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五、閃光

 円の母親は、病院まで迎えにきてくれた。クロシロの母親は、円のことを責めたりはしなかった。反対に「うちの息子が迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした」と謝ってきたくらいだ。
 そのあとの記憶はない。母親と何を話したのか、どうやって家に帰ってきたのかもわからなかった。それよりも、クロシロに見えたたった一桁の数字。『0』が、頭をぐるぐると回っていた。
 年収がゼロ。今のクロシロの状態を知っていたら、最悪の事態しか考えられない。彼は、収入を得ることなく、死に向かう。
 もう一度ペンダントを握るが、当然のように何も見えなかった。部屋のベッドにうずくまる。他に可能性はないのだろうか。例えば、宝くじで大当たりして、働かなくて済むとか。ともかく何でもいい。『彼は死なない』と、自分に暗示をかけたかった。
そう考えていると、自然に電話の子機を手にしていた。月波なら。あの胡散臭いサラリーマンなら、何かわかるかもしれない。クロシロが死なない可能性を示してくれるかもしれない。
――でも、それを否定されたら?
 子機を持つ手が震えた。ボタンを押そうとしていた指は、空を切る。一度ためらうと、月波に電話する勇気は、萎えてしまった。
 持っていた子機が、音を立てた。空気の振動と驚いたことが重なり、手から落ちそうになる。床寸前のところでキャッチし、円はゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしもし、金子ですけど」
 相手はクロシロの母親だった。先ほどと同じように、円に迷惑をかけたことを謝罪すると、クロシロの容態について教えてくれた。
「今やっと眠ったの。きっと病院を逃げたのは、色々思うことがあったのね……。私もで
きるだけそばにいてあげたくて、本当は仕事を辞めたかったんだけど、思った以上に医療
費がかかるって知って、働かざるをえなくて。塾も辞めさせてしまったし。……あ、ごめ
んなさい、おばさんの愚痴になっちゃったわ」
 悲しそうに謝るクロシロの母に、円は黙ったままだった。
「クロシロは、手術をしたんですか?」
 一つだけ質問すると、通話口の向こうで溜息が漏れた。
「まだよ。手術をしないと、あの子が助かる確率は低くなるの。だから、何とか説得してるんだけどね」
 クロシロの母の重苦しい声を聞くと、円は自分の思いを手短に言った。
「あいつが起きたら、伝えてください。『俺はお前を信じてる』って」
 クロシロの母親が了承すると、静かに通話ボタンを切った。
クロシロなら、わかってくれる。どれだけ自分が彼のことを心配しているかを。自分だ
けじゃない。クロシロの母親や光、家族全員そうだ。それに、レイジとライト。二人はクロシロの「一週間で治す」という言葉を信じている。例え、彼が重病だと感づいていたとしても、だ。
 月波に電話をするのはやめた。子機を廊下に戻すと、自分の胸のペンダントを見つめた。
水色の海と、大きな陸地。日本のような形の島。それにかかる三日月。スペースシャト
ルのチャームは、初めて月波が取り出したとき、魅力的に感じた。昔の人間は、月に行くことを夢見ていた。そんなイメージでデザインされたと思われるペンダントは、実際には冷めた現実、変わらない将来を円に見せた。
 円は、ペンチでチェーンを切ろうとした。柄をぐっと握りしめ、力を込める。しかし、何度やっても鎖が切れることはなかった。絶望した。
 自分には、『年収』という形で相手の人生が見えてしまう。いい結果であれ、悪い結果であれ、わかってしまう。人生=年収。そんな構図を押しつけられたような気持ちだった。
 人生の価値は、金ではかれるものなのか? 金って、それほど重要で、大事なものなのか? 
「絶対、間違ってる」
 呟くと、円はベッドに入った。何度寝返りをうっても、寝つくことはできなかった。


 時計を見ると、朝の五時だった。一睡もできずにベッドから出ると、キッチンのテーブルには無造作に母親の財布が置かれていた。
 金。世の中を支配する、諸悪の根源。全ての元凶。憎しみを込めて財布を開くと、一万円札が入っていた。
「こんなものが、人生をはかるものさしなんて、俺は絶対認めない」
 円は、財布から諭吉を引き抜くと、自分の小さな財布にしまった。
 今日は土曜日。母も父もまだ眠っている。一度部屋に戻り、小さなポーチの中にハンカチとティッシュ、携帯ラジオ、そして財布を詰めると、忍び足で家を出た。


 人生をはかる紙切れに、どこまで力があるのか、試してやろうじゃないか。
 円はまず、コンビニでお菓子とジュースを買った。一万円札をくずすと、九千六百四十七円お釣りが返ってきた。
 バス停に行くが、始発のバスは六時すぎ。腕時計を見ると、まだ五時四十五分。これなら歩いた方がいい。
三十分かけて最寄りの駅まで歩くと、二十四時間営業のファストフード店があった。ちょうど朝ご飯もまだだったので、躊躇せずに入る。四百三十円のセットを頼むと、トレイを持って二階席に上がった。さすがに土曜日の早朝ということで、子供は自分しかいない。店内もまだ空いている。
席につくと、財布を確認した。まだ九千二百十七円ある。ポーチからラジオを取り出すと、イヤホンをつけて電源を入れた。お気に入りのラジオ局、ラックシックスが、交通情報とニュースを流す。それが終わると、ラジオは『聞いてよ! 街のいいところ』というコーナーに移った。
女性DJが、ハスキーな声でコーナーの説明をする。リスナーから募集した『自分の住んでいる街のいいところ』をDJが紹介し、一番住んでみたいと思った街を、彼女の独断と偏見で一つ選んで、『住みたいで賞』に認定する。受賞したリスナーには、番組オリジナルステッカーをプレゼントするという企画だった。
『ラジオネーム・みみごんさんのメール! 「私は葉山に住んでまーす! なんと言って
も海が近い! 海水浴場もきれいです。浜辺の清掃活動、私も参加してまーす。まだ六月
ですが、海開きしたら、ぜひ遊びに来てください!」うん、海や浜辺がきれいって、いい
よねー』
 海か。まだ行っても泳げないだろうけど、葉山の海を眺めたい。『海を見れば、自分のこ
とがちっぽけに思える』。よくアニメやマンガでも使われる言葉だ。気分も晴れるかもしれ
ない。
 アイスティーを飲み干すと、円はラジオをポーチにしまい、席を立った。行く場所は決
まった。確か葉山は逗子駅から行けるはずだ。海水浴場にも、小さい頃に連れて行っても
らった覚えがある。
 ゴミを捨てると、店を出て、そのまま駅に直行した。


 逗子までは子供料金で片道六百九十円。まだ財布には五千円札が一枚、千円札が三枚入
っている。余裕だ。
電車に乗り込むと、しばらく乗り換えはない。ラジオを聴きながら、振り向いて窓を流
れる風景を見た。東京よりも都会ではないし、かといって、田舎でもない中途半端な街。こうして一人で街を出るのは初めてだ。
『金の力を試す旅』。すでに答えは出ていた。お金があるから、ものが買える。食事ができ
る。初めてどこか遠くの世界にいける。当たり前のことすぎて忘れていた、金の力をまざ
まざと痛感させられて嫌だった。
所詮、世の中すべて金。金のないものは、淘汰される。土曜日だから、人数は少ないが、
スーツを着ているサラリーマンは、生活費を稼ぐために働いている。それ以外の人だって、
生きるために収入を得ている。
無表情な会社員は、つまらなさそうにドアに寄りかかって、窓の外を眺めている。目に
映る景色に、感動はあるのだろうか。新鮮さや発見は? 全てを殺して大人になるのが、恐かった。
『夢ってある?』
 月波に会ったとき、聞かれたこと。自分は心の底で、あきらめていた。いい大学に行って、いい職につく。それが大人になることだ。母親も父親も、そうなることを望んでいるに違いない。
夢なんてあってもなくても関係ないと思った。レイジはパイロットになれない。クロシロなんて、生きられるかもわからない。ライトだけは運良く夢を叶えられるようだが、すでに運命は決まっている。抗えない波に飲み込まれているようだ。
東京の端の駅で、乗り換える。ラジオが道路情報を伝えた。電車の自分には関係ないことだが、淡々としたしゃべり口は、DJのノリノリの口調と全く違ったトーンだ。時間に正確で、自分の感情を押し殺したようなしゃべり方は、どうも気に入らなかった。


二時間近く電車に揺られ、円は逗子駅に着いた。駅前の案内看板を見ると、数キロ先に海岸がある。どう行くかは一度で覚えられなかったが、ともかく歩けば海にたどりつくだろう。バスで行くこともできるようだが、何も考えずに歩きたい気分だった。
商店街はまだ開店前だ。シャッターが閉まった街を過ぎると、川がある。それに沿って進むと、今度はトンネルだ。歩道が狭い上に、暗く、車もスピードを落とさずに走っている。オレンジのライトがついてはいるが、さすがに恐怖を感じた。長いトンネルを抜けると、灰色の雲の隙間から、細い光が差し込んでいた。
緩やかな坂道を下ると、やっと潮の香りがする。大分歩いた。足も痛い。波の音が聞こえる方へ、精神力で動く。小道に入ると、柔らかく白い砂の上に出た。
大きな波のうねり。海が目の前にあった。


 砂浜には誰もいない。海の家の骨組みだけが、そこにあった。円は、砂の上に腰を下ろ
し、黙って海を見ていた。
 風が髪を揺らす。雲が進んでいく。さっきまで差しこんでいた太陽の光も、今は見えない。いつ雨が降ってもおかしくなかった。
 波の音が心地いい。何も考えなくてすむ。ペンダントのこと、友達のこと、金のこと。今の自分が背負うには、大きすぎるものばかりだった。
 親は心配しているだろうか。朝になったら、息子の姿がない。驚いているかもしれないが、どうでもよかった。もう、うんざりしていた。自分の顔色をうかがう母親に。大人の顔色をうかがう自分に。
 考えると、笑いがこみあげてきた。親子でお互いの顔色ばかりみているなんて、滑稽でしかない。なんでこんな状態になったのだろうか。きっかけは昔すぎて思い出したくない。気がついたら、大人の喜ぶことしか言わなくなっていた。それでも最近は、友達を巻き込んで反発していたつもりだ。だけど、自分がはっきりと怒られることはなかった。
「本当は、怒ってほしかったんだ」
「へぇー。誰に?」
 声に驚いて隣を見ると、いつもどおりのスーツに、緑のネクタイを緩くしめている彼がいた。
 なんでこんな場所にいるのだ。
 目を白黒させていると、月波はしゃがんで、煙草に火をつけた。にやりと笑うと、円の心の声が聞こえたのか、勝手に事情を説明した。
「いやぁね、土曜だっつーのに、お仕事ですよ。出張ってやつ。それにしても、超偶然だ
よなー。海でも見とこうと思ったら、お前がいるんだもん。偶然とおりすぎて、気持ち悪
いな」
「それはこっちの台詞だよ」
 月波ではなく、海をにらんで言うと、相手は鼻で笑った。
「円。お前、気持ちいいほど俺にたてついてくるな。そんなに俺が嫌いか」
 返事はしなかった。正直、よくわからない。こいつは災難の根源だ。人の年収が見える
ペンダントなんて、気持ち悪いし、そのおかげでやっかいな問題に首を突っ込まざるを得
なくなった。
でも、月波からペンダントを受け取らなければ、レイジが悩んでいることも、ライトに
才能があることも、クロシロの命のこともわからないままだった。そう考えると、彼と出会わなかったことの方が恐い。
 それに、たまにこのダメサラリーマンが口にする、人の心を楽にさせる言葉。不思議だった。どんなに悩んでいることがあっても、ふいと飛んでいく気がした。
 仕事はサボっている上に、小学校の校庭で煙草は吸う。軽い口調に、ちゃらんぽらんそうな性格。そんな彼だが、そのせいで、他の大人と一緒くたに見ることはなかった。
 他の大人が好むようなきれいごとや、小学生らしい素直さを求めることもほとんどなかった。言ったとしても、「ガキはガキらしくしてろ、バーカ」という罵りぐらいだ。
彼自身が子供なのだろうか。円と同じレベルで対峙する人間――それが月波平だった。
 海の音を聞きながら、大きく煙を吐き出すと、月波は静かに呟いた。
「俺が嫌いっていうか、本当は大人が大っ嫌いなんだろ」
 黙ってうなずいた。その通りだ。むしろ、月波には本音で接することができた。彼が自分と同じレベルに立ってくれていたから。他の大人はそれに比べて、明らかに自分自身を大きく見せていた。そして、子供たちを、幼い頃から自分たちの思い描く『素直でいい子』に作り上げようとしていたのだ。
「友達百人なんて、できっこないんだ」
 円が小さく言うと、月波は目の前の少年をじっと見つめた。
 
小学校に入学した直後、円は一部の児童から、軽いいじめにあった。当時は、レイジともクロシロとも特に親しくなく、孤独だった。原因は今思ってもくだらない。牛乳を飲むのが遅かったからだ。他のクラスでは、アレルギーで牛乳自体飲めない子もいたのだが、円のクラスは全員飲めた。もちろん、嫌いだという生徒はいたが、給食の時間内にきちんと食べ終わっていた。だが、自分は給食の時間をすぎても、牛乳を飲んでいた。
 最初のうちは残すことも許された。しかし、「食べ物は大切にしましょう」と先生が言うと、他の生徒たちがうるさく騒ぎ出した。
 小学校一年生の四月。入学式では「友達を百人つくろう」と心を弾ませた。でも、クラスの子供から受けた非難のせいで、それが幻想だと嫌でも思い知ったのだ。
「友達百人」なんて、大人の作った嘘だ。大人はなんで、そんな嘘を吹き込む?
いらだちはすぐさま不信に変わった。初めての授業参観で、『お父さん、お母さんの好きなところ』という作文の発表会をしたところ、クラスメイトのほとんどは、親をべた褒めする内容の作文を書いてきた。
円はぞっとした。それを発表する子供に、拍手を送る親。まるで、自分の子供が『素直でいい子』に育っていることを確認するためだけの授業参観に思えた。
円はそんな中、「母親はぐうたらで寝てばかりだ。でもそのおかげで自分も好きなことができる」と、少しばかりひねくれた作文を読み上げた。母親は赤面していたが、自分なりに『素直さ』を表現したつもりだった。学校の帰り道、母親が言った台詞が、余計彼を傷つけた。
「クラスの子は素直な子ばかりで、あんたとは大違いね」
 ショックだった。自分も素直に言った。母親のことを直接褒めていないが、放任なのが心地いい、自由に呼吸できると言ったつもりだった。それは民子に全く伝わっていなかった。
 大人がクラスメイトのような子供を望むなら、自分は大人の望む『理想の子供』を演じてやろうじゃないか。理想どおり、レールに沿って、高校、大学と進学し、いい会社に勤める。そういう『大人』を作りたいんだろう?
 そう決めて以来、本音で話すことをやめ、母親や大人の顔色をうかがってばかりになった。それが正しいずっと思っていた。でも、月波からペンダントをもらってから、円の行動は変わった。レイジと一緒に反抗した。ライトも巻き込んで、家出騒ぎまで起こした。クロシロの脱走を手伝った。
 いい子から脱却したつもりだった。これで民子から怒ってもらえるとさえ思った。なのに、母は何も言わない。ライトと一緒にレイジを家出させたときはげんこつを食らったが、それすらレイジの母親に対するパフォーマンスでしかなかった。

「俺はいい子のままなんだ。このまま大人が望むように、高校、大学、就職って進んでい
く。将来の夢を見ることもできないんだ」
 円が泣きそうな表情で月波を見ると、彼は困ったように溜息をついた。円の言葉は止ま
らない。
「でも、夢なんてあってもなくても、運命は変えられないんだろ? 人生の価値が金で決
まる。『大人』はそれを望むのか? そんなの、おかしいよ!」
 波の音に負けないくらいの円の叫びを聞いて、月波は携帯灰皿に煙草を押しつけた。
 円にきつい眼差しを一瞬向けると、思いっきりでこピンを食らわせる。指の骨が、頭蓋
骨にぶつかり、ジンと痛みだす。
 月波は立ち上がると、額を押さえている円に笑いながら言った。
「……金はツールの一つでしかないんだ。要するに、そのペンダントもツールの一つ。ま、
お前がおかしいと思ってることは、あながち間違いじゃないのかもしんねーけど」
 言っている意味はわからなかった。まだ痛む額を擦りながら、円が月波を見上げると、
彼は腕時計を見て焦った。
「やべ、俺このあとアポがあったんだ! じゃあな、円!」
 足場の悪い砂の上にも関わらず、革靴で走り出す。全く不思議なサラリーマンだ。一体、
どんな仕事をしているのだろうか。想像もつかない。
 ――想像したこと、なかったな。
 月波の姿から、民間の企業に勤めるサラリーマンだということは想像していた。それに
しても、怪しいペンダントを取り扱っていたり、ふらりと葉山に出張だったりと、行動が
不可解だ。
 走っていく彼の姿を見て、ペンダントを握りしめる。数字は出てこない。もう一度、集
中する。
「うわっ!」
 激しい閃光が目に入り、円は後ろに手をついた。彼の姿を探しても、もう浜辺にはなか
った。
 月波が去ると、白い砂に小さく水滴が落ちてきた。砂は、次第に灰色に変化していく。
自分の頬にも冷たい雫があたる。雨だ。
 怪しいサラリーマンの謎は、結局謎のままだった。


 雨はどんどん激しくなる。それでも円は、雨宿りもせずに浜辺にたたずんでいた。波は
大きなうなり声を上げて、押し寄せては広い海に戻る。じっとその様子を見つめていると、
ふいに自分の頭の上だけ、雨が止んだ。見上げると、赤い傘を持った若い女性がいた。
「君、さっきから一人でどうしたの? こんなところにいたら、風邪引いちゃうよ」
 女性の優しい言葉に、どうこたえればよいのかわからず、下を向いた。ずぶ濡れのスニ
ーカーで、水を吸って土に変わった砂をほじくる。
 何も言わない円をいぶかしんでいるのか、女性は訊ねた。
「もしかして、迷子? にしても、こんなところに来るわけないし。まさか……」
 はっと何かに気づいたように、青ざめると、円の腕を引っ張り、浜辺から遠ざけた。
彼女はぐいぐい円を引っ張り、御用邸近くの警察署に彼を連れて行った。円は雨に濡れ、
すっかり疲れていた。されるがままの円は、警察に保護された。


「円!」
 三時間後、母親と父親が葉山まで迎えにきた。警察官に頭を下げると、父親は円を抱きしめて、涙を流した。
「よかった……。全く、親を心配させるんじゃない!」
 掠れた声を、搾り出すようにささやいた。信じられなかった。いつもきつい口調で、自分のことには淡白な父が、泣いている。
 父の肩越しに、母の表情をうかがう。彼女は顔を真っ赤にして、円を見つめていた。父親が自分から離れると、母親は左の頬を思いっきり叩いた。
 バチンと大きな音が鳴る。警察官たちは、こんな風景は慣れっこのようで、無関心に書類整理をしていた。
「この……バカ息子!」
 民子が、怒った。円は叩かれた頬を触り、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。涙が溜まって、今にもこぼれ落ちそうだ。
「あんたは今までいい子だった! だから、やっていいことと悪いことも、本当は理解し
てるんだって、お母さんは勝手に思ってたわ。円はいい子に育ったって、喜んで。でも、
それは間違いだったのね」
 そうか。母さんは誤解してたんだ。本当の自分を隠して『いい子』の演技をしていたか
ら、勘違いしていたのだ。
 民子は、自分が怒る必要がないほど、円が『いい子』に育ったと思ってしまった。それ
ほど彼は、大人の想像する『いい子』を的確に演じてしまっていたのだ。
「あんたは、やっぱり普通の子供よ……。お母さん、あんたがいい子すぎるから、どう接
したらいいか、わからなかった。悪いことをしても、『この子は、本当はわかっている』っ
て、勝手に思いこんで。ちゃんと叱るべきだったのに、それができなかった」
 母親の目に溜まっていた涙が、とうとう頬を伝って流れ落ちてきた。民子は、自分が泣
いていることにも気づかず、円にすがりついた。
「だからって、なんで自殺なんて考えたの! お母さんが、あんたを追いつめていたの? 
だとしたら謝るわ。これからちゃんと、本当のあんたと向き合う。だから、死のうなんて、
考えないで!」
 そう叫ぶと、彼女は円をぎゅっと、苦しいくらい抱きしめた。息ができないほど圧迫さ
れているが、母親がそこまで心配してくれたのは、嬉しかった。しかし、どうもおかしい。
「じ、自殺? 死ぬ? 誰が?」
「お前が入水自殺しようとしていたところ、保護されたって電話があったとき、俺は目の
前が真っ暗になった。もう、二度とそんなことを考えないでくれ。お父さんやお母さんに
言いたいことがあるなら、思いっきりぶつけてくれていいんだ。いい子でいる必要はない。
だから、頼む」
 洋も、話し終わると再び涙がこみ上げてきたらしく、片手で目頭を押さえる。
「え、ええ?」
 それこそ大きな誤解だった。確かに雨の降る中、浜辺にたたずんでいたのは認める。だ
が、自殺なんて勘違いも甚だしい。
誰がそんなことを……。そう考えたとき、右目の端に、先ほどの赤い傘の女性が映った。
彼女か!
「お、俺、自殺なんて考えてないから! ただ海を見てて、つっ立ってただけだってば!」
 大声を張り上げると、女性と、洋、民子は、きょとんとした顔で円を見つめた。しばらくすると、洋と民子の視線は、きつく変化し、女性に向けられた。
「ま、まぁ、息子さんが見つかってよかったですね。私はこれで」
 女性は逃げるように警察をあとにした。


 家に帰ると、円はさっそく散々な目にあった。キッチンのフローリングに正座させられ、今までのことを、母と父にねちねちと説教された。レイジをそそのかしたこと、ライトの家にレイジを泊めたこと、クロシロの脱走の手伝いをしたこと。それと、今日のことだ。
レイジのことは「よその家庭の問題に、子供が首を突っ込むもんじゃありません」。ライトの家を家出の宿泊先にしたことは、「來人くんまで巻き込んで!」。クロシロの件に関しては一番厳しく怒られた。「病人が抜け出すのを手伝ったら、命の危険だってあるのよ! 現に雪白くんはそのあと倒れたじゃない!」。どの言葉もきつく胸に刺さった。怒ってもらいたかったはずなのに、本当に怒られると、泣きたくなってくる。しかも、二人の言うことは、まさに正論だった。
レイジの問題は解決したし、ライトとレイジもそのことで仲が悪くなることはなかったので、それはもう大丈夫だ。だが、クロシロのことはまだ片付いていない。彼の病状が気になった。
ちょうどその時、電話が鳴った。民子が出ると、すぐに円にかわると電話の相手に告げた。
「円、雪白くんから」
「クロシロ!」
 円は受話器に飛びつくと、すぐに民子が釘をさした。
「また、変なことを言ったりするんじゃないわよ!」
 こくこくうなずくと、クロシロにむけて喋りはじめた。
「おい、電話なんかして大丈夫か? まさか、また抜け出したとか」
 心配するとクロシロは小さく笑い、「んなわけないだろ」と軽く否定した。
「昨日ぶっ倒れたばっかだってのに、そんな元気ないって。まだ腹も痛むし、今も点滴打
ちながら公衆電話のところまで来てるんだから」
 円は何も言えなかった。クロシロの脱走を手助けしてしまったことを、再び悔やんだ。
自分があの時、無理にでも彼を引き止めていれば、こんな点滴だって受けていなかったか
もしれない。
彼に見えた、「0」。認めたくなかった。それが例え、変えられない運命だとしても。
しばらく二人は黙っていたが、クロシロの方から静かに切りだした。
「母ちゃんから、伝言聞いた。お前が俺のこと信じてくれるなら、俺、恐いけど、手術受
けるよ」
「……うん」
 素直に喜べなかった。手術は受けてほしい。だけど、彼の運命が変わることはない。そ
れならば、恐い思いをして手術をしないで、安らかに過ごした方が彼のためなのではない
だろうか。
「それと、ライトとレイジにさ、言っといてくれないか? 『一週間じゃ治らないけど、
絶対元気になる』って。今度の土曜に手術だから、当分会えないけど」 
 クロシロの言葉が重くのしかかった。
『お前が治るって信じてる』と言ったのは円だ。そう願っているのも本心である。しか
し、円は彼が治らないことを知っている。口の中に、苦い味が広がる。
「わかった。伝えるよ」
 つばを無理やり飲み込み、それだけ言うと、クロシロは電話を切った。通話が終わって
も、受話器を元の位置に戻すことができないでいた。
 受話器を手にしたまま立ちつくす円を、民子と洋は心配した。
「雪白くん、なんだって?」
 心配する母の問いかけ。今までの円だったら平静を装って「うん、手術受けるって。俺
も安心したよ」と答えていただろう。でも、もうそんな演技はしない。
 受話器を投げると、円は民子に飛びついた。
「クロシロは、手術を受けても治らないんだ……! 俺はそのことを知ってるのに、『治るって信じてる』なんて言った。最低だ!」
 声を上げて泣き出す息子に、母と父は困惑した。お互い顔を見合わせると、二人は息子
の頭をなでた。
「円は彼を元気づけたかったんだろう? 黒田くんに希望を失わせたくなかったから、そう言ったんじゃないのか」
「そうよ。それに治らないなんて、悲観的になっちゃいけないわ。いくら絶望的だとしても、信じていれば奇跡は起こるわ」
 奇跡は、運命をひっくり返すことができるのだろうか。二人の優しい言葉を聞いても、
円の涙は止まらなかった。

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