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最期

 風の音を、予測していた。

 天心地胆を抜け陰陽界に入れば、いつものごとく風の音が聞えるのだろうと。



 だが此度、それは聞えなかった。

 否、聞えていたのかも知れないが、スルグーンの耳には届かなかったのだ。



 何故ならば、そこには鬼どもがひしめき合っていたからだ。



 鬼どもが、ぎゃあぎゃあと喚き声を挙げて我先に陽世へ抜けんと押し合いへし合いしていた。

 スルグーンは翼を広げ、鬼どもの頭の上にするりと飛び上がりそのまま陰陽界を飛び進んだ。

 鬼どもが捕まえようと手を伸ばして来る。

 だがスルグーンは鬼の手に捕らえられるほどのろまではなかった。

 嘲笑するかのように、鬼の手からほんの僅か離れた所を飛び過ぎて行く。





 先刻までは陽世で、フラの馬の背の上にてフラが焔を吐きマトウの邸に降り立とうとする鬼どもを焼き払うのを見ていた。

 そしてそれを見ながら、かつてどこかで同じ光景を――似たような光景を見たような気が、していた。







 いいぞチイ







 そんな風に、自分が叫んでいた光景だった。

 それは眩暈のごとくにスルグーンを衝き揺らし、ついに耐えられなくなってここ陰陽界に飛び込んで来たというのが、正直なところだった。





 しかし今は、そんな光景に惑わされている時ではない。

 雷獣は頸をぶるっと震わせ、ばさりとひとたび強く羽ばたいたかと思うと、鬼どもには眼もくれずに天心地胆を抜け、森羅殿目指し飛び急いだ。





          ◇◆◇





「聡明鬼」その姿を認めた瞬間、スルグーンは叫んでいた。



「スルグーン」はっとして見回しながら鬼は、スルグーンの姿そのものを認めるよりも前に叫び返して来た。



「ここだチイ」スルグーンは聡明鬼の頭上に浮び、聡明鬼に手を伸ばして来る鬼の目玉を狙って嘴から落下した。



 鋭い悲鳴が響き、目を突かれた鬼はもんどり打って他の鬼どもの足に踏まれ蹴りつけられた。



「リョーマたちは無事か」リューシュンもまた迫り来る鬼の頸をがっきと腕の中に抱えて締め上げながら訊いた。



「大丈夫だキイ」スルグーンは答えたかと思うと翼で鬼の頭をはたき倒した。

 その小さな翼のどこにそんな力があるのかと驚くほどに、鬼どもはスルグーンの一撃の下に次々と倒れ伏していく。



 リューシュンも、負けてはおれぬとばかりに吼え、掴み、投げ飛ばし、かわしては拳を繰り出した。



 鬼どもは互いに入り混じり、敵味方の区別もなく手当たり次第に取っ組み合っては互いに爪や牙で攻撃をしかける。





「テンニはどこにいるチイ」スルグーンが上から叫ぶ。



「わからん」リューシュンは叫び返す。「探してくれるか」



「お前は、大丈夫か」訊く。



「ああ」リューシュンは投げ飛ばしながら答え、そして上を見上げてにやりと笑った。「任せろ」







 本当の力を見せろチイ







 スルグーンの中に突然、声が響く。



「なんだ……チイ」思わず呟く。



「どうした?」リューシュンがすぐに気づき、鬼の爪を払い返しながら訊く。



「――」スルグーンは羽ばたくこともせず、鬼どもが騒ぐその頭上で浮んでいた。



「スルグーン?」リューシュンは気に留めながらも、襲い掛かってくる鬼どもを払いのけなければならなかった。





「――キイ」





「え?」

 スルグーンの呟きに、聡明鬼ははっとした。

 今、この雷獣が自分の名を呼んだのかと思ったのだ。



「本当の力を」だがスルグーンが言ったのはリューシュンの名ではなかった。「見せろ、チイ」



 雷獣はリューシュンの頭上から、なかば茫然としたようにその言葉を投げて寄越したのだった。



「本当の、力――?」







 ああ、任せろ







 リューシュンの中にもまたその時、ぐるり、と何かが捩じれるかのような感覚と共に、そんな声が響いたのだ。



 鬼の爪に肩を強く掴まれ、牙を食いしばってその腕をへし折る。



 そしてリューシュンは真っ直ぐに上を見上げ、叫んだ。





「ああ。任せろ、スルグーン」





          ◇◆◇





 櫓に入り込もうとする鬼どもはすべからく、護符により張り巡らされた結界の力にて弾き飛ばされていく。

 だが次々に鬼どもは降りて来、まさにこの世の果てまでもそれは尽きることなく続くかと思われるのだった。

 従者たちは恐らく邸――ほぼ瓦解してしまった建物の中で、あるいはその下で、命運尽きてしまったか、命からがら逃げ出したかというところだろう。

 だが逃げたところでどこに行けば安寧があるのか、もはやこの陽世に人間の居られる場所などなくなってしまったのかも知れない。





 うまく、やれなかった。





 そんな風に自分を省みるのは、これが初めてのことだった。

 今まで、そんな風に自分を評したことなどついぞなかったのだ。

 自分はいつも、どんな事であろうともどんな場面であろうとも、いつもうまくやって来ていた。



 それだからこそ、リンケイという人間の在り方が、どうにも許容できなかったのだ。

 マトウから見てリンケイは、決してうまくなどやっていなかった。

 それなのに彼自身はそれを気に病むこと微塵もなく、いつも楽しそうに微笑んでいた。

 何がそんなに楽しいのかと訊けば、やれ面白い精霊が居ただの、妙な現象に出くわしただの、人が忌み嫌い恐れおののくような事ばかりを面白き事として口にする。

 それは間違っているのだと指摘すれば、飄としてそうかも知れぬな、と応える。



 マトウは、気に入らなかったのだ。

 自分とはまったく違う性質でありながら、リンケイは――そうリンケイは、なんだかだと言って結局はうまく、やって来ていたのだ。

 恐らく、そうなのだろう。



 自分の助言になど全く耳を貸さず、常に気ままに振舞い、人と寄り合うこともせず、妖怪の類ばかりに興味を持ちながら、リンケイはなんだかだと言って、陰陽の道を見事に究め抜いて来たのだ。



 自分は、人とのつながりを重く見て、それを大切にして来た。

 陰陽の道とて、人の役に立つことと思うからこそ辛き修行にも耐え力をつけて来たのだ。

 リンケイと自分とは、まさに対極の位置にある思想のもと、やって来た。



 そしてずっと、勝っているのは自分の側だとマトウは疑いもしなかった。

 リンケイなどという者は際物に過ぎず、法力こそ強けれども決して清く正しき陰陽師などではない、そう片付けて来た。





 然して、今のこの状況下においては、それこそがまったくの間違いだったのだろうとしか思うことができないのだった。





 リンケイはこの世界を――陽世のみならず陰府までをも救わんがため、生きたまま己に呪いをかけ地獄の閻羅王の元へ旅立った。

 そんなことをすればもう二度と、陽世へ戻って来られぬということも厭わず。





 ――まあ、あいつには今生で別れを惜しむべき相手など居らなんだのであろうがな。





 そんなとこをふと思い、マトウはくく、と喉で笑った。

 自分には、そのような事がまず出来ない。

 自分には、陽世に居なければ、居続けなければならぬ理由が星の数ほどもあるのだ。



 だが、人間たちを救うことが今本当に出来るのは、あれほど人間を嫌っていたリンケイその人こそではないか。



 自分ではないのだ。





 ――つまりは……





 マトウは、眼を閉じた。







 ばりばりばり







 雷が大気を切り裂くような音が、頭上に聞えた。

 結界が、遂に力尽き果てたのだ。



 眼を開ける。

 巨大な、禍々しき爪を伸ばした鬼の手が映った。





 ――つまりは、そういうことだ。





 鬼の手はマトウの喉首をがっきりと掴み、そのまま上に持ち上げた。



「ぐ」マトウは苦しみに顔を歪め、鬼の手を自らの両手で引き離そうとした、だがどうしてその力に抗しきれよう。「うう、ぐぅ」ただ顔を真っ赤にして足をじたばたと掻くしかないのだった。



 鬼はにやりと笑い、ものも言わずに苦しむマトウのさまを愉しげに見ている。

 その爪がマトウの首の肌に食い込み、血を滴らせる。





 誰も、助けに来はしない。

 誰も、助けに来ようなどとはしない。





 ――つまりは、そういうことなのだ。





 今、救うべき人間たちはマトウの存在になど芥子粒ほどの価値も見出してはいないことだろう。

 何故ならば、この無数に降り立って来る鬼どもを、たちまちの内に葬り去る力が、自分にはないからだ。

 何の役にも立たぬ陰陽師、救ってくれぬ陰陽師を救ってやろうなど誰も思わない。





 ――私は、うまくなどやれはしなかった。





 眦から、一筋の涙が流れて頬を濡らした。







「マトウ様!」







 叫ぶ声が聞え、マトウはもう一度はっと眼を開けた。

 黒龍馬の姿がそこにあった。



「マトウ様!!」

 その上から叫んでいるのは、リシであった。



「リ……シ」マトウは声もなくその名を呼んだ。



「マトウ様、ただ今参ります!」

 リシはトハキの背の上から叫んだ。

「トハキ、マトウ様を――」

 だが従者の龍馬に急行を命じようとしたその眼に、信じられぬものが映ったのだ。





 マトウが――鬼に首を締め上げられ瀕死のさまに成り果てている主が、遠くから駆けつけようとするリシに向かって震える手を差し上げ、制したのだ。



「マトウ、様」リシは困惑の想いでただその手を見つめるばかりだった。



 そしてマトウは、唇を少し開け、微笑んだ。

 リシはそれを見て、更なる衝撃に胸を撃たれた。



 笑って、いる。



 主は今――生命の危機にさらされているこの今の瞬間に、笑っている。

 一体、何故――まさか。





 ――陰曺地府へ――





 その刹那胸に浮んだ自らの想いまでをも、リシは信じ難い想いで見た。

 陰曺地府へ――行こうと、いうのか。







 ごきり







 そのような音が、鳴った。

 リシには、そのような音が耳に聞えた。



 マトウの手が、だらりと下に垂れ下がる。



 鬼の巨大な手の中で、マトウは最期の姿をそこに晒していた。





「――」





 リシはただそれを見つめるのみで、言葉も無かった。

 空中に浮ぶトハキの背の上で、リシは為す術もなく無言のままマトウの最期の姿をただ見ていた。

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