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2025年 秋 六花

世は去り、世は来る。
それは人の営みの本質なのだろう。けれど去った世と同時に、そこに生きてきた人々の息遣いや強い想いまでもが去ってしまうという切なさに人は決して慣れることがない。


良い図書館の三要素というものがあるという。
まず建物、次に蔵書、そして人──つまり司書──の三つだ。なかでも最も重要なのは三番目の『優秀な司書』の存在で、これが欠けるとどんなに他の二条件が満たされていても宝の持ち腐れになってしまう。
熟練した司書は、図書館を正しく機能させる役割を担っている。どんなに小規模な図書館でも、どこにどんな本が並んでいるか熟知するにはそれ相応の時間と労力が必要だ。知りたい情報が載っている書籍や読みたいと思っている本がその図書館にあったとしても、誰もが皆必要な本に巡り会えるとは限らない。そこで司書が本と人の架け橋的な存在となる。司書の仕事内容は多岐にわたるが、そのどれもが利用者と本を繋ぐためのものだ。時折そんなことを思い出すと気持ちが引き締まる。司書は知の象徴だ。一見地味だと見なされがちなこの仕事は、本当はどうでも良いものなどではない。六花の仕事は、どうしても必要な仕事だ。
古代において、司書は王から高い地位を与えられ、ときには助言者と見なされるなど非常に重宝されたらしい。優秀な司書を奪われたり引き抜かれたりした国家はやがて廃れ、滅びてしまったという。
図書館の三要素を白川町記念図書館に当てはめてみる。ここはもともと図書館として造られた建物ではない。とはいえ広さは充分だし、図書館として機能するよう改築したのでその点は問題ない。何より美しさも雰囲気も存分にある。蔵書もよく揃えられている方だと思う。ここにしかない白川町と佐伯家にまつわる稀少な歴史資料も置いてある。
では司書の質はどうだろう、と六花は考える。
こと白川町記念図書館に関しては、一般的な町の図書館にはない葛藤がある。観光施設としての側面だ。ここの館長は司書の資格を有していない。彼は町の観光課から派遣された人で、図書館職員というより観光施設の管理者なのだ。揃いのエプロンだけでなく、カフェ店員よろしく中に着る白シャツや黒いパンツやスカートまできっちりと定まった制服があるのもそのためだ。
観光施設か、歴史資料館か、図書館か。
美しくないより美しい方が良いに決まっている。歴史があれば箔も付く。けれど、ここの揺るがぬ土台は『図書館』なのだ。六花含め職員たちはそういう心積もりで働いている。そのことに関して何かはっきりした発言があるわけではないが、そんな姿勢が垣間見える。穏やかで淡白そうに見える金木さんも、あっけらかんとした雰囲気の瀬川さんも、和気藹々と働く他の同僚たちも本に対する愛情は一致していて、静かな熱意が感じられる。個々の性質の違いはあってもそこで繋がっているのだ。
だから余計に館長と職員たちの温度差が際立つのは六花も気がついていた。観光課の人間なのだから仕方ない面もあるのだろうが、彼の主な意識は如何にここを魅力的な観光スポットにするかにある。勿論悪い事ではないが、そこに力を入れようとするあまりこの図書館とそこに収められている本たちを雑な思いで扱って欲しくない。果穂子の日記を読み解くにつれ、その思いはますます強くなった。もちろん施設の美しさや親しみやすさも重要だ。けれども、図書館にはある種の気高さを保っていて欲しい、少なくとも六花はそう思うのだ。必要以上に観光客に迎合して欲しくない。館長は悪い人ではないのは六花も承知している。でも、時々怖い。この人によって図書館の要である何かが脅かされてしまうのではという可能性が、怖い。
ここで大切なのは何だろう。守るべきものは何だろう。その先にあるものは何なのだろう。
なぜここで働くか。
本が好きか。なぜ好きか。
守りたい本があるか。それはなぜか。
守りたい本があるというのと、守りたい想いがあるというのは殆ど同義だ。
本を書くというのは、ささやかな抵抗だから。想いや主張を命懸けで具現化したものだから。彼らのたましいの詰まった本たちが館内の密度を果てしなく濃くし、ざわざわと六花に問う。
──本を、愛していますか。人の想いを、愛していますか。






(まは)りはよく「(をんな)の幸せ」などと云ふ。女の幸せは相応(さうおう)の御方と一緒になって仲睦まじく暮らし、子を産み慈しみ育てることだと云ふ。わたくしにはその望みが無ひから可哀相(かはいさう)だと云はれる方も中には居られる。たしかにわたくしは可哀想な女やも知れぬとも思ふ。だけれども“女の幸せ”と云ふのはそれだけに限るやうなものなのだらうか。それが不思議なことのやうに思へる。女は嫁いだらそれで終わりなのだらうか。わたくしはきつとそれだけでは満たされない。わたくしの人生でいちばんに願ふのは、もつと自由(じいう)で人間らしい生き方なのだ。職を持つのも恋をするのもずつと自由な、新しい時代の女として伸び伸びと生きてみたゐのだ。』
十八歳の果穂子はそんなことを書く。この年頃ならではの無敵な感じが本物なのか虚勢なのか六花には分からない。積極的な昱子の影響やも知れない。早ゆり婦人の話によると、この頃には肺病は確実に果穂子を蝕んでいたのだから。
『昱子姉様が大好き。昱子姉様の全部が好き。子どものやうなところとか、苦労知らずで我儘なところとか、あまり良く無ひところも愛ほしく思つてしまふのだから実際困つてゐるのよ。だからこそ果穂子の中には昱子姉様に触れて頂きたくなゐ部分もある。あの方は純粋過ぎるのだもの、耐へられないわ。』
果穂子の文体はときに喋り口調になったり元の堅い感じに戻ったりと、次第に安定しなくなって来る。果穂子は昱子に弱音を吐けなかったのではない。弱音を吐けなかったのは、単に昱子の心を思い遣る健気さだった。
──私は絶対、負けるのだ。
日記を読みながらそんなことを思う。対峙しているのはそういう類のものなのだ。決着はもうとっくに、百年も前に着いている。過ぎ去ってしまった時間はもう一秒前でも百年前でも1ミリたりとも変化しない。六花はただ、知るだろう。知って負けるだろう。物事を変えられない悔しさに立ち尽くすだろう。
それでもいい。六花は埋もれてしまった果穂子を発掘するのだ。それだけが果穂子を目覚めさせた六花の使命のように思えた。

指先で画面をスライドさせる。果音が撮影してくれた日記はこれが最新分だった。果穂子の日記は読みずらい。今まで何度も解読に手こずったし、暗い机の裏に毛筆書きなのだから当然だ。最新の写真を見て思わず六花は顔をしかめた。難解さが更に増している。几帳面だった字体は不安定な文体と共に次第に崩れていくのが分かる。体調の悪さが影響しているのだろうか。大正期を終え、年号はもう昭和元年だ。昭和二年、十九歳の春に亡くなったらしい果穂子は一体いつ頃まで日記を記すことが出来たのだろう。
顔をしかめたまま、画面をズームさせてゆっくり読み進めていた六花は手を止めた。
──これ、まただ。
果穂子の死期が迫るにつれて頻繁に出て来るようになっていた文字があった。
『わたくしの最後の望みとして留根千代が居る。だからわたくしは決して不幸(ふしあは)せな女ではない。留根千代だけが本当(ほんたう)の果穂子を知つてくれてゐる。それだけでもう救はれる思ひがする。』
()のひとがどんなにか果穂子の支へになってゐるか、誰も知りはしないだらう。テイさんにも、昱子姉様にさへわたくしと留根千代の関係は打ち明けはしなかつたのだもの。』
『留根千代に会ひたひ』
『留根千代に会ひたひ』
留根千代。留根千代。文字からもいかにも切羽詰った必死さがありありと伝わってくる。どうやら人名らしいということは何となく分かるのだが、読み方が不明だ。そしてもう一つ気になるのが、この留根千代なる人物に就いての記述が増えるのに比例して、昱子をはじめとする他の人物の記述が減っている事。
この時期、一体果穂子に何があったのか。なぜこんなに急激に現れて、心身共に弱った果穂子の心を埋め尽くす程になったのか。

『わたくしの命はもう覚束無いと云ふのを近ごろウンと強く感じる。喀血も回数が段々に増してゆくし、近ごろなどはとても怠いのだ。けれど、存外やすらかな心地で或る。
永遠は願つても好いのだもの、残すことも自由だもの。
留根千代。留根千代。わたくしが死んでもあなたは残る。だから心配は要らない。
あなたが残るのなら、果穂子は百年も、千年も、永遠(えいゑん)にまでいきませう。』

六花ははっとして読み返す。いつかの蔵書整理の日に、ここの記述は直に見たことがある。
あなたが残るのなら、果穂子は百年も、千年も、永遠にまで。
──“生きましょう”、だったんだ。
最初からここまで順に読んできてやっと分かる。この言葉の意味も強さも。そこで六花の中でやにわに一つの可能性が浮かんだ。
──果穂子は恋愛をしていた?
昱子に対しては必死に抑えていた思いをここまで曝け出し、尚且つ託された留根千代なる人物。そこまで信頼を置かれていた彼は果穂子の想い人だったのではないだろうか。親友の昱子にさえ打ち明けなかった果穂子と留根千代の関係は、何か後ろ暗いものがあったのだろうか。

留根千代は果穂子と同じく、佐伯家の歴史資料を調べても名前の出てこない人物だった。果穂子の時と同じく、果音と一緒になって調べたが手掛かりは一切無い。彼の正体は果穂子の足跡を辿るより遥かに困難かも知れない。もっと言えば不可能に近いだろう。日記の時期的にいえば、二人が出会ったのは果穂子が金魚邸で暮らしていた頃である可能性が高い。そうなのだとしたら、六花にそれを突き止められる自信はなかった。
──惜しいなあ。
『留根千代』は明らかに果穂子の秘密を紐解くキーマンだと思うのだけれど。



世は去り、世は来る。地球も宇宙も変わらずそこにあるのに、人だけが入れ替わる。いつまでも慣れないのでそれを忘れることによって人は平常を保つ。誰かの人生も、誰かが真剣に悩んだことも苦しんだことも全ては無かったことのようになる。精々全力で抵抗して辛うじて足跡を残す程度。果穂子と昱子とその想いも。そして果穂子の縋った留根千代も。

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