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 暑い夏がやってきた。七月の中旬、学校は夏休み前で、大学はところによってはもう休みに入っている。金曜の夜、仕事を終え、汗がワイシャツの襟を濡らしながら、へとへとになって俺は古いこの家に帰ってきた。脱衣場に積んであるタオルで顔と首を拭いた。鞄を置こうと階段を上がったところで、研究室の扉が少し開き、光が漏れているのに気付いた。あいつだ。
 扉をそっと開け中に入ると、肘掛椅子に手足を放り出した蓮歌が寝ていた。額にうっすらと汗をかいている。この部屋は暑い。かなり暑い。
 俺はエアコンが苦手だ。特にクーラー。最初は涼しくていいが、やがて肌の表面だけ冷たくなって、それでいて体の内側には熱がこもる。手足は変に冷え、冷や汗が出る。慣れてしまえば快適なのだろうが、そんな人間を堕落させる文明の機械はごめんだ。というわけでこの部屋にはエアコンはない。夏は扇風機で、冬はガスストーブだ。
 俺は台所に降り、アイスコーヒーを淹れ、マグカップ二つを持って二階に戻ってきた。氷とカップが当たり、コロコロという音がする。
 キンキンに冷えたカップを寝ている蓮歌の頬に押し付ける。
 蓮歌は寝顔をしかめ「ぐぬぷ」という変な声を出した。
 「起きろ、クソガキ」
 蓮歌の分のカップをテーブルに置いた後、俺はメッシュの椅子に座り、タバコに火をつけた。 
 やがて蓮歌がのろのろと目を覚ました。
 「おはよー、ジローさん。お勤めご苦労様です」
 蓮歌は大きなあくびをしながら挨拶をする。まったく心がこもっていない。
 「あのなぁ、何度も言うけど勝手に入ってくんなよ。俺の研究室なんだぞ」
 「いいじゃん。お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの」
 伸びをしながら蓮歌は言う。
 いや、そんな、ジャイアニズムを持ち出されても。俺は猫のイラストが描かれている蓮歌のカップを指さした。
 「喉が渇いてると思って、アイスコーヒー淹れてきた。微糖、ミルク入りにしたぞ」
 「やった。やっぱジローさん優しいね」
 「俺はいつだって優しいだろ」
 「いただきまーす」
 俺の主張は無視された。蓮歌は笑顔でマグカップに口を付け、腰に手を当てて、一気に飲み干した。
 「ぷはー、うまかですたい。夏はなんといってもアイスコーヒーじゃけんのー」
 蓮歌は謎の方言を使い、空になったカップをテーブルに置いた。
 ふと見ると蓮歌の足元には大きな紙袋があった。
 「それ、なに?」と俺は指さす。
 ふふふ、と蓮歌は笑い、
 「お土産だよ。いつもジローさんにはお世話になってるしね」
 蓮歌よ。たまには気の利くやつだ。クソガキなんて言って、ごめんなさい。俺は中身を期待した。なにかのお菓子か?
 袋を引き寄せ、中身を取り出し、テーブルの上に置いた。
 赤霧島、黒霧島、サントリーオールド、響、ワイン各種・・・
 酒が並んだ。しかも結構値の張るものばかりである。高校生のお小遣いで買えるものではない。ということは・・・
 「おまえ、また競馬で当てたのか!?」
 「そう! ぴたり三連単!」
 ふん、と胸をそらし、蓮歌は誇らしげに答えた。

 ある日曜日のことだった。兄貴がリビングでぼんやりテレビを見ていたら、競馬番組となった。たまたまリビングにやってきた蓮歌が、ぼそりと三連単の予想を言った。兄貴は子供の当てずっぽうだと思い受け流していたのだが、レースが始まり、結果、蓮歌の予想通りとなった。ビギナーズラックに過ぎないと兄貴は思ったのだが、次の日曜も、蓮歌は最終レースをぴたりと当てた。その次の週も同じことをした。
 兄貴は慌てた。これはもう偶然ではない。蓮歌が何か質の悪い八百長試合に関わっているのではないかと疑ったからだ。蓮歌を問い詰めたところ、帰ってきた答えは、

 「勝負師の勘」

だった。
 春から囲碁を始めた蓮歌はめきめきと腕を上げ、すでにアマチュア五段になっていた。どうもそれが影響を与えているらしい。「勝負師なるものの精神」が目覚めているという。レースの前日、夢を見るのだそうだ。最終レース、ゴールバーの前、勝ち馬、着順。それらがイメージとして次々と浮かんでくる。
 蓮歌も最初は「妙な夢だな」ぐらいにしか思っていなかった。しかしあまりにもイメージがリアルなので、競馬番組を見ていたら予想が的中する。夢の結果が外れたことはない。勝率百パーセントなのだ。
 兄貴は自分が管理している蓮歌の銀行口座を記帳して残高を確かめた。残高は四百万円を超えていた。蓮歌は大学進学のための資金を「アレ」していると言った。「アレ」とはつまりこっそり馬券を買っているということだ。大人びている顔立ちの蓮歌は、それなりの格好をし、化粧をすれば若いOLにみられる。蓮歌が通う競馬場では、蓮歌は「最終レースの女神」と呼ばれ、美貌もあってか、ちょっとした人気を集めているらしい。
 しかし金は入ってくるが、浪費しているわけではない。半分は貯金に回し、半分は寄付している。今回の様に金を使うのは「たまに」とのことだった。しかし俺は知っている。蓮歌の腕時計がワンランクアップしたことを。
 「お前なぁ、いいかげん補導されるぞ」
 俺は大人として窘める。
 「大丈夫。警察とのパイプがある議員に献金するからもみ消してもらえるよ。ジローさんにもお小遣いあげようか?」
 そういう問題ではない。もう、なにがなんだか、良く分からなくなってきた。この規格外少女め。小遣いは欲しいが。
 俺はデスクの上の灰皿で、短くなったタバコを消す。少しぬるくなったコーヒーをカップ半分まで飲んだ。暑い夏の夜のけだるい空気を忘れられる、芳醇な香りが口の中に広がった。
 蓮歌は肘掛椅子にふんぞり返り、足を組んで、
 「そういえば例の研究、どうなったかね?」と横柄に聞いてきた。
 「解読はすみましたよ、お大尽さま」
 小遣いが欲しい俺は媚へつらって答える。
 デスクの上の、資料をとじたファイルを蓮歌に手渡す。
 「ワードに打ち込んだ。これならお前も読めるだろ?」
 蓮歌はぺらぺらとファイルをめくった。
 「うん。これなら私も読める。ジローさん、ありがと」
 花が咲くように蓮歌は笑った。
 社会に隠れるように、ひっそりと何の役にもたたない歴史の研究をしている。ときに空しくなるけれど、こうやってお礼を言ってもらえるのはやはり嬉しいし、蓮歌の笑顔を見るのも楽しい。「お安い御用さ」とさりげなく言って、俺は照れ隠しをした。
 「ま、今日はさわりを読んでみるか」

 昭和十五年四月一日
 今日から新学期だ。経済は軍需景気に沸いているが、それも今後はどうなるか。帝国の進むべき道はどこにありや。学内では学生運動が沈静化しない。放校されるものも出てきた。彼らには選良という自覚はあるのか。地方の貧困はますます深刻だ。満足に教育を受けられない子供はごまんといる。エリートである学生は勉学に集中することが、彼らのノブレス・オブリッヂだ。彼らの思想を善導しなくてはならない。

 俺は一つ咳ばらいをし、説明をする。
 「前に説明したように、昭和十五年、日本は日中戦争をやって、終わりが見えなかった。国内では軍需関連の企業は莫大な利益を上げていたが、都市生活の水準はじりじりと下がり、物資不足が起こり始めていた。とはいうものの、太平洋戦争時と違って、食うに困るまでの状況には、まだ至ってなかった。一方で農村は凶作と徴兵で疲弊していた」
 蓮歌は首を傾げ、髪の毛を触りながら、
 「ふーん。帝国ってのは日本のことだよね。大日本帝国。ノブレス・オブリッヂというのは高貴な身分に伴う義務。でもこの「善導」ってのは聞かないなぁ」という。
 「現代日本では、まず使われないな。悪い思想の持ち主を教育して、いい方向に導くってことだな。当時は流行したんだが、ま、死語だ」
 この日記には「学生運動」という単語が出てくる。学生運動で有名なのは1960年代の学生が東京大学の安田講堂を占拠した東大闘争とか、大学側の多額の使途不明金に端を発した日大闘争などであるが、実は戦前にもあった。
 学問の独立と自由が権力によって締め付けられることに対して、教授と学生が抵抗運動を始めた。マルキシズムの影響もあり、燎原の火のように運動は盛り上がった。ある大学の法学部では教授全員が辞表を提出し、大学当局を困らせた。しかし、権力側は徹底した弾圧と、ポストやら金やらをちらつかせて、反対陣営を切り崩していった。やがてブームも去り、運動は崩壊する。
 「学生運動ってあれだよね。はんたーい、とか、異議ナーシ、とか叫ぶやつ」と蓮歌は言った。
 あまり的を射ていないが、言いたいことは伝わる。俺は立ち上がり、本棚から文庫を一冊抜き出す。
 村上龍の『69』である。村上龍の自伝的な小説で1960年代後半が舞台だ。進学校の高校生たちが学生運動のまねごとをする内容である。
 「ご参考に。これ貸すよ。読んでみな」
 俺は蓮歌に渡す。
 「うん、借りるね。ジローさん」
蓮歌はぱっと笑う。
 次に四月七日のページを開く。

 今日から授業が始まる。正直言って憂鬱だ。べつに授業が嫌いなわけじゃない。時間を取られるのが嫌なのだ。私には学者という自負がある。学者であるならば研究をせねばならぬ。その研究時間を取られるのは、誠につらい。嗚呼、時間がたっぷりとあれば。

 これは良く分かる。俺も(自称)兼業学者なので、昼間の会社にかなり時間を取られる。幸い定時で上れるので、それなりに時間は確保できるのだが。もっと時間があれば、とはしばしば思う。
 しかし蓮歌は呆れたように、
 「学者って、ジコチューなの? 教育も仕事じゃん。なんか俺様ってかんじ」
 俺は反論する。
 「学者だから自己中心的なんだよ。どんな謙虚な先生だって、心の中では、俺が世界で一番の学者だ、って思っているんだよ」
 ため息をつき、そんなもんかー、と蓮歌はつぶやいた。
 「ああ、そういえば、妙な記述があってね」と俺は日記をめくった。

 昭和十五年四月八日
 一昨年からおかしな事件が続いていた。秋から冬の間、満月の夜になると、隣の家の電気が落ちる。警察が調べたところ、家の外の電気の配線が切られていた。泥棒が電気が落ちている間に侵入し盗みを働いたかと思われたが、何も盗られていない。隣は商社勤めのご主人と奥さん、それに今年高等女学校に入った娘さんの三人家族だが、ご主人は海外駐在のため普段は日本にいない。男手が足りないので、万が一の時は助けてほしいと奥さんから頼まれた。私は請け負ったのだが、この三月配線は切られなかった。

 昭和十五年四月十六日
 満月事件の犯人が捕まった。隣の家の反対にあるアパートメントの二階の住人である府立中学の生徒であった。昨日の夜、隣の家の前でうろうろしているところを巡査に見つかり、警察署へ連行された。ニッパーを持っていたので巡査が問い詰めたところ、自分が満月事件の犯人であると自白した。この生徒は地方から親の意向で名門の府立中学に入ったのだが、期待をかけられていたらしい。その重圧があったのだろうか、だんだんと勉強についていけなくなり、鬱憤を晴らそうと配線を切っていたようだ。愉快犯である。これで一安心であるが、しかし何故満月の夜だけだったのだろうか。

 「このころから少年の陰湿な犯罪があったんだなぁ。今の日本でもおかしな少年事件が起き続けているけれど」と俺は蓮歌に話しかけた。
 しかし蓮歌の返事はない。蓮歌は左手の人差し指をこめかみにあて、目をつぶり、小首をかしげていた。一分ほど経っただろうか、蓮歌は俺にまっすぐな瞳を向けた。
 「もしかして、それ、ストレスっていう動機は真実じゃないかも」
 「ん?」
 俺は間抜けな声を出してしまった。
 「いやいや、警察が調べて、自白までしているんだから、この通りじゃないのか?」
 「そうかもしれないど、日記にも書いてある通り、なんで満月の夜に犯行が行われたのだろう? ストレス解消なら他の日でもいいわけでしょ? ジローさんは変だと思わない?」
 「そりゃ変とは思うけど。蓮歌には何か思うところあるのか?」
 うん、と真剣な眼差しで蓮歌は返事をした。
 「これはたぶん蛍雪の功、だよ」

 俺は台所で二杯目のアイスコーヒーを淹れた。日が沈んでから時間が経つので、気温が高くなることはないが、それでもまだ暑い。湿気が身を包み、不快な気持ちにさせる。こういうときは冷たいコーヒーを飲み、気分を切り替えるに限る。
 二階にあがり、蓮歌にカップを手渡す。蓮歌はありがとう、と言った。
 さて、女子高生探偵・港町蓮歌の名推理の始まりである。
 「この事件における最大の謎にして最大のキーは、なぜ犯行が満月の夜だけに行われたのか、にあります。しかも秋から冬の間だけ。夏はこの日記にあるように、犯行は行われなかった。なぜだ?」
 俺はタバコに火をつけた。「坊やだからさ」と思い、それで、と蓮歌に先を促す。
 「「蛍雪の功」という言葉は、貧しい学生が夜に明かりを灯すこともできず、雪に反射した光で勉強した、という故事に由来するよね。ということはこの犯人の中学生の狙いんじゃないかと思う」
 「どういうことだ?」
 「うん、つまりね。停電したら蝋燭をつけようと思うじゃない。でも当時は物資不足で蝋燭は貴重品でしょ。ということはカーテンを開けて、せめて月明りだけでも取り込もうとする、という想像はできる。だから一番明るい満月の夜だったんだよ」
 「なるほど。でも停電しちゃったから、ぱっぱと早寝しちゃおうとか思うんじゃないのか?」
 「そうそこ。そこポイント。ジロー君、えらい」
 褒められたが全然嬉しくねぇ。
 「ターゲットは受験生だったんだよ」
 ! そうか。
 隣には昭和十五年で高等女学校に入った娘がいると日記に書いてあった。ということは去年と一昨年は勉強に励んでいたはず。厳しい女学校受験だ、停電したからと言って勉強しないわけにはいかない。カーテンを開けて、月明りの下、窓の近くで勉強したはずだ。そしてそれを犯人は見ていた。夏は風通しを良くするため、カーテンも窓も開けている。秋冬は冷気でカーテンを閉めるが、それを開けさせるために、停電を起こした。つまり。
 蓮歌は遠い目をして、切なく言う。
 「彼女を見るための少年の行動。恋ってやつだね。おそらく地方出身で一人暮らしってことはずいぶん寂しかったと思うんだよ。まして中学生ならなおさら。前の家には恋をしている子がいる。彼女を一目でもいい、見たい。自然な感情だよ。誰にも責められない」
蓮歌はそう言い、アイスコーヒーに口を付け、飲み込み、深呼吸した。蓮歌は少し悲しそうな顔をした。
 「まあ、憶測のレベルだけどね」
 ハイ、これでお終い、と蓮歌は締めくくった。
 三月で犯行がピタリと止んだのは、二月が女学校の受験だったからだろう。受験が終わってしまえば、月明りを頼ってまで猛勉強する必要もない。
 そういうことか。これはいいネタになりそうだ。一般的な歴史雑誌に書けるんじゃないか?
 そう思っていたら、ジト目で蓮歌が見つめてきた。
 「言っとくけど、ジローさん、この事件、雑誌とかに書いちゃだめだよ」
 俺は少し黙った。
 「ちょっとだけ」
 手をすり合わせ、蓮歌に懇願する。
 「だめだめ! 前にも言ったじゃん。のぞき見根性でプライバシーを侵害するのが悪質なゴシップで、想いを持って記憶するのが歴史だって。これは譲れないなぁ」
 ええー、と俺は手足をバタバタさせて駄々をこねる。
 「いちおう歴史学者でしょ! そんなことしたらお小遣いあげないからね!」
 蓮歌に釘を刺されてしまった。くそう、俺が金欠だと知っているな。
 まあ、いっか。これはそっとしておいたほうがいい事件だ。
 「わかったよ」
 俺は肩をすくめる。
 「よろしい」と蓮歌は胸をそらし、にかっと笑った。
 「じゃ、その日記の翻訳、ちょっと貸してね。私なりに考えてみる」
 俺はプリンターを動かし、日記の翻訳とPDF化した『九高会誌 轟く』をプリントアウトした。
 「ほらよ、永久貸与だ」と資料の束を渡す。
 蓮歌はいそいそとスクールバッグにしまった。
 そのあと俺らは取り留めもない話をした。俺は大学のころ一人暮らしでアパートに住んでいたが、入居したのが格安の半地下の部屋で独房に入っている気分で過ごした話。そこが梅雨の豪雨で床上浸水になり、だめになった話。大家さんが最上階の日当たりのいい部屋に交換してくれた話。ふとした切欠で、引っ越しを手伝ってくれた同じアパートに住む蕎麦屋の兄ちゃんと仲良くなった話。毎週土曜日は俺の部屋でその兄ちゃんと深夜まで飲んだ話(ちなみにお互い本名を知らなかった)。そんなどうでもいい話をした。夏の夜は更けていく。俺たちは下らないことを延々としゃべり続けた。

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