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答え

 砂の上を、どこまでとも知れぬまま飛ぶ。
 砂は、何も変化を見せることなく――この距離からではそのように見える――どこまでも続いている。
 陽は傾きかけているが、大気はまだ大分熱い。



「こんなところで置き去りにされたら、たちまち干からびてしまうだろうな」リューシュンは思わずそう呟いた。「牛や馬でも、通り抜けるのは無理だろう」



「そうでやすねえ」ケイキョが、鼬の肩をすくめながらおっかなびっくりの体で下を覗き込む。「こんな所にゃ、まず人なんざ来やせんでしょうねえ」



「鳥なら、通り抜けるのは簡単だチイ」スルグーンは得意げに嘴を空に向け言った。



「そうだな」と言った、直後だった。







 ――助けて







「あっ――くぅッ」突如リューシュンは龍馬の背の上で身を折り、呻きを挙げたのだ。



「そ、聡明鬼さん!?」ケイキョが叫ぶ。



「なんだお前、どうしたチイ」スルグーンも驚く。




 ――水を、水をくれ




「み……ず……」リューシュンは喉を押さえ震える手を伸ばす。



「水?」



「いったい――」



「鬼魂が――入ってきたんでやすね」ケイキョが言った。



 雷獣は鼬を振り向く。「鬼魂が?」



「聡明鬼さんには、鬼魂を体の中に取り込んで、上天に送る力があるらしいんでやす」ケイキョはスルグーンにそう話した。



「玉帝さまがその力を聡明鬼に与えたって、ご主人さまが言ってた」リョーマも続いたが「――前の」と、小さく付け足した。



「陰陽師さんでやすね」鼬が少しだけ微笑む。



「玉帝――」スルグーンは呆然と繰り返した。




「マ、トウ……」リューシュンは消え入りそうな声で、鬼魂の言霊を口にした。




「マトウ?」鼬がすぐに答える。



「マトウ、さま、の……ところへ」



「誰だそれはチイ?」スルグーンが、倒れ顔を伏せたままのリューシュンに訊ねる。「マトウってキイ?」



「い、く、か……ら……み、ず、を」リューシュンの持ち上げた手はぶるぶると震え、声にはもはや色も形も力も無かった。



「聡明鬼さん」ケイキョがべそをかいたような声で呼ぶ。「しっかりしてくだせえ」



「聡明鬼自身は大丈夫なはずだ」リョーマが飛び続けながら言う。「たぶんこの辺りで、誰か人間が死んだんだろう。そいつの魂が聡明鬼の中に入って、そう言ってるんだ」



「死んだ――人間、が」スルグーンはまた呆然と繰り返す。「じゃあ、その人間というのはチイ」



「ここで、渇きのために死んだってことでやすか」鼬も低く続ける。「なんてこった――なんだって、こんな所で」




 ばたり、とリューシュンの手が、馬の背の上に落ちた。




「聡明鬼さん!?」ケイキョは、リョーマに大丈夫だと教えられたにも関わらずやはり叫んだ。「し、しっかりしてくだせえ」



「――」スルグーンは黙ったまま、じっとリューシュンを見下ろしていた。




 しばらくして、聡明鬼の指がぴくり、と動いた。




「そ、聡明鬼さん」



 鬼はいきなり、がばっと身を起こし「西の方だ」と、陽の傾きかけている方向を指で差した。



「西チイ?」スルグーンが訊く。



「だ、大丈夫なんでやすか、聡明鬼さん」ケイキョがそわそわと尻尾を振り回す。



 リョーマは直ちに、リューシュンの差した方へ向かい始めた。



「西に、何があるんだキイ?」スルグーンがまた訊く。



「こいつが最後に見た女が、西の方へ行った」リューシュンは真っ直ぐに前を見たまま答えた。「何者かはわからんが――とにかく行ってみよう」



「こいつっていうのは」ケイキョが訊く。「今、聡明鬼さんの中に……入ってた奴の、ことですかい?」



「ああ」リューシュンはケイキョを見て頷いた。「もう上天へ行ったが……あいつは必死で、女に向かって水をくれと言っていた。その女はこいつを放り出して、西の方へ行ったんだ」



「――ひどい奴だチイ」スルグーンが憮然として言う。「見捨てたのかキイ」



「その女は最後に空を見て“トハキ”と呼んでいた。見たところではその女もかなり、慌てていたようだった」



「トハ、キ?」ケイキョが首を傾げる。「誰でやすかね?」



「わからん」リューシュンは首を振った。



「空を見て、そう呼んだのかチイ」スルグーンはそう言って自身も空を仰いだ。「鳥の名かキイ? その女の飼っている」



「鳥――」リューシュンはスルグーンを見た。「そうかもな。空を飛ぶもの――あるいは、龍馬」



「龍馬?」ケイキョが訊き返す。「どうしてそう、思うんでやすかい?」



「わからん」リューシュンは腕を組んだ。「俺が、龍馬だからか」



「――」鼬と雷獣は眼を見開いて聡明鬼を見た。



「何を驚いてるんだ」リューシュンは口を尖らせた。「冗談だよ」




「見えた」リョーマが叫んだ。




 その声に鼬と雷獣は急いで首を馬の背から覗かせた。
 リューシュンにはその声が聞こえないため「どうした?」と二匹に訊く。



「リョーマさんが“見えた”って」ケイキョは答えながら、鼬の眼をすがめて遥か遠くを見渡す。
 だが小さな鼬の眼にはいまだリョーマに見えたらしきものが捕らえられなかった。



「龍馬だチイ」今度はスルグーンが頭上で叫ぶ。



 リューシュンとケイキョが見上げると、雷獣は自分で空中を、リョーマよりも高いところを飛びながら前を睨んでいた。



「見たことない黒い龍馬だ、フラもいる」リョーマも負けずに伝える。「まだ見えないけど、たぶんキオウもいるはずだ」



「そうか。いたか」リューシュンは鬼の胸が躍るのを感じた。「よし」



 リョーマは身をくねらせ、一段と速さを増して目的の場所へと飛び急いだ。




          ◇◆◇





 リシは、唇の端を広げてにやりと笑った。
 だが、何も答えない。



「何が、おかしい」フラは怒りに声を震わせた。



「まあ、面白いことを思いつくものだと思ってな」リシは肩を揺すった。「私を、殺すなど――もしくは半殺しにして身動きひとつ取れぬようにするなど」



「フラ、抑えろ」キオウが低く命じる。「今こいつをやるわけにはいかない」



「――」フラは少しの間動かなかったが、やがてリシを打とうとした尻尾を地面に下ろし、己の方へ引き戻した。



「そういう事よな」リシは腰に手を当て、いまだ楽しそうに笑っていた。「私はなにしろ、お前の主人の妻と子を助ける方法を、知っているのだからな」



 キオウは、ただ拳を握り締めることしか叶わなかった。
 許してくれ、フラ――耐えてくれ――
 強く眼を閉じる。



「さて、その方法についてだが」リシは腕を組み、顎を引いてキオウを上目遣いに見据えた。「これから私と共に、マトウ様の元へ行ってもらおう」



「マトウ、様……?」キオウは眉を寄せて女を見、その名を繰り返した。



「そうだ。マトウ様だ」



「それは、誰なんだ」



「――」リシは眼の下の肉をぴくぴくと震わせ、さも汚らわしげに鬼を見た。「本来お前ごとき鬼に教えるなど、恐れ多くも勿体なきお方なのだがな」



「――」キオウは、反論などせずにいた。
 ただフラに向かって、そっと掌を向け殺戮の衝動を抑えさせるだけだった。



「マトウ様は我々人間を強く、寛大な心でお導き下さる最高位のお方だ」リシはうっとりと眼を閉じ、話した。「私たちはただ、マトウ様のご意志のままついて行くだけでいい、それだけで幸福の蜜に全身を浸らせることができるのだ」



「ふん」鼻を鳴らしたのは、フラだった。「ただの、戯言だろ」



「何だと」リシは眼をかッと見開き、龍馬を睨んだ。



「フラ」キオウは腹に汗を掻くような思いを味わった。「黙ってろ」



「マトウ様を愚弄することは許さん」リシは怒鳴るように宣告した。「貴様の望みなど、風に吹かれて飛ぶ砂ほどにも掌に留める価値なきものと捨て置いてもよいのだぞ」



「愚弄するつもりなどない」キオウは牙を食いしばるようにして眼を伏せ言った。「俺をマトウ様のところへ、連れて行ってくれ」



「ふん」リシはぷいと横を向いた。「そうしたくとも、まずはトハキの傷が癒えるまで待たねばならん。貴様の愚かな龍馬が牙を付き立てた傷がな」



「――そうか」キオウは声にならぬ返答をした。



「まったく、この主ありてこの龍馬ありだ」リシの言葉は終わりを知らなかった。「なんという、愚かで野蛮で、智の欠片たりともない、短絡的で粗野な行為だ」



「――すまない」



「キオウ様」ついにフラが堪らず口を出す。「もう行きましょう。なにもよりによってこんな性悪の女に頼まなくとも、他に知ってる奴はいますよ。さっさと砂漠を抜け出て、探しましょう」



「――」キオウは、迷う背中を心強く押されたような感覚に包まれた。
 本当に、そうするべきだと自ら思った。
 今すぐ、この女に背を向け、歩き出して――背後でフラがこの女に何事をけしかけようとも、それは預かり知らぬ事として“捨て置く”――




「その者は、ムイをやっていたのだろう」




 突然、リシがそう言った。
 はっとして、キオウは女を見た。




「ムイは人の体に尋常ならざる力を生まれさせる――まあそいつは鬼だというから鬼の体にまでそういう影響を与えるらしいという、これは新たなる発見ではあるが」



「つまり、ムイの――せいだと」キオウは眸をさ迷わせた。
 答えが――リシの持つ秘法の、或いは秘薬の中身が――半分見えたように思えた。



「その鬼は、人間であった時にムイのおかげで得た、岩石をも砕くほどの超人的な力が自分に備わっていると、鬼となった今も思い込んでいるのだ」



「思い、込んで――?」



「そうさ」リシはまた唇を拡げ笑った。「龍馬の焔に焼かれたとしても決して朽ちることなく逞しく生き延びられる、そいつは自分でそれが出来ると心底思い込んでいるからこそ、それが出来るのだ」



「――では」



「そうさな、つまりそ奴に、鬼になった今において尚、ムイを摂らせるという事がおそらく功を奏するだろうて」



「――ムイ、を」キオウはまた眸をさ迷わせた。



 そもそも、テンニを自分の下で働くようにさせ得たのは、そのムイを報酬として与える約束を交わしたからであったのだ。
 だが結果として、キオウは一度もそのムイをテンニに与えることがなかった、人間として生きている間には。



「だが貴様、ムイを持っておるのか」リシはまさにキオウの案ずるところをぴたりと言い当てた。



「――」キオウは無言で、首を振った。



「それを、マトウ様は持っておいでだ」リシは腕組みをした。「だからこれから、マトウ様のところへ行くというのだ。どうだ、来るか」



「――」



「それとも諦めて、私を殺し立ち去るか」リシは言い、肩を揺すって笑った。「今、そう考えているような貌をしていたが」



「――」キオウはたじろいだ。
 負けだ、という意識が模糊鬼の心の内でぽんと弾かれるように生まれた。
「――わかった……行こう」



「では待て」リシはトハキの方を見た。「私の愛する龍馬の傷が癒えるまでな」



「よければ、フラの背に」



「誰が乗るか」リシは顔を引き歪めてキオウを睨んだ。「貴様の阿呆龍馬の背になど乗れば、尻が腐るわ」



「頼む」キオウは必死で言葉をつないだ。「急ぐんだ。フラの背に乗ってくれ」



「嫌だと言っただろう。私の言うことが聞けぬというのか」



「そうじゃない、だがどうか、頼む」



「なにゆえ私が貴様の言うことを聞かねばならぬのだ」



「いい加減にしろ、お前はどこまで腐った性根の女なんだ」フラが我慢できずに怒鳴る。



「口を慎むが良いぞ、阿呆龍馬」



「阿呆龍馬とはなんだ、お前こそ阿呆だ」



「何」







「はははは」突然、少年のように済んだ笑い声が大気中に響き、三足の頭上が暗く翳った。



 見上げる眼に、巨大な龍馬の姿――フラでも、トハキでもないもの――が、映った。



「何やってんだよ、阿呆龍馬」



「リョーマ」フラが驚いて叫んだ。「どうしてここがわかった」



「俺を誰だと思ってる」リョーマは大地にすとんと降り立ちながら答えた。「阿呆じゃない龍馬だぞ」



「キオウ!」叫びながらリョーマの背より砂を蹴散らし裸足で大地に飛び降りたのは、黒い蓬髪を砂漠の乾いた風になびかせる、筋骨逞しい鬼だった。



「――聡明鬼」模糊鬼はなぜか、その姿を見た時砂の上にへたり込んでしまいそうになったのだ。



 ――なんだ、最初からそうすれば良かったんじゃないか。



 そんなことを思う。




 聡明鬼がいれば、すべてがうまくいくのだ。
 何故、その単純な事実を、自分は見失っていたのだろう――

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