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II

痛みというのはほんの少しだけ心地良い。いつもと違う感覚に、治りかけのむず痒さに、何だか人体の不思議さを感じる。

怪我は意外と軽く済んだ。病院で診て貰ったところ骨折もなく首にも脳波にも異常はないらしい。ただ、擦過傷が広範なのと、転倒したときに強かに地面に打ちつけた右の腰あたりに濃い紫の痣ができていて見た目が酷く派手派手しかった。

✳︎
この半年で前髪を巻くのがずいぶん手慣れてきたと思う。
朝の準備で洗面台を占領していた私はようやっと自分の道具をばたばたと片付ける。
学生に個性は不要だ。それは校則がどうだとか大人が定めた境界の話ではなく、わたしたちの世界の不文律なのだ。わたしにとっての全世界は教室のあの真四角の立方空間とイコールだ。理想の体型、体重、顔、好きな小物、ファッションは全てひとつの価値観しか存在しない。わたしはずいぶん早い段階で深く考えるのをやめて不文律に従った。従いさえすればクラスメートに受け入れられ褒めそやされるのだから安い犠牲だ。出て行こうとした時、すれ違いざまに母が洗面所に入ってきた。
「しんどかったら行かなくてもいいのに」
「しんどくないから行く」
母は私の外側が傷付いているこういう時にばかり、やたらと過剰な心配をする。どんなに内側が傷付いていたって見向きもしないのに。母の言葉が一々燗に触るようになったのはいつからだったろう。それでも幼いのは自分の方だという認識はあって、そんな自分にも苛々する。スクールバッグを引っ掴んでローファーを突っ掛けると、乱暴に玄関のドアを開けた。

「学校、休むかと思った」
古都はわたしが教室に入る前に肩に軽く触れ廊下で声を掛けてきた。わたしは古都に昨日のお礼を言いそびれていたことを思い出し、慌てて詫びた。彼女はそれに構わず脚に巻かれた包帯を凝視する。
「見た目、かなり目立つけど大丈夫なの」
「見た目だけ」
広範囲に擦りむけたのでその範囲全てに包帯を巻かなくてはならず、スカートの裾から見える右脚はほとんど素肌が見えなかった。
「教室に入った瞬間大騒ぎされるよ。霜田さんのグループ、目立つから」
古都はにやりと笑って廊下の向こうへ行ってしまった。
彼女の言った通り、わたしはいつものグループから怪我のことで騒がれて、心配されて、笑われた。わたしもそれを適当に流す。でも、いつも以上に上の空でいた。
──死ぬところだったよ。
昨日の放課後、そんな物騒な物言いをした古都。その飄々とした空気感がわたしの中でずっと焼きついていた。わたしはぼんやりとした頭のまま、今までまったく注目していなかった古都を、絶えず目で追っていた。
見ていて分かったことだが、古都はどこのグループにも属していない。それはちょっとした驚きだった。それがどんなに思春期の少女にとって異質なことかわたしたちは身を以て知っている。かと言って外されているとか見下げられているといった様子ではなく、とっつきにくい孤高さを纏っているわけではない。ただただフラットに何処にも属さない存在なのだ。不思議だった。
外見についていえば、美人なのかはよく分からない。ただ、古都は全身の肌が白くて黒いくせ毛が印象的な、知的な雰囲気のある娘で、まるで少女とはかくあるべきといった際立った少女性を纏っているのだった。
古都はどこまでも自然体で、そしてまっさらに自由に見えた。

放課後、自転車のことを思い出した。確か古都が学校の駐輪場まで運んでくれたのだったか。彼女に聞くと、ああ、と頷いた。停めた場所まで案内してくれるという。
「カゴがね、ちょっと歪んじゃってた。たぶん前輪も。乗り続けるのは危ないと思う。帰りも電車にすれば? 」
停めたわたしの自転車を前に、古都はカゴを触ったり前輪を浮かして回したりして単調な声で説明する。
「そうする」
古都はそうしなね、と言った後朝のようにあっさり去ろうとした。
「どこ行くの? 」
思わず声を掛けたのはどうしてだったか。今日一日の古都の振る舞いの不思議さを観察していたせいか。古都は背中越しに振り返って控えめに眉を上げた。
「来る? 」
質問の答えになっていない、と思いながらも言われるがままにつられて頷いてしまっていた。強引さはかけらも無いのに、何故だか気がつくとふわふわと古都に素直に従っている。
着いたのは今まで行ったことのない、薄暗い教室だった。
「部室」
美術部、必要最低限な単語だけを発するのが古都らしい。古都はもうてきぱきと室内を動いて何やら絵を描くための準備を整えている様子だった。古都が運んできたキャンバスはやけに大きかった。
「文化祭が終わって、共同のステージバックが終わったからやっと個人の絵を進められるんだ。だから進捗は遅いよ」
無造作にイーゼルに立て掛けられたそれは、油彩かと思ったら水彩だった。
最初、それが何なのか分からなかった。
それをどういうものとして位置付ければいいのかも分からなかった。
どうしてこんなにも衝撃を覚えたのだろう。古都の絵は、他の人の絵とどこが違うのだろう。
「──美大とか、目指してんの? 」
「え? 」
古都は綺麗なソプラノでからからと笑った。
「なんで。目指してないよ」
「こんなにすごい絵を描くのに? 」
「すごくないって。すごいなんて言われたこと、一度もないよ。上手いって言われたことも」
嘘でしょう、と思わず漏れて、それを聞いた古都は再び可笑しそうに笑った。
わたしは人知れず戦慄を感じていた。古都はなんでもないような扱いをするけれど、私にとっては一大事件だった。こんな風に感じたこと、今までにない。こんなにも途方にくれて、私の内容物全てをぐるぐる混ぜられて思わずうずくまるような。それでも何度でも見たくなるような。
これを目の前にいる同い年の少女が描いたのだ。
「さなぎ」
これさなぎだよ、古都は前後逆に椅子に腰掛けて、背もたれに肘を乗せる。
「何の」
「わたし? 」
語尾が何故か疑問形だ。
思春期はさなぎみたいだなって思ってさ、描いてみたのと古都は肘の上に顔をうずめた。
「大人になる一歩手前ってこと? 」
「そうだけど、表現したいことはもっとちがくて」
霜田さんはさ、蝶はどうやってさなぎから成虫になるか知ってる、との唐突な問いにわたしは言葉に詰まってしまった。
わたし、反抗期なの、反発してんの、と古都は可笑しそうに笑った。
「めんどくさい奴なの」
何を言ってるんだろうと思う。どうして古都は突然こんな話を始めるのだろう。
「思春期はこれからの人生の土台を作る時期とか言われるけど、わたしはそんな綺麗事信じない。本当は思春期は、何もかも打ち壊す破壊の時期なんだ」
「破壊? 」
破壊だよ、と初めて見る攻撃性のある顔で古都は笑う。
「蝶の完全変態はさ、さなぎの時ぐちゃぐちゃのどろどろになって、もうなんの形もない液体になって、そのくせ何事もなかった涼しい顔で、完成された綺麗な成虫になって出てくるんだよ」
そのさなぎみたいに、わたし達は今の時期一旦すっかり破壊されるの、と古都は涼しい顔で言う。
「だから本当のわたしは今どろどろのぐちゃぐちゃ。──みたいな事かな、表現したいのは」
わたしは阿呆のようにしばらく言葉が継げなくなり、ただぽかんと古都とその背後
にある得体の知れない絵を眺めた。


「馬鹿みたい」
わたしは鼻で笑って誤魔化してみせる。
なんなの。なんなの。
泣きたいのとも違う。ため息が出るのとも違う。
ただそこにある訳のわからない何かに強引に引っ張られて、何かを耐えるような、噛みしめるような。痛みのような。そんなものがそこにある。
古都の中にある。
彼女の、飄々としているように見えて本当は何かとてつもない熱を秘めているさまが垣間見えた気がして、見えたらもうどうしようもなかった。

どうしようもなくなった。



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