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2025年 初夏 六花 3

弾く、音がする。


弾いては消え、消えては弾けるゴムボールのような心許ない鍵盤楽器の音。少しだけもの悲しさを感じさせるその旋律に合わせて幽かだが合唱のような歌声も聞こえる。
外はくらむような眩しさなのに、この部屋はひんやりと仄暗い。唯一、小さな木枠の窓から僅かに差し込む光が、この場所のどこもかしこも厚く覆い尽くしている埃に当たって白く煌めかせていた。
私は何をしていたのだろう。
あの時はまだほんの小さな子どもで、私はそこにいた意味も、そこに至った経緯もまるで憶えていない。
ただ、歩く度に残った自分の足跡、動くとスノードームのように舞い上がった埃、それから終始外から漏れ聞こえていたピアノに合わせた合唱のようなうたごえ。
そういう感覚的なものだけははっきりと憶えている。
そして、赤い色。薄暗い中にも強烈に焼きつく赤い色。あのときたしか私は見上げて、それに気づいて。あれは──。






毎月の最終金曜日は館内整理日ということになっている。図書館は休館となり、職員だけが出勤して棚整理や書架替えを行う。総浚いで大ががりな蔵書点検を行うのは七月と決まっているから、その他の月の在架チェックはそれ程時間の掛かるものではない。開架と書庫の在架を貸出状況と照らし合わせ、所在不明の本がないかをざっと確認するだけだ。作業は大体昼過ぎには終わってしまう。今月のチェックもまもなく終了するところだ。
この作業の流れも大分慣れてきた。勤め始めの頃は全てにおいて何が何だか分からずおろおろしたものだ。
まず開架にある本より書庫にある本の方が圧倒的に多い事に衝撃を受けた。ここの書庫には開架の五、六倍は蔵書が保管してある。利用者だった頃の六花が『図書館』と見なしていたのは、実は図書館のほんの一部に過ぎなかったのだ。
驚いたことはもう一つある。館内にある膨大な量の蔵書が、事実上人の手と頭で管理されていた事だ。勿論全ての蔵書はコンピューターにインプットされてはいる。けれど、職員は特にそれを頼みにしている訳ではないらしかった。おおよその情報は自分の頭に入っているのだ。リクエストシートのラベルを見ればその本が大体書庫のどこにあるのかすぐに把握し、すっと利用者に手渡すことが出来るのである。
図書館はまるで樹だ。表に見える枝葉や幹、花や実は美しく整えられ見るものを満足させる。しかしその本質は地面の下の根にある。暗く目につかない地味な場所で地上に出ている何倍も深く複雑に根を張り、それによって見える部分の美しさを支えている。
美しい、と思った。図書館は『根』があるからこそ安定して美しい。

館内整理が終わったのは十三時を少し過ぎた頃だった。同僚たちが思い思いに一息入れている休憩室を抜けて、六花は庭園へと出る。建物は思い切り洋風なのに庭は石、池、松と純和風だ。それでも違和感が無いのはあのどっしりと黒い瓦屋根のおかげだろう。不可思議な調和である。この邸の元々の持ち主は、佐伯ナントカ、という資産家なのだということは前々から知っていた。通称佐伯邸。そのため近所に住む年配者は特に、ここを白川町記念図書館ではなく佐伯邸と呼ぶ。観光案内マップを見ても『白川町記念図書館(旧佐伯邸)』と記されているので、あながち間違った呼び方ではないのだろう。
六花は庭の真ん中に丸くくり抜かれたみたいな池の前まで行って、ペットボトルのスポーツドリンクを全部飲み干した。池の辺りの松の木の枝が程よく伸びて、丁度良い日陰になっていて涼しい。じんわりと滲む汗を拭った。
たっぷりと水が張られた池の中にはちろちろとすばしこいオレンジ色の金魚が浮きつ沈みつ泳いでいる。
目に焼き付く、浮かび上がる赤い色。
六花には不可解な記憶がある。それが現実のものなのか、あるいは夢だったのかどうにもはっきりしない。幼少期の記憶だと思うが、子供の見る夢は妙にリアルだし色彩豊かに覚えていて、現実は現実で黄色いフィルターが掛かっているように夢のようだから現実との境が曖昧なのだ。いっそあの頃の六花は全人生を夢のようにふわふわと生きていたのかもしれない。こうやってたまに小さな切っ掛けで思い出す。
果音と二人、遅くまで図書館に残った日。月の白い光に照らされた大机を見た際もそんな感覚に囚われた。勿論絶対あり得ない。あり得ないはずなのだが、六花はあの日、その独特の飾りのついた大机をずっと前から知っているような懐かしい気持ちに囚われた。

記憶の中で、小さい六花はどこか知らない薄暗い部屋の中を歩いている。遠くに聞こえる何かの合唱。中は土蔵のようにしんと涼しく匂いもやはり土蔵のようで、六花はたった一人その中をきょろきょろと進む。
長い間誰も入っていなかったのか、あらゆるものに白い埃が厚く積もっている。六花が動くと埃も乱れて、どこか高いところにあった窓から洩れる光に当たって落ち着きなくゆらゆら揺れているのがよく分かった。記憶の最後は赤い色が覆い被さるような形で終わっている。

その時部屋にあった埃まみれの机が、大閲覧室の机の印象となぜか重なるのだ。デザインが似ていたのだろうか。
いや、記憶なんて都合の良いものだ。幾らでも塗り替えられる。夢かもしれないし、夢でないかも知れない。謎の部屋なんか存在せず机も無く、創り上げられた記憶だという可能性も無いではない。でも、何だか釈然とせず気持ちが悪い。せめてもう少し何かを思い出せればすっきりするのだけれど。いつもふとした時に引っかかるのである。

それにしても池の金魚は涼しそうだ。涼しいという感覚があるかは知らないけれど。そんな事を考えていたらつつじの植え込みの向こうから誰かがやって来た。
「暑くない? 」
同僚の瀬川さんだ。ここ、意外と風が通るんですと努めて外交的な笑顔で応じると彼女はこちらにやって来て、ああほんとだねえ、とからりと笑った。
瀬川さんはベテランの司書で、ここには十年ほど前から勤めているそうだ。カジュアルなTシャツにパンツ姿で、肩までの髪を下ろした姿は普段より若々しい。瀬川さんの様に司書として働く主婦の人は結構多い。ここの職員は半数以上が女性だ。おばちゃんがいっぱいいる職場、と言うと怒られるかも知れないが、そんなところだ。瀬川さんは池を軽く覗くとあれ、と何かに気が付いたのか素っ頓狂な声を上げた。
「金魚増えてない? 」
そもそも元の数を知らない。瀬川さんと並んで覗き込むと、十匹ほど確認できる。よくいる種類のその金魚はどれも同じように見えて、分身みたいにも思える。
「どうなんですかね。池自体、あんまり見ないので」
「なんか増えた気がするんだよねえ。一時期、三、四匹しかいなかったような気がするけど。沢山死んだから追加したのかもね」
金魚は儚い。子どもの頃、夏のイベントや何やらで手に入れて飼った金魚は皆揃って一年も生きなかったように思う。飼い方がまずかったのかも知れない。
「金魚って、普通はどれくらい生きるんですかね」
いやー、と瀬川さんは腰に手を当てたついでに叩きながら、
「ピンキリじゃないの。平均は十年とか聞くけど、金魚すくいで取って来たのとかはほら、雑に扱われてるでしょ。だから弱ってあんまり生きなかったりもするしさ。でも上手に飼えば三十年とか生きたりするらしいよ」
前の子達は寿命だったのかもね──彼女はそう言って暫く池を眺めていた。

一足先に瀬川さんが館内に戻ってしまうと、緊張から解かれて六花は無意識に溜め息をついた。今日は休館日だから果音は来ない。こういう日、あの子はどこで放課後の時間を過ごすのだろうか。今頃は給食を食べている頃かも知れない。彼女のやわらかい水色をしたランドセルを思い出す。
──果穂子。
机の裏に文章を書いたのは果穂子という人だと思う、と昨日彼女は言っていた。それが日記形式だったということも。
今になって様々な疑問が浮かび上がる。日記の書き主が本当に『果穂子』なのだとしたら、本来文字を書いてはいけない場所に、なぜ隠しもせず自分の名前を記したのか。なぜそんなところに書いたのか。日記なら日記帳にでも書けばいいだろうに。
いや、そんな単純なものでなかったとしたら。
ひょっとして人目に晒せない内容なのだろうか。それはちょっとまずいな、と思う。誰かの悪口だったり、昼ドラ顔負けのドロドロの愛憎劇みたいな内容だったら果音に何と説明すれば良いのだろう。そう考えると頻繁に出てくる果穂子という人物も、書き主本人ではなく悪口の対象になっている人物なのかも知れないし、禁断の恋の相手なのかも知れない。そうすると書き主の年齢や立場や性別も分からない。女中や使用人、書生という可能性だってある。
白紙に戻る。
分かっているのは佐伯家の別荘に自由に出入りできる人物であること、日記を書けるほど日常的に時間に余裕のある人物、天板一面に文字を埋め尽くせるほど長期間佐伯家と関わりがあった人物。そのくらいだろうか。
庭園から戻ると、他の職員はみな二階にいるようだった。上から談笑が聞こえる。一階の大閲覧室には誰もいない。はっとして大机の場所に行ってみる。チャンスだ。二、三度周囲確認をして、六花は机の下に潜り込んだ。
流れるように連なる美しい筆跡が目に飛び込む。墨で書かれたと思われる濃く深い黒。そして部分部分読み取れる文体は旧仮名遣いがかなり用いられている。見るのは二度目だけれど、圧巻だった。単なる文字群なのに思わず胸に迫る美しさがある。前回と違い光量があるので少しは読み取れそうだ。
『……子姉様が、』『わたくしは』『……のだけれど、かあさまが……』『秋……の』──やはり旧仮名遣いが難しい。平仮名と、見知っている漢字が辛うじて読み取れる程度だ。けれど、その筆跡や文体、一人称を見て確信した。この人は女性──しかもある程度教育を受けている女性だ。文章を書き慣れている。ろくに学校にも行けなかっただろう女中だったら片仮名を多用した辿々しい文体になるはずだ。姉様、かあさまと書かれている所々の内容から推測するに、おそらく年若い。ということは佐伯家の子女が娘時代に書いたものか。
各文の始まりには果音の言っていたように日付が記されていた。
「大正、十四年──」
昔に書かれたものだろうとは思っていたが、実際に目にすると気が遠くなる。経てきた時の長さに(おのの)きながらも六花の胸は本の世界の奥深くに入り込む時のように高まっていた。少し移動して別の箇所も見てみようと試みる。前回果音が見ていた辺りの場所。
「──ほんとだ」
果穂子は。果穂子の。その名が頻繁に記されている。
『あなたが残るなら、果穂子は……いきませう』
“行きましょう”、か。それとも“生きましょう”だろうか。






帰り道、ごつごつと膨らんだトートバッグが肩に食い込んだ。リュックサックの方が良かっただろうか。帆布製のシンプルな四角いそれはやや大きめなサイズで、六花はそれを図書袋としてずっと使っていた。あまり見ない綺麗な黄緑色で気に入っている。
白川町記念図書館の二階には、この街の歴史と旧佐伯家についての資料を集めたコーナーが設けられていた。普通、地域特有の資料本などは一冊しかないなどの希少性により、紛失防止のため館内閲覧に限られている事が多い。しかし、俄然果穂子の正体を知りたくて堪らなくなった六花は、本来貸出不可書籍に指定されているそれらの資料を無理を言って借りられないかと館長に掛け合った。館長は渋い顔をしたが、六花が職員なのと、明日必ず返すならという条件付きで家に持ち帰ることを許可してくれた。
家に帰ったら早速読まなければ。まずは佐伯家の家系を調べてみるのが良いかも知れない。そんな事を思い巡らしながら小学校の前を横切ると、下校時間なのだろう、道いっぱいに散らばって帰る小学生の集団とかち合った。色とりどりの服装とランドセルで色が溢れ返っている。ふと前方に目を遣ると、遅々とした足取りであちこち道草を食いながら独りで坂を下る見知った少女の姿を見つけた。
「果音ちゃん」
思わず呼び止める。彼女はぱっと振り向いた。六花に気がつくと、ぴょこぴょこ無駄な動きをしながらこちらに駆けてきた。ランドセルのフックに掛けた体操袋が上下に跳ねる。
「こんにちは」
果音は律儀に頭を下げて挨拶した。
「こんにちは」
六花も思わず頭を下げる。
「図書館開いてなくてごめんね。今日はすぐお家に帰るの」
何気ない問いかけのつもりだったのに、果音は唇を突き出し、曖昧に首を傾げていつまでも答えない。
「──帰らないの」
唇の形を戻さないまま、果音はこくりと頷いた。

こんな事をして良いのだろうか、と思わないでもなかった。でも放っておくのはあまりに可哀想で連れて来てしまった。。果音は今六花と、六花の住んでいる借家の縁側でゼリーを食べている。ここは学校と果音のアパートの中間地点なので地理的には丁度良い。なぜすぐに家に帰れないのか、原田家のルールはどのようになっているのか、果音は一言も触れないままだった。こちらも彼女が自然に話すまで催促しないことにした。夕方になったらこの間のように家まで送ればいいだろう。
「ねえ」
六花の声に果音はこちらを見上げる。
「机の裏側ね、今日もう一度よく見たんだ。果音ちゃんの言う通りだった。果穂子って人が書いた日記だった」
果音は興味津々といった様子で続く言葉を待っている。
「果穂子って誰なのか、知りたくない? 」
「……しりたい」
果音は透明な声で呟いた。
知りたい。
「私も知りたい」
果音はそれを聞くと可笑しそうににんまり笑って、こどもみたい、と嘯く。実際六花は子供なのだ。とっくに成人してはいても。六花もにやりと笑う。
「あのね。『脅かす訳ではありませんが、心は思う程大人にはなりません』」
目を丸くする果音に、私が子供だった時読んだ本にそう書いてあったの、と付け加える。
「びっくりするかも知れないけど、ほんとなんだ。私も読んだ時はびっくりしたけど、ほんとだった。嘘だと思ったら大人になってみればいい、きっと分かると思うから。私、実は子供なんだよね」
果音は幼い子しか出せない声でくすくす笑った。
ゼリーを食べ終えると六花は黄緑色のバッグから資料本を取り出す。『果穂子』という漢字が分かるなら、果音も一緒に調べる事が出来るだろう。借りるときにちらりと見たが、確かこの本の中に旧佐伯邸を建てた佐伯善彦から始まるかなり詳しい系図が載っていたはずだ。
「多分果穂子って人は、あそこがお家だったころ住んでた人だと思うんだ。昔っぽい字だったからね」
果音には真っ直ぐ頷く。系図を調べて果穂子の背景が分かったなら、もしかすると佐伯一族の家族写真で顔も知ることが出来るかも知れない。目当ての頁を開くと、縦横の線がそこかしこに繋いである佐伯家の家系図は、資料の古さから文字が小さく印刷も悪い。
「この中に、果穂子って名前があるか見るの。一緒に探そう」
「うん」
印刷のにじみも気にせず果音は資料に顔を近づけ、早速探ってゆく。六花も『果穂子』の文字を探し始めた。
けれど。
「──もう全部見た? 」
「見た」
「『果穂子』って、あった? 」
果音は首を振る。二人で顔を見合わせる。

そう、無いのだ。佐伯家の家系の中のどこにも『果穂子』の文字は無い。今日机の下に潜り込んでその内容を確認した時は、佐伯家の歴史を調べさえすれば簡単に彼女を見つけることが出来るものと思っていた。
──佐伯家の娘じゃない?
妻でも姉妹でもない。
どこの誰だかも分からない。


顔も知らぬ果穂子が、六花の内面に静かな揺らぎをもたらしていた。

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