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9話 第4の事件です。

 浴室の前を通りかかった所で置いてあるバケツが目に留まった。
 二人の下着が入ったバケツを洗濯機に入れるのも今では何とも思わなくなった。
 習慣というのは恐ろしいと、つくづく思う。
「ねえ、ユリ。最近、また太っちゃったのよね」
「そう? そんなに変わらないと思うよ?」
 湯煙で曇った扉の向こうからエコーの掛かった二人の声が響いてくる。
 本当に不思議だ。
 何で女の子は端から見れば太っているように見えなくても、太っていると気に病むのだろう。
 ユリの言う通り、そんなに太っているようには見えないのに。
 やっぱりマリも女の子だな。
 そんなマリが無性に可愛く思えて足を止めて独りで笑う。
 部屋に戻ろうと思ったけど、事務室でテレビを見ることにした。
 適当にチャンネルを替えていたら、ノックと共に背後で扉が開いた。
「ユウちゃん」
 リモコンをテーブルに置いて振り返ると、白いパジャマ姿のユリが立っていた。
 濡れた髪と上気した頬が色っぽくて、目を奪われて言葉を失う。
「ここにいたのね」
 隣にはオレンジのパジャマを着たマリ。
 両方とも初めて見るパジャマだ。
 二人とも何着も持っているのだろう。
「お風呂、空いたよ」
「ああ、うん」
ようやく我に返り、ユリに対してたどたどしく返事をした直後だった。
背後で鳴り響く電話の音を耳にして、僕の心臓は大きく跳ねた。
嫌な予感が胸を掠める。恐る恐る腰を上げて近寄っていく。
ディスプレイに表示されているのは海堂警部の携帯番号。
時限爆弾でも扱うような手つきで、僕はそっと受話器を取った。
「はい。白鳥ユリマリ探偵事務所です」
「ユウキ君……」
 海堂警部の声は掠れていた。僕の心拍数は一気に上昇する。
「もしかして、死神ですか……?」
「そうだよ……」
 重々しく肯定する声。
 そして、4人目の被害者の名が告げられた。
「横山も殺されたよ……」

 遺体は玄関の前に俯せの状態で倒れていた。
 両手を頭上に投げ出し、顔は左側を上にして。
 瞳孔の開いた左目。青痣だらけの恐怖に満ちた死に顔。切り刻まれた衣服。
 この惨い遺体を目にするのも四度目だけど、何度見ても見慣れるものじゃない。
 胃の底が抉られるような不快感が込み上げてくる。
 これまでと変わった点は右手にナイフを握り締めている所だ。
 これは二人の興味を引いたらしく、遺体の傍に腰を下ろして観察している。
「さすがにナイフでは鎌に勝てなかったんだね」
「ねえ、おっちゃん。このナイフは誰の物か分かってんの?」
マリが床に片膝を着いた体勢で背後に立つ海堂警部を見上げる。
「それは被害者の物だよ」
「一応、指紋を調べてみたら?」
「もちろん、そのつもりだよ。おーい、そこの君」
 海堂警部は奥に声を飛ばして手招きで呼び寄せた。
 青い制服姿の鑑識のおじさんが駆けつける。
「このナイフの指紋を採取してくれるか?」
「了解しました」
 鑑識のおじさんは敬礼で答えるとナイフを受け取り去っていった。
 それから数分後、鑑識のおじさんが血相を変えて走ってきた。
「警部! ナイフから吉野容疑者の指紋が検出されました!」
「なーに?! そうか。おそらく被害者と揉み合いになった際に付着したのだろうな」
海堂警部は腕組みをしながら納得顔で頷く。
「でも、何で拭き取らなかったんですかね?」
 だけど、ユリが至極当然の疑問を投げかける。
 それに対して、海堂警部とマリが答える。
「拭き取る暇がなかったのかもしれないよ。誰かが物音を聞きつけてやってきたとかで」
「それか指紋が付着したことに気がつかなかったのかもしれないわよ」
「とにかくカズミさんと接触しないとね。吉野家へ行こう」
 海堂警部が踵を返して玄関側を向いた直後、携帯の電子音が鳴り響いた。
 音の出所を探して視線を彷徨わせると、海堂警部が携帯を左耳に押し当てていた。
「私だ。何かあったか?」
「警部、目撃証言が寄せられました。現場から逃走する死神を見た女性がいたそうです」
「今回もいたか。よし、名前と住所を教えてくれるか?」

 僕らは目撃者宅の玄関で話を聞いていた。
 海堂警部が警察手帳にメモを取りながら、次々と質問を投げかける。
「どんな状況で目撃されたのかを教えていただけますか?」
「あそこは仕事帰りにいつも通る道なんです。それで車を運転していたら見たんですよ」
「正確な時間は覚えてらっしゃいますか?」
「大体、8時半頃でしたね」
「黒装束にドクロの仮面、黒い手袋を嵌めていたんですか?」
「そうです。テレビで言ってるのと全く同じ格好でしたよ」
「当然ながら顔は見てないと?」
「見えませんでしたね。仮面を付けてましたから」
「身長はどれくらいでしたか?」
「高かったですよ。何センチくらいかは分かりませんけど」
「声は聞いてませんか?」
「はい。聞いてません」
「靴も見てませんか?」
「それも分かりませんね」
「他に何か目立った特徴はありましたか?」
「そういえば、足が速かったですよ。鎌を持ってるのに、よくあんなに速く走れるなって。感心したくらい速かったんですよ」
「なるほど。死神は足が速いと」
 海堂警部はしきりに頷いていた。
 足が速いとか言われてもな。
 なんの証拠にもならないよ。
 チーターくらい速かったら話は別だけどさ。
 もちろん、生チーターが走っているところなんて見たことないけどさ。
「ユウキ。あんた、足速かったっけ?」
 マリが振り返って僕の答えを待っていた。
 僕はもちろん首を横に振る。
「ううん。そんなに速くはないよ」
「50メートルのタイム、いくつだった?」
「えっと、高校の頃は8秒6だったかな」
「じゃあさ、あんた走ってみてよ。走って見比べてもらった方が分かり易いでしょ?」
「うん。分かったよ」
 僕は大きく頷いてランナー役を買って出た。
 駆け足でスタート地点へ向かう。
「いくわよ。よーい……」
マリがスターターの如く右手を挙げる。僕は腰を低く落として構える。
「スタート!」
 マリの腕が振り下ろされるのと同時に、僕はアスファルトを蹴って駆け出した。
 角を通り過ぎた所で重い足を引きずりながら足を止めた。
 数メートル走っただけなのに、こんなにも疲れるなんて。
 運動不足を痛感しながら、背中を丸めて荒い呼吸で喘ぐ。
「ユウちゃん、お疲れ様」
上下する僕の肩に左手を乗せて、ユリが労いの言葉を掛けてくれる。
「大丈夫?」
「うん。まあ何とか」
「この子より速かったの?」
息も絶え絶えに背筋を伸ばした時、マリが僕を指差して問い掛けた。
「うーん、同じくらいじゃないですかね……」
 女性は首を傾げながら答える。
 本当かな。僕の走りと見比べて分かるものなのかな。
 適当に答えているような気もする。
「鎌を持ってても、ユウちゃんと同じくらいだったんですね」
「死神は相当な脚力の持ち主ってことね」
 二人とも興味を持ったのか、ユリは左手の拳を口元に当てていた。
 マリは両手を腰に回しながら、真剣な顔で考え込んでいた。

 向かいのソファーに座るカズミさんの顔は酷くやつれていた。
 タカヒロさんのことが気がかりで心労が祟っているのだろう。
「実はですね、カズミさん。被害者が握り締めていたナイフからタカヒロさんの指紋が検出されたんですよ。おそらく、揉み合いになった時に付着したのでしょう」
「主人の指紋が? そんな、何かの間違いじゃないですか?」
あり得ないとばかりに、カズミさんは目を見開いて体を乗り出す。
「お気持ちは分かりますがね。これだけの決定的な証拠が見つかってしまった以上、無関係だと言うのは無理がありますよ」
「でも、そんなはず……」
頭を振って俯く。当然ながら受け入れがたい事実のようだ。
「電話とかメールとか、タカヒロさんから連絡はありませんか?」
「全く音沙汰無しです。でも海堂さん、夫は犯人じゃないんですよ。三つの事件とも、家にいたんです。本当なんです。信じてください」
「しかし、具体的な証拠が無いことには。誰かが訪ねてきたとか、電話が掛かってきたとか。そういったことがあれば証拠になるんですけどね」
「電話……」
海堂警部の言葉に対して妙に強い反応を示したのはユリだった。
「カズミさん、第一の事件の時に間違い電話が掛かってきたとおっしゃってましたよね?」
「そういえば言いましたね」
「一回目の電話って何時頃に掛かってきたか覚えてますか?」
「いえ、正確な時間は覚えてないですけど」
「履歴は残ってませんか?」
「そういえば、残ってるかもしれません」
「見せていただけますか?」
「はい」
 カズミさんが腰を上げたから僕らも電話機へ近づいていった。
 カズミさんが電話機のボタンを押すと操作音が鳴った。
「これですね」
 日付は1月13日。時刻は午後9時3分。
 アイテと表記された隣に電話番号が表示されている。
「9時3分……」
「これって……」
 ユリとマリの目はディスプレイに釘付けになっている。
 真後ろに立っているから顔は見えないけど、驚いた表情をしているに違いない。
 どうしたんだろう? これが何を意味しているのだろう?
「警部さん。この人の住所、調べてくれませんか?」
「住所? 行くのかい?」
「直接、会って確かめたいことがあるんですよ。重要な手掛かりが得られるかもしれないので」
「分かったよ。とりあえず、本人に連絡を取ってみるよ」
 ユリの頼みを聞き入れるや否や、海堂警部は携帯を出して電話を掛けた。

 リビングに通された僕らはソファーに腰を沈めて間違い電話の主と対面していた。
 ユリが膝を乗り出して話を切り出す。
「早速お伺いします。1月13日。この日、二度に渡って吉野さん宅に間違い電話を掛けられましたよね?」
「はい。掛けましたけど、それが何か?」
「一度目の時、電話に出た相手は男性でしたか?」
「そうですよ」
「二度目はどちらでしたか?」
「二度目は女の人でしたね」
 ユリはコートのポケットに左手を入れた。中から出てきたのはICレコーダーだった。
 膝の上でボタンを押して女性に向かって印籠のように突き出す。
 細長い機械から流れてきたのはタカヒロさんの声だった。
「この声で間違いないですか?」
「間違いないですよ。確かに、こんな感じの声でしたよ」
「相手の男性とはどんなお話をされたんですか?」
「別に普通ですよ。吉野ですけどって名乗られて、それで間違いましたと切って。それだけですよ」
「ちなみに後ろで奥さんの声は聞こえましたか?」
「いいえ、聞こえませんでしたね」
「背後で何か変わった音は聞こえませんでしたか?」
「特に何もなかったですね」
「吉野さんとは全く面識がないんですよね?」
「ありませんよ。面識のある相手に間違い電話は掛けませんよ」
「ねえ、ユリ。どういうことかしらね?」
「タカヒロさんの言ってた通りだよね」
「一度目は自分が出たって言ってたわよね」
「でも、そうなると」
「そうよね」
 小声で話し合うユリとマリの横顔を眺めていたら思い出した。
 あれは第一の事件の時だった。
 二度目の間違い電話が掛かってきた時、タカヒロさんが話していた。
 一回目は自分が電話に出たと。
 でも、それがどうしたんだろう? 
 この間違い電話の一件に何か重要な意味が隠されているのか?

「また事件ですか?」
 キョウさんは膝の上に両手を乗せて恐る恐る聞いてきた。
 海堂警部が背中を丸めて膝の間で両手を組んで答える。
「ええ、横山も殺されたんですよ」
「そうですか。これで4人目ですね」
 目を伏せて低い声で呟く。
 海堂警部は背中を丸めて両手を膝の間で組むと、重々しい声で告げた。
「キョウさん、実は被害者が握り締めているナイフからタカヒロさんの指紋が検出されたんですよ」
「お義父さんの指紋が? 本当にお義父さんの指紋だったんですか? 何かの間違いじゃないですか?」
「被害者と格闘になった際に付着した。それ以外に考えられませんよ」
「アリバイはどうなってるんでしたっけ?」
「カズミさんは三つの事件全て家にいたと証言していますけどね」
「それなら犯行は不可能じゃないですか」
「しかし、証拠は無いですからね。証拠が無くては庇っていると見なされてしまいますよ」
「そんなことを言えば、僕にだってアリバイはありませんよ」
 右手を胸に当てて激しく首を横に振る。
 キョウさんの声も一段と強くなってきている。
「それに、あの殺してやりたいという発言もありますからね」
「あんなの本気で言った訳じゃないですよ。きっと、ついカッとなって言ってしまっただけですよ。お義父さんは無実ですよ」
「キョウさん、本当にタカヒロさんから何も聞いてませんか?」
「僕は何も知りませんよ」
「カズミさんからも何も伺ってませんか?」
「聞いてませんよ」
「タカヒロさんの友人や同僚の方々からもですか?」
「お義父さんのご友人の方々とは面識がありませんからね。知りようがないですよ」
「タカヒロさんから電話やメールはありませんでしたか?」
「ありませんよ。とにかく僕は何も知らないんですよ。こっちが知りたいくらいですよ」
 キョウさんは背中を丸めて頭を抱えて踞っていた。
 高崎家を出た後、僕らはメアリーとパトカーの前で輪になって話し込んでいた。
 夜空に浮かぶ満月を見上げながら、ユリとマリが静かに喋り出す。
「カズミさんもキョウさんも、すごく取り乱してましたね」
「キョウさんがあんなに動揺してたのは初めてね」
 僕もあのキョウさんの様子は意外に思えた。
 今まで冷静沈着だったキョウさんがあれ程までに取り乱すなんて。
 タカヒロさんが死神かもしれない。
 それが計り知れぬ混乱をもたらしているのだろう。
「キョウさんには悪いがね。決定的な証拠が見つかった以上、指名手配も視野に入れないといけないね」
 指名手配か。いよいよ、そんな段階まで話は進んできている訳だ。
「ユリ君、マリ君。残すはあと一人、小野だけだね」
「小野さんは殺させませんよ。何としても」
「止めてやるわよ。絶対にね」
 夜空を見上げながら、ユリもマリも決意に満ちた瞳で固く誓った。
 この死神の復讐劇に終止符を打つことを。

しおり