バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ


 お父様を飲み込んで以来、お開きにならなくなった口を塞ぐ蓋を見つめ、私は大きく膨らむお腹に手を添えます。あの後、お父様は行方不明となり、周囲の者がどのような方法をもってして捜そうとも、お見つけになられることはございませんでした。お母様と、お父様を失くした山葉家の戸主権は、当然のように私のものとなりましたわ。けれど、私は、家を継ぐ戸主としては、まだまだ幼い身でございましたので、母の妹夫婦のお家で三年程過ごさせて頂きましたの。彼らは、子どもに恵まれなかったこともあり、それはもう、私を、自分たちの子どもを可愛がるように大切にして頂きましたわ。二十歳になって、この山葉の家に戻る時も、何度も引き止められたのですが、私はここに戻って参りました。それからすぐに、親戚からの勧めで婿を取り、二年の歳月を送りながら、ようやく子宝にも恵まれ、嬉しい限りですわ。私を気遣ってくださる優しい夫に、身の回りのお手伝いをして下さっている使用人に囲まれ、何不自由なく暮らしております。





 けれど、そんな私にも、唯一悩みがございます。それは、愛する優しい夫が、私の友人と浮気をしていることですの。その女性は、私の学生時代の友人で、朱里と申しますのよ。

それなのに、平気で私とお友達ごっこをするなんて、大した方ですわ。どうせ、今日も二人で何日かぶりの逢瀬を交わして、仲睦まじく、私を蔑むのでしょう。私が、何も知らないでいるとお思いになっていらして。呆れて笑ってしまいますわ。




 「あら、貴方も、私の今の高揚感がお分かりになって。」

 微かに動いたお腹を、撫でおろしては、その膨らみに負担が掛からないように、腰を屈め例の蓋を半分程ずらして、私は部屋に戻りました。その穴が、よく見える庭に面した昔からの、私のお部屋にですの。




 夏の夕暮れは、風が入らないと思っておりましたが、今日は、よく風鈴が揺れますこと。そのようなことを考えながら、お庭を見つめておりますと、お部屋の襖が突然開かれ、女性が入って参ります。それは、朱里にございました。夫と会う前に、私のご機嫌伺いですのよ。

 「まぁ、朱里ったら。

 お部屋に入る前は、普通一声掛けるものですのに。」

 「いいでしょう、別に何も隠すようなこともないでしょう、私たちの仲なのだか ら。」

 「それは、そうですけれども。

 朱里、別に私のことは気になさらなくって構わないのよ。

 主人が、出張の度に様子を見に来てくれなくとも。」

「何言ってるのよ。

 内心は寂しくて仕方が無いくせに。

 だからこうして、親友想いの私が様子を見に来てあげてるのよ。」

朱里は、机を挟んで私の前にお座りになっ

ては、色々なお話を聞かせて下さいます。けれど、どうしてかしら。全く耳に入って来ませんわ。そればかりか、何故だか、藤枝のことばかりを思い出してしまう……。




 藤枝が、山葉家にやってきたのは、私が生れた年にございました。藤枝は、私が憎くて憎くてしかたなかったでしょうね。だって、昔は想いを交わし合った男と、それを奪っていった恋敵との間に生まれた子どもなのですから……。

 そう、藤枝はお父様とお母様がご一緒になられる前は、お父様とお付き合いをしておりましたの。けれど、お母様との縁談話が持ち込まれると、お父様はすぐに藤枝をお捨てになり、山葉の戸主権と財力に、お抱きつきになられました。藤枝は、お父様とそれを奪ったお母様を、心の底からお怨みになり、その想いを晴らすため、整形手術で顔を変え、山葉家の使用人として働くようになったのでございます。お母様は、そのことに、当時お気付きにはなられませんでしたが、お父様はやはりお気付きになられていたのでしょう。

 他の使用人が、お父様がお手付きになられたのは藤枝だと、思い当たるほど、お父様は藤枝に目をかけておいででしたもの。それに、あの日、お父様とお話をした最後の日、藤枝との関係の事を、私が尋ねてみましたら、ご自身で「知っていたのか。」と、仰ったのですから。









 え…………。





それは、使用人である藤枝との浮気の関係のことだろって……。






 何を勘違いなさっているのかしら。私、そのようなこと、一言も言っておりませんでよ。





 ただ、藤枝との関係をお聞きしただけですもの。あの時、お父様がお手付きになられていた使用人は、藤枝ではございません。全く、別の女性にございます。それを、お母様のように、藤枝との関係だと誤解されて……可哀想な方々。

 そう、お母様がいなくなってしまったのは、全てに気が付いてしまわれたから。そうして、勘違いなされた。全てを、藤枝に奪われてしまうのではないかって……。

 お母様が、藤枝についてお調べになるようになったのは、ちょうど、お父様と浮気なさっている使用人が、藤枝だという噂がながれ始めた頃になります。そうして、因果応報等ということを掲げた宗教なんぞに、おハマりになられたのも、そのあたりからだったわね。

 何もかも、事実を知ってしまわれたお母様は、その恐怖といずれやってくる惨めな結末に堪えきれず、姿をお隠しになられたのよ。だって、お母様の求める哀れさと惨めさは違うのですから。






本当に、愚かな方。





 藤枝には、その気など、もう全く微塵にもございませんでしたのに。




 使用人としてやってきた藤枝は、お父様と私、どちらから復讐をするべきか、お悩みになっておられました。けれど、まだ幼い中、厳しいしつけを行うお母様に泣く私を見て、母性が働いたのか、彼女が備え付けておりました人間の温かみがお流れになったのか、それは分かりませんわ。ただ、そのような日々にある私を見て、藤枝は復讐心を凪いでしまわれましたの。

そうして、私に……姉のように優しい母のように接してきて下さいました。

……馬鹿な方よね。そのような感情に惑わされさえしなければ、こんなことにはなりませんでしたのに。また別の、別の生き方があったかもしれませんのに……。




 私もまた、彼女の部屋にいたずらのつもりで忍び込んで、古い日記を読み返しさえしなければ、このようなことを知ることもなかったのでしょうね。




 「凛子、聞いてるの。」

 「ぁっ……。

 も、勿論よ。」

 「そう、凛子って時たま、人の話を本当に聞いているか分からなくなるのよねぇ。

 ま、でも、見かけによらず、しっかりしてるから、気のせいなんでしょうけど。」

 微かに笑みを浮かべますと、朱里は立ち上がりお庭の方の廊下にお出になりました。私は、その背を見つめ、「いかがなさって。」と、声を掛けましたが、朱里は、お庭を見つめたまま返事をなさいません。しばらく待ってみますと、ようやく、「あれ。」と漏れるような声が聞こえて参りました。

 「お庭に、何かあって。」

 「あれ、あのなんの穴か分からないやつな

 んだけど、蓋がずれてるみたいよ。」

 「あら、本当ね。

後で、誰かに閉めてもらうか、お散歩がてらにでも、私が閉めておきますわ。」

「駄目よ、そんな体で。

 第一、暗くなってからの散歩なんて、いくらお庭だからって危ないわ。

 いいわ、私が閉めてくるから待っていて。」

 朱里は、そう仰ってお庭へ下り、穴に向って歩いて行かれます。





 ねぇ……藤枝。




貴方なら、今の私を叱って下さるのかしら。





今、ここにいらしたのなら、私を、貴方の全てで止めて、叱って下さるのよね。




 ざっざっざっざっ。




 ざっざっざっざっ。




 けれど、藤枝、貴方はもういない。

 もう、どこにも、いらっしゃらないのよね。




 ざっざっざっざっ。

 「ねぇ、凛子。

 これ、誰か開けたんじゃないの。

こんな蓋、そうそうずれたりしなさそうなんだけどな。」




朱里は、蓋を閉めるために横へお引きり擦りになります。思わず、目を逸らしてしまったのは何故かしら……。




 いけない。

このようなことをしては、いけないわ。




 私は、朱里の名を呼ぼうと再び視線をそちらに向けました。

 けれど、そこにはもう、誰の姿もなく、た口を閉ざした穴があるだけにございます。




 あぁ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。私はぁぁっ、私は取り返しのつかないことをしてしまいました。ごめんなさい、あぁ、ごめんなさい。私を、愚かで哀れな私を許して、許して下さい。朱里っ……朱里……本当にごめんなさい。どうか、どうか、誰か私をお許しになって。怖いわ、怖い。助けて藤枝、朱里っ。私は、どうすれば良いのっ。

 分かってる、本当は分かっていますのよっ。何をどう悔いたって、謝ったって意味などないことくらい、分かっていますのにっ。なんて馬鹿なことをっ。誰でも良いの、こんな私を、誰か、誰かっ、私をお許し下さいっ。









 ……なぁんて、哀れな淑女ぶってみましたけれど、いかがかしら。








 カタン。







 ずずずずずずず。







               完

しおり