



「鼬もな」リンケイは付け加えた。



「ケイキョも? けどあいつ、鬼と闘うことなんかできないだろう」リューシュンが問う。



「智恵がある」リンケイはにやりと笑った。「いち早く逃げ道を見つけるためのな」



「わかった」リューシュンは少しだけ苦笑してのち、キオウと共に龍馬に戻ったフラの背に跨った。



「気をつけて」スンキが夫と元の主に地上から声をかける。




          ◇◆◇




 閻羅王は杖を取り、狂った鬼差や鬼卒どもの攻め来るのを待った。
 だが閻羅王が出るまでもなく、牛頭馬頭によりそれらは次々と打ち倒され、床に這いつくばり、とても閻羅王に一矢報いることなど叶わずにいたのだ。



 しばらくの間は閻羅王自らも立ち、闘う用意をしていたが、やがて再び座にどかりと腰を下ろした。



 そのあいだにも、牛頭と馬頭の三叉に叩かれ気を失ってごろごろと床に転がる鬼差たちは増えていった。



 閻羅王は気絶した差官のうち、働きの悪かった者や閻羅王への反発を露わにした者などを選び、生死簿に書かれてあるその者らの生前の名のところに十八層地獄行きと記していった。
 記された鬼は無論その通り、気絶したまま十八層地獄へと堕ちていった。
 目覚めた先は真の地獄だ。
 そこで彼らは、自分のなした所業を大いに悔やむことだろう。
 だがすべてはもはや遅きに失しているのだった。



 降妖師テンニを同じく十八層地獄に送ることも、容易いことではあった。
 だが十八層地獄にも鬼はいる。
 そこを滅茶苦茶に引っ掻き回されては、それこそ地獄の王の沽券に関わることになる。



 まずは打鬼棒とやらいう小賢しい得物を取り上げ始末してからだ。




 さらにしばらく待った。




 やがて鬼差どもの迫り来る数が減った。




 --来たか。




 閻羅王は察したが、まだ立たずにいた。



 牛頭馬頭が、打鬼棒とどう闘うか、それを見てみることにしたのだ。
 或いは打鬼棒の弱みとでもいうものが垣間見えるかも知れない。



 逆に牛頭馬頭が打鬼棒に打たれ消えてしまえばその時は、閻羅王にとって絶体絶命の危機が訪れることになる。



 だが閻羅王に、自分が血となって流れる場面などまったく思いつく頭もなかった。




 ゆらり、と鬼灯のごとくに現れたその新参鬼は、片目を失っていた。

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