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家主がしつける黒猫と花束 前

俺が借りているマンションの出入り口に、黒猫がいた。
石畳の上に座っているから、この夜更けでも気が付いた。緑色の目。綺麗なものだな。

可愛い声で誘うので、ついつい屈んで人差し指を鼻につけた。嗅いでる、人懐っこいな。
飼い猫かな、迷い猫。
誰かが探しているんだろう、撮影してTwitterに上げたらこの猫は助かるんじゃないか。
SNSをやらない人は少ないし、探しているならTwitterで呼びかけていそうだし。
目に留まればいい。人助けならぬ、猫助け。
スマホを向けたら膝にすり寄る。
あれ? もしかして野良猫かな。餌をねだる感じがする。
夜更けで判別しなかった体にスマホのあかりを照らした。毛並みがいい。
迷い猫なら食べるのに困って痩せる。この猫は丸々と肥えている。野良だ。
しまったな、スーツの膝に毛がついていそう。
これ、ウール混の素材だからクリーニングに出しても落とせるかな。まずい。

しかし、野良猫と分かった途端に慌てる俺は、何か差別しているかな。可愛いけど構ったらダメだ。
寄り付かれてもマンションでは飼えないし、面倒なんて見てあげられない。
どう振り払おうか。
それに、どうしてこんなところにいたんだろう。
誰かが餌を与えていなければ寄り付かないだろうに。こんな寒空に置いておくなんてやさしさじゃない。


「きみか。その野良猫に餌を与えているのは。おかげで住み着いたぞ」
靴音が近づいてきたのは分かってた。
だが、声をかけられるとは思わなかった。しかも疑惑。困っているのは俺もそう。
「餌はあげていませんよ。今、たまたま見かけました」
失礼だな、見上げると背の高い男性が立っていた。スーツにネクタイ、俺と同じサラリーマンか。
「猫の気持ちを考えろ。気の毒だと思わないか」
「だから」
「構ってくれる人がいると思えば住み着くぞ。面倒見れるのか。それとも寂しいのか、きみは」

月の光を背に受けた黒いコートが風にそよぐ。その風は屈んでいた俺にも吹き付けた。甘い香りもした。
ぱたぱたと擦れるかすかなセロハンのような音もする。

「立ちなさい。いつまで構うんだ。寂しいのは自分だけだとでも思うか。癒されたいか」
威圧を感じて立ち上がると、俺より背が高い。
は? 俺だって175はあるぞ? 気圧される。
ただでさえ、言い方と身なりから圧があるのにこれは歯向かえない。
早く部屋に戻ろう、相手にしたらいけない、これ以上何を言い出すか分からないぞ。
「きみも会社員か。なら分かるだろう。最低限の社会のルールを守れ」
「分かってますよ。さっきから言ってますよね、餌はあげていません!」
「聞いたよ、それは。構うな・と言っているんだ。面倒をみられないなら相手にするな。残酷だ」




「こんな夜更けに野良猫を構うなんて、さぞや時間を持ち余しているんだろう。羨ましいくらいだ」
初対面の人間にそこまで言われる筋合いはない。苛立つ。何だ、この人。
「何時だと思う? もう21時をまわってる。普通の人間なら家でテレビを観るかネットで遊ぶ」
ずけずけ言う。そういうあんたこそ何してんだ。
「LINEもあるな」
ふざけてる。
「帰ります。もう構いませんから安心して下さい!」
「待て。その服に黒い毛がついてるぞ。払うんだな。野良猫の体にはよくない菌が付着している」
「はっ?」
知らない、なにそれ。
「まさか舐められたりしてないよな」
何? まずいの?
「きみは子供の頃に、ご両親から躾されていないのか。普通は野良猫に触らないぞ」
げ、かなりまずそう。
「部屋に帰ったら洗浄。何度も洗えよ。ああ、あと。きみ」
「何ですか」
「いつか顔を見たら言おうと思ってた」
知り合いか? いや、この顔を見たことはないぞ。
「ごみを前日に出すな。知ってたぞ。同じマンションの住人だから」
はあ?
「言動に気を配れ、地域に迷惑をかけるな。野良猫よりも住処を失くしかけた寂しん坊が」
「あなた、よくそこまで言いますね」
「見抜けるよ。きみより大人だ。何より夜更けに縋るものがいないなんて、何を見失っているんだ」



「きみに構う時間が惜しい」
なら帰れ。
「しかし言いたい事は腹に積もっている」
まだ何かずけずけと言いたいのか。あんたこそ暇だろ。
「拾うかな」
「は?」
このマンションはペットが飼えないはず。
それに散々、この野良猫を完全否定したぞ。何を言い出した。まあ、飼うなら黙っててもいいけど。
「行くぞ」
俺?
「ついてこい。このまま背を向けて部屋に戻っても、きみが気がかりで窓を眺めそうだ」
「何を言っているのか。俺もこのマンションに」
「きみを構った責任を感じている。顔を見たら叱りつける気でいた。だが夜風に吹かれるきみは哀れだ」
よくまあ言うよ。
「荷物を預ける。来なさい」
差し出されたのは花束だ。なにしてんのこの人。
「煩わしいものを持たされて気が立っていた。丁度いい」
おい。押し付けたのか。
「へえ? きみはなかなか花の似合う子だな。今にも手折れそうだ」
誉められた気がしない。馬鹿にされてる。
苛立つのはこっちだ。
初対面の人に、ここまで言われる筋合いはない。
「それも逞しい雑草ではない。常に水を替え、光を注がないと生きられない手間のかかる花だな」
「お暇なんですね」
「時間は惜しいよ。だからついて来いと言っているんだ。まだ1人で寂しさに浸りたいなら別だがな」


マンションのエントランスに入ると、暗闇から抜けたせいか照明の眩しさに目が眩む。
思わず靴の先を鳴らすと「しっかり歩け」と見返った。
うわ、結構な男前だったんだ。
暗闇では輪郭がぼやけて、鼻筋は通っているとは思ったが。
幾つくらいだろう。25才の俺よりはるかに年上だよな。アラサー?
俺と同じ黒髪だけどセンターパートで清潔感があると言うか凛としてる。役職に就いてる感じ。
「何を見てる?」
「いいえ、何でもありません」
苛立つ言い方をする。絶対にこの圧力は幹部職。
「しかし。似合うな、きみは。黒髪のセミウエットウエーブに、ピンクと白いバラの花束か。華やかだ。叱る気が失せそうだ」
本気でまだ何か言うつもりだったのか。
まあ、花束を抱えてついていく俺も変だけど。
この花束が高価なものだという事くらい、あまり花に興味のない俺でも分かる。
薄いものと濃いピンクのバラに混じって、水色とピンクがマーブル状に染まる白いバラ。
滅多にお見かけしない。
「レインボーローズだ」
「はあ?」
「エレベーターに向かうのが先だ。乗ってから存分に花を眺めたらいい。さっさと歩け」
「はい、」
あ、気圧された。
しかし腕に抱えた花束が香しい。俺は何処に連れていかれるんだ? この香りの持ち主に。


「鷺宮(さぎみや)だ。きみの名は?」
エレベーターに乗った途端に名を聞かれた。
その前に降りる階を聞くのが先だろ。
「俺は5階で降りるんですけど」
「名前を聞いているんだ。きみは私の部屋まで連行だ。話を聞いていないのか。花束抱えているくせに」
ぐう。負けてる感が強い。この圧はなんだよ。
「相楽(さがなか)です」
「下の名は?」
「必要ですか?」
「聞いているんだ」
もう嫌。
「彩矢(さや)ですけど」
「悪くないな。名前を付けてくれた親御さんに感謝しろ。名前にふさわしい器量だ」
は?
「しかし素行が悪い。将来が不安。先行き不透明。そのうえ寂しがり。どうして一人暮らしなんだ」
散々だ!
「俺の事情はどうでもいいですよね!」
「良くない。きみは今、何処へ向かっていると思うんだ。見当すらつかないか。随分上昇しているぞ」
ああ、言われてみれば。って?
「何階まで行くんです? その押したボタン、」
「目も悪いかと思ったぞ。25階だ」
それってまさか。
「このマンションのオーナーは私だ。素行の悪い小僧が居ると耳にしていた。きみだろ。相楽彩矢くん」



ドアを開けて「先に入れ。そしてそこで立ってろ」と背中を押されて足元がおぼついた。
「何度言わせるんだ。しっかりしろ」
あんたが押したからだ!
「そこで待て。今、2回も言ったから分かるな? 動くなよ。野良猫の毛が落ちると災難だ」
もう俺が災難だ。事故だ。
「まず、これで毛を取れ」と、コロコロを渡された。ああ、でも花束は?
「足元にでも置けばいい。最優先は、きみが不用意につけた野良猫の毛だ。蚤がいたらどうする」
ああ、そうですよね。
は? でもこれ、お高い花束ですよね。
「もう1回言うべきか、相楽彩矢くん。どうも利口ではないな。その器量で損している。お先真っ暗だ」
悔しい!
「早くしろ。そして毛が取れたらバスルームへ行け。手を洗浄したのちシャワーで頭の毛も洗え」
徹底過ぎ。
「いつまで花束を抱えているんだ。そんなに好きか。似合うが私の言う事を聞きなさい」
帰りたい。
「好きならあげよう。きみに似合うしふさわしい。だがきみの最優先は何だ。言えるな?」
「帰りたいです」
「残念な若者だ。寂しさ抱えて寒空の下で野良猫と戯れるだけの事はある。きみは何がしたいんだ」
「ですから!」
「素行の悪い20代。実家に帰れ。だがその前に説教だ。きみはまだやり直しが効くはずだ」
はあ?
「わざわざきみを招き入れた意味がある。きみは器量がいい。生きていくうえでの武器になる」
「何を言っているのか分かりませんが」
「頭の回転も悪そうだ。躾もなっていない。どうしたものか。とりあえず」
なに?
「言葉で痛めつけてどん底に落とそう。決めたぞ。さあ、早く動け。時間が惜しいと何度言わせる」
動けるか馬鹿野郎。

押し込まれたバスルームで髪を洗ったらタオルと着替えが置いてあった。新品だよな?
何か怖いんですけど仕方ないか。
手招きされて向かったリビング、広くない?
俺の部屋の倍はある。2部屋分なのか。じゃあ14畳くらい?
それにモノクロの色彩、ソファーもテーブルも黒だけど、壁は白い。緊張感が増す。怖すぎる。
「ふうん。なかなか似合うじゃないか。あげるよ、きみに」
こんな袖の長いニットソーなんて若い子が着るだろ。あんた幾つだよ。どうしてこんなの持ってんだ。
「スーツを脱がせて着せ替えたら、こうも見目が麗しくなるとはな。良かったな、器量よしで」
あんたさっき散々。
「違うなよ。きみの才能ではない。親御さんに感謝だ。分かるか、その足りない脳で」
「いい加減に」
「やかましい」
もう嫌だ。
「コーヒーでも飲むか」
あら?
「もう入れたがな」
じゃあ聞くな。
「今から言う事を理解したら、ご褒美をやろう」
子供かよ。
「聞いたぞ、きみの隣人から。夜中にピザのデリを頼むらしいな。どうかしてるのか。太るだけだ」
「個人の嗜好ですよ」
「ほう。嗜好。言葉を知っていたか。少し見直した。だがな」
猿とでも思うかな、なんか最低。
「隣人の迷惑を考慮しろ。22時なんて眠る時間だ。インターホンが鳴れば気が散るだろう。分かれ」
ああ、そうなんだ。
「まあ、きみは21時に野良猫を可愛がる暇人で睡眠をそっちのけるような社会人としての器を問うが」
畜生、苛立つ。
「しかもピザ。そんな時間に高カロリー。折角の可愛さが二十顎になって大損害だ。体重計に乗れ」
「体重は変わりませんよ」
「成程、流石は20代。しかし、今だけだ、代謝がいいのは。直に蓄積された脂肪がきみを覆う」
ええ?
「将来を見据えない苦々しさ。若いからといえど許し難い。親に謝れ器量よし。躾けてやる覚悟しろ!」
「いいか、よく聞け。罵倒してやる」
前のめりになってまでどうした。
「この黒猫。可愛い顔してとんでもない不躾さ。さぞや会社で粗相を働いているんだろう」
「何ですか、関係ありませんよ!」
「見れば分かる。聞けばさらに理解が深まる。言葉を操れないのは猫なみだ。むしろ鳴く猫の方がいい」
猫ってあんた。
「いいか、よく聞け可愛い黒猫め。家賃は誰が払っている。まさか親の仕送りではないだろうな?」
あ。
「そうだろう。ここの家賃は相場の2倍だ。きみの給料が幾らか知らないが払えるとは思えない」
知ってるなら聞くな。
「威嚇するな、愛くるしい黒猫!」
「人を何だと!」
「やかましい」
ひい。
「何のために働いているんだ。国民の三大義務を言ってみろ。そのひとつは確かに遂行しているが」
なんだったかな。
「新聞すら読まないだろう。把握している。ネットニュースで流れてくる都合のいい情報しか見ないな」
まあ、そうだけど。
「テレビもみていないだろう。NHKの集金が来ないだろ」
テレビないから。パソコンで十分。
「どうやって政治経済を学ぶんだ、愚か者。会社で何をしている。おやつの時間が恋しいんだろう」
はい。
「聞いて知っている。お取り寄せしているな。箱ばかり捨てて。しかも収集日以外にだ。曜日を知れ」
出さないとたまるし。
「曜日感覚がないのは野良猫なみだ。毎日何を考えて無駄に生きているんだ、それで寂しがりか」
「無駄ではありません!」
「逆らうな、勢いだけだろう。苦情が来ているぞ、夜中に洋楽を聞くな。部屋中に流すな、迷惑だ」
壁が薄いんだろ。


「曲も分かるぞ。駄々洩れだ。有名どころだからな。誰でもご存じだ。はた迷惑の意味を知れ」
へえ、すごいな。
「何がグリーンデイとオアシスだ。片方分かれているだろう。黒猫、きみの安息所は耳を疑う」
別にいいじゃないか。
「きみにマイノリティは許されない。意味が分かってない。辞書をひけ。和訳してみろ」
知らなくてもノリで聞くし。辞書もない。
「日がな音楽とスイーツと呆けた言動で過ごすとは。親が泣く隣人が迷惑、私も追放したい」
「退去を要求するのはおかしいです」
「何がおかしい。黒猫、きみがとち狂っているんだ。住居している人の快適な生活確保が最優先」
「あなたの都合です」
「ああ、確かに私の都合だな」
あ、勝った。
「よくぞ逆らう黒猫!」
「ひいっ!?」
「壁に爪を立てるようにオーナーに屁理屈立てるとは勘違いも甚だしい」
怒ったか?
「もう勘弁ならん。世間を欺くとんだ可愛い黒猫め。きみは今日からここで暮らせ」
「はああ?」
「言った。2回も言わせるか。きみは退去だ。部屋を明け渡せ。それが住民の快適な生活を保つ手段だ」
「困ります!」
「やかましい。どうせ叫ぶなら可愛い声で鳴け、この器量よしの黒猫が。今日からきみを飼うからな!」
バン! とテーブルを叩かないで下さい!
あんた幾つですか! 年下威嚇して何が楽しいんだ!

「盛りの時期か? 猫は春じゃないのか」
食えない人だ。
「暴れて騒いで可愛くない。折角の美麗さがきみの歪んで甘えた性格で台なしだ。大損だ。親が嘆く」
「帰る!」
「まあ、食べなさい」
何か出してきたけどたべられる状況か。
「餌を与えないと懐かないのは承知の上だ。歓喜しろ。きみの好物のはずだ」
はあ? あれでもこれ。あらら。
「R・Lのワッフルだ。一口サイズだからこの時間でも許そう。ただし、1つだ」
でも3つある。
「バニラカスタードとレアチーズ。ティラミス。選びなさい」
全部欲しい。
「聞いてるか彩矢。凝視するな。1つだ。きみを太らせないからな」
いきなり名前呼びか。馴れ馴れしい。
「毛を逆立てるなら与えない。とんだ野良猫。全部欲しがるとは飢えているのか。肥えたいのか」
「半分ずつ」
「どん欲だ。明日からはもっと与えてやる。但し、私の言う事を聞けばだ。分かるな」
「何をしたら全部くれます?」
「きみの固執は呆れる。曲がった根性を叩き直す。だが、今日は許そう。明日の早朝から引っ越しだ」
今何て。
「半分寄越しなさい。私が食べる」
ああ、そうですか。あんたもスイーツ好きですね。
「じゃあ、レアチーズ」と手に取り半分にちぎった。
「鷺宮さんどうぞ」
「またチーズか。懲りないな。どうもきみは破滅の道へ急行している。加速だ。食い止めねば」
自分で出したくせに今更なんだ。
は? 手首を掴まれて差し出したワッフルを食べられた。指、舐めましたよね? 殴ろうか。


「甘い。よく食べられるな。しかし、きみから甘い香りがする。へえ? 楽しくなりそうだな」
「俺はちいとも思いません」
「美味しくないのか。人気があるんだぞ。しかも季節限定の味だ。文句を言うなら手を出す」
「もう、指舐めた」
「指で済むか。分かれ20代。言う事聞かないと叩く。躾には慣れているからな」
怖い。
「怯えるな。手を出すくらいだ。言う事聞かなければな」
警察に相談しよう。
自信満々なこの人、絶対に事情聴取させてやる。
「聞いていないな、このうつけ者。落とすぞ」
もう嫌だ、帰る。
しかし、こんな男前に宣言されて脅されても悪い気がしない。
そんな自分が恐ろしい。
「躾には飴と鞭だ。貰い物だが有効に使えたようだ。存分に飼いならす。思うままに再教育だ」
飼うとかなんだ。
苛立たしい、だけど男前。それに年上。細身の体を見ていると妙に高ぶる。
「確信したぞ、黒猫」
「なにが」

「黒猫。きみはエントランスでも私に見惚れたよな」
げええ。口元に笑みを浮かべて見つめるか?



「気付かないほど、呆けていない。自信があるからな。そうでなければここまで生きていない」
「自信過剰です」
「見透かすのは得意だ。そういう目線に慣れている。さて、きみをどうするかな」
確かに男前だけど根性が曲がってる。遍歴が酷そう。
これ以上、なにする気だよ。
「悪くない気分だ。可愛がって躾のし直しだ。言う事聞かすぞ、全力を惜しまない。腹をくくれ」
「気味が悪い」
「そうか。まずはその口を塞ぐかな」と圧し掛かられてキスされた。げえ!
顔が近い、しかしますます男前。こんな整った顔した人は滅多に見かけない。
「間近で見ると愛おしさが増すな、黒猫。可愛い顔に産んで貰えてよかったな、親に感謝しろ」
「そればっか」
「そして私に感謝しろ。そうだな、決めたぞ」
まだ何かあるのか。
「仕事は怠るな。だが行きも帰りも、この部屋が1日の始まりだ。挨拶、礼儀は叩き込む」
げええ。
「スイーツの取り寄せはさせない。きみに自由はない。私が与えよう、飼い猫だからな」
自由の有難みが。
「衣服も支給する。私が決める。きみの好みだとだるだるのサルエルパンツだろう。聞いたぞ」
「誰に」
「股下が判別できない姿で階段を下りて転んだらしいな。何がしたいんだ。理解に苦しむ」
個人の自由だ。怪我したけど。
「猫は着地が上手のはずだ。可愛い黒猫。きみは誰かが面倒を見ないと人生転落だ。目に見えている」
言い過ぎだ。
「ああ、失言した」
理解したか!
「もう既に転落していたな。拾い上げてやったぞ。もう深夜を徘徊するな。老いてからやれ」
「人を何だと、決めつけすぎだ」
「黒猫。もう手配したから。荷下ろしの手伝いくらいしろよ?」
なにが。
「この部屋に引っ越し。もう言った。2回目だ。部屋にあるもの全部持ち込め。きみを抱え込んだ」
土曜日の朝9時にインターホンが鳴り、起こされた。何だとドアを開けたら青い服の笑顔の作業員。
「どちらさま?」
「本日はよろしくお願いします」
「だからなに」
「荷造りは承ります。失礼します」とぞろぞろ3人も。おいまてなにごとだ!

「おはよう黒猫。今何時だと思う。寝すぎだ。顔がむくむ。親御さんも私も失望の念を抱く。着替えろ」
黒いロングニットのカーデにスキニーパンツ。あんた本当に幾つだよ。
ドアに寄りかかるな、まだ俺の部屋だ、図々しい。
「まず、挨拶をしろ」
「おはようございます」
畜生。
「迎えに来たぞ。感謝したまえ。動物愛護センターに送られず保護されたことに感涙しろ、野良猫」
「頼んでません!」
「朝から勢いがいいな。流石だ。腹が空いたか。餌は与える、ほら」
え? それ何ですか? お皿に何乗せてます?
「フリッパーズの奇跡のパンケーキだ。特別にテイクアウトした。早くしないとぺしゃんこだぞ」
えええ! スフレパンケーキ!
それまだ食べたことがない!
「ほら、これを着なさい。そうしたら食べさせる。顔も洗え。手で拭ってごまかすなよ黒猫」
投げつけられた服、これ。またこれあんた本当に何才だ。
スタンドカラーのパーカーにアンクルパンツ。何でこんな服を持ってんだ。
「呆然自失か。非常に手がかかる。面倒だ」
え?
「このまま連行だ。皿を持っていないと食べ損ねるぞ」
ひょいと抱きかかえられてしまった、痛恨の極み、何してくれるんだ!
「暴れると落とすぞ。いいのか。私は一向に構わないがな。きみは後悔する。悔やむ生き方は勧めない」



部屋に連れ込まれてソファーに投げ落とされた。扱いが酷い。おかげでパンケーキを落とした。あんた!
「ほう。睨みつけるとは威勢がいいな。まだ己の立場を理解していない。何故だ。脳が機能しないか」
「パンケーキが!」
「きみの大脳新皮質と海馬の機能さえ疑う。近日病院へ連れ出そう。安心しろ。動物病院ではない」
「俺は動物じゃない!」
「自覚しろ。猛り狂う可愛い黒猫。去勢手術と予防注射が必要か?」
またキスするのか、発情アラサーめ。
「きみにいちいち欲情するほど、相手に困ってはいない。自分を知っている」
この人自信過剰。だけど確かに男前。
勝てる気がしない。
「気を削いだようだな。分かりやすい。私に想いを寄せようとも無駄だ。小動物は想定外だ」
「俺だって」
「惚れてるだろ」
は?
「見れば分かる。言う事聞くものな。普通は抗うだろう、こんな事されたら」
「無理やり連行してるから」
「言えば言うほどぼろが出る。言葉も感情も操れない可愛い黒猫。鏡見るか? 耳まで赤いぞ」
そんなはずがない!
「危惧するな。可愛がって突き落として痛めつけて体裁を整えてやる。私が責任を持つ」
いやだすごく。
「項垂れるな。きみは器量がいいと何度も言った。そうでなければ構わない」
あれ?
「まさに花束の似合う美しさだ。見惚れたぞ。だからここまで背の高いきみを運んだ。二度としないが」
突き落としたよな。
「着替えろ。ちゃんと別に食事は準備してある。パンケーキはおびき寄せる餌だった」
「あなたねえ!」
「名前で呼べ」
なんだったかな。
「矢張り記憶障害だ。重大な事態だ。猫より酷い。可愛くなければ構わないのに、とんだ罪だ、きみは」


出されたパンケーキにはクリームとラズベリーのソースがかけられていた。
「お取り寄せでは食べられない。良かったな、黒猫。たまには猫のように出歩け引きこもり」
苛立たしい。
「自室にこもるから寂しさが募るんだ。ああ、夜更けに野良猫を構うから違うか。もう触るなよ」
食欲が失せる。
「早く食べろ」
圧。
「フォークを持つ前に言う事があるよな。それさえ知らんか。人間じゃないな。どうかしている」
「いただきます!」
「食べたら掃除をさせる。洗濯機も回せ。掃除機をかけろ。ルンバはあるが使わせない。楽はさせん」
もう嫌。
「ところで聞こうか。愛おしい黒猫」
「はい?」
「口を拭け。舐めるぞ」
ひいい。
「アイロンはかけられるか。出来なければ無理はさせん」
あら?
「服をおしゃかにされたら流石の私も腹が立つ」
「いつも怒ってますよ」
「逆らうか黒猫。どうも理解が足りない。さて、どうしたものか。檻にでもぶちこむか」
「勘弁して下さい!」
「安心しろ。酸素は漂っている。窒息はしない」
「そうじゃなくて」
「その前にそろそろ私の名前を思い出したか。糖分を摂取したものな。流石の黒猫でも脳が動くだろ」
はあ?
「脳の栄養は糖分だ。知らないのか。いよいよか。末期だ。これはまずいな、入院かな」
「鷺宮さんです」
「だよな。契約書に記載されているものな。ついでに下の名前は?」
「はあ」
「言っても無駄だな、きみは。耳から脳への伝達が遮断されている。名刺をあげようか」
鷺宮雅って書いてある。
「まさ」
「みやび・と読むんだ。訓読みも知らんか」
綺麗な名前だけど引っかかる。
「さぎみやみやび」
「よし。蹴り飛ばそう。そうしたら少しは頭が働くだろう。言葉で駄目なら暴力だ、黒猫」
「警察に相談します!」
「口の減らない可愛い黒猫。口にいつまでクリームをつけている。行儀が悪い。罰だな?」
パーカーの襟元を掴まれて引き寄せられると唇を舐められた。ひっ。どうしよう。
「……へえ? 動揺するか。その気になれば落とすぞ、黒猫」






しおり