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春の訪れ

     十六   春の訪れ
 百合は一ヶ月に一度くらいのペースで帰郷していて、明人もそのたびに会うことができた。遠距離恋愛とまでは言わないが、こちらにいたときと比較すれば会う回数は少なくなって辛く感じる。そのようなデートを重ねて数ヶ月が過ぎ、季節はもう秋の気配が漂っていた。

 そんなある日、明人が会社へ出勤すると待ち兼ねたように横井が近づいて来て言った。
「おはよう。ちょっと話があるから聞いてくれるか?」
「おはよう、朝っぱらからどうしたんだ?」
「おまえ覚えているかな?去年のことだけど、吉村という子の話をしていたとき、俺に彼女ができたら、おまえに話すって言っていたことを」
「もちろん覚えているよ。じゃあ彼女ができたのか?」
「いや、そうではないのだが・・・・」
「違うのか。それじゃ何の話だ?」
「実は、おまえに頼みがある」
「とにかく話してみろよ」
「あのさ、ここの事務課に今年入社してきたばかりの(坂本 あずみ)という名前の子を知っているか?」
「名前と顔くらいは知っているよ。僕たちの設計課にもたまに来るだろう」
「そうそう、その子だよ」
「で、その坂本あずみって子がどうかしたのか?」
「俺、その子のことを気に入っちゃってさ」
「つまり好きになったというわけか?」
「まあ簡単に言うとそうだな」
「どう言ったって同じだろう。それで?」
「このまえ勇気を出してその子を食事にでも誘おうって思ったんだが、休憩時間はいつも友達と一緒にいてさ、彼女だけと話すタイミングがないんだ。それで仕方なく二人とも誘ったってわけだ」
「じゃあ三人でどこか行くのか?」
「いやいや、これから話すことがおまえに対する頼みだよ」
「おいまさかとは思うが、僕も一緒に来てほしいという頼みじゃないだろうな?」
「ピンポ~ン正解です。『四人でどこか行きませんか』って、誘ってしまいました。おまえには本当に申し訳ないと思っているけど、ここはひとつ協力をよろしく」
「う~ん、かなり勝手な奴だな。それでその子の返事はどうなんだ?」
「四人だったら、って条件でオーケーをもらったよ」
「そうか、そこまで話が決まっているなら仕方がないな。ほかならぬ横井の頼みだからな。ただし今回だけにしてくれよ。僕には彼女がいるから」
「すまないな。それじゃ善は急げというから、早速彼女とその子の友達に行く日の打ち合わせをするよ。ちなみに彼女の友達の名前は(片岡 優子)というんだ」
 明人は横井の頼みを聞いたものの、百合に悪いような気がした。たとえ四人とはいえ、ほかの女性と遊びに行くのは気が引けた。横井の頼みだから断ることもできないし、これ一回きりということで割り切って行くしかないなと思った。

 その日の昼休みに横井は坂本と打ち合わせをしたようで、その結果を報告にやってきた。今度の土曜日で時間は十時。待ち合わせ場所は会社の駐車場で、そこに他の車を置いて横井の車一台で行くとの話だった。

 そして当日がやってきた。明人は約束の時間の十分前に駐車場へ着いたが、横井はすでに来ていた。そして数分後、彼女たちも相次いでやってきた。四人は駐車場で自己紹介をしてから横井の車に乗った。助手席に明人が乗り、後部座席に彼女たち二人が乗った。
 坂本あずみはショートカットに軽くパーマをかけていて、目のクリっとした可愛い子だった。確かに横井が好きになりそうなタイプだと思った。坂本とは反対に片岡優子はセミロングの髪で、肩から下に十センチほど伸ばしている。美人ではあるが、やや冷たい感じのする顔立ちだった。鼻筋がとおっているから、そう思うのかもしれない。身長は二人ともそんなに変わらず、百六十センチあるかないかだろう。
 
 明人は車に乗ってから、今日の行き先を聞いていなかったので横井に聞いた。
「今日はどこへ連れて行ってくれるのかな?」
「あっ、しまった。行き先を決めるのを忘れていた」
「なんだって、どこへ行くか考えていなかったのか?」
「ああ申し訳ない。俺さ今日という日が来るのを嬉しいやら待ち遠しいやらで、一日千秋の思いで過ごしていたんだ。だから行き先のことは、すっかり頭になかったよ」
「一日千秋だったら考える時間は充分にあっただろう?」
「そんな揚げ足を取るなよ」
 二人のやり取りを聞いて、後部座席の二人は大笑いしている。
「じゃあどうするつもりだ?」
「そうだな、三方五湖方面はどうだろう。湖を見ながらレインボーラインを走ろうか?」
「おまえに任せるよ」
 もし横井に行き先を聞かなかったら、一体どうするつもりだったのだろう。聞かなかったほうが面白かったかもしれないなと思った。

 三方五湖は滋賀県の隣の福井県にあり、ここからは車で約一時間少々だろう。三方五湖はその名のとおり【三方湖】みかたこ【水月湖】すいげつこ【菅湖】すがこ【久々子湖】くぐしこ【日向湖】ひるがこ、と五つの湖がある。レインボーラインは有料道路で、美浜町側と若狭町側の両側とも出入り(ではいり)できるようになっている。横井は美浜町側の料金所から入り、若狭町側へ出るつもりだった。
 美しい景色を眺めながら走っていると「第一駐車場」と書いてある看板が見えた。取り敢えず少し休憩をしようと駐車場へ車を向けた。車を停めて外へ出ると、山の上に向かって動いているケーブルが見えた。近付いて行くと看板に「山頂公園」と書いてあり、そのケーブルは山頂公園までを往復しているのだった。ほかにも一人乗りのリフトがあるが、ケーブルで山頂公園に登ることにした。山頂に着いて周りを見ると湖はもちろんだが、日本海も見えて絶景だ。横井は持ってきたカメラで風景と女性を撮っていた。ただし風景より坂本あずみを写したかったのは言うまでもない。そんな美しい景色に見とれながら、四人は公園を後にして、再びケーブルに乗り駐車場へ戻った。
 横井は予定通り若狭町側の料金所を出て国道へ入ると、時計を見ながら「そろそろ、どこかで昼飯にしようか?」とみんなに聞いた。途中でレストランがあったので、そこへ入ることにした。それぞれが食べたいものを注文して、それを待っている間も、横井のお喋りは止まることなく口を動かし続けた。元々よく喋るほうだが今日は特に嬉しいのか、いつも以上によく喋る。もっとも女性側としても黙っているよりは、喋ってくれたほうが楽しいだろう。実際に二人とも楽しそうにしていた。

 食事が済むと店を出た。しばらく走ると左側の看板に【水晶浜】と書いてあったので、横井はそれを見て車のハンドルをその方向に切った。三十分ばかり走ると水晶浜に着き、車の中から日本海のきれいな景色と砂浜が見えた。夏はキャンプや海水浴で賑わっているのか、駐車場がそこかしこと多く作られている。車を降りた四人は砂浜へ足を向けた。海辺の近くまで行くと、女性二人は波と戯れながら楽しそうにしている。そんな二人を横井は再びカメラで撮り始めた。一時間ほど遊んだあと、まっすぐ帰路についた。  

 会社の駐車場に着くと横井は坂本との別れを惜しむかのように、淋しそうな顔をして言った。
「写真ができたら連絡するから」
「はい、楽しみにしています。今日はとても楽しかったです。ありがとう」
「俺も楽しかったよ、また機会があったら遊びに行こうな」
「ええ、また誘ってくださいね」
 社交辞令なのか本気なのかは分からないが、坂本の言葉に横井はまた誘うつもりでいた。
「じゃさようなら。安全運転で帰ってください」
「横井さんも気をつけて」
 横井は彼女の車が駐車場から出て行くのを見送っていた。横井が坂本に話し掛けている間、明人は片岡に今日のお礼と別れの挨拶をして車を見送った。

 それから数日後、横井は坂本あずみの仕事場へ行って話し掛けていた。
「先日はどうもありがとう。写真ができたよ」
「本当、見せてもらえますか?」
「それはもちろんだけど、車の中に置いてきたんだ。社内に持って入ると誰かに見られたら困るから」
 誰にも見られる心配はないのだが、横井は坂本と外で会う口実を作るため、わざと車の中に置いてきたのだ。仕事はともかく、こういうことには頭が切れるのだ。
「じゃあどうしましょう?」
「そうだな・・・片岡さんはどこにいるの?」
「今日は休暇を取っているの」
「休みなのか、仕方がないな。どうしようかな?・・・そうだ、坂本さんさえ良ければ仕事が終わってからどこかで会えないかな?」
「そうね、別に用事もないからいいけど」
「じゃあそうしよう。どこがいいかな?・・・あそこにしようか、会社から国道へ出て、少し北へ行った所に【やすらぎ】という喫茶店があるだろう」
「はい、知っています」
「そこで五時半に待ち合わせるってことでどう?」
「分かりました。必ず伺います」
「じゃあその時に写真を見てください」
 横井は嬉しそうな顔をして、自分の職場へ戻って行った。

 実を言うと、片岡優子が今日は休暇を取って休んでいるのを横井は知っていたのだ。坂本に写真の件を話す機会を何度も伺っていたのだが、周りに他の社員がいたので、ためらっている内に片岡の姿が見えないことに気づいたのだ。片岡も探したが、いつ見てもいないので休暇に間違いないと確信したのだった。そこで先ほどの坂本に対する会話となったわけだ。自分の練った作戦がものの見事にはまり、喜んで職場へ戻ると明人に二人で会うことを報告した。それからは仕事が終わるまで、時計ばかり気にしているのだった。

 やがて終了のチャイムが鳴ると(待ってました)とばかりに、急いでロッカーへ向かった。そんなに急がなくても近い喫茶店なので(充分余裕はあるのに)と明人は思ったが、(これも横井の性格だから仕方がないな)とも思った。

 喫茶店へ十分前に着いた横井は、店員さんに「連れが来るから後で注文します」と言い、駐車場ばかり見ていた。ちょうど五時半に坂本はやって来た。女性は化粧直しなどで、男のようにすぐには会社を出られないのだ。
「遅くなってごめんなさい」
「いや時間ぴったりだよ。何か食べるかい?それとも飲み物がいいかな?」
「それじゃ、コーヒーを頂くわ」
 店員さんにコーヒーを二つ注文したあと、袋から写真を取り出し坂本に見せた。彼女は上から順番に写真を見ながら、何やら独り言を言ってはニコニコと笑って見ている。その中でお気に入りの写真を別によけながら、見終わると横井に尋ねた。
「これだけ頂いても構いませんか?」
「もちろんいいですよ。好きなだけ貰ってください。僕は家のパソコンで、いつでもプリントしますから」
「じゃあ明日、優子にも見せますね」
「そうしてやってください」
「武田さんが写っているのは、この一枚しかありませんね」
「そうだな、あいつは俺たち三人を撮ってくれていたからな」
「この写真、私に貰えませんか?」
「別にいいけど、どうして?」
「実は私・・・・武田さんに好意をいだいてしまって」
 横井は彼女の言葉にびっくりして
「そ、そ、それは本当かい?」と、どもりながら聞いた。
 坂本はそんな横井の顔を見て楽しそうに笑った。
「冗談ですよ。それより横井さんにひとつ聞きたいことがあるので、正直に答えてくれますか?」
 横井は彼女が冗談で言ったとは思わなかったので、冗談だと聞いてホッとした。
「答えられることなら正直に言うよ」
「これは優子から聞いた話だけど、先日私に言っていたの。『横井さんはもしかしたら、あずみに好意を持っているのかもしれない』って、私は鈍感だから気づかなかったけど、優子は『まず間違いないわ』って言うのよ。それで本当のところはどうなんですか?」
 そう聞かれた横井は自分の顔は自分で見えないが、たぶん真っ赤になっていただろうと思った。努めて冷静に振舞おうとしたが、大きくなった鼓動だけは止められなかった。

 しばらく間をおいた横井は、言葉を選びながら返事をした。
「確かに片岡さんの推測は当たっています」
 それだけ言うのがやっとだった。
「やはりそうでしたか。それで私たちを誘ってくださったのね。先ほど私が『武田さんに好意をいだいてしまって』と言ったときに、横井さんの慌てぶりを見ていると、優子が言っていたことに確信が持てました」
「そうです、二人でドライブでも、なんて言うと断られそうだったので『四人で』と言いました。坂本さん、あの・・・もし良ければ場所を変えませんか?ここで込み入った話をするのは他のお客さんの耳もありますので、話しづらいのですが」
「そうね、そうしましょう」
 横井は代金を払うと車の所へ行き、助手席のドアを開けた。
「僕の車に乗ってください。走りながら話しましょう」
「はい」
「それで話の続きだけど、俺の心の中を君に知られてしまった以上、今から正直に話します。ストレートに言いますので聞いてください。・・・・坂本さん、もし俺のことを嫌いでなかったら、付き合ってくださいと言いたいところですけど、今は言いません。ただこれから時々でもいいので、二人で会ってもらえませんか?君の結論はそれからで構わないので」
 坂本はしばらく考えてから返事をした。
「横井さんのことはまだよく知らないので、好きとか嫌いとか、それはまだ何とも言えません。私は思うのですが、人って一目見ただけで好感を覚える人もいれば、反対に嫌なタイプだなと、感じる人もいるんじゃないでしょうか。それで先日誘ってもらったとき、あなたが私にとって嫌なタイプだったら断っていたと思います。それに今日だって二人では会わなかったわ。私は横井さんのことをやさしい人だと思っています。感情が顔に表れる人って基本的にやさしい人だと思うわ。怒りの感情だけは別だけど。反対に顔に表情を表さない人は冷たい人のように感じるわ。それにあなたはよく喋るし、ふふっ・・いえ決して悪い意味じゃなくてね。一緒にいて飽きないかもと思って」
「俺がやさしいかどうかは自分では分からないけど、少なくとも坂本さんにはやさしくできると思います。いや絶対にします」
「いいのよ無理しなくても。それよりあなたと付き合うって話はもうしばらく待ってくださいね。何度か会っている内に結論が出ると思うから。どんな結論が出るかはその時になってみないと分からないけど、しばらくは交際という言葉に束縛されずに、友達のような感じで会うだけにしてください」
「はい、俺はもうそれで充分です。本当に嬉しいお言葉で、ありがとうございます。今ようやく緊張から解放されました。ホッとしたら急にお腹が空いてきたので、どこかで御飯を食べませんか?」
「そうね、私もお腹が空いたわ」
「じゃあ行きましょう」
「わたし家に電話して、晩御飯は外で食べるから帰るのが少し遅くなると言っておきます」
 食事を済ませた二人は明日も仕事なので、あまり遅くならない内に帰ることにした。坂本の車が停めてある喫茶店の駐車場に入ると横井も自分の車から降りて、坂本に「携帯電話の番号を教えてください」と言って、教えてもらった。そしてこの前のドライブのときと同じように、彼女の車を見送ってから帰路に就いた。

        十七   大人の香り
 あくる日、横井は昨夜の坂本あずみとの話を包み隠さず明人に話した。よほど嬉しかったのだろう、横井の顔は満面笑みだった。明人も横井のことは気にかけていたから、恋が一歩前進したのは喜ばしいことであった。それからも横井は何度か彼女とデートをしていた。そしてそのたびに明人に報告をするのだった。

 しばらくして年に一度だけ実施される、一泊二日の社内慰安旅行の日がやってきた。坂本あずみと片岡優子が働いている事務課は、明人や横井の働いている設計課と合同で行く。その理由は事務課だけだと三十名ほどの人数しかいないので、観光バスを一台借りると席が余り割高になる。一台で二つの課が一緒に行くと、一人当たりの費用を安く抑えられるからだ。また人数が多ければ夜の宴会も盛り上がるので、一石二鳥というわけだ。設計課は男性が多く事務課は女性が多いので、男女の比率も合同のほうが合っていた。今年の旅行は福井県にある芦原温泉に行くことになった。
 会社出発が午後の二時、どこへも寄らずに直行するので到着は四時半前後。それから温泉に入り宴会は六時に始まる予定だ。バスの中で明人と横井は同じ席に並んで座った。また坂本と片岡も同じ席に座っていた。さすがの横井も坂本と一緒に座ることはしなかったが、彼女の席が気になるのか、頻繁に座っている方向を見ていた。
 ホテルに到着すると少し休んでから温泉に入り疲れを癒した。

 部屋に戻り喋っていると「宴会を始めるので宴会場へ来るように」と連絡があった。二人は入浴後の浴衣(ゆかた)姿のままで向かった。宴会場へ入るとまだ全員は揃っていないが、男性と女性が一部の人を除いて向かい合って座っている。明人と横井も男性が座っている側の空いている所に並んで座った。やがて全員が揃い時間も定刻になったので、幹事の挨拶から始まり部長の挨拶、そして事務課の課長が乾杯の音頭を取り宴会が始まった。最初は静かな出足だったが、やがてアルコールが体を支配していくと、徐々にみんなの雰囲気が変わってきた。ある者はビール瓶とコップを手に持ち、またある者は徳利と杯を持って自分の席から立ち上がり、それぞれが自分の上司や同僚の前に座って、酒を注いでは大きな声で喋っている。ふと宴会場の上座を見ると、ホテルの仲居さんとおぼしき人がカラオケの準備をしている。そろそろカラオケが始まるのだろう。歌好きの男性数人が本を見て曲を選んでいるようだ。明人と横井も隣の席の同僚たちと互いに酒を酌み交わしながら喋っていたが、横井は明人に「ちょっと行ってくる」とだけ言って、ビールとコップを手に持ち、立ち上がった。彼はまっすぐに坂本のいる方向に向かって歩き、彼女と片岡の前に座って話し始めた。

「こんばんは。二人とも今日は楽しんでいますか?」
 そう聞かれて、坂本が答えた。
「はい、とても楽しいです」
「それは良かった。入社後、初めての旅行だから楽しんでくださいよ、と言っても俺も二回目だけど。坂本さん、何か飲んでいますか?」
「ビールを少しばかり飲んでいます」
「じゃ俺からも一杯注がせてください。無理強いはしませんけど」
「じゃ一杯だけ頂きます」
「片岡さん、後になってすみません。一杯どうですか?」
「いいえ、どう致しまして。横井さんは【あずみ命】ですから、私のことは気にしなくてもいいですよ」
「ははは、まあそういじめないでください。ビールで良かったかな?」
「はい、頂きます」
 そう言うと注いでもらったビールを一気に飲み干した。
「うわっ、片岡さんていける口なのかな?」
「いつもは飲まないけど今日だけね」
 片岡はそう言いながらビールを手に取り「返杯です」と言って、横井のコップに注ぎ始めた。それを飲み干すと、次は坂本が「今度は私の返杯」と言って、空になった自分のコップを横井に渡し、ビールを注いだ。
 坂本は注ぎながら「武田さんもこちらに来てもらったら」と言うので、横井は「そうだな」と言って誘いに立った。やってきた明人は女性達に酒を勧めず、自分だけ注いでもらって飲んでいた。酒の勢いもあってか四人はいつも以上によく喋る。アルコールは人にもよるが、度を越えなければ人を明るく、そして冗舌にする。

 しばらく談笑したあと、横井が「坂本さん、カラオケ一緒に歌ってもらえませんか?」と言って立ち上がり、歌の本を持ってきた。坂本も若い女性なので「歌は大好きです」と言っている。二人は本を見ながら選曲をしていたが、曲が決まったのか一緒に立ってステージの方へ向かった。片岡は明人と二人になって「私たちも歌いませんか?」と聞いてきた。女性からそう言われて断るわけにもいかず「じゃ一曲、いきますか」と言って、本を手に取り曲を選び始めた。歌う曲を決めた二人は、すでに歌い始めた横井と坂本の近くへ行って歌を聞いていた。寄り添いながら歌っている二人を近くから見ていると、本当に仲の良い恋人同士に見えて、明人も嬉しくなった。
 彼らの歌が終わり、次は自分たちの番になった。前奏が流れて歌い始めると、横井と坂本はそのまま残って二人の歌っている前に座った。
 歌い終わった四人は一緒に席に戻り、渇いた喉を潤すべくビールを飲みながら喋っていると、幹事さんがマイクを手に話し始めた。
「皆さん、今日は楽しんでもらえたでしょうか。まもなく八時になりますので一旦お開きにしますが、このままこの部屋に残って飲まれていても構いません。またこのホテルの中にはカラオケバーもありますので、そちらへ行かれても結構です。疲れた方や眠い方は部屋に戻って休まれても良いかと思います。最後になりましたが、締めとしまして設計課の課長に挨拶をお願いします」
 幹事さんの話が終わって、最後に課長の挨拶で宴会は幕を閉じた。
 
 横井は時計を見ながら「まだ時間も早いから外へ何か食べに行こうか?」とみんなに聞いた。昨年も横井と明人は宴会後に外へ出て、男二人で食べに行った思い出がある。今年は女性と同伴なので、横井も張り切っているようだ。

 四人はホテルから外へ出て、ぶらぶらと歩き始めた。初めての土地なので右も左も分からないが、こういう所には必ず飲食店があるはずだ。探しながら五分ほど歩くと赤提灯が吊るしてある店が見えた。暖簾(のれん)にはラーメンと書いてあり、横井は「ここにしよう」と言って中へ入った。
 横井は椅子に座ると「味噌ラーメンを四つ、お願いします」と頼んでいる。普通は仲間に何を食べるか聞いてから注文するだろうと思ったが(それが彼の性格だから仕方がない)と明人は思った。ほどなく運ばれてきたラーメンを食べ始めると結構おいしかった。酒の後のラーメンというのは以外においしいものなのだ。温泉旅館といえば料理の味はともかくとして量的には少ない。それに加えてあまり料理を食べない内にビールを飲むから、ビール腹で空腹に気付かないまま宴会が終わってしまうのだ。それからしばらくすると空腹を感じてくるから、ラーメンを食べるとおいしいのだ。もっともラーメンじゃなくても、おいしく感じると思うが。
 四人は食べながら一緒に注文したビールをコップに注いで飲んだ。

 店を出ると横井と坂本は二人仲良く肩を並べて歩いた。そして必然的に明人と片岡が肩を並べる形となった。四人が横一線に並んで歩くわけにもいかないからだ。まだ九時にもならないこの時間に、まっすぐホテルに戻るような横井ではない。坂本と何やら喋りながらホテルの前を過ぎて、反対方向へ歩いて行く。明人はどうするべきか迷っていたときに、片岡が「武田さん、もし良かったらこのままもう少し散歩しませんか?」と言ってきた。明人としても帰って寝るにはまだ早い時間なので、片岡の意を酌んで散歩することにした。
 そこでふと前を見ると、少し先を歩いていたはずの二人は、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
「あれ、あの二人はどこへ行ったんだろう?」
「あら、私も気がつかなかったわ。さっきまで確かに見えていたけど」
 二人を追いかけてまで探すわけにもいかないので、明人と片岡は自分たちのペースでゆっくりとホテル街の道を散歩することにした。しばらく歩いていると街の外れに近づいてきたのか、灯りも街灯だけで周りが薄暗く感じられた。明人が(そろそろ引き返そうか)と思っていた矢先、片岡が突然自分の腕を明人の腕にからませてきた。そして小さな声で「武田さん、しばらくこうやって歩かせてください」と言った。片岡のそんな行動に少し驚きながらも(酒を飲んでいるから少し大胆になっているのだろう)と思い、何も言わずにそのまま歩いていた。自分に接している彼女は香水を付けているのか、ほんのりと甘い香りが漂っていて、彼女に大人の色香を感じるとともに心臓が高まっていたのだった。

 そのころ横井と坂本はホテルの前まで帰ってきていたが、横井はもっと一緒にいたいのか、まだ中へ入ろうとせずに玄関から少し離れた所にある椅子に腰掛けた。そして坂本もその隣に座った。
「武田さんと優子は、今頃どうしているかな?」
「そうだな、もう帰っているのか、まだそこら辺を歩いているのか分からないな?」
「私たちがわざといなくなったのに気付いたかしら?」
「いや、気付いてはいないと思うよ」
「先日も横井さんに話したけど、優子はこのまえ四人で遊びに行ったときから、武田さんに好意を持ったようなの。私に、はっきりそうとは言わないけど、優子の近くにいると何となく分かるわ。だから今日は機会をみて二人きりにしてあげようと思って、私はわざとあの二人の前から消えたの。二人きりにすれば優子も武田さんに対して、何かアクションを起こすかもしれないと思ってね。いきなり告白するなんてことはしないと思うけど」
「しかし君にも言ったけど、武田には付き合っている彼女がいるからなあ」
「そうね、それだけが問題なのよね。私としては友達の優子を応援したいけど、武田さんにとっては大きな迷惑かもしれないしね」
「俺は立場上何も言えないから、あの二人の気持ちに任せるよりほかないな」
「私は優子から何も聞かなければ、取り敢えず遠くから見ていることにするわ。今日は優子にチャンスを作ってあげたから、後は彼女しだいね」
「じゃあ、そろそろ入ろうか?」
「そうしましょう。また明日ね」
「明日の観光は四人で見て歩こうか?」
「分かったわ。優子にもそう言っておく」

 横井が部屋へ入ると明人はまだ帰っていなかったが、しばらくすると帰ってきた。
「遅かったな、片岡と一緒にいたのだろう?」
「そうだよ、そこら辺を歩いていたら遅くなってしまった」
「何か親密な話でもしていたのか?」
 横井はわざととぼけて聞いた。
「会社の話とか世間話をしていただけだよ。それよりおまえは彼女とうまくいっているのか?」
 明人は片岡の行動を横井に話さなかった。
「そうだな、まずまずといったところかな。返事はまだもらっていないけど、断られずに会ってくれているのは、うまくいっているからと捉えているよ」
「そうかそれは良かった。これからも彼女を大切にすれば、そのうち良い返事をもらえるよ」
「そうだ、明日観光に行くだろう。そのときは、また四人で歩こうって坂本が言っていたぜ」
「本当は二人で歩きたいのだろう?」
「いやいや、昼は二人だと目立つからな。ほかの社員の目もあるし、四人のほうがいいよ」
「じゃあそうしよう。おまえのために、もうしばらく協力するよ」

 一方、坂本の部屋では帰ってきた片岡に坂本が問いかけていた。
「優子、武田さんと今まで一緒だったの?」
「ええ、二人で歩いてきて今になったの」
「それで楽しい時間を過ごせたの?」
「それは・・・まあそうかも。だけど世間話をしながら歩いていただけよ」
「そうなの、つまらないわね」
「何がつまらないのよ?」
「だって二人きりになったのでしょう。手を繋いで歩いたとか、今度どこかへ遊びに行こうとか、何も進展はなかったの?」
「何もなかったわよ」
 明人が横井に言わなかったように、片岡も腕を組んで歩いたことを坂本に言わなかった。自分から進んで行った行為なので、言いづらかったのだ。

 あくる日の九時にホテルを出発したバスは、まず東尋坊に寄った。東尋坊は日本海に面しており景色が良いことで有名なのだが、切り立った高い崖と日本海の荒波で、もし崖から落ちたら絶対に死んでしまうような所だ。そして遺体も見つからないことが多いという。それで自殺の名所になっているのは非常に残念なことだ。
 昨日約束したように四人はバスを降りてから合流し、海のほうへ続く道を歩いていると御土産を売っている店が並んでいた。崖の近くまで来ると、日本海の荒波が岩に打ちつけられている様子を怖々と覗いていた。しかし海から吹き付ける風が強く、寒くなってきたので早々にこの場所を離れて東尋坊タワーに入り、家族への御土産を買った。やがて集合時間が近づいてきたのでバスに乗り、それぞれの席に戻った。バスは東尋坊を後にして昼食の店に立ち寄り、食事後は敦賀近辺にある御土産店を二ヶ所ばかり寄って、今年の慰安旅行が終わった。

 会社の駐車場に着いたバスからは、御土産を手に持った社員が次々と降車して家路へと消えていったが、四人は駐車場に留まり相談をしていた。時計の針は午後の三時半を指していたが、若者にとって家へ帰るにはまだまだ早い時間帯だ。相談の結果、近くの喫茶店へ行くことに決まった。店に入りコーヒーを飲みながら、帰ってきたばかりの旅行を振り返りながら思い出話をしていると、宴会のときに飲んだビールの話題になって、坂本は横井に話し掛けた。
「私、一度でいいから居酒屋へ連れていってほしいわ」
 聞くところによると、坂本も片岡も居酒屋は一度も行ったことがないと言う。
「それじゃあ、俺が連れていってやるから任せろ」
 横井は坂本を誘う手間が省けて、渡りに船とばかりに喜び勇んで返事をした。しかし行ったことがないのは片岡も同じだった。彼女は「私も行きたい」と言ったわけではないが、この場の状況から考えても坂本だけ連れていくわけにはいかないだろう。明人は「三人で行ったらどうだ」と横井に言いたかったが、ここで言うわけにもいかないので黙ってごまかし笑いをしていた。かれこれ一時間余り喋ってから、それぞれの家に帰るべく店を出て別れた。

        十八   心の中の葛藤
 季節は秋たけなわの十一月初め、百合は一ヶ月後に行われるハーフマラソンの大会に出場することが決まった。十月の末に一度帰郷したが、今度は大会のからみもあって正月休みまで帰らないとのことだった。
 明人は普段でも月に一度しか会えないのに(次は正月まで二ヶ月も会えないのか)と思い、かなりの苛立ちを感じていた。こちらから大阪まで行って会うこともできるが、百合の大会前の練習などを考えるとそれもできなかった。

 そんな折、横井が慰安旅行の日に坂本と約束をした「居酒屋へ連れていく」という話が決まり、明人に報告をした。今週の金曜日に仕事が終わってから行くとのことで、場所は高月町の国道八号線沿いにある居酒屋【熊五郎】という名前の店だそうだ。熊五郎という名前がどうして付けられたのか分からないが、なぜかその名前は気に入った。
 横井の話によると、坂本は「居酒屋に優子も一緒に連れていきたいので、武田さんも来てほしい」と言っていたそうだ。その話を聞いて「やはり、そうきたか」と思い、片岡の顔を思い出しながらひとしきり考えて「分かった、僕も行くよ」と横井に返事をした。
 明人は慰安旅行の夜、腕を組んで一緒に歩いた片岡の甘い香りが、心の隙間から忍び込んでくるのを感じていた。そして百合と長期に渡って会えないことで、苛立ちを隠すことができず「四人で会うのは一度だけ」と誓った自分自身との約束を破る結果となってしまったのだ。

 金曜日、五時半に会社の駐車場で待ち合わせた四人は横井の車に乗り、居酒屋へと向かった。彼以外の車は会社に置いておき、明日の休みに取りに来ることにした。
 居酒屋に入ると、それぞれが食べたいものを注文して、飲み物は生ビールの大ジョッキを注文した。外は寒いが中は暖房がよく効いているので暖かい。そのせいか仕事終わりの冷たい生ビールは格別だった。女性二人も初めての経験なので、店内を見回しながらおいしそうにビールを飲んでいる。話も弾んで良い雰囲気の中で二時間ほど過ごしただろうか、酒の入った明人はいつも以上に喋ったこともあり、先日からのストレスもそれなりに解消されたようだった。
 食事の代金を払うときにタクシーを二台頼んでもらい、それを待っている間に横井は「坂本を先に送ってから家に帰る」と言ったので、今日もまた必然的に片岡を送ることになった。もっとも彼女の家は木之本の町内だと聞いていたので、西浅井町の自分にとっては家に帰るまでの通り道と言っても良いほどの所だ。
 片岡はタクシーに乗ってからは、居酒屋でのお喋りが嘘のように黙っていた。(酒に酔って眠たいのだろう)と思っていたが、家の近くまで帰って来たとき、明人に話し掛けてきた。
「会社に置いてきた車を、明日取りに来られるのでしょう?」
「そのつもりだけど」
「私も明日取りに行くけど、もし良かったら同じ時間に会社へ行って、私をどこかドライブでも連れていってもらえませんか?」
 もしかしたら彼女は家の近くに来るまで、タクシーの中で考え事をしていたのではないだろうか?それまで黙っていたのは、話す勇気が出なかったのかもしれないと思った。まもなく家に着くので(どうしようか?)などと、考えている時間がない。それと酒に酔っていたので思考能力も少し低下していたのか、中途半端な返事をした。
「明日は十時ごろに車を取りに行きます。その時に会えれば行きましょうか?」
 それだけ言うと、ちょうど彼女の家の前に着いた。

 家に帰った明人は片岡に返事した言葉を思い出していた。「十時に車を取りに行く」と言って「その時に会えれば」とも言ったので、彼女は十時より早く来て自分を待っているに決まっている。自分の返事は「分かりました」と言っているのと同じことだと思った。そしてそのとき、一瞬ではあったが百合の顔が脳裏をかすめた。
 家に着いて部屋へ入ると酒の酔いも徐々に覚めてきた。それと同時に彼女に対して中途半端な返事をしたことを、少し後悔したのだった。しかし今更断ることもできない。

 翌日、当然のように会社の駐車場で会った二人は車に乗ると、行き先を相談した。彼女は「特に行きたい所はない」と言うので、明人は少し考えてから「じゃあ僕に任せてもらっていいかな」と言って、車を発車させた。
 車の中で二人の会話はあまり弾まなかった。彼女は元々そんなにお喋りする性格ではない。明人は普段なら人並みに喋るのだが、今日は車の運転をしていても百合の顔が頭の中にちらついていて、会話の話題すら思いつかない状態だった。(百合と交際しているのに、こんなことをしていていいのか)と自問自答しながらの運転だった。百合と交際していることを彼女は知らないから、こうやって自分を誘うのだろうけど、それを断らない自分が一番悪いと思う。自分の行為は百合と片岡の二人を騙しているといっても、決して過言ではないだろう。確かに昨夜は少々飲みすぎてはいたが、片岡の誘いを断ることもできたはずだ。今更後悔しても、もう遅いし話もしないでドライブをしていても楽しくないだろう。根がやさしい明人は彼女を気遣った。それからは出来るだけ話題を探しながら話しかけた。
「今日は会社の駐車場まで誰に送ってもらったの?」
「父です。今日は会社が休みなので、家にいるから送ってあげようと言ってくれて」
「それでお父さんに僕と遊びに行くって言ってきたの」
「ええ、誰とは言わないけど、出掛けてくるから帰りは夕方になると言いました」

 車で三十分ぐらい走っただろうか、高島市マキノ町に着くと明人は片岡に聞いた。
「君は【マキノピックランド】って、知っているかな?」
「何度か聞いたことはあります。でも行ったことはありません」
「そうですか。そこは一年を通じて色々な果物を作っているので、いつも多くのお客さんで賑わっているんですよ。今は十一月だからりんご狩りだね。あとはブルーベリーや栗、それに芋掘りもできます」
「そうなんですか、じゃあ来年でも来てみようかしら」
「そうするといいよ、好きな果物がある時に来るのが一番かな。それとその近くに【メタセコイヤ並木】という所が在ってね、メタセコイヤという木が道の両側に約五百本も植えられていて、その道の長さは二四〇〇メートルあるんだよ。今の季節だと黄色く紅葉していて、とてもきれいだから寄っていきませんか?」
「はい、連れていってください」
 明人は右へハンドルを切って国道から県道に入り、十分ばかり走ると先ほど話していたマキノピックランドが見えた。そこを通り過ぎると、すぐにメタセコイヤ並木へ着いた。
「ここがそうだよ。紅葉がきれいだろう?」
「枝が両側から道の上まで覆いかぶさっていて、とてもきれいです」
「ただこの木は落葉高木だから、もうしばらくすると葉が枯れ落ちてしまうのが残念だけど」
「そうなんですか。でも季節ごとに葉の色が変わることとか、葉が落ちて枝だけになっても、それはそれなりに季節感があっていいと思うわ」
「そうだね、四季折々の景色を見るのもまたいいかもしれないね。このメタセコイヤは日本名でアケボノスギといって、高さ三十五メートルくらいになるんだ。植えられたのは昭和五十六年だと聞いているよ」
「武田さんはよくご存じですね」
「インターネットで見たから知っているだけです。それと、ここは一部のマニアから【冬ソナ通り】とも言われているんだよ。冬ソナとは韓国ドラマの【冬のソナタ】を略してそう言うのだけど、片岡さんは冬のソナタを知っているかな?」
「タイトルだけは知っているけど、見たことはありません」
「そうだろうね、そのドラマは確か二〇〇六年に作られたと思うけど、僕が中学生になった頃だから君はまだ小学生だよね。僕は親が買って見ていたDVDを母が見終わってから放ってあったので借りて見たけど、それは確か高校生のときだったと記憶しているよ。そしてそのドラマを見て、とても感動したのを今でも覚えているよ。一言で言えば、悲恋の物語ですね」
「そんなに感動するのなら、私も見たいわ」
「見る価値はあると思うよ。レンタルビデオの店には、まだ置いてあるかもしれないね?それで、そのドラマの撮影に使われた場所が、このメタセコイヤ並木によく似た所だから、ここが【冬ソナ通り】と言われているんだ」
「そうだったんですか、じゃあ一度ビデオ店に置いていないか見てきます。その前に簡単でいいので、ドラマのあらすじを教えてくださいますか?」
「それはいいけど、とにかくかなり前のことだから僕も忘れたところもあるので、間違っていたらごめんよ。それに話し過ぎると、見る楽しみがなくなってしまうよね」
「それはそうだけど、本当に簡単でいいの」
「それじゃ最初は主人公二人の出会いから話すよ」

【ある年の冬の日、二人は通学しているバスの中で知り合い、やがてお互いに好意を持つようになる。そして大晦日の夜にデートの約束をしたのだが、彼が待ち合わせの場所に来なくて彼女はふられたのではと思い込んでしまう。しかしそうではなく、来られなかった理由があった。その理由とは・・・】
 そこの部分は話しません。聞かずに見るほうがいいと思います。そして続きだけど、【そうとは知らない彼女は彼を探すが、まるで消えてしまったかのように見つからず、月日は過ぎていく。そして彼女は彼のことをあきらめて、一人けなげに生きていく決心をする。しかしあきらめたと言うものの本心は忘れようと思っても忘れられなくて、辛い毎日を送っていた】
 それからの彼女は自分の回りで色々な出来事が起きるのだけど、それを話すと見ていて面白くなくなるから、それも話さないよ。そして彼が約束の場所に来られなかった理由もやがて分かるよ。じゃ、あらすじの最後を言います。
【それから長い年月が過ぎたある日、彼女は一冊の本がきっかけで、もしかしたら彼はそこにいるのではないかと考え、すぐにその場所へと向かう。果たしてそこには・・・・そしてラストを迎える】と言った感じのドラマだけど、ラストシーンはきっと感動すると思うよ」
「ありがとう、あなたからあらすじを聞いて、やはり見たくなったわ」
「じゃ、ここはこれくらいにして違う所にいこうか?」
「はい」
 
 明人は国道に戻り南へと車を向けた。しばらく走ると、看板に【道の駅しんあさひ風車村】と書いてあったので看板を見て、その方向にハンドルを切った。風車村はその名のとおり【オランダ風車】が二基、立っている。高さは十八メートルあり、その周辺もオランダの田園風景をイメージして作られたので、まるでオランダにいるような気分になる。
 車を駐車場に停めた二人は料金を払って入場し、ゆっくりと一周してから時計を見たら十二時を過ぎていたので「昼食にしようか」と言って、レストランへ入った。昼食を食べ終わったあと、彼女は家族に「御土産を買って帰る」と言って売り場へ向かった。こうやって出掛けることをあまりしないのか、たまに出掛けたときくらいは買って帰ろうと思ったのだろう。どこへ行くとは言っていないのだから買う必要もないのだが、家族思いなのかもしれない。
 片岡はあれこれ見てから二点ばかり買い「おまたせ」と言って土産袋を提げて戻ってきた。

 風車村を後にして帰る方向に車を向けた明人は、まだ時間が早いのでどこか他に行く所はないかなと考えていたが、特に思い浮かばなかった。
 明人の地元近くまで帰って来たとき、奥琵琶湖パークウェイの看板に気付いたので、行くことにした。奥琵琶湖パークウェイは全長十八・八キロメートルのドライブウェイで、開通当初は有料だった料金も、今は無料になっている。二人は一番上にある駐車場に車を停めて外へ出た。
 高い所から見下ろす琵琶湖はとてもきれいで、明人は景色を見ながら物思いにふけっていた。安全の為に設けられている柵を両手で掴んで、琵琶湖をぼんやりと見つめていると、片岡がそっと傍らに寄ってきた。
「武田さん、差しつかえなければ携帯電話の番号を教えていただけませんか?」
 そう頼まれて特に断る理由もないので「いいよ」と言って教えた。彼女は決して口数の多い女性ではないが、ここという時には自分から積極的に行動を起こすタイプなのだろう。外面的にはもの静かに見えるが、内面は常に熱い情熱の炎を燃やしているのだろうか?百合と比べたら反対のタイプかもしれないと思った。あと一時間もすれば今日のドライブも終わりを迎えるが、残りわずかな時間の中で自分の気持ちを表現してから、今日の楽しかった一日を終わりたいのだろう。
 だが今になって明人は悩み始めていた。百合のことを話すべきか?それとも黙っていたほうが良いのか?もし言えば彼女は傷つくかもしれない。黙っていれば傷つくことはないが、騙しているようで自分の心が苦しい。それに日が経つほど言い出しづらくなる。自分から誘わなくても彼女から誘ってきたときに、断る勇気があるだろうか。断るのが一番良い解決策かもしれないが、彼女が傷つくことは目に見えている。どうすればいいのか、すぐに答えは出なかった。
 その日以降、片岡は何も言ってこなかったので、それだけは救いだった。しかし反対に何か物足りなさも感じていた。そんな自分の気持ちが自分でも分からなかった。

         十九   初マラソン
 季節は師走を迎え、いよいよ百合のハーフマラソンの日がやってきた。前日の夜「明日、走ります。遠くから応援してくださいね」と、母と明人に連絡をした。
 体調は問題なく天候などの条件さえ良ければ、好タイムも期待できそうだ。今回のレースは大阪で行われる【大阪ワールドマラソン】という一般市民も参加するマラソンで、百合はハーフマラソンの約二十一キロを走る。同じ陸上部からの出場者は、今年一緒に入社した同期の四人で先輩たちは出場しない。スタートは午後の十二時ジャストで、大阪城公園から長居陸上競技場までのコースを走る。昨年の大会における優勝タイムは一時間十二分台と聞いているが、自分の今の実力ではかなり難しいタイムだと思った。しかし今回結果を出せば、次はフルマラソンの出場を推薦してもらえるかもしれない。わずか一度だけ結果が良かったからといって、スムーズにフルマラソンに移行できるとは思っていないが、監督やコーチに認めてもらえるチャンスなので頑張りたい。

 レース当日、天候は晴れで風も少なく良い条件となった。百合はスタート前に会社名の入ったゼッケンを着けながら、自分のためにも会社のためにも頑張ろうと思った。ただこのレースは市民マラソンなので、最初から自分のペースで走ることはできないだろう。参加者が非常に多いので一斉にスタートするというわけにもいかず、前の選手から順番にスタートしていくが、最初の内は、「芋を洗う」とまでは言わないにしても、かなりの「だんご状態」になると予測できる。ある程度バラバラになるまでの何分間かは、我慢の走りをしなければならないだろう。そうこう考えていると、いよいよスタートの時間がやってきた。そしてスターターのピストルが鳴った。
 取り敢えず最初の数キロは周りを気にせず、体を温めるくらいの気持ちでペースを守って走った。その後はだんご状態から開放されるので、そこからが本当の勝負になる。そして自分のペースを守りつつトップ集団から遅れないように走った。特に注意していたのは五キロのラップタイムだが、十八分以内で走りきるのを目標にしていた。今日までの練習でもそのタイムを意識して練習してきたので、特に問題はないはずだ。ただ今回のレースは周回コースと違って普通の道路なので、上りもあれば下りもある。特に上りになればタイムは落ちるだろう。上りの練習もしているが、このレースと同じコースではないので、それだけが不安材料だった。しかしそんな不安は思い過ごしだった。極めて順調に十五キロを走り終えて、残りは六キロとなり現時点で百合のいるトップ集団も徐々に人数が減ってきて、今は五人のみとなった。

 百合の家では、テレビ中継が行われないハーフマラソンなので、母は娘の初レースを心配しながら昼食を食べていた。娘の話だと普通に走れば一時間三十分以内でゴールするだろうから、二時から三時の間には結果を伝えると言っていたが、それまでの時間は非常に長く感じられた。また明人も母と同様、結果に気を揉んでいた。順位やタイムの結果ではなく、途中で体調が悪くなっていないだろうか、走っている最中に足を痛めてはいないだろうかなどの心配だった。明人にとっては(彼女が無事に完走できれば、それが何よりだ)と思いながら、時計を見ると一時を過ぎていた。順調ならもうすぐゴールするだろう。
 残り三キロとなった所でトップ集団の一人がスパートを掛けてきた。それに遅れまいと、もう一人が付いていく。だが百合はそのスピードに付いて行けずに離された。そして三位で競技場のトラックに入った。その差は百メートルくらいだろうか?しかし競技場内で追い越すことができずに、そのままの順位でゴールした。タイムは一時間十三分五秒だった。トップのタイムは一時間十二分四十三秒で、その差は二十二秒差だった。結果的に一位にはなれなかったが、初マラソンでこの順位とタイムは自分なりに満足していた。反省すべき点はあるが、次回のレースで今回の悪かった点を修正すれば、自然と結果は付いてくると感じた。
走り終えて一時間ほど後に母と明人に電話を入れた。二人とも初マラソンの結果には満足してくれた。特に母は片親だけに心配もひとしおだったのだろう。電話の声が潤んでいたように聞こえた。

 その日の夕方、会社へ戻ると早速反省会が行われ、コーチから今後の練習方法とレースにおける個々の問題点を伝えられた。百合はレース後半を除いて問題はなく三位という結果を褒められたが、残り三キロの地点でスパートを掛けてきたランナーに、付いて行けなかったことを今後の課題とされた。具体的にはもっと持久力を身につけて、最後のスパートを自分から掛けられるようなペース配分をする。レース前半はオーバーペースにならないように注意して走る。そして気持ちの持ち方では精神面がもっと強くなるように、メンタルトレーニングをするように言われた。  
 監督からは「トップとの二十二秒差は小さいようでも、このマラソンの世界では決して小さい差ではない。その差を埋めるにはどうすればいいのか、自分でしっかりと考えながら練習をしなさい」とのことだった。自分なりにベストを尽くしたつもりであっても、監督やコーチの目から見れば、課題もたくさんあったようだ。そしてそれらの指摘を素直に聞き入れて、今後の練習に取り組もうと思った。

        二十   二人の結論
 まもなく新しい年を迎えようかとする十二月の半ばに、片岡から明人の携帯に電話が入った。この前二人で遊びに行ってから、ちょうど一ヶ月ぶりのことだった。
「武田さん、お元気ですか?」
「はい元気です、片岡さんも?」
「私も元気です。会社で見かけないので、どうしてらっしゃるのかと思って」
「そうですね、職場が違うと敢えて会いに行かない限り、会いませんよね」
「先日はドライブに連れていっていただき、ありがとうございました」
「いいえ、どう致しまして」
 片岡は彼の「どう致しまして」の言葉の後に「もし良かったら、また行きませんか」と言ってくれることを期待したが、どうやら期待外れに終わったようだ。そして次の言葉が浮かばなかった。少し間ができてしまったが、勇気を出して言った。
「武田さん、今度の土曜日は何か用事がありますか?」
「特にありません」
「じゃあ会っていただけませんか?」
 いずれこんな日がやって来るだろうと覚悟はしていたので、彼女には百合と交際していることをはっきり話そうと決めていた。それで迷わず「実は僕も片岡さんに話したいことがありますので、土曜日に会いましょう」と返事をした。

 土曜日になり、明人は約束の十一時に待ち合わせ場所の喫茶店に行った。少し早く来たのだが、片岡はすでに来ていたので待たせたことを、ひと言詫びた。
「お待たせしてすみません」
「こちらこそ今日は無理を言ってすみませんでした」
「いいえ、先日も電話で話したように、僕も君に話があったので今日は良い機会です」
 明人はいきなり話の核心に迫るような言い方をした。
「そのお話ってなんでしょう?」
 片岡はどこか不安そうな顔つきで問い返してきた。
「ここではなんですから車の中で話します。それより少し早いようですが、お腹は空いていませんか」
「そうですね、軽いものなら」
「サンドイッチでも食べませんか?」
「はい、それくらいなら」
「じゃそうしましょう」
 本当は後でレストランに食べに行くと良いのだが、話の結果によっては食事どころではなくなる可能性も充分考えられるので(今の内に少しでも腹を満たしておいたほうが良いだろう)と思った。

 喫茶店を出た二人は車に乗ってから、落ち着いて話のできる場所に移動した。十二月も半ばになれば気温も下がり、寒くて屋外には長時間いられないので琵琶湖岸にある駐車場に車を停めて、暖房を掛けて車内で話すことにした。この季節になると琵琶湖付近のドライブや観光も、めっきりと減ってくる。
 途中、コンビニに寄って暖かいお茶を買ったので、明人は話を始める前に栓を緩め、少し飲んでから話を切り出した。
「片岡さん、今から話しますので聞いてください」
「はい」
「その前に、ひとつだけ聞きたいことがあります。率直に聞きますが、君は僕のことをどう思っているのですか?気持ちを聞かせてください」
 片岡は少し間をおいて答えた。
「武田さんはすでに気付いておられると思いますけど、私があなたを誘う理由はたったひとつだけです。あずみ達と四人で遊びに行った時に、初めてお会いしました。正直に言いますと、そのときからあなたに好意を持ちました。その気持ちは今も変わらず、いつも会いたいと思いながら毎日を過ごしています」
「そうでしたか、分かりました。女性の君に言いにくいことを言わせてすみませんでした」
「いいえ、いずれはっきりさせなければいけないと思っていました。それに自分の気持ちを隠したまま会っていても苦しいだけですから」
「分かります。僕も確信はありませんでしたが、君の気持ちには薄々気付いていました。正直に言っていただいたことに関しては感謝します。ありがとう。それじゃ僕の話をします。
 実は一年ほど前から交際している女性がいます。その人は大阪に勤めていて一ヶ月か二ヶ月に一回会う程度で、あまり会えないのですが、交際は続いています。ただその人とあまり会えないのは僕にとって大変寂しいことで、時にはいらいらしてストレスも感じます。ちょうどそんなときに横井と坂本さんを通じて、君と知り合いました。たまたま会社の慰安旅行もその頃にあり、その後も坂本さんから居酒屋へ行きたいという話が出て、僕も誘われて行きました。その結果、君とは一度のみならず二度・三度と会う機会が増えていきました。それは別にいいのですが、ただ慰安旅行にしても居酒屋にしても、酒を飲んでいたので少し気が大きくなっていたのかもしれません。それで君の誘いを断ることもせずに、二人だけで遊びに行きました。もちろん酒を飲んだ勢いだけで君の誘いを受けたわけではありません。交際している女性と会えない寂しさや、ストレスの解消を君に求めてしまったのだろうと思います。でも僕は決して誰とでも遊びに行くようなことはしません。片岡さんだから遊びに行ったのです。あなたはそれほど素敵な女性です。そんなことを言うと交際している彼女が聞いたら怒るかもしれませんが。だからといって二人とも交際するというわけにはいきません。二人に対してそんな失礼な行為をできるはずがありません。話が長くなってしまいましたが、僕の結論を言いますと、今後は二人で会うのは止したほうが良いと思います。だったら横井や坂本さんと四人で会うのは良いのか、という話になりますが、それも出来れば避けたいと思っています。あなたが僕に対して恋愛とまでは言えなくても、そういう感情を持ったままで会い続けると、忘れられるものも忘れられなくなってしまうと思うのです。分かっていただけたでしょうか?」

「お話、よく分かりました。私も迂闊(うかつ)でした。交際している女性がいるのかどうかを確かめもせずに誘ったりして。でも私はあなたに交際相手がいてもいなくても、気持ちは変わらなかったと思います。お話の中で『私だから遊びに行ったのです』と、おっしゃいましたね。私はそういうふうに言われるとよけいに未練が残ります。いっそのこと『好きになれないから付きまとわないでほしい』と言われたほうが、諦められます。私をなるべくなら傷つけないようにと気遣って、そう言われたのだと思いますが。それが武田さんのやさしさであり、そんなやさしい人だからこそ、好きになったのだと思います。私はあなたからどう言われようと諦めたくありません。このまま別れたくありません。これが私の結論です。もし私を少しでも気にかけていてくださるのでしたら、もうしばらくの間だけでも会ってください。そしてもっと私を知ってください。それでもだめだったら諦めます」
 明人は彼女の言葉に、どう返答すれば良いのか分からなかった。彼女は続けて言った。
「私はいつまでも待ちます」
「しかし長いあいだ待ってもらって、結局悪い結果になったら今以上に辛い思いをさせてしまいます」
「そのときは、そのときです。日が経てば私の気持ちも変わるかもしれません」
 明人は思った。(今この話を続けても自分がはっきりと断らない限り、話が終わることはないだろう)と。優柔不断な自分が一番悪いのだ。
 提案は物別れという形で終わってしまったが、彼女にああいうふうに言われると、どうしても突っぱねることができないのだ。しかしどう考えても良い結論は出ないだろうと思う。百合に対して罪の意識を感じながら片岡と会っても、決して楽しくはないだろう。それに彼女の気持ちを知ってしまった以上は友達とか会社の仲間とか、そういうふうに割り切って会うこともできない。やはり心を鬼にしても断るのが最良の方法だと思った。

        二十一  ひとつ屋根の下で
 クリスマスイブの夜に、横井は坂本と二人でホテルのレストランを予約して食事をしたあと、坂本から正式に交際をオーケーしてもらったとのことだった。二人の新しい門出を武田は祝福した。しかし自分と片岡のことは、まだ何も決まらず辛いクリスマスとなってしまった。クリスマスが来ようと正月が来ようと、自分から片岡に連絡しない限り、彼女から連絡はないだろう。「いつまでも待ちます」と言っているのだから、連絡の電話を待ち続けるだろう。

 百合は正月休みに入った三十日に、里帰りをした。明人に電話をして、元旦の一日(ついたち)に百合の家で会う約束をした。
「母がおせち料理を作ってくれたので、一緒に食べましょう」
「一日早々でも構わないの?」
「ええ、誰も帰って来るわけではないから、いつでもいいわよ」
「じゃあ伺わせていただくよ」

 明人は新たな年が明けた一日早々の十一時に、百合の家を訪れた。玄関のチャイムを鳴らすと彼女が出迎えてくれた。顔を見るのは実に二ヶ月ぶりだった。久しぶりに会う彼女を見て明人は自分の心の中を、どう言えばいいのだろう?最初の頃に会っていたときと同じような、わくわく・どきどきした感じ?嬉しい気持ちとは別に、なんとも言葉に表せない気持ちで胸が熱く感じたのだった。
「あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
「これ、つまらないものですけど食べてください」
 明人はそう言って年末に買っておいた洋菓子を渡した。
「どうもありがとう。どうぞ入ってください」
「お邪魔します」
 そこへ母が顔を見せたので新年の挨拶を交わしたあと、部屋へ入り百合に話し掛けた。
「マラソン、頑張ったね」
「みんなに応援していただいたので頑張れました」
「でも疲れたでしょう?」
「その場は少しね。でも若いから回復も早いのよ」
「それじゃまた次のレースにも出るの?」
「はい出ます。どのレースに出るのか、まだはっきりと決まっていないけど、次は三月から四月頃だと思うわ」
「次もハーフマラソンかい」
「ええ、もう一度ハーフを走って良い結果を残せたら、その次はフルマラソンになると思うわ」
「でもフルだと距離が二倍になるだろう。そんなに走って大丈夫なのかい?」
「今は不安だけど、走るのはまだまだ先のことだと思うの。それまでに少しずつ距離を延ばしながら練習をするわ」
「それでも決して無理はしないでくれよ。まだまだ若いんだから、あせらずに少しずつやればいいから」
「そうします」
 そこへ母がやってきた。
「ちょっと早いけどお昼にしましょうか。今日はお正月なのでこの部屋で食べましょう。百合も運ぶのを手伝って」
 そう言って二人でキッチンへ向かった。

 料理を持ってきた母が、明人に聞いた。
「お酒は飲まないの?」
「飲みますけど、会社関係の人や友人との付き合い程度だけで、家では飲みません」
「じゃ、今日は私に付き合ってくださいね」
「お母さんは飲まれるのですか?今まで見たことなかったから」
「私も家では滅多に飲まないけど、頂き物のお酒があるので、せっかくだから古くならない内にと思って。それに新年のお祝いや、マラソンの入賞お祝いも兼ねて飲みましょう。もっとも百合は未成年だから飲めないけどね」
「私もあと半年すれば二十歳よ。来年のお正月はたくさん飲みますから」
 百合は少しふくれた顔をして言った。
「じゃあ少し待っていてくださいね。すぐに用意をしますから」
 母はそう言って、再びキッチンへ向かった。

 しばらくすると熱燗の徳利と盃を持って部屋に戻った。
「百合、お注ぎして」
「はい、明人さん一杯どうぞ」
「ははは、百合ちゃん中々堂にいっているね」
「子供の頃、お父さんに注いでいましたからね」
「どおりでうまいわけだ」
 母は二人のやりとりをそばで見ながら笑っていた。
「じゃ、お母さんには僕から注がせていただきます。どうぞ」
「ありがとう。じゃいただきましょうか」
 こうして三人の正月が始まった。テレビでは袴姿の男優や、着物姿の女優がバラエティ番組で騒いでいた。

 しばらくして明人が「帰りの運転があるのであまり飲まないようにしないと」と言ったら、母が「じゃあ、うちに泊まっていきなさいよ」と言ったので、明人と百合はびっくりして顔を見合わせたあと、百合が言った。
「お母さん、お酒を飲み過ぎたんじゃないの?」
「いいえ、そんなに飲んじゃいないけど、どうして?」
「だって明人さんに、いきなり泊まっていきなさいなんて言うから」
「それはね、お酒を飲んで車を運転したら飲酒運転になるでしょう。もし交通事故を起こせば大変なことになるからよ。警察だって検問しているかもしれないし、捕まったりするよりは泊まったほうがいいでしょう。アルコールが体から抜けるまでは長い時間が掛かるのよ。時間が経って酔いが覚めたつもりでも、体の中のアルコールは抜けていないものよ」
「それは私も分かるわ。だけど・・・・」
「それに泊まるって決めたらゆっくりと飲めるじゃないの。百合も武田さんが少しでも長くいてくれたほうが嬉しいでしょう」
 そう言われると当たっているだけに何も言えないのだった。
「じゃ、そうと決まったらもっと飲みましょうね」
 明人は自分に泊まるかどうか聞かず、一方的に泊まることに決めてしまった母に、苦笑いするよりほかなかった。確かに母の言うとおり、飲酒運転をして事故を起こせば取り返しのつかないことになる。(それじゃ、お言葉に甘えて泊めていただこうか)と思った矢先、百合が半信半疑で聞いてきた。
「明人さん、本当に泊まっていくの?」
「そうだね、お母さんの言うように酔いが覚めたつもりでも、アルコールは体の中に残っているだろうね。当たりまえのことだけど、飲酒運転は絶対してはいけないから、もし差し支えなければ泊まらせていただこうかな」
 百合は同じ屋根の下で彼と一緒に長時間過ごせるのは嬉しかったが、なんとなく母の策略ではないかと感じた。なぜなら彼が車で来ているのが分かっていながら、酒を飲ませて敢えて帰さないようにしたのではないか。それともそれは私の考え過ぎなのか。正月だから単に酒を飲む相手が欲しかっただけかもしれない。母の真意は分からないが、それを聞いたところで正直に白状する母ではないと分かっていた。

 やがて夕闇が町を覆い始めた頃、降っていた雨はみぞれに変わり、それから雪に変わった。外は徐々に気温が下がっているのだろう。家の中は暖房をしているから暖かくて、外の寒さは分からない。百合は彼と一緒にいるから心の中も暖かい。それは明人も同じだった。そして二人は初めて一つ屋根の下で過ごすのだ。心も体も暖かくて当然だろう。
 夜も更けて明人は案内された部屋で考え事をしていた。それは片岡優子のことだ。彼女が素敵な女性であることには違いないので、これからも会うことになれば自分の気持ちが変わる可能性だって捨てきれない。しかし今まで数回会って恋愛感情を持たなかったのだから、おそらく今後も持たないだろうと思う。百合には一度会っただけで好意を持ってしまったのだ。百合に会えない寂しさを、他で紛らわそうとしたことが一人の女性を傷つける結果となってしまい、そして自分自身も悩みを抱えて苦しくなったのだ。彼女には悪いが、はっきりと断るべきだと明人は思った。しかし、いざ会って彼女の顔を見て断ることができるかどうか自信がなかった。会って話すより電話のほうが言いやすいが、電話一本で済ませられる話ではないだろうと思う。どうするべきか考えていたのと、さらには枕の違いもあって寝付けなかった。

 あくる朝になり起きて外を見ると、うっすらと雪化粧をしていた。百合は「昨日、練習を休んだので今日は走ってきます」と言って、練習に出掛けた。少し雪が積もっているが、凍っていないので大丈夫らしい。
 それから二人は彦根市の多賀町にある多賀大社へ初詣に出掛けた。そこは地元で【お多賀さん】という愛称で呼ばれている有名な神社だ。明人は初詣を済ませたあと、百合の母と自分の家に名物の【糸切り餅】を御土産に買った。
「百合ちゃん、神社では何をお願いしたの?」
「今年も私とあなたが元気で過ごせますように、ってお願いしたわ。明人さんは何を願ったの?」
「僕は君が怪我をしないこと、そしてマラソンで良い結果が出ますようにと、お願いしたよ」
「本当、それはありがとう」
 明人は百合を家まで送り、すぐに帰るつもりだったが「お茶だけでも飲んで」と言うので、少し寄ってから帰った。

 家に帰ると、母が「昨日はどこに泊まったの?」と聞くので「横井の家に泊まった」と、答えておいた。昨日の電話では「酒を飲んだから友達の家に泊めてもらう」とだけ言って、誰の家に泊まるとは言わなかった。まさか「彼女の家に泊まった」などとは言えない。本当のことを言えば、母はめまいがして倒れるかもしれないからだ。

 一月四日、百合が大阪へ帰る日が来た。また少なくとも一ヶ月は会えないだろう。でもそれが寂しいのは自分だけじゃない、百合だって同じだ。昨年までの自分勝手な行動を反省して、今年は彼女に対して後ろめたいことをするのだけは止めようと思った。そして近日中に片岡とのけじめをつけようと決心した。

        二十二   時が解決
 五日の仕事始めの日、横井が明人のところにやって来て「今週の金曜日だけど、新年会をしないか」と言ってきた。メンバーを聞いたらやはり前回と同じ四人で、昨年行った居酒屋でするとのことだった。横井は僕と片岡の現在の状況を知らずに誘っているのか、それとも坂本に何かを聞いて知っていながら誘ってくるのか、それを聞きたかったが、何も知らずに誘っているのだとしたら、聞けばやぶ蛇になりそうで聞けなかった。いずれにしても片岡優子には一度会って話をしなければならないので、新年会に参加して終わってから話をするのが良いだろうと思った。

 金曜日の仕事を終えた四人は、駐車場で待ち合わせて居酒屋へ向かった。酒と料理を適当に注文して、それを待っている間はごく普通の世間話をしていた坂本だったが、酒を飲み始めて三十分ほど過ぎた頃、話の矛先を明人に向けて、ついに爆弾発言をしてしまった。
「ねえ武田さん、あなたは優子のことをどう思っているのよ?」
「ちょっと、あずみ 急に何を言い出すの。やめてよ」
 驚いた片岡は隣から坂本を制止した。
「いいえ止めないわ、今日は武田さんにはっきりと聞きたいの。優子のためじゃないのよ、私が知りたいの」
 明人は新年会が終わってから、二人きりで片岡に断りの話をしようと思っていたので、皆の前で悪い返答などできるわけがない。横井も隣で興味津々(しんしん)とばかりに、話を聞いている。
 どう答えようか考えていると、坂本が返答を促すように言った。
「私は優子から、あなたとのことは全然聞いていないわ。でも日頃から優子を見ていると、あなたを好きだってことはよく分かるの。それなのにこの子は何も言わずに、ただ黙って見ているだけ。それが私にとっては、とてもいじらしくて可哀そうで見ていられないの。だからこの機会に武田さんの気持ちを聞いておきたいの」
 やはり横井も坂本も、昨年末の僕たち二人の成り行きを知らなかったのだ。それなら(その時のことから話し始めたほうが良さそうだ)と思い、三人を前にして「それじゃあ、僕の話を聞いてもらえるかな」と言って、昨年からの彼女と自分の事の成り行きを話した。
「そうだったの、そんなことがあったの。私は何も聞いていなかったから全然知らなかったわ。でも武田さんは優子のことを『考えておく』と言ってから、まだ何も返事はしていないのですか?」
「大切な問題だからゆっくりと考えてから返事を、と思ったのでまだしていません」
「まだ当分返事しないつもりですか?」
「いいえ、今日この新年会が終わった後で返事をするつもりでした。だから今は皆さんの前で返事をするのは許してほしいのです」
「だったら今は聞きません。でも武田さん、この子を泣かせることだけはしないでほしいの」
 そんなことを言われても「今後は会わない」という、悪い話なのだ。泣くかどうかは別にして、多かれ少なかれ傷つける結果となるのは間違いない。それを横井や坂本の前で言えば片岡に恥をかかすことになるので、この場では絶対に言える話ではない。
 それとは別に今日の坂本の言動について、ひとつ腑に落ちないことがあった。それは自分に交際している彼女がいることを、横井から聞いて知っているはずなのに、なぜ「優子のことをどう思っているの」などと聞いて来たのか?その疑問を坂本に聞くことにした。

「坂本さん、あなたも御存知だと思いますが、僕には交際している女性がいます。ただ片岡さんも素敵な女性だと思っています。だから僕の気持ちが彼女にふらついた時もありました。しかし先ほども話したように、僕は『二人同時に交際できるほど器用な人間ではありません』と言って、昨年の十二月に一度は断りの返事をさせていただきました。でも彼女からは『もう何回か会って話をして、それから返事をしてほしい』と言われました。それ以来、会うのは今日が初めてですが、いつまでも返事を待たせておくわけにはいかないので、今日返事をしようと思い、ちょうど良い機会だと新年会にも来ました。しかし坂本さんが僕たち二人の話を始めたのは想定外の出来事で、僕も大変驚きました。そしてどう返答すれば良いのか迷いました。もし差し支えなければ、僕に交際している女性がいると知りながら、なぜその話を始めたのか教えてもらえませんか?」

「確かに武田さんの言われるとおり、私はあなたに彼女がいるのは横井さんから聞いて知っていました。でも若いあなたが一人の女性に縛られずに、別の女性から好意を持たれたのであれば、その人のことを見るのもいいのではないかと思います。初めから好きになれそうもない女性だったら論外ですけど。武田さんが優子を素敵な女性だとおっしゃるのなら、時々会って話をするくらいは構わないのじゃありませんか。あなたの問いに対しての答えにはなっていないかもしれませんが、武田さんの優子に対する気持ちを聞いて、進展状況によっては(二人が交際できればいいな)と思って、聞いたのです」

「そうですか、友達思いのあなたですから、片岡さんがうまく交際できるようにと考えての言動だったんですね。しかし僕の考え方は違います。交際している女性がいるのに、他の女性と二人きりで会うのは交際相手に対する裏切り行為だと思うのです。例えば坂本さんの大好きな彼が、あなたに縛られずに誰か別の女性と会っていたら、あなたはどう思いますか。そのことを知らなければ問題はないかもしれませんが、もし知ってしまったとしたら、きっと不愉快な気持ちになるでしょう。悲しくなるか、あるいは怒りがこみ上げるかもしれません。そうは思いませんか?」
 坂本は明人の話を聞いて、そう言われると何も言い返せないのだった。

 そこで隣から横井が口をはさんだ。
「その話はそろそろ終りにしないか、武田の返事はどんな返事か知らないし、みんな気になるかもしれないけど、二人の問題だから俺たちにはどうしようもないしさ。ちょっと寂しい雰囲気になってしまったから、飲み直しといこうか」
 そう言って横井は順番にビールを注いだ。

 ほどなく新年会もお開きとなり、横井は坂本とタクシーに相乗りして帰宅した。明人は片岡と二人で話せる場所を考えて、居酒屋の近くにあるコーヒーショップに行き、一番隅の席に腰を下ろした。他にも客はいるが大きい声で話さない限り、聞こえることはない席だ。
 彼女は返事を聞くのが怖いのか話をしない。自分も今は世間話をするような余裕はない。
 二人は無言のまま、注文したコーヒーを待っていた。
 
 しばらくして運ばれてきたコーヒーを、一口飲むと片岡に話し掛けた。
「居酒屋で坂本さんが、突然君のことを言い出したのには本当に驚いたよ」
「ほんと、私もびっくりしてどうしようかと思ったわ。まさか、あずみがそんな話をするなんて、予想もしていなかったから」
「まああなたを思ってのことだから、仕方がないと思うよ。いい友達だね」
「ええ、その気持ちは嬉しいのだけど、みんなの前で恥ずかしかったわ」
「君には申し訳なかったと思っているよ。本当なら簡単に返答できる話じゃないよね。だけど状況的に返答するしかないと思い、それなら最初から話して分かってもらうしかないなと考えて、悪かったけど話させてもらったよ」
「私はいいの、誰かに聞かれて困るような悪いことはしていないから」
 片岡は「悪いことはしていない」と言うが、自分は百合に対して悪いことをしていると思った。
 明人はそろそろ話の核心に触れなければと思いつつも、中々言い出せなかった。そして「この子を泣かせるようなことはしないで」と言った、坂本の顔が頭に浮かんだ。

 少し間が開いたが、勇気を出して話し始めた。
「片岡さんには本当に申し訳ないけど、僕には交際している女性がいるので、今後はあなたと会えません。坂本さんにも言いましたが、交際している女性を裏切ることになりますし、あなたにも不快な思いをさせてしまうでしょう。だから会うのは今日で終わりにしてほしいのです。それが僕の最後の返事です。あなたには悪いけど、僕の気持ちも分かってください」
 彼女は返事をせずにうつむいていた。泣いているのかどうかは分からなかったが、仕方がないと思った。
 タクシーで片岡を送り届けると(彼女はしばらく辛い思いをするだろうけど、必ず時が解決してくれる、これで良かったのだ)と、自分に言い聞かせた。

 翌週の月曜日、昼休みに横井が明人の元へやってきた。
「おまえ片岡さんに今後は会わないって、言ったそうだな」
「ああ言ったよ」
「そうか、まあ仕方ないよな。付き合っている子がいるのだから」
「彼女を裏切るような行為はできないからな。今の話は坂本さんから聞いたのか?」
「そうだよ、あずみも片岡さんから聞きだしたのだろう」
「片岡さんは坂本さんに聞かれて、仕方なく言ったのだろうと思うよ」
「金曜日の居酒屋での件があるから、おまえの返事がどうだったのか、あずみも聞きたくなるのは当然だよ」
 横井はいつのまにか、坂本さんを「あずみ」と呼ぶようになったようだ。
「坂本さん、僕のことを怒っているだろうな?」
「それは分からないけど、気にすることはないさ。また俺からうまく言っておくよ」
「すまないがそうしてくれるか。ただし僕のことでお前達が別れたりするなよ」
「ははは、それは大丈夫だよ」
 横井は自信たっぷりにそう言って仕事場へと向かった。その自信は何か根拠でもあるのだろうか?
 
        二十三   やさしい男性とは
 今年は例年に比べると降雪も少なく、降ってもすぐに融ける程度の雪なので本当にありがたい年だ。こちらでさえこの程度の降雪量だから、大阪なんて全然降っていないだろうと、明人は百合が住んでいる茨木市の寮を想像していた。
 想像どおりに雪の降っていない茨木市の寮では、毎年恒例で催されている成人を迎えた女性を祝う会が設けられた。会は金曜日の夕食時に行われ、百合たち未成年は、まだ飲めないがシャンパンも用意されている。昨年に成人を祝ってもらった女性が、幹事となって行うように決まっているそうだ。今年新成人となるのは三名で、あらかじめ新成人以外の全員が会費を集めて、お祝いのプレゼントを渡したり、カラオケを歌ったりして祝っている。来年は百合とその同期生が祝ってもらえる年だ。いつもなら三十分ほどで終わる夕食も、この日ばかりは二時間程かかった。

 お祝いの会を終えて、部屋へ戻った百合の部屋でチャイムが鳴った。ドアを開けると隣の部屋の橋本京子だった。この橋本とは入社して一ヶ月も経たない内に仲良くなった一人だ。今ではすっかり友達になっている。実家は岐阜県の大垣市にあり、帰省する日が同じだと米原駅まで一緒に帰る。米原駅から橋本は東海道線、百合は北陸線へと別れるのだった。
「百合ちゃん、お喋りしようと思って来たけどいいかな?」
「あら京子ちゃん、いらっしゃい。いいわよ暇を持て余していたところだから」
「コーヒーでも飲む?」
「頂くわ。ねえ、私たちが出会ってからもうすぐ一年になるわね。今まで数え切れないくらい喋っているけど、百合ちゃんのことで一つだけ気になることがあるの」
「何が気になるの?」
「百合ちゃんって、私と話していても男性の話って全然しないよね」
「あらそうだったかしら」
「ええそうよ。陸上の話は嫌というほどするのに、異性の話はまったくしないわ」
「それは京子ちゃんも同じでしょう」
「ううん、それは百合ちゃんがしないから私もしないだけ。それで今日は、ぜひ男性の話をしたいと思っているの」
「まあどうしましょう。ちょっと怖いわ」
「単刀直入に聞くけど、誰か付き合っている人はいるの?」
「ほんと、はっきり聞くのね」
「はっきり聞かなきゃ言わないでしょ」
「じゃあ京子ちゃんはどうなの?」
「私・・・私は正直言っていないわよ。でも好きな人だったらいるわ」
「それは誰、私も知っている人なの?」
「どうかな?同じ会社の人だから顔くらいは知っているかもね」
「そう、お名前は?」
「そ・れ・は秘密」
 京子はそう言って笑った。
「じゃあまた言える時がきたら教えてね」
「ええ、必ず言うわ。それで百合ちゃんはどうなの?」
「私ね・・・高校三年の時から交際している人がいるの」
「本当、もっと詳しく教えてよ」
 京子に、明人との交際をおおまかに話した。
「そうだったの、羨ましいわ。私、百合ちゃんの交際相手に一度会いたいな」
「ごく普通の男性よ」
「でも、どんな男の人か見たいな」
「京子、今度の帰省はいつにするか決めたの?」
「ううん、まだ決めていないけど、それがどうかしたの?」
「私は今月末の土曜日に帰ろうと思っているけど、もし良かったら一度私の実家に遊びに来ない?」
「いいの、ぜひ行きたいわ」
「じゃそうしなさいよ。私の家に泊まればいいから」
「ありがとう。じゃあその次は私の家に遊びに来てね」
「京子さえ良ければ私も遊びに伺うわ」
「で、彼氏を紹介してくれるの?」
「いいわよ、彼は私が帰ると必ず家に来るから」
「そうなの、それじゃもうお母さんも公認なの?」
「私の母はもちろんだけど、彼のご両親も知っていらっしゃるの」
「ますます羨ましいわ。いいなあ、そんなお付き合いって」
「京子もその内にいい人ができるわよ」
「そうなるといいんだけど」
 しばらくお喋りをしてから、京子は自分の部屋へ戻っていった。

 その月の月末、給料を貰った百合は京子と一緒に帰省するべく駅に向かった。京子が「何か手土産を買う」と言うので、駅前の店に寄ってから電車に乗った。母には電話で「友達を連れて帰る」と連絡しておいたが、明人には「帰る」と言っただけで、京子の話はしなかった。電車に乗った二人はいつもなら米原駅で別れるのだが、今日は一緒に北陸線に乗り換えた。
 高月駅で降りると、徒歩で百合の実家へと向かった。
「お母さん、ただいま」
「お帰り」
「友達を紹介するわ。こちら橋本京子さんです」
「初めまして、橋本といいます」
「百合の母です、どうぞよろしく。さあ入ってくださいな」
「京子ちゃん、入りましょう」
「はい、お邪魔します・・・あ、これつまらないものですけど」
 京子は百合の母に、大阪で買った手土産を渡した。
「まあ、そんなに気を遣わなくても良かったのに。じゃ遠慮なく頂きます」
 二人は部屋に入り、母はコーヒーを煎れると言ってキッチンへ向かった。部屋で雑談をしていたら、百合の携帯電話が鳴った。それは明人からだった。
「もしもし百合ちゃん、もう家に着いた?」
「はい、帰っています」
「じゃあ今からお邪魔してもいいかな?」
「ええ、待っています」
「十分ほどで行けると思うから」
 電話を切ると、すぐさま京子が聞いてきた。
「今の電話、彼から?」
「十分ほどでこちらに来るそうよ」
「わあ、私どうしよう」
「どうしようって、会いたかったのでしょう?」
「それはそうだけど、いかにも突然だから恥ずかしくて」
「もう手遅れだから諦めなさい」
 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、彼だろうと思った百合は玄関へ行ったら、やはりそうだった。
「百合ちゃん、元気そうだね」
「ええ元気です。さあどうぞ入ってください」
「お邪魔します」
「今ね、友達が家に遊びに来ているのよ。同じ会社の女の子で、先ほど大阪から一緒に帰ってきたの」
「へえ~そうなの。じゃあ僕はお邪魔かな?」
「ううん、明人さんに一度会いたい、って言っているのよ」
「本当にそんなことを、なんだか照れくさいな」
「取り敢えず、お部屋に入りましょう」
「そうだね、ここまで来て帰るわけにもいかないし、お邪魔します」
 二人が部屋へ入ると、京子は立ち上がり明人に挨拶をした。
「初めまして、橋本京子といいます。よろしくお願いします」
「武田明人です、こちらこそよろしくお願いします。いつも百合ちゃんがお世話になって、ありがとうございます」
「お世話だなんて、私のほうがお世話になっています」
 挨拶を終えた二人に、百合が口をはさんだ。
「さあ二人とも座ってね。明人さんもコーヒーでいいかしら?」
 そう言って彼のコーヒーを母に頼んだ。
「お母さん、明人さんがいらっしゃったからコーヒーをお願いします」
 それを聞いた母は、部屋を覗いて話し掛けた。
「武田さん、いらっしゃい。百合の友達が来られたから驚いたでしょう?」
「はい、何も聞いていなかったのでびっくりしました」
「じゃあ今日は四人で晩御飯を頂きましょうか。武田さんもゆっくりしていけるのでしょう?」
「ええ、今日は急いで帰る必要はありません。ただ来るたびにご馳走になり、申し訳なくて」
「遠慮しなくてもいいのですよ、百合だけじゃなくて、私にも日頃から親切にしていただいているお礼のつもりなんですから」
 百合は母の話を聞いて「私にも日頃から親切にしていただいて」と言った、その言葉の意味が理解できなかった。
「お母さんも明人さんに親切にしていただいているの?」
「ええ、武田さんには口止めされていたから今まで黙っていたけど、お母さんはとても嬉しくて自分一人の胸の中にしまっておきたくないの」
「なあに、聞かせて」
「武田さん、もうこの子に話してもいいでしょう?」
「はい、お母さんが望むなら」
「この話は百合が大阪へ就職してからのことだけど、およそ一ヶ月に一度帰ってくるでしょう。武田さんはその間に少なくとも一回は『お母さん元気にされていますか』って、家を訪ねて見えるのよ。そして来られるたびに、御菓子とか惣菜などを買って来てくださるの。電話でも済むことなのに、わざわざ来ていただき、お母さん本当に嬉しくて」
「そうだったの、全然知らなかったわ。明人さんありがとう」
 百合は話を聞いて、目頭が熱くなるのを感じていた。
「電話だと声だけなので、本当に元気かどうか分からないから、やはり顔を見ないとダメだと思って」
 明人がそう言った。
 
 橋本は近くで今の話を聞いていて、武田明人という男性に感心した。好きな女性に対して親切にするのは当たりまえだが、その子の親にまでそれだけ親切にできるという男性は、滅多にいないと思う。母が一人暮しということもあるのだろうけど、それでも中々できることではない。そんな親切でやさしい男性と巡り会えた百合は、幸せだと思った。
「じゃ、お母さんは晩御飯の用意をしてくるわ」
 そう言って母は立ち上がった。三人になった部屋で、明人は二人の女性に顔を見られているようで、なんだか照れくさくなり照れ隠しに橋本に聞いた。
「橋本さんも陸上をされているの?」
「はい、百合ちゃんと同じマラソンです」
「京子ちゃんは私の良きライバルなのよ」
「そうですか、じゃあ最終目標はオリンピックかな?」
「私はそんな大きい目標は持っていません。今はそんな実力もありません。しかし練習次第で、もしかしたら何年か後に化けるかもしれないと思って、頑張っているだけです。その点、百合ちゃんはすでに実力があるからオリンピックだって決して夢じゃないわ」
「橋本さんも頑張って練習すれば、きっと結果は付いてきますよ」
「はい、頑張ります」
「百合ちゃん、今度のマラソン大会はいつあるの?」
「今のところ予定では四月なの。今回もハーフマラソンだけど」
「その大会に二人とも出場するの?」
「そのつもりよ。だから二月は帰省するけど、三月の末は帰れないと思うわ」
「四月に大会じゃ仕方ないね。こちらのことは心配しないで頑張って練習すればいいよ」
「ありがとう。明人さんには迷惑を掛けるけど、お母さんをよろしくお願いします」
「大丈夫、僕がしっかり見守っているよ。何かのときは僕に電話できるように、お母さんにも番号を教えてあるから。それより明日の話だけど、大阪へ帰る時間に米原駅まで二人を送るから、午後に迎えに来るよ。本当なら橋本さんを僕たちの地元、湖北の名所でも連れていってあげられるといいのだけど、この季節だから観光というわけにもいかないし、申し訳ないけど今回は送るだけで許してください」
「いいえ、その気持ちだけで充分です。気を遣わせてすみません」
「また次に来られた時は、どこかへ案内します」
「ありがとうございます。次はいつになるか分からないけど、今度は百合ちゃんに私の実家へ来てもらおうと思っています」
「橋本さんの実家はどこですか?」
「岐阜県の大垣市です」
「そこでしたら、ここから車に乗って一時間少々で行けますよ」
「わりと近いですね」
「ここから関が原に行き、そこから大垣まで国道をまっすぐ走れば、すぐですね」
「武田さんも良かったら遊びに来てください」
「ありがとう、その時は誘ってください」
 翌日、明人は百合と橋本を車で米原駅まで送ると、いつものように入場券を買って、二人の乗った電車が見えなくなるまで見送った。

        二十四  二度目のハーフマラソン
 それから二ヶ月後、マラソン大会の日がやってきた。現在は桜前線が北上中で、ここ大阪も間もなく花が咲こうかという四月初めの日曜日、百合にとっては二度目のハーフマラソンが始まろうとしていた。友達の橋本も出場していて、その他にも同じ会社から三名の仲間が出ている。今回の目標は好タイムでの優勝で、タイムの目標は一時間十二分台の前半を狙っている。毎日の練習もそのタイムに合わせて練習してきた。
 今日の天候は曇りで風も殆ど無い。条件としては申し分なく、良いレースが期待できそうだ。

 十二時ちょうどにピストルが鳴り、それと同時にスタートした。前回のレースでは、最初の五キロは様子を見ながら走ったが、今回は最初から五キロのラップタイムを計り、タイムと自分のペースに違いがないかを比べて走った。後半の五キロが十七分台に落ちることを考えると、最初の五キロは十六分前後で走りたかった。他の選手にも付いていかなければならないが、自分のペースを上げてまで付いていこうとすれば、後半に必ずスタミナ切れを起こすだろう。自分のペースを守りながら、そのタイムで優勝できなかったらそれは仕方がない。それ以上のすごい選手がいたということで割り切ればよい。無理して自分の持っている力以上の走り方をすれば、優勝どころか上位にさえ残れないだろう。それでは目標の達成なんて夢のまた夢になる。
 最初の五キロは予定通り十六分少々で走り抜け、次の五キロも十六分半ばで走った。この辺りから選手の集団は大きな固まりになり、その固まりがいくつにも分かれてきた。その中で百合はトップグループの集団にいるが、橋本の姿は自分の近くに見えなかった。次の五キロは十七分台の半ばまで落ちたが、それがトップグループ全体のペースだからいいと思った。集団から抜けるとすれば残り三キロ付近だろう。つまり十八キロ付近で誰かが仕掛けてくる可能性が高い。それは自分かもしれないし、他の選手かもしれない。仕掛けるタイミングは選手によって距離が違うだろう。
 そして十八キロ付近まで来た時だった。予想どおり、集団から一人がスパートを掛けてきた。その選手に他の選手も付いて走った。しかし付いて行けない選手は遅れていった。百合は自分でも意外なくらい、まだ余裕があった。前の二人がデッドヒートを繰り広げる中、しっかりと三番手で付いていった。三番といっても殆ど差は無いので、後ろから二人を抜き去るチャンスを待ちながら走っている状態なのだ。
 残りが僅か一キロとなった時に前の二人に疲れが出てきたのか、少しではあるがスピードが鈍ってきたように見えた。百合はその僅かなチャンスを逃さずに二人を抜き去った。それから少しずつ差を広げると、目前にゴールのテープが見えた。ハーフマラソンとはいえ、ついに一位になったのだ。

 会社に戻ると恒例の反省会が行われ、百合はその席で監督から次回のレースを示唆された。
「吉村、優勝おめでとう。今日のレースに関しては最高の出来だった。それで次回のレースだが、年内にフルマラソンに挑戦してみないか。今年の十一月か十二月頃の予定でどうだろう。初めてのフルなので順位とかタイムは気にせずに、四十二キロという距離を体感すれば良いから。それで明日からの練習はそのつもりでやればいいと思うが、挑戦する気はあるか?」
「はい、走ってみます。ありがとうございます」
「分かった。それではどのレースにするのか、私とコーチで相談しておくから決まったら伝える」
「よろしくお願いします」

 その日の夜、母と明人に今日のレースの結果を電話で伝えた。今回はレースの日時を敢えて二人に言わなかった。言えば結果を気にするので、気を揉ませたくなかったからだ。明人は「今度、帰省したら何かお祝いをしよう」と言ってくれ、母は「御馳走を作るから楽しみにしていなさい」と喜んでくれた。

 百合は四月末から五月初めに掛けてのゴールデンウィークを利用して帰省した。今年は飛び石連休になるが、間の平日に有給休暇をもらって一週間休みを取った。あらかじめ電車の到着時間を連絡しておいたので、高月駅に着いたら母と明人が出迎えてくれた。彼の車で家に帰ると、テーブルの花瓶には綺麗な花が飾ってあり、その横に小さな花束とケーキが置いてあった。両方とも彼がハーフマラソンの優勝祝いに買ってきてくれたそうだ。
「まずは優勝おめでとう」
 明人はお祝いの言葉と買ってきた花束を渡した。母は傍らで拍手をしている。
「ありがとう」
 百合はお礼を言って花束を受け取った。
「それじゃ三人で乾杯しましょうか」
 母はそう言いながらケーキを切って小皿に分けた。ケーキは直径が三十センチの大きなデコレーションケーキだ。
 明人はコップに飲み物を注いだ。母と自分にはビールを、未成年の百合にはノンアルコールで、ビールの味がする飲み物で乾杯をした。
 母が「優勝できて本当に良かったわね」と言ってくれたが、ハーフでの一位はあくまで通過点に過ぎず、フルマラソンへ移行するためのステップなのだと思っていた。本当に喜ぶのはフルで優勝したとき、そしてオリンピック出場が決まった時なのだ。(ハーフの優勝ぐらいで喜ぶな)と、自分を戒めた。
 ゴールデンウィークなので帰省したが、一週間も遊んでばかりはいられない。(こちらでも体のケアをしっかりしながら、毎日休まずに練習をしなければ)と思った。

 休暇を終えた百合は再び茨木市の寮へ戻り、翌日の午後からはフルマラソンを想定した練習に取り組んだ。ハーフマラソンの二十一キロにおけるペース配分は分かっているが、四十二キロのペース配分を覚えなければならない。それは実際に走りながら体に染み込ませる必要がある。

 そんな折、監督からフルマラソンの出場レースを伝えられた。十一月に開催される琵琶湖マラソンに決まったそうだ。コースは大津市役所前をスタートして途中折り返し、ゴールは皇子山競技場とのことだった。このマラソンは市民マラソンで一般参加者も多く、スタート地点からの五キロ位は自分のペースで走れないかもしれないだろう。監督からは「初めてのフルマラソンなので四十二キロの感覚を経験しなさい。そして結果を気にしないで気楽に走れば良いから」と言われた。とはいえ、走るからには出来るだけ良い結果を残したいと思うのが選手心理だ。良い結果を残して次の大会のステップにしなければならない。次は市民マラソンでなく、一流選手だけが走る大会に出場したいと思っていた。そしてそこでも結果を残せば、夢に近づいてくる。オリンピック選考委員の目に留まるような選手にならなければいけない。そのためにも出場した大会を、ひとつでもおろそかにするわけにはいかない。レースの順位とタイムは絶対に意識しなければならない。
 琵琶湖マラソンは地元の滋賀県で開催されるので、より一層気合が入る。フルマラソンの出場は十一月なので、それから逆算して練習方法をコーチと相談した。今までは二十一キロを想定して練習していたが、その距離に加えて六月から八月までは毎月五キロずつ走る距離を増やし、九月と十月は四十二キロを想定して練習することにした。琵琶湖マラソンのコースでは三十五キロから、かなりの上り坂になっていて、上ればそのあとは当然だが下り坂になる。その練習も充分にしておく必要があったので、コーチが指示した練習方法を守りながら日々の練習に励んだ。

        二十五    二十歳
 九月〇日、百合は二十歳の誕生日を迎えた。いよいよ大人の仲間入りだ。これからは今まで以上に何事に対しても、自覚と責任を持って行動しなければならない。
 今回は九月末の土曜日に帰省した。十一月のマラソン出場を前に、十月末は帰省しない予定でいる。
 その夜、母と明人から誕生日を祝ってもらった。彼からはネックレスをプレゼントしてもらい、さらにバースデーケーキも買ってきてくれた。母からもバッグを貰った。成人になりお酒も解禁となったので三人はワインで乾杯をして飲んだが、彼と母はワインだけでは物足りないので、冷蔵庫からビールを出してきて二人で飲んでいた。
 母は珍しく酒に酔ったのか、百合に「あなたも二十歳になったことだし、もういつでもお嫁に行けるわね。取り敢えずマラソンに区切りがついてからだろうけど」と言った。どう返答したらいいものか迷っていたら、母が彼に言った。
「ねえ明人さん、いずれは百合をお嫁にもらってあげてくれる?」
 その言葉に百合はびっくりして母の顔を見た。彼も酒に酔ってきたのか、迷わず母に返答した。
「僕は以前からそのつもりで百合ちゃんと交際しています。お母さんの許しと百合ちゃんがその気にさえなってくれれば、いつでも結婚したいと思っています」
 彼はいとも簡単に結婚という言葉を口にした。その言葉に私は嬉しかったが、現実問題としてマラソンでオリンピックに出るのが目標なので、結婚は何年先になるか分からなかった。それに自分は一人っ子で、結婚すれば母を一人にしてしまうのだ。彼は長男で婿養子というわけにもいかない。以前から気にはしていたが、実際に結婚という話が現実味を帯びてきたら、どうなるのだろうかと不安だった。母や彼はそのことに対して、どう考えているのか?母はきっと「お嫁に行きなさい」と言うに違いないと思った。百合は話題を変えて二人に話し掛けた。
「次回のオリンピックだけど、二年後に東京で開催されるでしょう。それでこれから二年の間に三回はフルマラソンに挑戦して、良い結果を残して東京オリンピックに出られたらと思っているの。私なりの計画として、まずは十一月の大会でフルマラソンの経験をしてくるわ。そして次の大会でそれなりの結果を出して、関係者の人に名前を覚えてもらうの。三回目のレースではオリンピックに推薦されるような結果を出したいと考えているの」
 自分の考えを二人に聞いてもらったが、母は心配そうに言った。
「百合の計画通りに進めば一番良いけど、そう簡単なものではないでしょう」
「計画通りに進むとは思っていないけど、私が走れる時に日本でオリンピックが開催されるなんてもう絶対に無いから、どうしてもそれに照準を合わせて頑張りたいの」
 そこで黙って聞いていた明人が口をはさんだ。
「確かに百合ちゃんが一番良い年齢の時に、オリンピックが日本で開催されるというのも何かの縁だから、僕も君には東京オリンピックに出てほしいと思うよ。そのためだったらなんだって協力するよ。でもマラソンのことは何も知らないから、せいぜい応援するくらいだけど」
「ありがとう。私は出られる自信があるわけではないけど、これからの二年間は一生懸命頑張るわ。それで出られなかったら、私の実力不足ということで仕方がないわ」
「百合ちゃんだったらきっと出られるよ。君の努力は必ず報われるよ」
「出られたらそんな素晴らしいことはないけど、無理して体を壊さないようにしないとね」
 母は娘がオリンピックに出ることより、体のほうを心配していた。マラソンの走る距離を考えると、それは当然のことだ。
「ええ、体調管理だけは一番大事なことだから、それは十分注意するわ」
「あと二年か、そんなに時間はないなあ。二年間で三回走ると言っても、ほぼ一発勝負のような感じだな。一回目のマラソンはともかくとして、少なくとも二回目は良い結果を出さないとね。海外の選手はとても強いから順位よりもタイムかな?オリンピック出場の標準記録をクリアできると良いのだけど」
「私も出たレースでは優勝を狙うのではなく、好タイムが出るように走るつもりをしているの。タイムが良ければ順位も自然についてくるわ」
「オリンピックに出られるのは日本から何人なの?」
「普通は三人だけど、今回は日本開催だから開催国の出場枠ということで、
一人多く出られるから四人ね」
「だったら国内の選手の中で四番目に入れるような成績を残せば出られるのかな」
「選考委員の方々がどう評価されるか分からないけど、単純に四番目に入っているから出られるっていうわけではないと思うわ。ほかにも色んな条件があるでしょうね。とにかく二回目のレースで良い結果を残して、最終選考レースに出られるようにしないと。」
「それじゃ二回目のレースを頑張らないといけないな」
「そうなの」
「君にとっては、結局すべてのレースが大切ということだね」
「そうよ、出たレースは一つもおろそかにできないわ。なんとしても二回目で良い結果を出して、三回目のレースに出場できるように推薦してもらわなくちゃ」
 明人は彼女の今後二年間で走る三回の大会が、どんなに重要なレースになるのかを、今の話の中で充分理解できた。

        二十六  琵琶湖マラソン
 月日が流れるのは早いもので、とうとう十一月がやってきた。百合にとって初めてのフルマラソンだ。今回の出場は母と彼に知らせてある。自分は気楽に走るつもりはないが、監督からは「結果は気にしなくてもよい」と言われているので、二人にもそのように伝えて「いい経験をしてくるから」と言っておいた。もちろんハーフマラソンの実績からいっても、多少の自信はあった。

 琵琶湖マラソンの当日、天候は曇っているが雨の心配はない。風も少しあるが、走るには問題のない天候だ。市民マラソンということもあって、スタート時間は午前九時と早い。
ストレッチなどの準備運動をしながらスタートを待った。参加人数が大変多く、これでは最初の数キロは自分のペースで走れないだろう。しかしこれを逆手にとって、最初はスタミナの温存をするつもりで走ればよい。集団がばらばらになってきたら自分のペースで走ろうと思った。

 午前九時、ピストルの合図とともに大会が始まり、先頭集団からスタートしたが、百合はまだスタートできない。少し待ってから他のランナーと混じって、ゆっくりスタートした。焦らず人の流れに合わせて、無理な走り方をしないように注意した。他のランナーと接触して、怪我でもすれば元も子もない。
 五キロ付近から徐々に集団が崩れてきて走りやすくなってきたので、少しペースを上げて走ることにした。それでもまだいつものペースとは遅くて、スタート時間から最初の五キロ地点のラップタイムを測ったら、実に十八分近く掛かっていた。もっとも他の選手も同じように掛かっているはずだ。五キロを過ぎた地点からようやく自分のペースで走れるようになり、次の五キロは十六分台で走れた。自分より前を走っているランナーはたくさんいたが、ペースを守って走れば良いと思い、前を気にしないで走った。折り返し地点に差し掛かり、百合にとって未知の世界へと入った。ハーフマラソンの距離である二十一キロを過ぎて、ここからは他のランナーではなく、自分との戦いになってくる。
 そしてそれは二十五キロを過ぎたあたりだった。百合は自分の体に何か違和感を覚え始めたのだ。なんと言えばいいのか・・・上半身と下半身の動きがばらばらになったような、合っていない。上半身は前へ進もうとするが、足が付いてこないのだ。ハーフではそのようなことはなかった。フルとハーフの距離の違いというのは、思っていた以上に厳しいものなのか?百合はフルを甘く見ていたと感じ始めていた。
 さらに三十キロからの五キロは十九分台と大幅に遅れ、後続のランナーが何人も追い抜いて行った。三十五キロから四十キロに至っては、時計を見なくても分かるような遅いタイムになり、ゴールをした順位も後ろから数えたほうが早いくらいだろう。

 ゴールインしたあと、手元の時計を見ると十一時四十六分を指していた。スタート時間が九時一分とすれば約二時間四十五分のタイムだったが、最初の五キロで遅れた時間を差し引くと、二時間四十三分位のタイムになるだろう。順位は知りたくなかったが、後で聞いたら六十八位だったとのことで、初マラソンは最悪の結果に終わった。
 百合は会社に戻ると気持ちが動揺したまま、目を赤くして恒例の反省会に出席した。

 その席上で監督が言った。
「吉村、良い経験になっただろう?」
「・・・はい」
「悔しいか、それとも悲しいか?だがハーフとフルの違いが分かっただけでも良かったじゃないか」
 百合はトップになれなくても上位に入れる自信があったので、監督が言ったとおり悔しい気持ちで一杯だった。それと同時に自信をなくしそうになっていた。そんな百合の気持ちを見透かしたかのように、監督が聞いた。
「これからどうしようと考えているのか、聞かせてくれ」
「監督、今は頭が混乱していて、自分でも分かりません」
「そうか、だったら今晩よく考えろ」
「はい」

 その日、寮に帰った百合は布団に入っても眠れずにいた。
(あんなに練習してきたのに、どうして・・・・どこが悪かったの?これからどうすればいいの?今までの練習でダメなら、私にはマラソンの素質がないということなの?十位以内にも入れないなんて)
 自問自答を繰り返しながら、知らず知らずのうちに枕を濡らしていた。
(これからどうしよう?素質がないのだったら、もう走るのは止めるべきなの?そうだ、彼が言っていたわ。「私さえその気になったら、いつでも結婚したい」と。いっそのこと、そうしようか・・・どんなに辛い練習をしても結果が出ないのなら、マラソンを続けたって仕方がないわ。明日、監督にそう言おう)

 翌日の午後、監督の元を訪れた百合は自分の思いを話した。
「監督、昨夜いろいろ考えたのですが、私にはフルマラソンを走る素質がないと思います。これまで監督に教えてもらい、また鍛えてもらったにも関わらず、あんな成績しか残せなかったのは、素質がないからです」
「それで?」
「これからだって、いくら練習しても素質がなければ監督の期待に応えられません。ただ迷惑を掛けるだけです。私に大事な時間を使うのなら、もっと素質のある子に時間を使ってください」
「言いたいことはそれだけか?」
「はい」
「そうか、じゃあ今度は私が話す番だ。吉村はフルマラソンを走るのは何回目だ?」
「何回目って・・監督もご存知のとおり、初めてです」
「うん、そうだな。初めて走って良い成績を残せる自信があったのか?私が君に言ったことを覚えているか?『結果は気にするな、良い経験をしてこい』と、そう言ったはずだ。なぜそう言ったか分かるか?」
「いえ」
「私には君が走る前から、レースの結果が分かっていたからだよ」
「分かっていたのですか?」
「ああ、絶対に上位に入れないことは分かっていたよ」
「ではどうして私を走らせたのですか?悪い結果に終わるのが分かっていたのに」
「分からないか?」
「分かりません」
「じゃあ教えよう。その理由は三つある。一つ目は最初に言ったフルの経験をすること。二つ目は四十二キロを走って、自分の長所と短所を身をもって知ること。そして三つ目は負けることによって、反骨心を持ってほしかったからだ。負けた悔しさを、バネにしてほしかったのだよ」
「監督・・・」
「私は君を信頼しているからこそ、こんな話をするのだが、どんなに素質がある選手だって、初めて出たレースで上位に入っている選手なんて僅かだよ。一度の負けで素質がないからと止めてしまえば、本当に素質がないのかどうか、分からないまま終わってしまうのだぞ。それは何度も挑戦してから決めることじゃないのか?もっとも私が君に期待していた反骨心というものがなければ、もう走れないが。負けた悔しさを一生引きずったまま、これからの長い人生を生きていくのか?吉村は私から見ていても、これまで一生懸命練習をしていたよ。少しもさぼることなく真面目にやっていた。その努力は認めるし、いずれは報われる日が来るとも思っている。敢えて負けると分かっていたフルマラソンの経験をさせたのも、君に期待をしているからだ。そこで自分の欠点が分かれば、必ず克服すると信じていたからだ。吉村には素質も才能もあると思うからこそ、そのように指導もしている。後はそれをどうやって開花させるのか、それは君の気持ち次第だ」
 監督の話が終わると百合は練習をせずに、クラブハウスに入って椅子に座ったままで、その日が終わった。

 それからの一週間というもの、百合は練習には出ているが、監督と話すことはなかった。寮に帰ると、あれこれ考えた。監督の言っていることが間違っていないことはよく分かる。決して反骨心がないわけではない。負けた悔しさを勝って晴らしたいとも思う。しかしどうすれば勝てるのかが分からない。人並み以上に練習してきた結果がこれでは、どうすればいいのか?・・・・監督は私を信頼していると言ってくれた。素質も才能もあると言ってくれた。才能が開花するかしないかは、本当に私次第なの?私は何をすれば開花するの?今まで以上の練習?ううん、もう充分してきたわ。今まで以上の練習なんて、練習時間を増やすことしかできない。ただ同じことを繰り返すだけでは、進歩しないわ・・・・。
 百合は結論が出ないまま、一か月以上の日々を過ぎた。そして年末になり、実家に帰省した。
     
        二十七   気持ち新たに
 今年の帰省は琵琶湖マラソンの結果が悪かったので、母と彼に顔を合わせづらかったが、母はいつもと同じように笑顔で迎えてくれた。母はマラソンの話を自分からはしなかったが、それが却って不自然に感じられた。結果を知っているので敢えてしないのだろう。
 その夜、百合は母に自分から話を切り出した。
「お母さん、この前のフルマラソンだけど全然ダメだったわ」
「初めてのフルマラソンだから仕方がないわ。また次に頑張ればいいわよ」
「・・・そのことだけど、私にはマラソンの素質がないような気がするの。監督は『一度ダメだったからといって、素質がないとは決められない』って言ってくださったけど、あれだけ苦しい練習をしてきてダメなら、これからいくら練習しても結果は同じだと思うの。私の体は元々フルを走るだけの体力がないのだわ」
「それでどうしたいの?」
「どうしようか迷っているの」
「マラソンを止めるかもしれないってことなの?」
「・・・・」
 百合は母の問いに対して言葉に出さず、首を小さく縦に振った。
「百合、母の私が走るわけではないから、どうしろこうしろとは言えないわ。止める、止めないは百合が決めることだから。でも一つだけ聞かせて。あなたは子供の頃から走るのが好きだったから、学校も会社も走るという道を選んだのよね。それで今は走ることをどう思っているの?もう嫌いになった?」
「ううん、嫌いになんかなっていないわ」
「じゃあ今も好きなのね?」
「好きだけど、こんな成績では監督やみんなの期待に応えられない」
「あなたってそんなに期待されているの?」
「それは分からないけど」
「じゃあ仮に期待されているとしましょう。だったら百合はみんなの期待に応えようと、他人のために走っているのね。自分のためではなくて。それじゃあまるで嫌々走っているようにしか聞こえないわ。自分が好きだからマラソンを始めたのでしょう。だったら結果なんて、少しも気にする必要はないじゃないの。確かに会社では指導もしていただいているし、それで給料も貰っているのだから、努力は必要だけど。それでも陸上部に入った人の全員が、良い成績を残せるわけではないでしょう。いくら頑張っても結果が伴わない人だっているわ。それで自ら止める人、中には強制的に止めさせられる人だっているかもしれない。百合はまだ止めろと言われないからいいけど。自分の好きな道に進めて、好きなことが続けられるというのは幸せだと思わないと」
「お母さん・・・・」
「あなたはまだ若いのだから、急いで決めなくてもいいんじゃないの。ゆっくり考えなさい」
「ええ」
 その日の夜、百合は布団に入ると母の話を思い返していた。母の言うとおり、自分の好きな道に進めて、しかも止めさせられることなく、自分さえその気だったら続けられるのだ。誰に反対されたわけでもなく、また勧められたわけでもない。自分が好きで始めたマラソンなのだ。監督も信頼してくれている。会社から、おまえはもうダメだと言われれば仕方がないが。
(好きなことが続けられるのは幸せ)そのとおりだわ。そして他人のためではなく、自分のために走る。
 百合は母の言葉を思い出して、心のどこかが吹っ切れたように感じられた。

 年が明けて一日早々ではあったが、明人が年頭の挨拶に来た。彼も母と同じようにマラソンの話はしなかったが、百合から話した。
「この前のマラソンは全然ダメだったわ。後半に入ったら疲れちゃって、足が付いて行かなくなったの。ハーフではそんなことなかったのに」
 明人が言った。
「素人の僕には分からないけど、確かに四十二キロなんて距離になると大変だよね。その半分でも長いのに」
「明人さん、本当のことを言うと、私マラソンを止めようかと思っていたの」
「えっ、どうして?」
「このまえ走って散々な成績だったでしょう。それで自信をなくしたからよ」
「でもフルマラソンは初めてだから、仕方がないだろう」
「そうだけど、自分なりに多少は自信があったから、よけいにそう感じたの」
「そうなんだ、それで今後どうするの?」
「色々考えたけど、もう一度初心に戻ってやり直そうと思っているわ」
「それがいいよ。百合ちゃんは努力家だから、きっと大丈夫だよ」
「休みが終わったら頑張って練習するから、見守っていてね」
「もちろんだよ」
「期待に応えられなくても、がっかりしないで」
「大事なのは結果じゃなくて経過だよ。自分にできることを一生懸命やって、やるべきことはやったと、納得できたらいいと思うよ。それで結果が出なくても仕方がないよ。それよりも百合ちゃんが体をこわさないで、元気でいてくれるほうが僕は嬉しいよ」
 二人の話を傍らで聞いていた母は、娘が立ち直ったことを確信した。

 正月休みが終わって寮に戻った百合は、翌日出勤すると自分が考え抜いて出した結論を監督に話した。
「監督、このままでは終われません。終わりたくありません。今まで以上に厳しく鍛えてください。そしてもう一度、挑戦させてください」
「そうか分かった。その覚悟があるのなら、そのつもりで指導するぞ。それじゃ次回のレースを、一年後の関西朝日マラソンに決めて練習の計画を立てよう」

 百合は一日だけ休んで、次の日から監督と一緒に練習を開始した。琵琶湖マラソンで後半に失速したのは、フルを走るだけのスタミナが完全に不足していたことは明白だった。そこで初歩の体力作りから始めた。だからと言って、毎日四十二キロを走るわけにもいかないので、体育館に置いてある色々な器具を使って体をいじめた。それと会社のグランドや近辺の道で、少しずつ距離を伸ばしながら走った。ただこれまでも、このような練習はたくさん積んできたので、今までと比べて特に変わり映えしていないのではないかと思いながらやっていたが、やがて冬も終わり春がやって来ると、監督が百合に言った。
「今後のことだが、練習方法を変えてみよう」
「どう変えるのですか?」
「うん、五月になったら合宿をしようか」
「どこかへ行くのですか?」
「山だ、高い山で練習しよう」
「高山(こうざん)ですか」
「嫌か?」
「いえ、嫌ではありません。むしろ行きたいです」
「そうか、じゃあ決めるぞ。ただかなり辛いと思うから、覚悟だけはしておきなさい」
「はい」
「高い山では空気が薄くなるから当然息苦しくなるが、その代わり心肺機能が高まるというメリットがあるから、良い練習になるぞ」
「つまり持久力がアップするということですか?」
「そうだ。君の欠点だったスタミナ不足も、補えるはずだ」
 百合は今までの練習方法に対して、不安を感じながらしてきたので、監督の話は嬉しかった。

 二人は五月に入ると長野県に行き、民宿に泊まりながら一か月間の高地合宿を行った。高さ二五〇〇メートル前後という酸素の薄い高地での練習は、思った以上に辛かった。初日はわずか五キロの距離を走っただけで、心臓が止まるのではないかと思うほど苦しかった。
「吉村ここでの五キロを走ってどうだった?」
 監督が聞いてきた。
「すごくしんどかったです。まるでフルマラソンを走ったあとのようでした」
「そうか、そんなに苦しかったか。じゃあ十キロ走れば、八十キロ走ったことになるな。はっはっはっ」
「監督、笑い事ではありません。本当に苦しかったのですから」
「まあそう怒るな。徐々に慣れていくさ」
「明日からはどうするのですか?」
「数日間は五キロ走ったあと休憩して、また五キロ走ることを繰り返そう」
「分かりました」
「その後は走る距離を伸ばしていくぞ」
 
 翌日から監督の指示どおりに練習をした。午前中に一回、午後に一回で計十キロ。タイムは無視して、それを一週間続けると体も少しずつ慣れてきた。
 一日休んで、翌週からは一度に走る距離を十キロに伸ばした。しかしそこで五キロと十キロの違いが如実に表れた。初日に走った五キロと変わらないほどの苦しさを感じたのだ。これが平地と高地の違いだと身に染みた。ただ監督は三勤一休の計画で、三日走って一日休めと言ってくれた。走るのも一日一回の十キロのみだった。それも六日間で終わり、また翌週からは距離を十五キロに伸ばして、同じように三勤一休で練習した。体は高地の空気に慣れてきたが、走ったあとの苦しさは変わらなかった。
 監督が百合に聞いた。
「その後、どうだ?」
「はい、五キロ伸ばす度に苦しいです」
「そうだろうな、それが普通だ。しかし持久力は確実にアップしているよ」
「そうだといいのですが」
「大阪に戻って平地を走れば、今までとの違いがはっきり分かるぞ。だからもう一週間頑張れ」
「はい」
 翌週からは二十キロに増やして走った。但し二日に一回しか走らなかった。他の日は別のトレーニングメニューを指示されて、それをこなした。そして迎えた練習の最終日、監督が言った。
「吉村、いよいよ今日で最後だ。それでハーフの距離を走ろうか。ここから走り始めて、十・五キロでUターンして、ここに戻ってこよう」
「分かりました」
「私はタイムを計らないから、おまえが本番と同じく五キロごとに時計を見ながら、ペースを守って走ってみろ」
「はい」
 百合は監督の指示したとおりに走り終えた。

 一か月余りの合宿を終えて大阪に戻ると、溜まっていた疲労が一気に出たのか、二日間寝込んでしまった。ただ、やるべきことはやったという充実感はあった。すぐ結果に結びつくかどうか分からないが、十一月まで練習を怠らずに頑張り抜こうと思った。
 二日間休んだあと、練習に出て軽く体を動かしてからトラックをゆっくりと走った。徐々にペースを上げていき、距離も多く走ったが、走り終えたあとは自分でも意外なほど体が軽く感じられた。監督が言っていた平地と高地の違いとは、これなのかと身をもって感じた。
次回のレースは【関西朝日マラソン】という、大阪で開催される国際マラソンだ。この大会は海外からも招待選手を招く国際大会なので、結果を残せばオリンピック選考委員の目に留まるだろう。このチャンスをものにしなければならないと思った。一年間やってきた練習の成果を、全てこのレースにぶつけるつもりで走ろうと心に決めていた。

        二十八     関西朝日マラソン
 十一月になり、大会が近づいてきた。百合にとって二度目のフルマラソンとなる。重要なレースと位置づけされる今回の大会は、海外からも多くの選手が参加する。特に強いのがアフリカの選手だ。タイムでは二時間二十五分以内を目安にして走らないと上位に入れないだろう。監督とコーチからは、海外の強い選手に合わせて走らないように言われている。なぜなら自分のペースが乱されて、レース後半になると必ずスタミナ切れを起こしてしまうからだ。それより「順位は気にしないでタイムを気にしろ」と言われた。オリンピック出場の目安は順位もあるが、タイムが選考基準を突破しているかどうかが問題なのだ。それとタイムが良ければ、順位も自然に付いてくるというのがコーチの持論だ。
 今日まで高地合宿を初め、人並み以上に練習をしてきたつもりだが、多くの練習をしたからといって、良い結果が出るわけではない。他の選手だって相当辛い練習をしているはずだ。自分だけが辛い思いをしているわけではない。しかし負けたくはないので、とにかく頑張ろうと思った。
 大会まで残り二週間となり、今日から大会までは練習を軽めにして、体調管理に重点を置くことになった。大会当日に体調が悪いとか、疲労が抜けないままレースに出ても良い結果は出ない。

 いよいよ大会の日がやってきた。十二時ちょうどのスタートに合わせて、ストレッチなどで体を慣らしていく。天候は晴れ、風も無く気温はやや高めだが、まずは絶好の日和だ。
スタートの合図でレースが始まった。百合は特に気負うこともなく、少なくともレース前半は、自分のペースを守って走ることを目標に走り始めた。他の選手が前を走っていても気にしないで、五キロごとのタイムに注意しながら走ることに重点を置いた。五キロのタイムは前半十六分台をキープしながら、後半は十七分台で走りたい。そのタイムをキープしていれば先頭集団から遅れることもないと予想している。十キロ過ぎの地点では、まだ集団が分かれることなく多くの選手が縦に並んでいる。しかし十五キロを過ぎたあたりから徐々に遅れる選手が出始めた。その結果、先頭集団と二番手集団の距離が開いていった。しかしその先頭集団にはまだ十数名の選手がいる。二番手集団との距離も数十メートルしか差はない。現在の百合は先頭集団でタイムも常に安定して、五キロごとの十六分台をキープしている。折り返しの二十一キロを越えた時、集団の人数は少しずつ減ってきていた。二番手集団との差も開いてきている。三十キロの地点でトップ集団の選手は五人となり、もはやこの中の誰かが優勝するとみて、間違いないだろう。三十五キロ過ぎまでは同じ状態で並走していた五人だったが、残り五キロとなった三十七キロを越えた時に、一人の外国人選手が仕掛けた。少し早い仕掛けにも思えたが、その選手に遅れをとるまいと、他の選手も付いていこうとする。しかし付いていけずに遅れていく選手もいた。そして百合もここにきて遅れてしまった。先頭が二人となり、百合を含む三人は外国人選手のスパートに付いていけなかったのだ。しかし、その後は自分の実力を充分に発揮して、三位でゴールインした。そして肝心のタイムは二時間二十四分十五秒で、目標の二十五分を切れたのだった。ちなみに優勝した選手のタイムは二十二分台だった。三位だったとはいえ、きっと選考委員の目に留まっただろうと思った。   

 その一か月後、松中電機の陸上部監督の元へ朗報が舞い込んだ。その朗報とは十一月に東京で開催される【東京女子マラソン二〇一九】に、吉村百合を招待選手として出場を推薦したいとのことだった。その話を百合が承諾したことは言うまでもない。 

        二十九  オリンピック出場選手選考会
 西暦二〇十九年十一月、百合にとってオリンピックの出場を懸けた、東京女子マラソンが始まろうとしていた。この大会の結果が出場の命運を握っていると言っても、決して過言ではないだろう。とにかく持っている力をすべて出し切って、悔いのないレースにしようと心に決めていた。

 その当日がやってきた。スタートは十時、遅くともそれから二時間半以内に結果が出るだろう。スタートライン前に集まった選手の殆どが、足や手を動かしながらスタートの合図を待っている。近くにあるデジタル表示の大きな電気時計が、数字のカウントダウンを始めた。十・九・八・・・二・一・ゼロの数字とともに合図のピストルが鳴り、選手がスタートした。そしてこのマラソンの結果、百合は・・・・。

 東京女子マラソンから約一か月後の十二月○日。女子マラソンの東京オリンピック出場選手選考会が東京で行われ、十名の選考委員が四名の選手と一名の補欠選手を選ぶため、一同に会した。オリンピック出場の選考基準タイムは二時間二十五分以内と聞いている。
委員長の挨拶が終わると選手の選考に入った。
「皆さんの手元に配布しました資料を見ていただくと分かりますが、今から二年前に遡り、それ以降六回のマラソン大会の中から有望選手の名前と順位、それとタイムが一覧表になっています。その中から一名ずつ順番に選んでいきたいと思います。最初に私のほうから選手の名前と選考理由を言いますので、異議のある委員の方は挙手をお願いします」
「まず一人目は[山下和子]選手。彼女は先月の東京女子マラソンで順位が二位、タイムも二時間二十二分台で問題はないでしょう。異議のある方はおられますか?」
 誰からも異議の申し立てはなく一人目は決まった。

「二人目に[横山敬子]選手。彼女は福岡レディスマラソンで日本人トップの二位に入り、タイムは二時間二十三分台でした。優勝した国外選手のタイムと比べても数十秒の遅れしかなく、選考に問題ないと思われますが、皆さんどうでしょうか?」
 委員全員に異議なく二人目も決まった。

「三人目は名古屋国際マラソンで、日本人トップのタイムで三位に入った[橋田弘美]選手。彼女は三位ながらもタイム的には二時間二十三分台前半と、海外勢の一位、二位と大差のないタイムで走っていますので、選考させていただきましたが、どうでしょうか?」
 三人目の橋田弘美も異議を唱える委員はなく、すんなりと決定した。

「次は四人目の選手ですが、これは私の個人的な意見なので皆さんの意見もお聞きしたいと思います。資料の【東京女子マラソン】の欄を見てください。
 一位と三位は海外選手で、二位は先ほど決まった山下優子選手。そして四位の欄に書いてある【吉村百合選手】ですが、順位は四位ながらもタイムは二時間二十三分台を出しています。その大会は非常にレベルの高かった大会で、一位から五位までのタイム差が三分以内と大接戦でした。さらに彼女は前の大会の【関西朝日マラソン】でも三位に入り、タイムも二時間二十四分台でした。つまり二回の大きな大会に出場して、安定した成績を残している選手です。皆さんはどう思われるでしょうか?」
 そこで一人の委員が手を挙げた。
「名古屋国際で三位の橋田に続いて、四位に入った[西川里美]選手はどうでしょうか?彼女のタイムも三位の橋田と遜色ない二十四分台後半でしたが」
 委員長が返答した。
「彼女は私も候補の一人として考えていましたが、他の大会では目立った成績を残しておらず、一度だけの結果で選考するのはいかがなものかと思いまして、名前を挙げませんでした。それに比べて吉村選手は二回の大会で変わらない結果を残しているので、その安定感を買いました」
 委員長の意見に委員の一人が手を挙げた。
「私も委員長の意見に賛成です。西川選手は補欠としてはどうでしょうか?」
「では皆さんに再度お聞きします。吉村選手を四人目のオリンピック出場選手、そして西川選手は、いま選んだ四名の中で欠場者が出た場合に、繰り上げ出場となる補欠選手になっていただこうと思います。賛成の方は挙手をお願いします」
 委員全員の手が挙がり、ついに百合のオリンピック出場が決定した。
「では四名のオリンピック出場選手と、一名の補欠選手を改めて発表します」
委員長はもう一度、決まった選手の名前を一人ずつ言った。そして記者会見の準備を始めた。
「今から記者会見を開いて、女子マラソンの東京オリンピック出場選手を発表します」
 それから三十分後に記者会見が行われ、テレビのニュースや新聞で【吉村百合】の名前が、全国に知れ渡ったのだった。

 百合の地元、滋賀県長浜市の市役所でも早速庁舎の壁に「吉村百合選手、オリンピック出場おめでとう」と、名前の書いた垂れ幕が掛けられた。家にもお祝いの電話が何本も掛かってきて、母はその応対に明け暮れた。また百合の会社には新聞各社や雑誌各社、あるいはいくつかのテレビ局から取材の申し込みがあり、会社の広報から監督と百合に取材の打診があった。しかし監督も百合もそう多くの時間を取材に割けないので、出来る限り合同記者会見としてもらったとのことだった。

 出場が決まってから色々と忙しかったせいもあってか、百合は自分が出場することをまだ信じられなくて、実感が湧いてこないのだった。その日の夕食時に寮の食堂で仲間たちからお祝いの会を開いてもらい、ようやく実感が湧いてきたのだった。翌日の午前中、会社の会議室で報道関係者の合同取材が行われた。カメラのフラッシュが光る中、記者からの質問が相次いだ。
「このたびはオリンピック出場おめでとうございます。決定の連絡を受けての感想を聞かせください」
「はい、オリンピック出場は私の子供の頃からの夢でした。その夢が叶って本当に嬉しい気持ちで一杯ですが、その反面応援してくださる皆様の期待に応えられるようなレースをしなければと思い、多少の重圧を感じています。しかし出させていただくからには、私の持っている力をすべて出して、一生懸命走りたいと思います」

        三十   二人の近未来
 オリンピック出場決定後の忙しかった日々は過ぎて、松中電器も年末年始の休みに入った。年が明ければ二〇二〇年、いよいよオリンピックイヤーとなる。 

 年末に帰省した百合は、母から「あなたに話があるの」と言われた。
「百合は東京オリンピックに出場することに決まったけど、オリンピックが終わった後は、どうするつもりなのか知りたいの。それはなぜかというと、あなたと付き合っている明人さん、あの人とはもう三年以上のお付き合いでしょう。いずれ結婚するつもりをしているのなら、どこかでマラソンに区切りを付けなければいけないという話なの。お母さんは百合の考えが分からないけど、今度のオリンピックの結果によっては、四年後のオリンピックを目指してマラソンを続けるのか?それとも結果に関わらず、引退して結婚をするのか?もし続けるのなら、これからまだ四年も五年も明人さんを待たせることになるわね。百合がマラソンを続けたいと言えば何年でも待ってくださるかもしれないし、他の女性と結婚されるかもしれない。別に百合を脅しているわけではないけど、よく考えてほしいの。あなたもまだ若いのだから、お母さんは『マラソンをやめて結婚しなさい』とは言わないわ」

 話を聞いて今まで自分はそこまで考えていなかったのに気付き、母の話はもっともだと思った。しばらく考えてから言った。
「私は今までそんなことを少しも考えなかったわ。でも話を聞いて、しっかり考えるべきだと思った。ただこれは以前から思っていたことだけど、私が明人さんと結婚すると、彼は長男で兄弟は妹さんだけなの。だから婿養子に来ていただくというわけにはいかないでしょう。そうなると私が家を出たら、お母さんは一人暮らしになっちゃうから、一人っ子の私が簡単にお嫁に行きます、なんて言えないわ」
「お母さんは百合の好きなようにすればいいと思っているわ。そりゃあ一番いいのは、お婿さんをもらってこの家で暮らすことだけど、好きな人と別れてそうでない人と結婚したって、幸せになれないわ。お母さんのために自分を犠牲にしてまで結婚してほしくないの」
「私一人では決められないことなので、明人さんにも相談したいと思うの。彼の考えを聞いて私の考えも言って、二人の妥協点を見つけて決めたいと思うわ」
「百合がそういう考えだったらそうしたらいいわ。私の話はこれで終わりよ」
 そう言って母は席を立った。さて今の話を彼にいつ話そうか?・・・出来るだけ早いほうが良いと思うので、年が明けて年始休みに会った時に話そうと決めた。

 新しい年が明け、二〇二〇年を迎えた。一日(ついたち)早々ではあるが、年始の挨拶に明人の訪問があった。今日の訪問は年末より約束していたので突然ではない。
 彼は私と母に玄関先で挨拶をしてから家に入った。
「百合ちゃん、改めてオリンピック出場おめでとう」
「ありがとう」
「本当に出られるなんて驚いたよ」
「私だってびっくりしたわ。レースで優勝できなかったのに」
「優勝はできなくても成績は上位だったからだろうね。タイムも良かったし」
「聞いたところ、二回のレースで安定した結果を残したからだそうよ」
「なにはともあれ、僕も本当に嬉しいよ」
「まだ夢を見ているような気がしているの」
「これは間違いなく現実だよ。それはそうと、二年ほど前に竹生島へ行ったよね。あの日、だるまさんに願い事を書いた紙を入れて奉納したんだけど、願いが叶うまでは秘密にして、願いが叶ったら話すと約束しただろう」
「覚えているわ」
「その願い事って、まだ話せないのかな?」
「私はふたつ書いたけど、ひとつは話せるわ。それはオリンピックに出られますようにと、お願いしたの」
「ひとつは祈願成就したんだね。じゃあもうひとつのほうは、まだ話せないってことなのかな?」
「まだ願いが叶っていないので話せないわ」
 明人は彼女の言葉に(もうひとつの願いとは僕との結婚ではないだろうか)と思った。それともまったくの見当違いだろうか?
「次は明人さんの番よ。あなたは何をお願いしたの?」
 百合はそう聞きながら(彼のお願いはなんだったのだろうか?)と考えていた。
「僕の願いもまだ叶っていないから話せないんだ。ごめんね」
「そうなの、早く叶うといいけど」
 百合は「まだ叶っていない」という彼の言葉に(願いとは私との結婚なのかもしれない)と思った。それとも別の何かだろうか?
「早いか遅いかは分からないけど、必ず叶うと信じているよ。それよりオリンピック出場のお祝いをしなきゃいけないんだけど、あまりにも大きな出来事なので何をすれば良いのか分からなくて」
「そんなことはいいのよ。お祝いの言葉だけで充分だわ」
「そういうわけにもいかないから、何かさせてもらうよ。それで今日のところはお年玉の代わりとして、これを受け取ってくれるかい」
 そう言って明人は小さな箱を出した。
「これは商品券だけど、これだったら好きな物を買えるから。それともうひとつ、これはお母さんに渡してください。同じ商品券です」
 百合は一度遠慮したが、それで引っ込める彼でないことは十分知っているので、ありがたく頂くことにした。そのことを母に話したら、料理の手を止めて明人にお礼を言った。
 
 お昼まではまだ時間があるので、年末に母と話し合った自分たちの将来について彼に話すことにした。彼は話を聞き終えた後、黙ったままでしばらく何かを考えているようだったが、ようやく話し始めた。
「百合ちゃん、僕は君のことが本当に好きだから、出来れば結婚したいと思っているよ。でもお母さんの言われたとおり、僕も君が何かの犠牲になってまで、結婚するのは嫌だな。例えば君の好きなマラソンを志(こころざし)半ばで止めてしまうこと。そんな犠牲を払わすくらいだったら、自分から納得して止めるまで、僕は五年でも十年でも待つよ。お母さんは『好きな人と別れて、そうでない人と結婚したって百合は幸せになれない。私のために自分を犠牲にしてまで結婚してほしくない』と言われたのだね。それに関してはお母さんにとても感謝します。本当に嬉しく思います。いずれはお言葉に甘える日が、やってくるかもしれません。しかし何もかも甘えるのでなくて、僕たちが結婚すると決まったら、お母さんのことは責任を持って考えます。もちろんまだ先の話だと思うけど、もしも体が不自由になられた時には、僕の家へ来ていただくとか、お母さんの希望を聞いてあげて、希望に沿うように僕たちが出来る限りのことをしてあげたいと思います。今の僕に言えることはそれくらいです。最後は百合ちゃん次第っていうことになってしまうけど、それくらいしか言えなくてごめんね」

 百合は黙って話を聞き終えた。
「明人さんの気持ちはよく分かりました。それだけ聞けば私には十分です。最後の決断は私がしなければならないってことです。三人の一生が懸かっているとても大切なことだから、すぐには決められないのでよく考えてから結論を出します。明人さん、申し訳ないけど私にしばらく時間をください」
「もちろん簡単に決められる話じゃないよ。僕はいいから君が納得するまで考えて、結論を出せばいいよ」
         
         三十一   オリンピック壮行会
 寒かった冬もようやく終わりを告げ、季節は春へと移り変わった。オリンピックの開催まで残り半年、百合は会社のグラウンドで日々マラソンの練習に明け暮れた。新聞やテレビなど各マスコミも徐々にではあるが、オリンピック関連のニュースが多くなってきた。オリンピックは出場することに意義があると言われるが、やはり出るからには良い成績を残したい。会社の人や地元の人の期待もあるので、出来ることなら(色はともかくメダルがほしい)と思うのが本音だ。しかし開会が近づくにしたがって不安は大きくなってくる。もし練習中にケガをしたらどうしようとか、もし直前に体をこわしたらどうしようかなど、すべてを悪い方へ悪い方へと考えてしまうのだ。こんな考えでは絶対に良い結果は出ない。(もっと精神的に強くならないといけない)そう思うのだが、明人に返事の件もある。もちろん考えているが、まだ結論は出せないでいる。ただその件は、彼が「納得するまで」と言ってくれたので、急ぐ必要はない。とにかく今は何も考えずに、頭を空っぽにして練習に打ち込むことだ。自分を信じて、自分の力を信じて、会社の期待とか地元や知り合いの期待とか、そんな重いものを背中に背負っていては走れなくなってしまう。出来るだけ体を軽くして走らなければと思った。

 いよいよ五輪開催まで一か月を切った真夏の暑い八月、百合にとってオリンピック前の最後の里帰りだ。本来なら帰る予定はなかったのだが、長浜市より壮行会を開きたいとのことで、断れる話でもないので帰ってきた次第だ。
 壮行会は十一時三十分から始まる。挨拶の時間が三十分、そして食事は十二時から立食パーティ形式で行うそうた。参加者は長浜市長と市会議員数名に中学、高校の陸上部監督、担任だった先生、同じ町内の知り合いや親せき、それと学生時代の陸上部の仲間やクラスメートだ。ただ母と明人は来ていない。壮行会の話は彼に言ったが「自分が出席すると、却って気を使わせてしまいそうだから今回は止めておくよ。その代わり、今晩君の家に行くから」と言ってくれた。母もたくさんの人に挨拶をするのは嫌だと言って来なかった。確かに彼が来れば気になるだろう。しかも来たところで二人仲良くというわけにもいかない。殆ど話もしないで、離れて過ごすはめになるのだ。それだったら家に来てもらったほうがよほど嬉しい。

 やがて十一時半になり壮行会が始まった。初めは市長の挨拶と祝辞から。
「皆さんこんにちは、私は長浜市長の藤田といいます。よろしくお願いします。さて本日は皆様方もすでにご承知のとおり、私たちの故郷・長浜市出身で東京オリンピックの女子マラソンに出場が決まった、吉村百合さんの壮行会を催させていただきました。たいへん暑い中をたくさんの方々に出席していただき、ありがとうございます。そしてなにより吉村百合さんにはオリンピック出場、本当におめでとうございます。私たち長浜市民にとって、大変喜ばしいことです・・・・」  
 もうしばらく話をして市長の挨拶は終わった。
 
 続いて市会議員の議長から祝辞があり、終わると百合に挨拶の順番がきた。
「皆さん、本日は大変忙しい中にも関わらず、私のために壮行会を開いていただき、ありがとうございます。オリンピックでは皆様方の期待に応えられるように一生懸命頑張りますので、応援をよろしくお願いします。今日は本当にありがとうございました」
 ごく平凡な挨拶を短い時間で終えた。挨拶の中で言ったように、みんなの期待には応えたいが、それは決して重荷として背負わないようにしようと決めていた。
 やがて立食パーティが始まると、それぞれが好きな食べ物や飲み物を手に取り、知り合い同士が喋りながら食べている。百合の傍らにはお祝いや激励の言葉を言おうと多くの人が来てくれるが、その人たち一人一人にお礼を述べていると食べている暇がなかったのだった。
 壮行会の終了時間も近づいてきて、最後に高校の時の監督さんの挨拶で、お開きとなる予定だ。監督は祝辞を述べた後、百合の学生時代の努力や松中電器に就職を勧めたことなどを話して挨拶を終えた。

 その日の夜、七時頃に明人が家にやってきた。いつものように恒例の?手土産を持っていた。こちらも恒例の三人で晩御飯を食べながら、百合は今日の壮行会の話をした。
 食事を終えて母が後片付けに立ったので、彼に話し掛けた。
「今年の年始に話していた私たち二人の今後のことだけど・・・・私、ようやく心が決まったわ。長いあいだ待たせてしまってごめんなさい。だけどもう少し待ってほしいの、オリンピックが終わるまで。オリンピックが終わった次の日というわけにもいかないけど、数日して落ち着いたら必ず話すから、あと一か月ほど待って」 
 明人は少し緊張した面持ちで百合の話を聞いた。
「もちろん、一か月後でも二か月後でも、返事はあわてなくていいよ」
 そう言ったものの一日でも早く返事を聞きたい気持ちはあった。その反面、返事を聞くのも少し怖いなと思い、聞かずにいたほうが幸せかなと思った。それはなぜかと言うと、年始の時に「何年でも待つから、納得いくまでマラソンを続ければいいよ」と百合に言ったからだ。その気持ちに嘘や偽りはないが、自分の本心としては、今回のオリンピックが終わったら彼女がマラソンを止めて、自分との結婚を考えてほしいと思っている。百合の結論を聞きたい、いや聞くのが怖い。自問自答をしている明人の心は複雑に揺れていた。                                                        三十二    四十二・一九五キロの先に
 いよいよ東京オリンピックが開幕した。聖火台に聖火が灯り、大きな花火の音と華やかな電飾の光の中で開会式が始まった。各国から多くの選手団が日本へ東京へとやって来て、メイン会場となる国立競技場に集まった。入場行進が始まると、選手たちは観客席に向かって母国の国旗を振りながら笑顔で行進していく。こんな素晴らしい光景に百合は感動していた。またこんな素晴らしい場所に自分がいることに感激した。

 一連の開幕行事も終わり、いよいよ競技が始まった。百合の出場する女子マラソンは大会十二日目に行われるので、まだしばらく日がある。それまでに大切なのは体調管理だ。睡眠や食事、それと適度なトレーニングをすること。トレーニングは必要だが、本番が近づいてきた今は疲れるほどの練習は必要ない。それよりもメンタルとイメージトレーニングが大切だ。頭の中で走っている自分を思い浮かべる。レース終盤まで先頭集団に付いていって、そこで誰かがスパートを掛けたら必ず付いて行く。そしてトラックに入ってからの勝負に勝つ。誰も抜け出さなければ自分が先に仕掛けて、そこでは追随してくるランナーを自分の前に出させないように走る。状況に応じたレース展開を頭の中でイメージしていた。ただ実際はそううまくいかないだろう。だけどイメージは大切だ。良いイメージを持っていると、自分の体もレース状況に合わせて、自然に反応してくれると思うからだ。

 イメトレや体調管理をしっかりやりながら過ごした十日間が過ぎ、いよいよ女子マラソンの日がやってきた。百合は緊張しながらも心の中は冷静でいられた。それはなぜかと言うと、自分の心の中で決めたことがあるからなのだ。その決めたこと、とは・・・そう、それは今日のマラソンで自分自身が納得できる結果を残せたら、マラソンに終止符を打って彼と結婚しようと決めたのだ。しかし納得できる結果でなかったら、その時は・・・いや、それは考えないことにしよう。まずは自分の持っている力を全部だして、悔いのないレースをしようと思った。
 ほどなくマラソンのスタート会場に着いた百合は、入念にストレッチをしながらスタート時間を待った。そしてスタートまで残り十分を切った。ゼッケンナンバーは三十三番。この三十三番のゼッケンが国立競技場で待ち受けるテープを、トップで切れることを願いながら走ろう。応援してくれる、たくさんの方々に感謝の気持ちを持ちながら走ろう。そして自分の夢と将来の幸せを叶えるために走ろう。これから走る四十二・一九五キロという長い道程(みちのり)を走り終えたその先には、きっと待っていてくれるだろう二人の幸せな未来が。それを必ずこの手に掴もう。そう心に誓った百合はスタートの合図と同時に、力強く最初の一歩を踏み出した。

        三十三  夢が現実に     
 東京オリンピックが終わってから、すでに五年近くが過ぎようとしていた西暦二〇二五年五月の日曜日のこと。
 滋賀県米原市のいちご農園に、三人の親子連れの姿があった。両親の年齢は三十歳前後で、小さな女の子は見たところ三歳くらいだろうか。とても可愛い子で白いワンピースがよく似合っていた。その子は小さな口の回りを赤く染めながら、おいしそうにもぎたてのイチゴを食べている。女の子の傍らには、母がいた。そして少し離れた所に、笑みを浮かべながら二人を見ている父がいた。
 やがて父は遠い眼差しになり、過去のことを思い出していた。そう、それは今から八年ほど前になるだろうか、彼女と二人で来たこのイチゴ農園に、いつの日かまた三人で来られることを願っていたのだった。その時は夢のような願いだったが、本当に現実となった今日という日、父は感動にふけると同時に瞼の奥に熱いもの感じた。
 それと同時に、愛する妻と娘の二人を見つめ、ずっと前から私たち二人を見守ってくれた太陽に、これからは三人を見守ってほしいと願うのだった。
 
 五月のある日曜日、いちご農園に来ていた幸せそうな親子連れ、その三人の名前を尋ねたら、

夫   武田 明人
妻      百合
長女     美穂  
           そう教えられた。 三人がいつまでも幸せでありますように。     
                                     完 
お断り 
 文中に出てきます(しんあさひ風車村)は無くなりました。但し、その近くにリニューアルされた(グランピング施設)が、新たにできています。メインの風車も移転して、そこに建っています。      (二〇十八年七月現在)  

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