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喪失

「ムイ、だと」テンニは瞬きもせず、リューシュンの手の中の甕を凝視した。



「ああ、そうだ。ムイだ」リューシュンもじっとテンニを見る。



「――」

 元降妖師は、しばらく言葉を忘れたかのように黙り込んだが、やがて口元をにやりと広げ、肩を揺すり始めた。

「くく、くくくく」



「何が可笑しい」リューシュンは甕を持ち上げたまま、訊く。



「ムイか」テンニは肩を揺すって笑いながら言った。「それで儂のこの体が元に戻るというのか」



「ああ」リューシュンは頷いた。「だから持って来た」



「笑止」テンニは言ったかと思うと天を仰いで大笑した。「この儂が、鬼となったこの儂がいまだムイの中毒だとでもいうのか」



「――」リューシュンは黙してテンニを見た。



「鬼となったお陰でムイを必要とせずとも良くなったことを、儂は心から喜んでおるのだぞ。今更そんな薬など何の役に立とうかよ」



「そんなの、使ってみなきゃわからないだろう」リューシュンは反論した。「人間だった頃はあれほど欲しがっていたムイを、なんでそんなに無碍にする」



「儂はもはやムイの中毒ではない」テンニは怒鳴った。





「いや、中毒だ」





 凛と言い放つ声が、大気を切った。

 リューシュンとテンニは同時にその声の主を見た。





 リシだった。





「誰じゃ、貴様は」テンニは黒い衣に身を包む初見の女を睨みつけた。



「私はリシ。陰陽師の修行をしている者だ」女陰陽師は一歩たりとも引かず声を張り上げた。



「陰陽師――」テンニは小さく呟き、「なにゆえ鬼である儂がムイ中毒だというのか」と、感情の籠もらぬ平坦な声で訊いた。



「無論鬼であるその体がムイ中毒なのではない」リシはテンニの体を指差した。「お前の体がではなく、お前の心がムイ中毒なのだ」



「心?」

「心だと?」

 テンニとリューシュンが同時に訊き返す。



「そうだ」リシは頷いた。「鬼魂となった、その魂がムイ中毒なのだ」



「馬鹿を言うな」テンニが吐き捨てるように言う。「心だの魂だのが、中毒になどなるか」



「なる」リシはもう一度、強く頷いた。「現にお前は、龍馬の魔焔に焼かれながらも生き永らえている。本来ならば焼かれた瞬間消炭となって消え去っていたはずのものがだ。それは何故か」



「――」テンニは眼を見開いた。



「お前が人間だった時も恐らく、常人ではとても太刀打ち出来ぬ特別な能力というものを備えていたはずだ。それは何故だったか」



「――」元降妖師は、女陰陽師を見る。



「ムイの、効果だ」リューシュンが答える。「お前は、岩をも砕けると自分で思い込んでいた、その思い込みの力で実際に岩をも砕くことが出来ていたんだ」



「それは、魂に刻み込まれたものだったというわけだ」リシが続ける。「鬼魂となったその魂が今でも、何ものにも屈しないと強く思い込んでいるからお前は――お前という魂は、消えずにいるのだ」



「――」テンニは瞬きもせずリシを見、そしてゆっくりと眼をリューシュンの手の甕に移した。「ムイ……」呟く。



「そうだ。ムイだ」リューシュンは甕をさらに高く持ち上げた。

 テンニの視線もそれにつられて持ち上げられる。



「ムイを摂れば」テンニは低く問うた。「儂の体は、元に戻るのか」



「戻るだろう」リシが答えた。「戻らぬのであれば、そもそも今そうやって鬼として生き永らえることもないはずだからな」



「――寄越せ」テンニはリューシュンに向かって焦げた手を伸ばした。



 リューシュンはすぐに返事をせず、じっとテンニを見た。



「寄越せ」テンニはもう一度、声を強めて言った。



「忘れているのか」リューシュンは問い返した。「スンキを帰せ」



「――」テンニは口を閉ざし、またリューシュンをじっと見た。



 リューシュンも睨み返す。



「地に降りてからだ」やがてテンニは言った。「山賊の砦から離れた所の沼まで来い。そこの天心地胆の中にあの女は居る。そこから渡す」



「わかった」リューシュンは答え、テンニが再び黒い淵の向こうへ姿を消したのを見てリョーマを言われた方向へ向かわせた。



「奴の言う事を信じていいのか」リシがトハキで追いながら訊く。「本当に、その沼の近くで人質を帰すつもりでいるとわかるのか」



「ああ」リューシュンは厳しい目を前方に向け答えた。「ムイが欲しいという目になっていた。必ず取りに来る」





 沼の畔は静かだった。

 リューシュンら一行はそこで龍馬たちを地に降りさせ、自分たちもその背から地に飛び降りた。

 確かに、山賊と鬼どもとが争っている場所ではスンキの身を安全に帰してもらう事が難しかっただろう。



「テンニ」リューシュンは呼びかけた。「どこだ」



「ここじゃ」降妖師の声がし、一向はその方に向いた。



 ぐったりとうな垂れたスンキが、テンニに片身を掴まれて沼の畔に立っていた。



「スンキ!」キオウが叫ぶ。



 その声に、スンキもはっと顔を上げた。

 蒼褪めてはいるが、その眼は少し揺らいだ後夫の姿をしっかりと捉えたようだった。

「キ、オウ」はじめ弱々しく呼び、それから「キオウ!」と鬼の妻は叫び返した。



 テンニは何も言わず、スンキの腹に刺さったままの七寸釘を掴みぐいと引き抜いた。

 その勢いでスンキは前のめりになったがテンニの手に掴まれているため倒れるには至らず、すぐに引き上げられ正面を向いた。



「スンキ!」キオウは耐えられずに、走り出そうとした。



「ムイを持って来い」テンニがびしりと言い放ち、スンキの腹にまたしても釘を向ける。

 キオウは歯噛みして足を止めるしかなかった。



「キオウ」リューシュンがキオウの元へ近寄り、甕を手に渡す。「これを持って行って、お前の妻を取り戻して来い」



 模糊鬼は聡明鬼を見上げ、甕を受け取り、深く頷いた。「ありがとう」風のように呟く。

 リューシュンは、にこりと微笑んだ。



 キオウはムイの入った甕を前方に差し出しながら、歩いてテンニに――スンキに近づいて行った。

 テンニは、眼を細め近づいて来る若き鬼を見ていた。

 リューシュンは、キオウの背を見送る体勢になっていた。

 傍らにリシが立ち、二足の背後には鼬と雷獣、そして三頭の龍馬が控えていた。



 あと十歩余りでテンニの手に甕を手渡せる位置に着く、と思ったその時、不意にテンニは七寸釘を下ろしてスンキの体を前方に――夫の方に押し出した。

 数歩よろめいたスンキはすぐに走り出した。

 キオウの方も駆け寄り、ついに鬼の夫婦は再び固く抱き合うことができたのだ。

 ふう、とリューシュンは息をついた。







 ひゅう







 その息の音と重なって、風を切る音がしたのを鬼の耳は聞いた。

 はっと見開いた眼の前で、抱き締め合ったキオウとスンキはほぼ同時に飛んできた打鬼棒にそれぞれの肩を打たれた。





 キオウとスンキは同時に、血となって流れ消えた。





 キオウの手に持っていた甕だけが空中に残り、打鬼棒を巻きつけている鎖がそれをくるくると巻き取り、次の瞬間テンニの手元に素早く戻って行った。







 ごうッ







 リューシュンの耳に大気の唸る音と熱い風とがぶつかった。

 フラが紅き焔をテンニに向け吐いたのだ。



 しかしそれが届く寸前、テンニは天心地胆の中へと姿を消した。







 ギァオオオオオオ







 フラの、天地も裂かんばかりの咆哮が長く轟いた。



「キオウ」リューシュンは茫然とその名を呼んだ。「スン、キ」



「何なのだ、今のは」打鬼棒というものを知らぬリシが、目の前で起きた事を呑み込めずにいた。「模糊鬼と妻は何処へ行ったのだ」



「なんて……こった」ケイキョが声を震わせる。



「ちきしょう」スルグーンは余りの怒りと悔しさに、全身を震わせた。





「キオウ」





 リューシュンはもう一度呼んだ。

 だが返事はなかった。

 さっき聞いた「ありがとう」が、キオウからの最期の言葉だったのだ。





「キオウ」もう一度呼んだその声、自分の声が、まるで自分のものではないように思えるほど上ずっているのを聡明鬼は聞いた。「キオウ」もう一度呼ぶ、それはますます乱れており、とても模糊鬼に対して呼びかけているものには聞こえなかった。「キオウ」





 その声はもはや、鬼の啼く声でしかなかった。







 キオオオオオオオウゥゥ







 山全体に、木々を吹き飛ばすかというほどに鬼の啼き声は響き渡った。





「聡明鬼」両耳を手で押さえていても、リシは自分の耳が壊れるのではないかと強烈に感じ、思わず悲鳴のように呼びかけた。「聡明鬼ッ」







 うがあああああおおおおおうぅぅぅ





 

 だが鬼は吼え、啼き、自らの頭に自らの爪を立て、髪を引き毟り、次には大地に膝を突いたかと思うと山を壊すのかというほどに大地を両の拳固で何度も叩き始めた。





「ちきしょう」スルグーンが猫の眼をぎゅっと瞑り、叫ぶ。「どうしてすぐに気づかなかったんだチイ。あいつは、龍馬の魔焔が届かない距離にまでキオウが来るのを待ってたんだキイ」



「おいらも気づかなかった」ケイキョも地に伏して悔しがる。「甕をこっちに近いところで地に置いといて、スンキさんを離させなきゃいけなかったんだ」



「――」いまだ何が起きたのか真実を知るに至らぬリシは、ただ耳を押さえ眸をさ迷わせて困惑するばかりだった。







 うぉあああああああ







 聡明鬼は天を仰ぎ、天に向けて咆哮を投げつけ続けた。

 その苦しみと悲しみの前には、上天を追い払われたことも、失った記憶の幻も、何の力もありはしなかった。

 玉帝の存在さえも、今のリューシュンの心の中には見えなかった。





 ただ、聡明鬼は啼き、吼え続けた。





          ◇◆◇





「お前は、いつも笑っておるな」閻羅王が不意にそう言った。



 リンケイは少しばかりきょとんとしたが、すぐにまた微笑みを戻し「はい」と答えた。



「何がそんなに面白いのか」閻羅王は訊く。



「今からどんな楽しい事がやって来るのか、常に楽しみに待っているからでしょうな」リンケイは答える。



「今から?」



「はい」



「今から何が来るというのじゃ」



「聡明鬼でございまする」

 リンケイは答え、森羅殿の窓から陰曺地府の空を眺めた。

「今から聡明鬼――リューシュンがここに来て、どんな面白い話を聞かせてくれるのか――それが楽しみで、笑っておりまする」

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