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一九二六年 四月四日 果穂子

《最近、眠くて堪らなひのはなにも春だから、といふ理由だけではなく、自分の体が死につつあるからなのだといふことは、ちゃんと判つてゐた。》


──死とは一体何なのでしょう。

出せなかった昱子への手紙の中で、自分が(したた)めた一文を思い出し、繰り返し考えていた。
死んだって生きたって果穂子はどちらでも好いのだと何処かでひたひたと思っていた。
ただ、自ら死ぬのは何となく罪深い感じがするから手を染めなかっただけだ。生きていたって果穂子が愛しても許される人物なぞもう何処にもいないのだから。あとはもう、果穂子は誰にとっても他人でしかないのだから。
なのに、どうして怖いの。
死ぬのは怖いの。
少しずつ消えゆく果穂子を、みなが忘れぬようにと願うの。



「ねえ、留根千代(るねちよ)は元気? 」
寝間着の替えを持ってきたテイに果穂子は問うた。近頃は一日の大半を床で過ごすようになっている。あれこれ活動する体力が無いのだ。テイの表情は留根千代と聞いた途端に苦くなり、
「ええ、ええ、変わらず元気ですとも」
決まって素っ気なく返すのだった。お決まりのやり取りになりつつある。果穂子はもう、昱子さえ切り捨てて(しま)ったのだから、拠り所なぞ何処にもないのだ。けれどもテイはそれを良くは思っていないらしい。
残された体力のなかで、テイの叱責に耳も貸さず果穂子は留根千代の絵を描いた。出来るだけ大きく、大きく。もう会えなくとも、こうして絵として留めるだけでその存在は憧憬の念を抱かせる。ここのところ日記と並行して毎日少しずつ描き進めている。描いているうちにそれが本当なのか幻影なのか分からなくなって、果穂子はぷくりと円い息を吐く。此処は何処だろう。果穂子は何処へ向かうのだろう。
死を意識するようになって却って、果穂子は自分の生き方というものをいちずに考えるようになった。
──わたくしは本当はもっと、色々知りたいと思っていたのやも知れない。
世界の広さを、深さを知って、それを美しくかたちにし続けることが出来たなら。そんな生き方を選べたのなら。

忘れて。忘れないで。
生きたくない。生きたい。
本当のわたくしの心は何方(どちら)なのかしら。そうして力の入らない唇を噛み、心で唱える。

大丈夫。果穂子は平気です。果穂子は平気です。
果穂子は幸せです。







父が金魚邸を訪れたのは、そんな時だった。久し振りに見た父は仕事の時のかちりとした洋装姿ではなく暗灰色(チャコールグレー)の着流し姿であった。わざわざ来てくれたはいいが、何だか決まり悪そうな様子でいる。果穂子も決まり悪かった。振り返ってみれば、今まで父と二人きりで対面して話すということが無に等しかったのだ。父の訪問は、おそらくテイの働きかけによるのだろう。初老の域に達した、相変わらずごつごつした肌の厳めしい顔をした父はその顔に似合わず所在無さげに部屋のあちこちをうろうろした。
「こんな格好で、お布団の中で御免なさい」
身支度を整えるのさえ体力を消耗する程に虚弱になってしまった果穂子が寝間着のまま詫びると、なんだ、そんなことは好いんだとぶっきらぼうに云って布団の傍らの座布団にやっと座った。それからひとつ、深く息を吐いた。
「その、体のあんばいはどうなんだ」
「日によって好くなったり、かと思えば悪くなったり、安定はしていません」
「そうか」
「はい」
「送っているものの他に何か欲しいものはあるか」
「いいえ。じゅうぶんです」
「そうか」
お互いの会話は随分とぎこちないものだった。父と話すのは酷く緊張する。父は父で、外国人を含む仕事関連の人にはあんなに滑らかに朗らかに話すのに、果穂子とはどうもうまくいかない。
「秋彦は、どうしていますか」
「秋彦は──今は数えで六つだったか──あれは随分お喋りになったな。男のくせによく喋りよる」
「では、元気でいるのね」
あっという間に話すことは尽き、気まずい沈黙が訪れる。あまりに静まり返っているので廊下に置かれている時計の振り子の音まで変に気になってしまう。暫くの沈黙の後、ようやっと父が意を決したように口を開いた。
「お前はきっと、お父さんの事を恨んでいるのだろうな」
「いいえ! 」
果穂子は驚き身を乗り出して否定した。その様子を見てそうか、と彼方(あちら)も驚いたように反応し、
「いや、お継母(かあ)さんとの関係で辛い思いをさせたと思ってなあ」
トーンを下げて溜め息交じりにそう云った。果穂子はゆっくりと首を振る。
「環様のことは恨んでいないわ。だってあの人の涙を見てしまっているのだもの。お父様のことも、勿論」
父はただ黙って悲しそうに聞いていた。父が果穂子と環の窮屈な関係をちゃんと了知していたというのは驚きだった。その上で何の反応もしなかったのだ。そしてその分だけお仕事に熱心に関わられたのか。
この人は外弁慶だ。他所の人にはとても器用に関わることが出来るのに、冗談さえ云って笑わせるのに、相手が家族となると途端に不器用になる。それに気付いてしまうと、変に切なくなった。ひょっとすると父と話せるのはこれで最後かも知れないのだ。
「パパ」
秋彦が幼い頃父をそう呼んでいたのを思い出して、果穂子は思わず口に出す。父は白髪混じりの眉を上げ少し驚いたような顔をする。『パパ』という言葉は使ってみるとなにやら少し甘えたような親しい響きがあった。
「わたくしのかあさまのことは、大事だった? 」
ひととき躊躇い、辛そうに黙って頷く父に、たまらなくなって果穂子は更に問う。
「かあさまは──かあさまは、何か残せたものはお有りだったと思う? 」
それを聞いて父はまた黙る。可哀想なかあさま。若くして美しいまま亡くなられたかあさま。未練だって幾つもあったに違いない。
父はあぐらを組み直してから、そうだな──と云った。
「つやは、お前の実の母さんは、あんな外見で中々芯があってな。お前は随分母さん似だよ。そんな風に考えるところも」
お前は秋彦と違ってもう大人だから話そうか──回顧の表情を浮かべた父は(おもむろ)に窓から見える景色に目を移した。
「どうしてお前の名前を果穂子にしたか、話したことはなかっただろう。お前の名前はな、つやが付けたんだ」
「かあさまが? でも──」
どこの家庭でも子の名は大抵家長が決定するものである。本妻でもない母にその主張が通るような権利があったとは思えない。
「お前が生まれた時ひどく懇願されてな。字はそちらが決めて構わない、ただ音だけは『かほこ』にして欲しいとそればかり繰り返して譲らない。どうしてそんなに拘るのか不思議に思って聞いてみれば、この子は『家宝』だからと、そうキッパリ云われてな」
「え? 」
──そんなことを、かあさまは。
そこから先は何の言葉も出なかった。下手に何かを発しようとすれば色々と張り詰めて耐えていたものが崩れてしまいそうだった。
──かあさまは果穂子さんと一緒だからとても幸せなのよ。
幼い日によく聞いたあの言葉。優しく囁くような話し方に、困ったような笑い方をする母。幼心にそんな母を果穂子がお護りしなければと何処かで思っていた。かあさまはか弱い方だと、いつの間にやら思い込んでいた。
「お前はな、家宝なのだよ。つやがどうしても残したかったのは──お前だよ」
母とは対称をなすようなざらざらした声で父は云う。けれど、辿々しく伝えられるこの言葉はきっと、不器用な父なりの精一杯の愛情表現でもあるのだと思う。
「──かあさまは一言もそんな事仰って下さらなかったわ」
父の顔を見ることは出来なかった。かわりに庭を見る。桜があと数日で開花しそうにまあるく蕾んでいた。それを見ながら思う。平気な表情を保つのに手一杯で、こんな場面でも素直に自分の感情を出せない果穂子の頑固なところなぞは、きっと父に似たのだ。
「──ご自分の残したものがご自分の子だなんて、随分、ありきたりな話ですね」
それからはもう父も果穂子もなんにも云わず、けれど、二人して同じ桜の木をただ静かに、いつまでも見ていた。


父が帰ってから、果穂子は泥のように眠った。翌日、留根千代の絵が仕上がった。少し迷った末、留根千代の周りの色彩は少し淡い濁ったような色味にした。なんだかその方が似合うように思ったのだ。留根千代自身が輝いているのだからそれで良いのだ。
留根千代はわたくしの宝。わたくしの希望。
久し振りに穏やかな心地だった。




「テイさん」
なにやらいつもより自分の頭がはっきりしているのを感じて、果穂子は横になったまま改まってテイに呼び掛けた。
「わたくしが死んだ後のことで、テイさんにお願いがあるの」
「そんなこと」
テイは瞬間眉を吊り上げる。この人は働き者で、真面目で、器用で、だけど少し怒りっぽい。そんなところまで何だか親近の情を感じる。
「まじめにお願いしているの。大事なことだもの」
テイは観念して果穂子の枕元まで来て座った。
「くだらない事と思われるか知れないけれど、わたくしが死んだら、どうかあの縞のリボンを掛けてね。昱子姉様はわたくしにとても似合うと仰られていたから」
「ええ、ええ、そうしましょ」
テイが果穂子の言葉を軽んじないでくれて助かった。屹度(きっと)よ、と果穂子は念を押してみせる。
「そこの抽斗の、大きな薔薇の書いてあるブリキのケエスに入っていますから。でも、一緒にある写真はわたくしと一緒に燃さないでね。昱子姉様も写っていて、燃やすのに忍びないから」
テイはええ、と了承した。
「それから」
それから──と云いかけて、何と伝えたら良いものか、しばらく言葉を彷徨わせる。何故だか非道く切ないような、夢見るようなボンヤリとした心持ちになる。
「──わたくしの仕掛けのことは、誰にも云わないように、見附からないようにして欲しいの」
慎重に(かく)して、何時(いつ)までも見附からないようにして欲しいの──果穂子の言葉に、テイは面食らった顔をした。
「何時までも、ですか」
「ええ」
「わたくしもあと何年生きられるやも分かりませんのに」
「良いの。それで良いのよ。頑なに匿して、そうしていつか誰もが居なくなって、仕掛けだけ残ればいいのよ。時が来たら自然とどなたか相応しい方が見附けてくださるでしょう。ね、とても素敵だと思わないこと」
テイはくすりと笑った。
「随分と少女趣味でいらっしゃいますわね」
その言葉に果穂子も久し振りに声を出して笑う。
「昱子お嬢様にも内緒になさるのですか」
テイが昱子の名を出すので、胸がしくりと痛んだ。
昱子は果穂子にとってあまりに特別な存在だった。あんまり大好きで、どうして良いのか見当もつかなかった。
けれど、だからこそ果穂子の中には昱子に触れて欲しくない部分もあった。あの方は純粋すぎて果穂子の澱んだ部分にとても耐えられない。果穂子自身も耐えられない。
「あれは昱子姉様にも誰にも内緒にして。お願いよ」
テイの顔は不満気だった。
「なぜ」
「お願い」
「お嬢様」
「お願い」

お願い。
昱子姉様、わたくしのことでけっして苦しまないで。




















子ども達の歌声で、果穂子はぼんやりと目覚めた。

不意に、庭の方から薄紅の桜の花びらが風に乗ってひとつふたつやって来る。陽気がいいのでテイが廊下の引き戸を開け放してくれたのだろう。いつの間にやら満開になった桜は、そろそろゆっくり散り始めているようだ。
目覚めたはいいが、あんまり心地良くて、まだ眠くて仕方ない。こんなに存分に寝ているのに、と少し可笑しく思う。
学校は新しくやって来たちいさい子らで新たに活気づき、その騒がしさもまた愛しい。あの学校違いの兄弟も学年が一つ上がって新生活に奮闘している頃だろう。
風に乗って聴こえてくる歌声はとても浄く澄んでいた。




雨の音がきこえる

雨が降っていたのだ

雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ

あの音のように そっと 世のためにはたらいていよう


雨があがるように 静かに死んでゆこう




それを聴くうちぼんやりと晴れない頭で果穂子は思い出す。
──そうだ。この歌はいつかの春も気になったけれど、歌詞を聴きそびれてしまったのだったわ。

あの音のように そっと 世のためにはたらいていよう

澄んだ子どもたちの歌声が心地よく耳にリフレインする。
毎年春になると決まって歌う曲なのだと納得して、その満足感に果穂子は目を閉じる。あの音のようにそっと。



あの音のように そっと 静かに









静かに。


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しおり