惨
十月十二日水曜日 午後一時三十分
新関地区路上
「お姉ちゃんこわいよぉ」
加野千華は左手で妹の手をしっかり握りしめ、右手で傘を杖代わりに――時々それを振りまわして霧を薄める――しながら視界の悪い中を少しずつ進んでいた。
「だいじょうぶや」
自分も怖くてたまらなかったが百華を励ます。
とにかくママを探さなくては。
ママは必ずどこかにいると信じて千華は霧の中で目を凝らした――
小学校に到着してすぐ百華が気持ちが悪いと言い出した。さっきまで元気に歌いながら歩いていたのに。
朝早くからジャックに変な起こされ方をしたので体調を崩したのだろうか。
千華は門番の先生に伝えて百華を連れ帰ることにした。
「よし、先生が君たちの担任に報告しておくから心配すんな。
妹さんを送っていったら加野は登校しろよ。ちゃんと言っとくから先に職員室に行って遅刻の許可書もらうんだぞ」
「はい」
先生に一礼し、千華は百華のランドセルを持つ二人並んで今来た道を戻った。
「吐きそう? だいじょうぶ?」
のろのろと歩く百華に声を掛ける。
黙ってうなずく顔色はそれほど悪くはない。
これは体調が悪いのではないと千華はピンときた。
百華は勘が働く。以前お祖母ちゃんが亡くなる前にもこんなふうに気持ちが悪いと言ってふさぎ込んだ。
今朝はジャックも騒いでいた。あんなこといつもはしない。お祖父ちゃんが言った、何か良からぬ前兆かもしれないという言葉を千華は思い出し、胸騒ぎがした。
嫌なにおいのする霧が猪狩山のほうから少しずつ下りてきているのも気になる。
「百華、しんどいかもしれんけど早く歩ける?」
「うん――」
うなずくもののますます歩調が遅くなっていく。
千華たちの自宅は学区の一番端に位置し、新関高校と反対のふもとにある。
霧が濃くなる前に家に帰らなければと思ったが、百華に歩調を合わせた。
時間をかけて自宅に戻った時は、辺りはすっかり真っ白になっていた。
手で霧を扇ぎながら進み探り当てた門は開けっ放しで、千華の不安はますます大きくなる。いつもならきっちり閉まっているからだ。
「お姉ちゃん」
百華は震えて千華にしがみついていた。
「だいじょうぶやよ」
少しずつ進んで犬小屋を見つけたがジャックはいない。
また家の中に入れてもらっているのかもしれないと玄関のほうへと向かった。
ドアを開けるといつもの芳香剤の香りがして千華はほっとした。
下駄箱の上に置かれたクマの時計は十時を過ぎている。
ずいぶん時間はかかったけど、これならまだママは買い物には行ってないはずだ。
「ただいまぁ。ママぁ」
返事がないので、今度は「おじいちゃぁん」と呼ぶ。だがこれも返事がなかった。
ジャックが駆け出してこないのもおかしい。
しがみついたまま離れない百華と一緒に三和土を上がり、リビングに進む。
全開になっている掃き出し窓から霧が侵入し、部屋全体が白く立ち込めていた。
「ママ? おじいちゃん?」
蜘蛛の巣のようなべとつく霧を手で扇ぎながら千華はとりあえず窓を閉めようとしたが、服の裾を百華が引く。
「お姉ちゃん、あれ――」
そう言ってソファを指さしている。
クッションに何かが被さっていた。よじれた布のようなものはブランケットやバスタオルにしては色や形が変だと千華は思った。
それにママはこんなふうにだらしなく置きっ放しにしない。
「なんやろ?」
テーブルにランドセルを降ろし、窓を閉めてから二人はそれに近付いていった。
空気が抜けてぐにゃりとうつむいた人形に見える。質感はまったく違うが、ビーチやプール用の大型の浮き輪を千華は思い浮かべた。だが、形はイルカやカメでない。
「お、おじいちゃんっ」
百華の声に「まさかぁ」と千華は笑った。
「ううん、おじいちゃんの抜け殻や。だっておじいちゃんの服着てるもん」
二人はもっと近づいてみた。
ぺちゃんこのこんなのがおじいちゃんのはずがない。
だが皮膚や薄い頭髪がやけにリアルだった。
千華が軽く白髪を引っ張ってみた。ずるりとクッションからすべり落ちて顔がこっちを向く。確かにおじいちゃんの顔だ。光のない濁った目が千華を見る。
「きゃああっ」
二人は抱き合って後退りした。
「ママっ,ママっ」
百華が悲鳴に近い声で呼んでもママは二人の前に現れない。
何か怖いことが起きている。ジャックが騒いでいたのも百華の勘もこれで合点がいく。
まさかママもおじいちゃんみたいに?
ううん。絶対だいじょうぶ。
ママはきっとジャックを連れて逃げてる。それともわたしたちを学校に迎えに行ったのかも。
それを確かめるためにはママの抜け殻がないか家の中を探さなければならなかった。
「百華、お姉ちゃん、ママ探すさかい、お部屋に上がっといて」
「いやや、一緒に探す」
「あかん。すぐ行くからお部屋で待ってて」
百華はしぶしぶ二階に上がっていく。
そうして屋内と庭をくまなく探した結果、庭にジャックの抜け殻となぜか吉村のおじいさんの抜け殻を見つけた。
ママのものがなかったことにひとまず安心したものの、姿が見えないことに変わりなく、千華はどうすればいいのか思案した。
百華と一緒だと自宅で待機しているほうが安全かもしれない。
とりあえず、スナック菓子とジュースを持って自室に上がった。
だが、十一時になっても十二時を過ぎてもママは帰ってこない。
「もしかして避難してるんかも」
「えー、百華とお姉ちゃん置いて?」
「わたしら学校にいてる思てんのや」
そう思い始めるとそうとしか思えない。だが、視界の悪い霧の中を、百華を連れて行動するのは危険だ。
「お姉ちゃん。気持ち悪い」
突然、百華が震えだし、千華にしがみついて来た。
「えっ?」
「こわいよぉ」
もしかして、ここにいるほうが危険かもしれない。
「よしっ、ママ探しに行こ」
百華の勘に従ったほうがいいと千華は判断した――
それにしてもどこもかしこも真っ白で数センチ先すら見えない。
「百華、手離したらあかんよ」
「うん」
声だけが聞こえる。
もしこの手の向こうがおじいちゃんみたいになってたらどうしよう。
百華の抜け殻と手をつなぐ自分を想像してぞっとした千華は左手に伝わる肉感と温かさを確かめるようにぎゅっと握り直した。
百華も同じことを思っているのか強く握り返してくる。
突然、傘の先に何も当たらなくなった。千華は傘を振って霧を散らし、目を凝らす。
「あぶなっ」
もう少しで用水路におちるところだった。
注意しながら進路変更し、再びゆっくりと歩き出す。
「お姉ちゃん、どこ行くん? ママどこにいてんの?」
泣きべそをかいているが、例の勘が今は出ていないことに千華は安心した。
「なんかあったら避難所は新関高校やって、いつもママ言うてたで、そやからそこへ行くつもりや」
「ちゃんと行けてんの?」
「うーん。それ聞かんといて。今、用水路あったからもうちょっとで門に着くと思うけど」
「信用してええの? お姉ちゃん方向音痴やんな」
ちょっとだけいつもの余裕が出て来たな。
千華は注意を怠らないよう慎重に傘を突きながら笑顔を浮かべた。
だが、ほんまにこっちでええの? と自分でも不安がある。百華の言う通り千華は方向音痴だ。
傘の先が柔らかいものを突いた。
霧を拡散すると新関高校の男子生徒の抜け殻が見えた。女子も混じって何体か折り重なっている。
方向が正しかったことは証明されたが、抜け殻の空ろな表情を見てこれは死体なのだと改めて認識させられた。
気が動転して深く考えていなかったが、おじいちゃんもジャックももうこの世にいないのだ。
千華の目頭が熱くなる。
「こわいよ。お姉ちゃん」
百華が腕にすがりつく。
「目ぇつぶっとき。見たらあかんよ。そしたら怖くないからね」
千華は涙を耐えた。
抜け殻を踏まないよう注意して歩を進める。
グギイィィィィィィィ
遠くで何かの声が響いた。
「なに? なんの声?」
「お姉ちゃん――こわい」
百華が腰にしがみつく。
千華も前方からの気配を感じる。傘を振り回すと新関高校の門柱が現れた。
数メートル先の霧がゆっくり左右に広がり、その中心にうっすらと見える影が近付いてくる。
千華は傘を構え、それを霧の中から現れた影に振り下ろした。
「うわっ」という叫びと共に傘が受け止められる。
「ちょっ危ないやん、お前っ」
小木原という名札をつけた男子高校生が大声で千華に怒鳴りつけた。
千華の目から大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
「あ、えっとごめん。別に泣かんでも――えっとぉ」
「お姉ちゃん泣かしたなっ」
「そやから、ごめんて」
「ゆるさへん」
百華が握りこぶしを振り上げた。
二人の間に割って入りたいが涙と嗚咽が止まらない。
だが、それは怒鳴りつけた小木原に対する怒りや悲しみのせいではけっしてなかった。