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一九二五年 十一月十九日 果穂子

《写真の中のわたくしたちはなんにも変はることなく永遠なのだと昱子姉様は云はれた。永遠つてわたくしたちが想像(さうざう)するのよりウンと素晴らしいものでなくて。わたくしはそう思ふの。そんなご様子で明るく話されるのでなんだか泣きさふになってしまつた。》


試しに果物に蜂蜜をかけて食べてみると良い。
よく味わって分析するなら、蜂蜜が果物を受け入れていないことに気付くだろう。確かに甘みはあるのに果実の酸味が和らいだようには感じないはずだ。蜂蜜は自分が甘いだけで、ごく近しい相手をも受け入れないのだ。
果穂子はそういう意味で蜂蜜だ。
優しいようで、撥ね退ける。自分の領域に相手が侵入するのを許さないし、簡単には相手と乳化するような事はしない。
失礼な話である。偽善といっても良い。
そんな風に考えると自分の性質がほとほと嫌になって、果穂子は読んでいた本から顔を上げた。耳を澄ませると相変わらず今日も隣の尋常小学校からは子供たちの唱歌が心地良く響いている。歌声だけでなく、別の場所からは自由にはしゃぐ歓声なども少しだけ届いた。冬場はこちらの窓もあちらの窓もすっかり閉め切っているから幾分くぐもった風に聴こえるけれど。
──もしかするとあの子の組が歌っているのかも知れないのだわ。
毎朝、池の様子を確かめに庭に出ると椿の生垣の隙間からぞろぞろと吸い込まれるように子供達が通り向かいの校門をくぐっていくのが見える。幼いながらもみな一人前に自分の荷物を携えていて中々立派な様子である。
揃って登校する学校違いの兄弟の姿を見附けたのはその集団内でのことだった。弟は八つ九つと云った外見で、兄の方は黒い詰襟の制服を着ているので中学生なのだろう。こちらの少年は十五、六ほどだろうか。毎日自分の学校へ行く道中に弟を送ってやっているのらしい。二人ともよく似ていて、浅黒い肌にどこか栗鼠(リス)のような愛嬌のある顔立ちをしていた。兄の方は校門で弟と別れると方向転換をして、果穂子のいる生垣の脇の道を通り過ぎる。彼は時折庭を整える果穂子と目が合うと、矢張り栗鼠のような白い歯を覗かせて笑顔で会釈したりした。そんな風に自然に挨拶するようになって三月ほど経つ。果穂子の閉じた生活の中で、開けた未来に向かって日々学び舎に通うその兄弟の姿が眩しかった。思い出すと少しだけ明るい心持ちになる。最近の果穂子の楽しみごとはそのようなささやかなものだった。

目の前の火鉢がはぜる音がする。こちらの響きはぼんやりとしか届かない子供たちの歌声とは反対に明瞭だ。火鉢を挟んで向かいにはテイがいて、綿入(わたいれ)の袖口をせっせと縫っている。果穂子はテイの方に少しずって行って身を乗り出す。
「わたくしも手伝うわ」
「果穂子お(ひい)様のすることではありませんよ」
テイは手を休めないままピシャリと返した。
「あのね、テイさん。わたくし、いつまでも変にお高くとまっていたって仕様が無いと思うの」
御母(つや)様に云われなすったでしょう、そのお云い付けを守りませんと」
気高く生きなさい。出来るだけ美しく装いなさい。母が幼い果穂子に告げた言葉をあの時隣にいたテイも、聞いていた。
「綿入を縫うことは気高さを失うことなの? わたくしはテイさんのお手伝いをしてもいけないの」
「そう云うことでは御座いませんでしょ。わたくしの申しているのは、ご自分でご自分の立場を落とすようなことをしなくても宜しいということですよ」
「あら自分の生活を自分で立てられない方が恥ずかしいわ。かあさまはご自分のことは全部ご自分でなさっていたもの」
テイが眼鏡の奥で此方をきつく睨め付けるので果穂子は肩を竦めて黙った。この人はおかしなところで頑固だったりするので時々困ってしまう。ぴち、と眼の前の火の粉が跳ねた。
「──いずれまた本邸に戻って頂きませんと。本来はそう云う立場のお方なのですから」
テイは続けて独り言のように低く呟く。
「わたくしの生きているうちに」
思わず目を伏せる。そんな云い方をされると、果穂子はもう何も云えなくなってしまう。仕方がないのでおとなしく諦めて再び本を開き、本越しにテイの乾燥して皺寄った手が針を運ぶさまをそっと見詰めた。
彼女はきっとこの先を見ている。自分の行く末ではなく、果穂子の行く末を。いずれ果穂子が佐伯家の長女としての立場を取り戻す未来を。テイが果穂子の事をまるで自分の子か孫のように想ってくれている事は充分に伝わっていた。なのに当の果穂子は“蜂蜜”で、彼女にさえも上手に心を許すことが出来ない。表面の甘さは(すべ)らかにその場から零れ落ちて、どうしても馴染まない。







午後になり、昱子は鼻と頬を赤くして冷たい外気と共にやって来た。三和土(たたき)で両手を擦り合わせ、此処は暖かいわと微笑む。
「果穂子さんに写真館の写真をお見せしようと思って持ってきたの」
「写真館? 」
もう、と昱子は大袈裟に目と眉を上げる。
「お忘れになった? 春にわたくしと一緒に写真を撮ったじゃない! 」
昱子が憤慨してそのまま話し続けそうだったので果穂子は慌てて宥める。
「勿論覚えているわ。忘れる訳無いわ。だけど、あんまりいきなり仰るから吃驚したの。ね、此処だと冷えるでしょう。早くお上がりになって暖まっていかれて」
そこで何故か家にいた果穂子の方が咳き込み、昱子は再びもう、と云って笑った。
「大丈夫? わたくしの方がずっと外で寒い風に当たっているのだから、あなたが風邪なんてひかれないで頂戴な」
玄関から立ち上がるのを助けるために取った昱子の柔らかな手は、確かに金魚池の水のような冷たさだった。
客間で昱子が大事そうに鞄から平たい厚紙の封筒を取り出すのを、果穂子は胸を高鳴らせて見守った。すぐ隣にぴったりくっ付いて座る昱子の体温が布越しに伝わって来て温かい。封筒を開く直前、昱子は手を止めお転婆少女の顔で果穂子の目を覗き込んみくすりと()んだ。
「とても素敵なの」
それから勿体ぶるようにゆっくりと封筒から写真を引き出す。
「──まあ」
出てきたそれを一目見て声が漏れた。
四角く区切られた枠の中。その中に、絵画のように上手に収まっている自分たちが揃いのリボンで姉妹のように肩を寄せ合っている。いつ見ても文句のつけようのない美貌の昱子の隣で顔を綻ばせる果穂子。あの日の幸せな気分が一気に押し寄せ蘇る。
──あのとき、わたくしはこんな笑顔をしていたの。
両手に収まる程度の小さな紙から、果穂子は視線を逸らせなくなった。あまりにきれいに出来上がった二人だけのその世界に、却って現実を突きつけられる思いがした。手渡された写真を両手で持って、暫く無言で写真の中の自分と見つめ合う。
「わたくしね。確かにわたくしね」
写真に写るのが初めてと云うわけでもないのに、何故か不思議な事のように感じられて仕方がない。
「綺麗に撮れているでしょう」
「──写真機というのはたいへんな機械ね」
「なあにいきなり」
「時間を、切り取るのね」
果穂子は写真の中の自分を人指し指でつるりと撫ぜる。
「こうして見ると、過去の人みたい」
昱子は笑った。
「わたくし達が過去の人になるのはうんと先のことよ」
暖かくなったらまた行きましょ、今度はテイさんをきちんと説得してね、と昱子は自分の肩で果穂子の肩を押した。つい笑った果穂子の手から写真を取り返した昱子はそれを二人の顔の高さまで上げて襖の硝子から洩れる霜月の僅かな日に翳す。
「二枚あるからこちらは果穂子さんに差し上げるわ。お揃いがもう一つ増えるわね」
「本当に? 良いの? 」
「貰っていただけない方がかなしいもの」
ありがとう、果穂子は改めて美しく仕上がったポートレイトを眺めた。
「それにしても昱子姉様は格別。こうして写真になると本当にきれい」
果穂子は溜め息をつく。左右対称に同じだけの角度をつけて上がる眉や唇やはっきりした上瞼の線や。賢さも容姿も並の人以上に与えられた。恵まれた人。
「あら、賢さも美しさもただ一つの種類だけとは限らないのではなくて」
果穂子の発言に昱子はそう直言して続ける。
「たとえば果穂子さんの仰るわたくしの賢さや美しさは、わたくしが果穂子さんの中に見ている賢さや美しさとは別のものだと思うの」
果穂子を美しい、などと昱子は驚くようなこと云う。あまりに不意を突く言葉だったので何も云えずに黙っていると、分かってるの、と静かに昱子は写真を下ろして膝の上に置いた。そして果穂子の顔を見て等角に唇を上げる。
「だけど、きっと届かないのね。わたくしがあなたをどんなに褒めても、どんなに大事なのか伝えても、あなたの受容するその部分はすでに壊死してしまっているのだわ」







どうやら本当に風邪を引いてしまったらしく、近頃は咳がなかなか治まらずぼんやりと怠いので部屋に篭りきりの日々が続いている。風邪をうつしてしまうので昱子も来られずつまらない。
──あなたのその部分は、すでに壊死してしまっているのだわ。
昱子のその言葉と、笑っているのに何故か悲しそうな顔が頭に残って離れない。
昱子は気付いているのだ、蜂蜜のような果穂子の性質を。笑っているのは顔だけで、相手からの好意を何事も本心で受け取れないことを。耐えられなくなると考えるのをすっかり放って逃げてしまう悪い癖を。
抽斗を開けて薔薇の絵が大きく描かれた平たい紙箱の蓋を取る。丁寧に折り畳んだ赤色の縞のリボンの下にある写真を取り出して漫然と眺めた。
──果穂子は一体誰を愛せると云うの。
お父様も、テイさんも、昱子姉様も。皆果穂子を想っている。愛してくれている。そして果穂子はそれを知っている。
テイは果穂子の安定した家庭環境を望み、昱子は果穂子の姉となり親友となってくれ、父は毎月金魚邸に果穂子宛の小包を送って寄越す。
だけど、きっとみんな行ってしまう。うかうかしていたら結局最後は果穂子ただひとりになってしまう。
──こんなことでは駄目よ。
不調なので思考が弱っているのだ、と思う。気を取り直して読みかけの本を開く。果穂子が読書を好きなのを知っていて、父からの小包の中には必ず本が入っていた。目新しいものが好きな父は大抵ごく最近出たばかりのものを送ってくれる。今読んでいるのは、八木重吉という人の素朴な詩集だった。


雨の音がきこえる

雨が降っていたのだ

あのおとのように そっと世のためにはたらいていよう

雨があがるようにしずかに死んでいこう


果穂子もつねにこういう気持ちでいられたらば、と思う。この詩人は自分の心の深い部分をとことん掘り下げようとする。率直すぎるくらいである。別の詩では自分が残らず消えてしまうことを恐れる気持ちを詠いながら、ここでは死ぬのならそっと静かに、と詠う。それでも全てが彼の本当で、そのさまに惹かれる。果穂子は有り余る時間の中で読み耽った。
体調はいつまで経ってもぐずぐずと好くならなかった。微熱もあまりに何日も続くので全体的な体力が弱まってしまう。テイが呼んでくれた医者に診て貰ったのち、別室でのテイと医者の話が長引いているので果穂子はこっそりと布団を抜け出し、舞良戸の隙間から客間を覗いた。
テイがなにやら泣いているのが分かった。


その月の末、果穂子の特に可愛がっていた金魚が死んだ。
夏に弱っていた時は見事に快復したのに、冬眠前のこの時期、果穂子があまり様子を見ることが出来なくなった間に健康を損ねたらしい。果穂子の乾いた口や目からは何の言葉も涙も出なかった。黙って掬い上げ、そのまま赤い椿の生垣のふもとに穴を深く掘って丁重に丁重に葬った。

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