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1話 暗闇の狙撃手

 左利きのガンウーマンは警視庁の射撃訓練場で、的を見据えながら仁王立ちしていた。
 鋭い眼光。凛々しい横顔。普段のユリとはまるで違う、その姿。
 ユリはゆっくりと両腕を上げる。両手に握った銃はベレッタM92。
 何発もの銃声が続け様に鳴り響いた。銃声が鳴り止んで静寂が訪れる。
 ユリは真っ直ぐに伸ばしていた両腕を曲げて、二丁のベレッタを口元へ近づける。
 息を吹きかけて硝煙を消してから、人差し指で回す。
 三回転させた後で腰に装着した左右のガンホルダーに収めた。
「速いわね」
「さすがはユリ君だね」
 電光石火の二丁拳銃早撃ちを目の辺りにして、マリも海堂警部も惜しみない賛辞を送る。
 僕は大口を開けたまま、左利きのガンウーマンの腕前に度肝を抜かれていた。
「ユリ君なら暗闇の狙撃手と撃ち合っても勝てるかもしれないね」
「暗闇の狙撃手って、あのガンマンですか?」
「おや? 知ってるのかい?」
「はい。噂なら聞いたことはありますよ」
「おっちゃん、その暗闇の狙撃手って何者なの?」
「殺し屋だよ。彼が関与していると見られる射殺事件が幾つかあるのだけどね。いずれも決定的な証拠が無くて、逮捕には至ってないんだ。愛銃がグロッグ26アドバンスということ以外は全てが謎に包まれていてね。しかも、未だその素顔を見た者はいないんだよ」
「へえ、そんなやつ、本当にいるのね」
 マリは半信半疑の様子で頭の後ろで両手を組む。
 殺し屋か。まるで漫画のような話だ。
 この世界はどうなっているのだろう。大丈夫なのかな。
「おおっ、本当だ」
「本物ですね」
 背後から聞こえた声に振り返ると、二人の男が歩いていた。
 右側の男は長身で屈強な体格だ。
 それとは対称的に、左側の男は細身で優男ふうだ。
「二人ともどうしたんだい? 何か事件かい?」
「いえ、あの双子の名探偵が来てるって小耳に挟んだものでね」
「それで、是非お目にかかりたいと思って来たんですよ」
「あら、あたし達に会いに来てくれたの?」
 満更でも無さそうに、マリは歓迎の笑みで二人を見上げる。
「ええ、噂はかねがね伺ってますよ」
「警部がよく貴女達の話を聞かせてくださるんですよ」
「おっと、自己紹介が遅れたな。俺は大島ゴロウ。よろしく」
「僕は小田ジュンペイといいます」
 右側の長身で屈強な体格の人が大島刑事。左側の細身の人が小田刑事らしい。
「射撃訓練をやってたんですか?」
「そういえば、さっき音が聞こえましたね」
「そうよ。ユリが二丁拳銃で撃ちまくってた所よ」
 マリは左右の腕を伸ばして人差し指で銃を作る。
「おおっ、それは見たかったな」
「ユリさんは左利きのガンウーマンなんですよね」
 何と僕の考えた通り名まで知れ渡っているとは。嬉しいというよりも恥ずかしい。
「二人は銃の腕前はどうなの?」
「いや、そんな得意ではないよ」
「僕も上手くはないですよ」
「でも、犯人を追ってて撃ったことくらいあるわよね?」
 マリが質問を投げかけた瞬間、何故か二人の顔色が急変した。
 遺体でも見たかのように、酷く強張った顔をしている。
「いや、まあそれはあるけどな……」
「できれば、撃ちたくないですよね……」
「じゃあ、俺達はそろそろ退散するよ」
「お邪魔しました」
 大島刑事と小田刑事は逃げるようにして、足早に立ち去っていった。
 二人の後ろ姿が扉の向こうへ消えた頃、マリが不思議そうな顔で海堂警部を見上げた。
「おっちゃん、あたし、なんかまずいこと聞いた?」
「いや、別にそんなことは無いと思うけどね」
 海堂警部は珍しく言葉を濁しながら、苦笑で顔を歪めていた。
 どうしたんだろう? 
 マリの質問は、そんなにまずい内容だったのかな?
 
「桜も見頃を迎えており、全国各地の公園がお花見で賑わっています」
 満開の桜の木が薄型テレビに映っていた。
 ニュースキャスターのお姉さんのナレーションが桜の映像に合わせて流れる。
 花見客達が満開の桜の下でシートに座って弁当を食べていた。
「ねえ、マリ。お花見、行こうよ」
「いいわね。行きましょうか」
「てことでユウちゃん。三人で行こうね?」
「いいけど、どこに行くの?」
「桜公園にしようよ。あそこの桜、綺麗だからさ」
「いつ行くの?」
「今週の日曜日でいいかな?」
「うん。いいよ」
「そうだ、三人でお弁当を作っていこうよ。一人一人作って食べ合いっこするの」
「いいわね。誰が一番おいしいか勝負よ」
「ユウちゃん、最高の自信作を作ってね。私とマリも頑張るからさ」
「うん。まあ、頑張るよ」
 お花見の話がまとまった頃、計ったようにチャイムが鳴った。
 僕らは三人揃ってドアを振り返る。
「僕、出てくるよ」
 モニターに映っていたのは初めて見る顔だった。
 年齢は20代だろうか。爽やか好青年といった感じの顔だ。
「すいません。依頼をさせていただきたいのですが」
「はい。今、開けますね」
「お邪魔します」
 ドアを開けると男性は体を滑り込ませて入ってきた。黒い革靴を脱いで敷居を跨ぐ。
 男性を連れて事務室に戻る。ドアを開けるとユリとマリがソファーの上で振り返った。
「ユリ、マリ。依頼人の方だよ」
「あっ、依頼人さんですか」
「おっ、久しぶりの依頼ね」
「どうぞ、お掛けください」
 ユリはソファーから立って、左手で向かいのソファーを勧める。
「失礼します」
 男性は御辞儀をしてソファーに腰を下ろした。
 僕はユリの隣に腰掛け、僕らは三対一で向かい合う。
 ユリが膝の上で両手を重ねて依頼人を見据える。
「えっと、お名前は?」
「川島ショウゴといいます」
「川島さん、ご依頼はどういったご用件ですか?」
「犬を探して頂きたいんですよ。愛犬が行方不明になってしまったので」
 僕はソファーの上で大口を開けながら感動していた。
 待望の犬探しだ。やっと、犬を探せるんだ。
 この日をどれだけ待ち侘びたことか。
「ワンちゃんのお名前は?」
「ブラックという黒のドーベルマンですよ」
「黒だからブラックなんですか?」
「ええ、そうです」
「そのまんまね」
 マリは頭の後ろで両手を組みながら、川島さんのネーミングセンスを笑う。
 確かに、僕も同じことを思ったけどさ。
 でも、黒いのにホワイトって名前だったら紛らわしいじゃないか。
「いなくなったのはいつ頃ですか?」
「気がついたのは昨日の夕方ですね。散歩に連れて行こうと思って、犬小屋を覗いたらいなかったんですよ。鎖には繋いであったんですけど、外れていたんですよ」
「首輪は付けてますか?」
「付けてますよ。赤い首輪です」
「今まで行方不明になったことは?」
「ありませんね。今回が初めてです」
「よく散歩に行かれる場所はどこですか?」
「特には決まってませんね。その辺をぶらぶらと歩いているので」
「では、心当たりは全くありませんか?」
「そうですね。どこにいるのか見当も付きませんよ」
「それは困りましたね」
「そうだ。写真を持ってきたんですよ。この子です」
 川島さんは背広の懐に手を入れた。
 僕らは身を乗り出して、テーブルに置かれた写真を覗き込む。
 ブラックが犬小屋の前で寝転がっていた。
 確かに黒いドーベルマンだ。
「この写真、お預かりしてもよろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「では、こちらの用紙にご記入いただけますか?」
 ユリはテーブルの上に置いてある依頼受け付け用紙に左手をかざす。
「あっ、はい」
 川島さんは用紙の隣に置かれたボールペンを持った。前屈みになって記入する。
 お名前、川島ショウゴ。住所はマンション。年齢、26歳。職業、紳士服店社員。
 記入を終えてテーブルにボールペンを置くと、ユリが背中を丸めて用紙を覗き込んだ。
「へえ、川島さんって紳士服店の社員さんなんですね」
「ユリさん達も是非ご来店くださいよ。桜公園の近くにあるので」
「桜公園の近くですか。今度、寄ってみますね」
「ご来店、心よりお待ちしておりますよ」
「では、ワンちゃんの方は見つかり次第、ご連絡させていただきますね」
「はい。よろしくお願いします」
 
 かくして、僕らは犬探しという探偵らしい仕事を行うことと相成った。
 まずは聞き込みということで近所の家を回っていった。
 何軒か回っていった末、五軒目で有力な目撃証言を得ることができた。
「このワンちゃん、見かけませんでしたか?」
 ユリが差し出したブラックの写真を見るや否や、おばさんは目の色を変えながら言い放った。
「この犬ならこの前、桜公園で見かけたよ」
「桜公園に? そのワンちゃん、どうなったんですか?」
「いや、別に何もしてないよ。見かけただけで」
「ユリ、もしかしたらまだいるかもしれないわね」
「そうだね。行ってみようか」
 桜公園はそれなりに広い公園だった。学校の体育館くらいの敷地面積はある。
 春の陽光の下、桜の木々が咲き誇っていた。
 子供達は甲高い歓声を上げながら、ブランコや滑り台で遊んでいた。
 お母さん達はその傍で笑い声を立てながら談笑している。
 そんな牧歌的な風景の中、僕らは方々に散って捜索を開始した。
 ユリは桜の近辺を、マリはベンチの周辺を、僕は茂みの中を探し回る。
「あっ! いたよ!」
 捜索開始から数分後、ユリの叫び声が耳に飛び込んできた。
 中腰で茂みを覗いていた僕は上体を起こして振り返る。
 どこから出てきたのか、ブラックは滑り台の傍に寝そべっていた。
 黒い姿が遠くに小さく見える。
「ブラック」
 ユリが左手を振りながら砂の上を駆けていく。僕もユリの背中を追う。
 まさか、捜索開始から僅か数時間足らずで発見に至るとは。
 こんなにあっさりと見つかるとは思わなかった。
 空気が読める犬で助かった。
「ブラック、家出したら駄目だよ? 川島さん、心配してたんだから」
 僕が滑り台の所に到達した頃、ユリはブラックの正面に屈み込んだ。
 両手で膝を押さえながら話しかける。
 滑り台の金属部分が春の陽光を浴びて輝いていた。
 見知らぬ僕らを前にしても、ブラックは吠えることもなく大人しく座っている。
 随分と人慣れしているようだ。
 さっきは遠いから分からなかったけど、こうして近くで見ると大きい。
「待っててね。今、ご主人様を呼んであげるから」
 立ち上がるなり、ユリはスカートの左ポケットからスマホを取り出した。
 あの爽やかな声が六コール目で聞こえてきた。
「はい。川島です」
「川島さん、ユリです。ブラック、見つかりましたよ」
「えっ? 本当ですか?」
「たった今、桜公園で見つけたんですよ。今、そこにいるんですよ」
「あそこですか。今から行きますよ」
「分かりました。それなら、ここで待ってますね」
 川島さんが駆けつけたのは、およそ20分後のことだった。
 ブラックの前に屈み込んで愛おしそうに頭を撫でる。
「よしよし、ブラック」
 ブラックはお座りの姿勢で舌を出していた。
 再会を喜ぶように尻尾を振る。
「そうだ。お礼をしないといけませんね」
「そんな、依頼料を頂いているのに悪いですよ」
 遠慮深いユリは首と両手を横に振りながら恐縮する。
「いえ、ほんの気持ちですから。何か食べ物をお持ちしましょうか。何がいいですかね?」
「そうね。やっぱケーキがいいわね」
 遠慮を知らないマリは望みの品に大好物の食べ物をリクエストする。
「ケーキですか。お安いご用ですよ。どんなケーキがお好みですか?」
「あたし、モンブランがいいわ。あっ、どうせならパティパティのケーキがいいわね」
「あそこですか。この前、事務所にお邪魔した時に通りかかりましたよ」
「知ってるのね。あそこのケーキ、ほんとおいしいのよ」
「では、あそこで買いますね。ユリさんはいちごのショートケーキでいいですか?」
「はい。では、お言葉に甘えて」
「明日にでも事務所にお邪魔してよろしいですか?」
「はい。昼頃ならいますけど」
「それでは明日の昼頃に伺います」
 
「いかにも探偵事務所という雰囲気ですね」
 川島さんはソファーの上で物珍しそうに事務室を見渡していた。
 今では見慣れたけど、僕も最初の頃はそんな感想を抱いていたっけ。
「うーん! おいしいわね!」
 マリは至福の表情でモンブランを掻き込んでいた。
 目をぎゅっと瞑りながら、顎をぐいっと突き上げる。
「マリ、お行儀が悪いよ?」
 その行動に対して、左手の人差し指を立てて叱るユリ。
「だって、おいしいんだもん」
 不満げに頬を膨らませて、黄色く染まった口を尖らせるマリ。
 この子、完全に子供だ。もう少し大人になってよ、疾風のバイカーさん。
「仲が良いんですね」
 ティーカップを傾けて、微笑ましそうな眼差しを向ける川島さん。
 カップをテーブルに置くと、ユリに尋ねた。
「すいません。煙草、いいですか?」
「はい、どうぞ」
「では、失礼します」
 ズボンのポケットから煙草の箱とライターを出す。
 煙草を出して口に咥えて、ライターで火を付ける。
 僕はソファーを立ってデスクへ近寄った。灰皿を取ってソファーへ戻る。
「灰皿、どうぞ」
 テーブルの真ん中に置いてから再びソファーに腰掛ける。
「あっ、ありがとうございます」
 川島さんは御辞儀をしながら礼を述べると、旨そうに煙を吐き出した。
「皆さんも煙草を吸われるんですか?」
「いえ、吸いませんよ」
 ユリが首を横に振る。僕らは三人とも吸わないんだ。
「その灰皿は来客用よ」
 マリがテーブルの上の丸い物体を指差しながら説明する。
「そうだったんですか。わざわざ、すいませんね」
「川島さんは煙草お好きなんですか?」
「僕、ヘビースモーカーなんですよ」
「何本くらい吸われるんですか?」
「多い時は何十本と吸ってしまいますね」
「そんなに吸うの?」
 マリは信じられないといった顔つきで、煙草を吹かす川島さんを眺める。
「何度か禁煙に挑戦したんですけどね。いずれも挫折してしまいましたよ」
「分かるわよ。あたしもダイエット、大変だもん」
「そういえば、外にあった白い車はどなたのですか?」
「私のですよ」
 ユリが左手を挙げて答える。
「ユリさんのですか。良い車ですね」
「川島さん、お車が好きなんですか?」
「そうなんですよ。筋金入りのカーマニアでしてね」
「川島さんの愛車はどんなお車ですか?」
「黒のフェラーリですよ」
「フェラーリですか。左ハンドルですか?」
「左ハンドルですよ。日本車でも良い車はあるんですけどね。やっぱり、フェラーリには格別な思い入れがあるんですよ」
「ふーん、でも、やっぱあたしはバイク派ね」
 マリは両手を頭の後ろで組みながら笑う。
 やっぱり、車よりバイクなんだ。さすがは疾風のバイカーだ。
「そういえば、こちらの男性は?」
 川島さんは僕に視線を投げかけてから、ユリとマリに向かって問い掛ける。
「助手のユウキ君ですよ」
「助手の方ですか」
 ユリが紹介すると川島さんは僕に人懐っこい笑顔を向けた。
「ど、どうも……」
 生来の人見知りが出てしまい、僕はぎこちなく御辞儀をする。
「ユウキ君は何時頃までここにいらっしゃるんですか?」
「いえ、ここに住んでるんですよ」
「住み込みですか。羨ましいですね。こんな美女お二人と同居だなんて」
「そんな、美女だなんて」
「ちょっと、本当のこと言うんじゃないわよ」
 ユリもマリも満更でも無さそうに相好を崩す。
「そういえば、お二人は幾つもの事件を解決されてきた名探偵なんですよね。最近、何か事件ってありました?」
「事件はないわね。でも、この間、警視庁に行ったんだけどね。知り合いの警部のおっちゃんから、暗闇の狙撃手ってやつの話を聞いたわよ」
「暗闇の狙撃手? その人、どんな人ですか?」
「何でも凄腕のガンマンらしいのよ。今まで何人も殺してきたけど、未だに誰もその姿を知らないんだって」
「男か女かも判明していないのですか?」
「うん。そうらしいわよ」
「その暗闇の狙撃手という人は犯行声明を出したりはしないのですか?」
「しないみたいね。そういうことは今まで一度もなかったみたいよ」
「へえ、そんな人がいるんですか。何か、漫画の世界みたいな話ですね」
「でも、おっちゃんが言ってたのよ。ユリならその暗闇の狙撃手と勝負しても勝てるかもしれないってね」
「そういえば、ユリさんはガンマンなんですよね」
「ガンマンじゃなくてガンウーマンよ。左利きのガンウーマン」
「あっ、そうですね。これは失礼しました」
 川島さんは苦笑しながらユリに頭を下げた。
 空になったティーカップをテーブルに置くと、ソファーから腰を上げた。
「では、僕はそろそろお暇させていただきます。また、ご縁があればお会いしましょう」
 玄関で川島さんを見送った後、僕もマリもユリも口々に川島さんの人柄を誉めていた。
「川島さん、いい人だね」
「そうね。おかげでケーキ食べられたし」
「うん。ワンちゃん好きの人に悪い人はいないよ」
 
 デスクの上の電話が鳴ったのは事務室の掃除をしている時だった。
 ホウキを動かす手を止めて、体を震わせながら振り返る。
 ホウキを床に倒すと、デスクへ歩いていって受話器を取った。
「はい。白鳥ユリ・マリ探偵事務所です」
「すいません。依頼をお願いしたいんですけど」
「依頼ですね。お名前を教えていただけますか?」
「高橋トモコです」
「ご依頼というのは、どういった内容ですか?」
「詳しい話はお会いしてからでもよろしいですか?」
「あっ、はい。では、ご都合の良い日時を教えていただけますか?」
「できれば早い方が。明日は駄目ですか?」
「明日ですか? いえ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、明日でお願いします」
「時間は何時頃がよろしいですか?」
「何時でも構いませんよ」
「それでは午後2時でよろしいですか?」
「はい。2時で大丈夫です」
「分かりました。では、お待ちしています」
 通話を終えて受話器を置いた時、背後で扉が開く音が聞こえた。
 振り返ればユリとマリが並んでいた。
「ユウちゃん、何の電話だったの?」
「もしかして依頼?」
「うん、依頼だよ。高橋トモコさんていう女の人だよ」
「高橋トモコさん? あれ?」
「ユリ、知ってるの?」
「知り合いじゃないんだけどね。何となく、どこかで聞いた名前だなって思ったの。どんな依頼だったの?」
「いや、詳しい話は会ってからだって」
「そっか。どんな依頼なのかな?」
 ユリは顎の下に左手の人差し指を当てながら首を傾げていた。
 どんな依頼だろう?
 また犬探しだったらいいな。
 
 トモコさんは緊張の面持ちで向かいのソファーに座っていた。
 さっきから膝の上で忙しなく両手の指を絡めている。
「高橋トモコさんですね。それで、ご依頼というのは?」
「実はストーカーの被害に遭ってるんですよ。脅迫状がポストの中にあったんです」
 ストーカー事件か。のんびりと犬探しをして、ケーキを食べていたのに。
「その脅迫状を発見されたのはいつですか?」
「三日前です。朝、ポストの中を覗いてみたら入ってたんです」
「その脅迫状って今お持ちですか?」
「はい」
 トモコさんは頷いた後、傍らに置いたハンドバッグを開けた。一枚の紙切れを出してテーブルに置く。
「これです」
 僕らは膝を乗り出して白い紙を覗き込む。パソコンで作成した物らしく、紙の真ん中に真っ赤な字が印刷されている。
「桜井カズユキと別れろ。さもないと恐ろしい事が起きるだろう」
 ユリが声を潜めて紙に書かれた脅し文句を読み上げた。顔を上げて問い掛ける。
「この桜井さんという方は彼氏さんですか?」
「はい。恋人で会社の同僚です」
「警察には相談されたんですか?」
「一応、電話ではお話しました。でも、まだ危害を加えられた訳ではないので動きようがないみたいです」
「私達にこの脅迫状の差出人を突き止めて欲しいという訳ですね?」
「はい。そうです」
「ストーカーについて誰か心当たりはありませんか?」
「そういえば、最近ある男性と知り合ったんです。川島ショウゴさんという方なんですけど」
「川島ショウゴさん……?」
「それって……」
 思わぬ名前が飛び出したものだから、ユリもマリも揃って驚愕の声を漏らした。
「あれ? ユリさん達、川島さんとお知り合いなんですか?」
「この間、犬探しの依頼をお受けしたんですよ」
「そういえば、ブラックという犬を飼っていると言ってましたよ」
「ブラック。やっぱり、そうですね」
 トモコさんと川島さんが知り合いだったとは。これは驚きだ。
「川島さんとお知り合いになられたのはいつ頃の事ですか?」
「一週間くらい前ですね。桜公園で知り合ったんですよ」
「桜公園ですか」
「あたし達がブラックを見つけた、あの公園ね」
「どういう状況だったか、詳しいお話を聞かせていただけますか?」
「私、土日になるとあの公園へケンという犬を散歩に連れて行くんです。その日もケンを連れて公園のベンチに座ってたんです。そうしたら、あの人に話しかけられたんです。可愛い犬ですねって。それから、隣よろしいですかってベンチに座って世間話をして。それ以来、土日になると何度かお話するようになったんです」
「桜井さんとお付き合いされているという事は川島さんに話されたんですか?」
「はい。話しました」
「川島さんの方からお尋ねになられたんですか?」
「そうです。話の流れでそういう話題になって」
「という事は脅迫状に桜井さんの名前が出てきても不思議ではないという訳ですね」
「はい。そうですね」
「トモコさんとしては川島さんの印象はどうですか?」
「別に悪い人だとは思いません。逆に優しそうな人だなと思います」
 それは僕も同感だ。あの人が脅迫状を送りつけるようなストーカーだなんて、とてもそんな人には見えない。
「あと桜井さんや他の同僚の方々にも、お話を伺いたいですね。特に親しい方はどなたですか?」
「女の子で仲が良いのは山下という子です。男の子だと田口君ですね」
「明日、早速お話を伺いたいんですけど。大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫だと思います」
「時間は何時頃なら大丈夫ですか?」
「五時頃なら大丈夫ですよ」
「では五時で。場所はどこにしますか?」
「会社の近くに喫茶店があるんですよ。そこでどうですか?」
「そこにしましょう。では、また明日」
「はい。お願いします」
「ところでトモコさんってクリスチャンなんですか?」
「えっ? どうしてですか?」
「十字架付けてらっしゃるから、もしかしてと思って」
「いえ違います。これ、兄の形見なんです。私が誕生日にあげた物で」
 トモコさんは顔を伏せて首に掛けた十字架を見つめる。
「形見? お兄さん、お亡くなりになられたんですか?」
「はい。二年前に亡くなりました」
「ご病気ですか?」
「いえ、病気ではないんですけど……」
 理由は分からないけど、トモコさんは言葉を濁して俯いていた。
 トモコさんが帰って間もない頃、ユリが事務室のドアを見つめながら呟いた。
「思い出したよ。トモコさん、高橋カズヤの妹さんだよ」
「高橋カズヤ? その人、どんな人なの?」
「高橋は強盗殺人の容疑者だったんだよ。2年前に都内で強盗殺人があったんだけどね。高橋はその事件の容疑者だったの」
「その事件、ユリとマリが解決したの?」
「私達は一切、関わってないよ。まだ警部さんと知り合う前だったから」
「それで、その高橋って人は逮捕されたんだ?」
「ううん、警官に撃たれて死んじゃったの」
「撃たれて? どういう状況だったの?」
「刑事さん達が高橋を逮捕する為にマンションへ行ったんだけどね。逮捕状を見るなり、高橋は逃げ出したの。
 そこへ通行人の女性が通りかかったんだけどね。高橋は彼女を人質に取ろうと駆け寄っていったんだ。女性を羽交い締めにしてナイフを喉元に突き付けたの。そこで高橋の背後に立っていた刑事さんが発砲して、高橋は血を流して道路に倒れ込んだの。救急車で運ばれたけど、搬送先の病院で息を引き取ったんだ」
「その二人の刑事さんってユリとマリの知ってる人?」
「どうかな? 刑事さんの名前までは覚えてないんだ」
「無罪になったって事はまだ刑事を続けてるのかな?」
「うん。そうかもしれないね」
 兄が強盗殺人事件の容疑者で、しかも警官に狙撃されて亡くなった。トモコさんはそんな壮絶な過去を背負っている人だったのか。
 
「おっ、あれベンツよね?」
 喫茶店の入口前に来た所でマリの足が止まった。
 危うくぶつかりそうになり、僕は後ろで立ち止まる。
 マリの視線の先を辿ると、駐車場の奥に黒塗りのベンツがあった。
 マリはセミロングの髪を揺らして駐車場へ走る。
「ちょっと見てきましょうよ」
「あっ、マリ」
「ちょっと、マリ」
 僕とユリは遠ざかっていくマリの背中を追いかける。
「おー、やっぱり左ハンドルね」
 僕らが追いついた頃、マリは運転席の窓の前で車内を覗き込んでいた。黒い車体が春の日射しを反射して輝いている。
「マリ、あんまりジロジロ見たら失礼だよ?」
「いいじゃない。持ち主ってどんな人かしらね?」
「そんな事より早くお店に入るよ。トモコさん達、待ってるかもしれないんだから」
「分かったわよ」
 ユリの予想通り、トモコさん達は先に来て待っていた。四人の男女がソファーで談笑している。既に注文の品々が届けられたらしく、テーブルの上にディーカップが並んでいる。
 僕らは足早にテーブルへ向かい、三人並んで向かいのソファーに座った。
「すいません。マリがベンツ見てて遅くなってしまって」
「あっ、あれ僕のですよ」
 ユリが頭を下げて謝罪すると左端の男性が挙手をした。
「へぇ、貴方のなの? 何か意外ね」
「バイクも好きなんですけどね。やっぱり車もいいですよ」
「おっ、バイク持ってんの?」
「はい。持ってますよ」
「色は何色?」
「黒ですよ。マリさんもバイクお好きなんですか?」
「そうよ。だって、あたしは疾風のバイカーだからね」
「マリさんのバイクはどんなのですか?」
「あたしのは赤よ。ストリームっていう格好いいやつよ」
「そうだ、自己紹介がまだでしたね。僕は田口ヤストシ。こいつが桜井カズユキ。この子が山下アケミちゃんです」
「どうも」
「初めまして」
 田口さんが手をかざして紹介すると、桜井さんと山下さんは会釈をした。
 僕は正面に座る桜井さんの顔を観察する。この人がトモコさんの彼氏の桜井さんか。色白で優男風の王子様系だ。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 自己紹介が終わった頃、ウエイトレスのお姉さんが僕らのテーブルへやって来た。
「私は紅茶をください」
「あたしも紅茶にするわ」
「僕はホットコーヒーをお願いします」
 ウエイトレスのお姉さんは注文を復唱した後、足早に厨房へ戻っていった。
「いやぁ、すごいな。本物の双子探偵ユリ・マリだ」
 田口さんは目を輝かせてユリとマリの顔を交互に見比べている。
「あれ? 田口、知ってる人なのか?」
「おい、桜井。お前、知らないのか? ユリさんとマリさんは数々の難事件を解決されてる名探偵だぞ」
「そうなのか? 知らなかったよ」
「トモコちゃん、ユリさんとマリさんに依頼して大正解だよ。お二人の手に掛かればストーカーなんて、あっという間に捕まるよ」
「うん。そうだよね」
 僕らのテーブルに注文の品々が届けられた頃、田口さんがコーヒーカップを傾けながら口を開いた。
「そういえばユリさんって銃の腕前がすごいんですよね?」
「いえ、そんな」
 ユリはティーカップをテーブルに置いて首を横に振って謙遜する。
「実は僕も銃やライフルを撃てるんですよ」
「田口さんも銃をお持ちなんですか?」
「大学の頃、クレー射撃をやってたんですよ。だから今でもガンマニアで」
「ところで皆さんはストーカーについて心当たりはございませんか?」
「いえ、ありませんね」
「私も別にないですよ」
「僕もこれといってないですね」
 桜井さんも山下さんも田口さんも口を揃えて首を横に振る。
「桜井さんの所には脅迫状は送られてないんですか?」
「僕の方は何もないですよ」
「無言電話や嫌がらせめいた事もありませんか?」
「はい。全く無いですね」
「一応、皆さんの携帯番号を教えていただけますか?」
「いいですよ」
「ちょっと待ってください」
「分かりました」
 三人は同時にポケットに手を入れたり、鞄を開けたりした。
「あっ、そのキーホルダー」
 ユリの視線は田口さんの鞄に注がれていた。鞄の金具に犬のキャラクターのキーホルダーがぶら下がっている。
「これがどうかしたんですか?」
「私もそのワンちゃん、好きなんですよ。田口さんもお好きなんですか?」
「そうなんですよ。男の僕が付けてたら変ですかね?」
「いえ、そんなことないですよ」
「そうですか? たまに似合わないから外せ、とか冷やかされるんですよね」
「そういえばトモコもそのキャラ好きだったよな?」
「うん。グッズ集めてるよ」
 桜井さんの問い掛けに対して、トモコさんが笑顔で頷く。
「相変わらずラブラブだね。ねぇ、田口君?」
「本当だよね」
 山下さんと田口さんが顔を見合わせて冷やかす。
「もしかして田口さんと山下さんって付き合ってんの?」
「いえ、違いますよ」
 マリの質問に対して、田口さんは苦笑しながら首を横に振った。
「あっ、そんな風に見えます?」
 一方、山下さんは満更でも無さそうに含み笑いを零す。
「何だ、違うのね」
「田口君は好きな子いるもんね」
「へぇ、いるの。会社の人?」
「らしいんですけど、教えてくれないんですよ」
「まあ、その話はいいじゃない」
 田口さんは右手をかざしながら、相変わらず苦笑を浮かべていた。
 喫茶店を出てトモコさん達と別れた後、マリが入口の前でユリに向かって言った。
「さぁ、次は川島さんね」
「うん。電話してみるよ」
 大きく頷くなり、ユリは携帯で電話を掛けた。
「はい。川島です」
「もしもし、ユリです」
「あっ、ユリさん。お久しぶりですね。この間は本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。ケーキまでごちそうしていただいて。今、ご自宅ですか?」
「そうですよ。今日は休みなんですよ」
「それなら今からお邪魔してもよろしいですか? ちょっと伺いたい事があるんですよ」
「ええ、いいですよ。どうぞ」
 
 僕らはソファーで向かい合わせに座り、川島さんと四度目の対面をしていた。川島さんの足下にはブラックが寝そべっている。
「久しぶりだね、ブラック」
 ユリが身を乗り出して左手を振る。ブラックは眠そうに目を瞑ったまま身動き一つしない。
「ユリさん、お話というのは何ですか?」
「トモコさんのことで色々とお聞きしたいことがあるんです」
「トモコさん? 高橋トモコさんのことですか?」
「そうです。川島さんはトモコさんとお知り合いですよね?」
「この間、知り合ったばかりですけどね。彼女がどうかしたんですか?」
「トモコさん、ストーカー被害に悩まされているんですよ。脅迫状がポストに入れてあったそうなんです」
「どんなことが書いてあったんですか?」
「桜井カズユキと別れろ。さもないと恐ろしい事が起きるだろう。そう書いてあったんです」
「桜井カズユキ。確か、トモコさんの恋人ですよね?」
「そうです。何か心当たりとか手掛かりになることはご存知ありませんか?」
「いえ、僕は何も知りませんよ。まだ知り合ったばかりですし」
「本当に何もご存知ありませんか?」
「あれ? もしかして僕を疑ってらっしゃるんですか?」
「いえ、そういう訳ではないんですけど」
「聞きたいことがあるなら何なりと聞いてくださいよ。正直にお答えしますよ」
「では、お言葉に甘えて遠慮無く質問させていただきますね。川島さんは独身ですか?」
「ええ、独身ですよ」
「失礼ですが、彼女さんは?」
「いませんよ。だからといって、僕が彼女に熱を上げていてストーカー行為をしているなんて思わないでくださいよ」
「桜井さんとは面識はありませんか?」
「ありませんよ。彼女から話を聞いただけで会ったことはありませんよ」
 本当にこの人がストーカーなのか? 
 とても悪い人には見えないけど。
 いや、騙されてはいけない。
 人は見かけによらないんだ。
 どんなに人当たりがいい人でも疑ってかからないと。
 
「ユリ、川島さんが働いてるっていう紳士服店にも行ってみない? 何か分かるかもしれないわよ」
 事情聴取を終えてマンションを出た所で、マリが腰に手を当てて提案した。
「そうだね。行ってみようか」
 川島さんの働く紳士服店は閑古鳥が鳴いていた。ハンガーに掛けられた背広の傍を通り抜けてレジへ向かう。ユリはカウンターに立つ背広姿の店員さんに声を掛けた。
「すいません。川島ショウゴさんが働いてらっしゃるのは、こちらのお店ですよね?」
「そうですが、あなた達は?」
「私は白鳥ユリという探偵です」
「探偵? ああ、あの双子探偵の?」
「はい。川島さんの働きぶりはどうですか?」
「真面目にやってくれてますよ」
「最近、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「いえ、特には。川島が何か悪いことでもしたんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど。今、調査している事件の参考にと思いまして」
「まあ、とにかく真面目で優秀な社員ですよ。私も助かってますよ」
 働きぶりは至って真面目か。彼の話を聞く限り、川島さんは悪い人ではなさそうだ。
 やっぱり川島さんはストーカーではないのか?
 
 事務室に入るとユリがソファーに座ってベレッタを弄っていた。
 近づいてくる僕に気がついて手を止めて振り返る。
「あっ、ユウちゃん」
「ベレッタのメンテナンスしてるの?」
 僕は質問をしながら向かいのソファーに腰を下ろす。
「マガジンに弾を入れてるの。これでよしと」
 弾の補充が終わったらしく、ベレッタをテーブルに置く。
「そういえばユリって他の銃も使えるの? ライフルとかマシンガンとか」
「使えるよ。銃は一通り全部」
「へぇ、ユリってすごいんだね」
 ユリがライフルを構える姿を想像していると電話が鳴った。ソファーから立ってデスクへ歩いていき、電話機のディスプレイを覗き込む。表示された名前はカイドウケイブ。受話器を取り上げて喋り出す。
「もしもし、ユウキです」
「ユウキ君、殺人事件だよ」
「誰が殺されたんですか?」
「柳沢ヒロシさん。最高裁判所の判事だよ」
「場所はどこですか?」
「柳沢判事の自宅だよ。帰宅後、車を降りた所を射殺されたようでね。これはかなり銃の腕に長けた人物による犯行だよ」
「テロですかね?」
「詳しい事はまだ分からないがね。すまないが、またユリ君とマリ君の力を貸してくれないかい?」
「分かりました。今から向かいます」
 
 柳沢判事の遺体は車の横で俯せになって倒れていた。灰色の背広を着た背中の左上がどす黒い血で染まっている。
「おっちゃん、死亡推定時刻は?」
「七時から八時頃だね」
「第一発見者は誰なの?」
「柳沢ケイコさん。柳沢判事の奥さんだよ」
「奥さんとは話したの?」
「いや、まだ詳しい話は何もしてないよ」
「話せるような状態?」
「気丈に振る舞ってらっしゃるようだけどね。話は出来る様子だよ」
「じゃあ、お邪魔しましょう」
 僕らは柳沢家のリビングのソファーで差し向かいに座ってケイコさんと対面していた。海堂警部は神妙な面持ちで、お悔やみの言葉を掛ける。
「この度はとんだ事で」
「まだ信じられません……」
 ケイコさんは沈痛な面持ちで俯いて唇を噛み締める。今にも溢れそうな涙を堪えるように。
「お辛いとは思いますが、犯人逮捕の為にもお話をお聞かせください」
「はい。分かりました……」
 海堂警部が頭を下げて依願すると、ケイコさんは決意に満ちた顔で頷いた。
「奥様はどういう状況で発見されたのですか?」
「銃声が聞こえて飛び出していったんですよ。そうしたら主人が倒れていて……」
「犯人の姿は見てませんか?」
「姿は見てませんけど車なら見ましたよ」
「本当ですか? どんな車でしたか?」
「黒い車でしたね」
「車種は分かりますか?」
「すいません。車には疎いので分かりません」
「普通の乗用車ですか? ワゴンではなくて」
「ワゴンではありませんでした。普通の車です」
「ナンバープレートは見てませんか?」
「それも見てません。玄関から少し見ただけなので」
「ところで柳沢判事から何か伺ってませんか? 身の危険を感じていたとか、後を付けられていたとか」
「いいえ、そういった事は聞いておりません」
「車の中の物で何かなくなっている物はありませんでしたか?」
「私の知る限りではありませんでしたよ」
 ケイコさんの事情聴取を終えた後、僕らは近所の家を回って聞き込みを行った。だけど結果は芳しいものではなかった。銃声を耳にした人は何人もいたけど、それ以上の情報は出てこなかった。僕らは意気消沈しながら柳沢判事の自宅前に戻ってきた。
「しかし黒い車というだけでは捜査のしようがないね」
 海堂警部はパトカーの前で夜空を仰ぎながら溜め息混じりにぼやく。
「黒い車、そういえば……」
「あっ、そうよ……」
「どうしたんだい? 君達、誰か心当たりがあるのかい?」
「はい、田口さんという方です。最近、依頼を通じて知り合った方なんですよ。その方の車、黒のベンツなんです」
「しかも銃の腕前もかなりの物らしいのよ。大学でクレー射撃やってたらしくてね」
「それは是非、会って話を聞いてみないとね。よし、その田口さんの家に行こうか」
 
 田口さんの家の前には若い男がいた。背中を丸めてバイクを眺めている。
「あの人、何してるのかな?」
「怪しいわね。声を掛けてみましょう」
 不審人物と判断したらしく、マリは大股で男へ接近していった。
「ちょっと、あんた何してんのよ?」
「えっ? いや、その……」
 マリが背中に声を掛けると男が振り返った。目を逸らしたり、顔を伏せたりして酷く狼狽している。
「まさか、このバイク盗もうとしてるんじゃないでしょうね?」
「違いますよ。見てるだけですよ。僕、バイクが好きなんですよ。だから、いつもここを通りかかる度に見ちゃうんですよ。このバイク、すごく格好いいから」
「へぇ、そうなの。まあ、バイク好きとしては分かるわよ」
「ですよね? 貴女もバイクが好きなんですか?」
「そうよ。でも、あんまり長居しない方がいいわよ」
「そうですね。そろそろ帰ります」
 マリの忠告を素直に聞き入れて、男は歩き去っていった。男が曲がり角の向こうに消えた頃、ユリが問い掛けた。
「マリ、いいの? 逃がしちゃって」
「いいわよ。ほんとにバイク見てただけみたいだし。行きましょう」
 マリが入口の扉へ歩いていく。僕とユリが追いついた頃、マリはチャイムを鳴らした。
「あれ? ユリさん達じゃないですか」
 玄関から顔を出すなり、田口さんは目を丸くした。僕らの来訪は意外だったようだ。これが演技でなければの話だけど。
「どうしたんですか?」
「ちょっと、お話がありましてね」
「えっと貴方は?」
「私はこういう者です。海堂と申します」
 海堂警部は胸ポケットから警察手帳を取り出し、田口さんの眼前に突き出した。
「田口さん、上がらせていただけますか?」
「ええ、まあどうぞ」
 僕らはリビングのソファーに腰掛けて、田口さんと四対一で向かい合っていた。海堂警部は背中を丸めて、田口さんへ鋭い眼光を放つ。
「田口さん、貴方は大学の頃クレー射撃をやってらしたそうですね? それに筋金入りのガンマニアで銃もお持ちだと」
「そうですけど、それが何か?」
「実はですね、さっき射殺事件があったんですよ」
「射殺事件? 誰が殺されたですか?」
「柳沢判事という最高裁判所の裁判官です。ご存知ありませんか?」
「待ってくださいよ。まさか、その事件の犯人が僕だと思ってらっしゃるんですか?」
「そこまでは言ってませんよ。ただ興味深い目撃証言がありましてね。現場から逃走した不審車が目撃されているんです。その車の色が黒だったらしいんですよ」
「ナンバープレートや車種は?」
「そこまでは判明していません」
「勘弁してくださいよ。たった、それだけの事で僕を犯人扱いされるんですか?」
「いえ、それだけではありませんよ。貴方は銃をお持ちだという話を小耳に挟んだので」
「確かに銃は持ってますけど」
「ちょっと見せていただいてもよろしいですか?」
「ええ、いいですよ」
「どこにあるんですか?」
「あそこの金庫に仕舞ってありますよ」
 田口さんはソファーの上で体を捻って後方に見える黒い金庫を指差す。
「鍵を貸していただけますか? 私が開けますから」
「分かりましたよ。待ってください」
 田口さんは立ち上がるなり、タンスの引き出しを開けた。鍵を出して戻ってくる。
「どうぞ」
「どうも」
 海堂警部は鍵を受け取って腰を上げて金庫へ歩いていく。僕らも後を追っていき、金庫を開ける海堂警部を背後で見守る。
「これは……」
 海堂警部の背中越しに覗き込むと金庫の中に銃が仕舞ってあった。
 海堂警部は片膝を着いた姿勢のまま硬直している。背中を向けているから表情は見えないけど、声から察するに驚きに満ちた顔をしているに違いない。
「田口さん、この銃はグロッグ26アドバンスですね?」
「そうですよ。グロッグは銃の中でも特に好きなんですよ」
「実は暗闇の狙撃手の使っている銃もこいつなんですよ」
「暗闇の狙撃手? 誰ですか、それは?」
「いわゆる殺し屋ですよ。凄腕のガンマンです」
「殺し屋? 殺し屋なんて本当にいるんですか?」
「それがいるんですよ。実際、暗闇の狙撃手の関与が疑われる射殺事件がこれまで何件か起きているんですよ」
「何か信じられないですね。フィクションの世界のような話ですね」
「ちなみに、この銃を購入されたのはいつ頃の事ですか?」
「三年前ですね。ずっと欲しかったので、やっと買えて嬉しかったのをよく覚えてますよ。でも、別にその銃で暗殺した事なんてありませんよ。趣味と護身用に持ってるだけですから」
「では、念の為に硝煙反応を調べさせていただきますよ?」
「好きにしてくださいよ。それで僕の疑惑が払拭されるのなら、いくらでも協力させていただきますよ」
「それでは台所の方でお願いします」
 田口さんと海堂警部はすぐにリビングへ戻ってきた。開口一番、マリがソファーの上で首を伸ばして尋ねる。
「おっちゃん、どうだった?」
「出なかったよ」
「出る訳ないですよ。だって僕は銃なんて撃ってないんですから」
「ところで田口さん。今晩はどちらで何をされてましたか?」
「アリバイですか。ファミレスで独り寂しく晩ご飯を食べてましたよ」
「お店に入ったのは何時頃ですか?」
「確か七時前後でしたね」
「出たのは何時頃ですか?」
「一時間くらいで出たから八時頃ですね」
「そのお店はどちらにあるんですか?」
「すぐ近くですよ。ここから車で十分もかからないくらいの」
「本当にそこでお食事をされていたんですね?」
「そんなに疑うのなら店に行って防犯カメラを見せて貰ってくださいよ。間違いなく僕が映ってるはずですよ」
「もちろん、そうさせていただきますよ。言われるまでもなくね」
 田口さんへの事情聴取を終えるや否や、僕らは問題のファミリーレストランへ直行した。
 海堂警部が事情を説明すると、店長の男性は控え室に通してくれた。僕らは突っ立ったまま、防犯カメラのモニターを見ていた。
 モニターに映っていたのは紛れもなく田口さん本人だった。何を食べているのかまでは見えないけど、両手にナイフとフォークを持って食事をしている。
「確かにこれは田口さんだね」
 海堂警部はモニターを眺めながら呟いた後、背後に立つ店員のお姉さんに聞いた。
「貴女が田口さんに料理を運んだのですね?」
「はい。私がお持ちしました」
「田口さんは七時頃に来店されて、それから八時までこちらにいらっしゃったと」
「そうです。このカメラに映っている通りですよ」
「これでアリバイが証明されましたね」
「田口さんの話していた通りね」
「確かに、これは鉄壁のアリバイだね」
 アリバイ成立か。そうなると田口さんは暗闇の狙撃手ではないのか?
 
「ねぇ、ユリ・マリ。柳沢判事の事件って何か動きはないの?」
 朝食の時、僕は気になったので話を切り出した。ユリとマリがトーストを両手に持ったまま僕に顔を向ける。
「うん。何もないね」
「あったら、あんたにも話してるわよ。一応、助手なんだし」
「やっぱり黒い車っていうだけじゃ探しようがないのかな?」
「そうだね。せめて車種が分かればいいんだけどね」
「まあ、その車が事件と関係あるって決まった訳じゃないけどね」
「ユリ、今日何日だっけ?」
「今日? 今日は四月六日だよ」
 真っ白な皿に散乱した茶色いパン屑を見つめながら僕は考える。
 やっぱり田口さんは事件とは無関係なのか? 真犯人は別にいるのか?
 食べかけのトーストを皿に置いた時、電話のベルが響いてきた。
「あっ……」
「もしかして……」
「噂をすれば、ってやつかしら?」
 僕もユリもマリも期待に満ちた視線を向ける。僕らは食卓を立って事務室へ駆け込んでいった。
 僕が事務室に足を踏み入れた時、ユリはテスクの前に立って受話器を取っていた。
「はい。白鳥ユリ・マリ探偵事務所です」
「あっ、あの……」
 僕らの予想に反して聞こえてきたのはトモコさんの声だった。緊張しているというよりは恐怖に怯えているように聞こえる。
「何かあったんですか?」
「ケンが殺されたんです……」
「あの犬のケンですか?」
「はい。朝、見たら血を流して倒れてて……」
「警察へは通報されたんですか?」
「さっき現場検証が終わって帰られた所です。それとまたポストの中に脅迫状が入ってたんですよ」
「トモコさん、今ご自宅ですか?」
「はい。家にいますよ」
「今からそちらに伺いますね」
 
 ケンはトモコさんが電話で話していた通り、血を流しながら地面に横たわっていた。刃物でめった刺しにされたのか、茶色い体に無数の傷跡が生々しく付いている。
「うわっ……」
「酷いわね……」
 そんなケンの変わり果てた姿を目の辺りにして、ユリもマリも揃って顔をしかめる。
「トモコさん、脅迫状を見せていただけますか?」
「はい。これです」
 トモコさんはスカートのポケットから脅迫状を出してユリに手渡した。
「俺は本気だ。早く桜井カズユキと別れろ。取り返しのつかない事になる前にな……」
 ユリが脅迫状の文章を読み上げる。前回同様、真っ赤な字で印刷されている。
「相変わらず気持ち悪いやつね」
 マリが眉間に皺を寄せて吐き捨てる。
「トモコさん、御両親は中にいらっしゃいますか?」
「はい。いますよ」
「上がらせていただいてもよろしいですか? 御両親にもお話を伺いたいので」
「ええ、どうぞ」
 高橋家の敷居を跨いだ僕らはリビングのソファーで三人と対面していた。ユリがすぐに事情聴取を開始する。
「トモコさん、ケンの死亡推定時刻は何時頃ですか? 警察の方から聞いてませんか?」
「えっと、一時から二時頃とおっしゃってましたよ」
「夜中に外から物音は聞こえてきませんでしたか?」
「いえ、昨日は疲れて熟睡していたので分かりません。朝までずっと寝ていたので」
「トシオさんとケイコさんは?」
 ユリが高橋夫妻に問い掛ける。二人も眠っていたのかと思いきや、トシオさんが予想外の返答をした。
「そういえば怪しいやつを見かけたよ。夜中の二時頃、トイレに立ったんだけどね。その時、庭から足音が聞こえたから様子を見に行ったんだ。そうしたらバイクの音が聞こえたんだよ。もしかしたら、あいつが犯人かもしれないよ」
「その人の姿は見えましたか?」
「暗くて何も見えなかったよ。男か女かも分からなかったよ」
「バイクの色も見えませんでしたか?」
「見えなかったよ。もう少し早くトイレに行ってれば見られたかもしれないのにね」
「その時、ケンはご覧になったんですか?」
「いや、見なかったよ。まさか、あんな事になっているとは思わなかったからね」
 バイクで走り去った不審人物か。トシオさんの言う通り、その人物が犯人なのか?
「君達は名探偵なんだろ? それならストーカーくらい捕まえるのは訳ないだろ?」
「簡単にはいかないとは思いますが、もちろん最大限の努力はさせていただきます」
「頼むよ。どうせ警察なんて当てにならないんだからね」
「警察を恨んでらっしゃるんですか?」
「当たり前だよ。こっちは息子を殺されてるんだ」
「でも、あれは人質の命を守る為に」
「何だい? 君は警察の肩を持つのか?」
「いえ、そういう訳では」
「聞いた話だがね。カズヤを追いかけ回していた二人は今でも刑事を続けてるらしいんだよ。全く、人の息子を殺しておいて」
 そうか。やっぱり今でも刑事として働いているのか。僕らの知っている人だろうか? それとも知らない人だろうか?
「検挙率だって下がってきているし、冤罪も時折あるからね。やっぱり警察なんて碌な所じゃないよ。
 ストーカーに射殺事件か。本当に物騒な世の中になったものだよ。それもこれも全て警察が不甲斐ないからだね。だから犯罪が横行するんだ。
 どうせ犬が殺されたくらいでは碌に捜査なんてしてくれないんだろうね。あいつらは取り返しのつかない事になるまで何もしないからね」
 トシオさんは眉間に皺を寄せて、警察への敵意と不満をぶちまけていた。
 高橋家を出た後、僕らは門の前で輪になっていた。ユリとマリが門の向こうに視線を送っている。
「トモコさんのお父さん、すごく警察を敵視してるみたいだね」
「無理もないわよ。息子の事があるんだから」
「次は川島さんのマンションに行かないとね」
「そうね。また話を聞きに行きましょう」
 
 前回と同じように、僕らはテーブルを挟んで川島さんと対面していた。川島さんは胸を反らして話を促す。
「それで今回はどういったご用件ですか?」
「トモコさんの愛犬が殺されたんですよ」
「犬を? 酷い事をする人がいるものですね……」
「この事件、例のストーカーの仕業だと思うんですよ」
「何か根拠がおありなんですか?」
「今回も脅迫状が投函されていたんですよ。トモコさんの自宅のポストに」
「それで、また僕の所へやって来たという訳ですか。どうぞ、何でも聞いてください」
「昨日の午前二時過ぎはどこで何をされてましたか?」
「午前ですか? そんな時間なら寝ていたと思いますけど」
「お一人でですか?」
「もちろん、そうですよ。独り暮らしですから」
「一歩も部屋から出てませんか?」
「あっ、そうだ。外には出ましたね」
「どちらへ行かれたんですか?」
「外の自販機までジュースを買いに行っただけですよ。犬を殺す為にトモコさんのご自宅へ行ったりはしてませんよ」
「すぐに戻ってこられたんですか?」
「ジュースを買ってすぐに部屋へ戻りましたよ。エントランスのカメラに僕が映っているはずですよ」
「分かりました。後で確認させていただきます」
 ユリが頷いて話が一段落すると、川島さんはテーブルに手を伸ばして煙草の箱を取った。
「すいません。また煙草、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「では失礼します」
 川島さんは箱から煙草を抜いて口に咥えてライターで火を付けた。旨そうに煙を吐き出した後で思い出したように尋ねる。
「そうだ。そういえば、あの射殺事件ってどう思います?」
「柳沢判事の事件の事ですか?」
「そうです。あの事件の犯人って誰だと思いますか?」
「実は一人有力な容疑者がいるんですよ」
「本当ですか? 誰ですか?」
「田口さんという男性です。ガンマニアで大学の頃はクレー射撃をやってらした方なんです。しかも、グロッグ26アドバンスを持っているんですよ」
「グロッグ? それ、何ですか?」
「銃の名称です。実は暗闇の狙撃手の愛銃もその銃なんですよ」
「暗闇の狙撃手というのは、この前お話されていたあの殺し屋ですか?」
「ええ、そうです」
「その田口という人はどういったお仕事をされているんですか?」
「会社員の方です」
「会社員ですか。まあ殺し屋だって表では普通に生活しているでしょうね。まさか、殺し屋ですと公言する訳にもいかないでしょうから。それで、その彼がグロッグという銃を所持していたと?」
「この間、田口さんのご自宅へ事情聴取に訪れたんですよ。そこで見せて貰ったんです」
「それはますます怪しいですね。硝煙反応は調べたんですか?」
「もちろん調べました。でも出なかったんですよ」
「何かトリックがあるんですかね? 硝煙反応が出ないようなトリックが。何か方法は無いんですか?」
「そうですね。工夫すれば出来るとは思いますけど」
「きっと何かトリックがあるんですよ。まるで推理小説に出てくるようなトリックが」
「でも田口さんには鉄壁のアリバイがあったんですよ。ファミリーレストランの防犯カメラに映っていたんです。犯行時刻に田口さんがそこでお食事をしている姿が」
「それも何かトリックがあるんじゃないですか? 例えば別人が変装しているとか。あるいは店員が共犯者で防犯カメラに細工が施されているとか。いや、さすがに考え過ぎですかね?」
「アリバイトリックですか。絶対に無いとまでは言い切れないですけど」
「あるいはもしかして共犯者がいるんですかね?」
「どうですかね。そこまではまだ分かりませんけど」
「ところで現場で何か手掛かりはなかったんですか?」
「柳沢判事の奥様が不審な黒い車を目撃したと証言されてましたね」
「他には?」
「いえ、それだけです」
「そうですか。それだけでは何ともならないんでしょうね」
「そうなんですよ。もっと手掛かりがあるといいんですけどね」
「でも銃って恐いですよね。物理的接触が無い分、抵抗感なく殺せてしまうのですかね?」
「ええ、そうかもしれませんね」
「何だか信じられないですね。身近な所でそんな恐ろしい事件が起きているなんて」
 川島さんはテーブルに顔を伏せて、強張った顔で溜め息をついていた。
 管理人のおじさんに事情を説明した結果、あっさりとカメラを見る許可を得る事が出来た。そんな訳で僕らは管理人のおじさんの部屋でモニターを見ていた。
 本人の話していた通り、映像には川島さんが映っていた。エントランスから出て、すぐに戻ってきている。
「やっぱり、すぐ戻ってきてるね」
「たったの二三分ね」
「ここからトモコさんの家までは車で三十分はかかるよね」
「そうね。てことは犯行は不可能ね」
 アリバイ成立か。やっぱり川島さんは事件とは無関係だろう。
 
「酷いよな……」
「まさかケンを殺すなんて……」
「最低だよね……」
 喫茶店に顔を揃えた面々は口々に卑劣な犯行を批難していた。桜井さんも田口さんも山下さんも顰め面を浮かべて不快感を滲ませている。
「でもトモコちゃんが無事で何よりだよ」
「本当だよね。トモコに怪我が無くて良かったよ」
「うん。でも……」
 田口さんと山下さんが暖かい言葉を掛けたけど、トモコさんは顔を伏せて言葉を濁した。愛犬を失ったショックは大きいようだ。
 田口さんはテーブルに右腕を置いて、身を乗り出して話を切り出す。
「ところでユリさん。庭に手掛かりになるような物はありませんでしたか?」
「ありませんでしたね。何も落ちてませんでしたし、足跡もありませんでした」
「やっぱり、推理小説みたいに都合の良い手掛かりは残ってないものですね。川島という人はどうだったんですか?」
「川島さんにはアリバイがあったんですよ。外には出ていたんですけど、すぐに戻ってきていたんです。エントランスの防犯カメラに映っていたんですよ」
「やっぱり、その川島という男は犯人ではないんですかね?」
「アリバイがあるので、少なくとも直接犯行に及んでいるという可能性はありませんね」
「でも、もしかしたら共犯者がいるかもしれないですよね?」
「はい。その可能性も含めて、もう少し調査してみます」
「とにかく誰であろうとこんな幼稚な事するやつは許せないな」
「本当だよ。こんな事する男って最低だよ」
 桜井さんと山下さんが怒りを露わにした直後、田口さんが興味深い言葉を言い放った。
「いや、アケミちゃん。男とは限らないんじゃないかな?」
「えっ? 女が犯人って事?」
「そう。桜井の事を好きな女の子が妬んでやってる可能性もあるでしょ?」
「そっか。そう言われればそうだね」
「ユリさん、マリさん。どうです? 女が犯人だっていう可能性は?」
「そうですね。田口さんの言う事も一理あると思います」
「そうね。無いとは言い切れないわね」
「桜井、トモコちゃん。女の子で心当たりはないの?」
「いや、女の子でも男でもないよ」
「私もないよ」
「でも二人が知らないだけでさ。桜井の事を密かに想ってる子がいるかもしれないよ」
「だよね。桜井君、モテるし」
「そんな子、いないと思うけどな」
 山下さんがテーブルに頬杖を突いて冷やかしの笑みを向ける。桜井さんは苦笑しながら首を傾げる。
「あとは僕らの全く知らないやつが犯人っていう、そういう可能性もあるよね」
「でもさ、田口君。その知らない人は何で桜井君の名前まで知ってるのかな?」
「それは何かで調べたんじゃないの? トモコちゃんの名前だって知ってるんだし」
「ああ、そっか。そうだよね」
「整理するとこういうことだよね。一つ目は川島に共犯者がいて、そいつに犯行をやらせているという可能性。二つ目は川島とは無関係な人間が犯人である可能性。このどちらかだね」
 田口さんは右手の人差し指と中指を立てて推理をまとめる。
「田口君、頭の回転早いね」
「田口君、推理小説とか好きだもんね」
「いや、それ程でもないって」
 トモコさんと山下さんに誉められて、田口さんは気恥ずかしそうに頭を掻く。
「そういえばトモコちゃん。また脅迫状が送られてきたんだよね? 何て書いてあったの?」
「えっと、俺は本気だとか。早く別れないと取り返しの付かない事になるとか。そんな感じだったよ」
「うわっ、気持ち悪いね……」
「ほんと、キモイよね……」
 田口さんと山下さんが一緒になって嫌悪感に顔を歪める。
「トモコちゃん、気を付けてよ。帰りも人通りの多い場所を通って帰った方がいいよ」
「うん、そうするよ。田口君、何か色々とありがとね」
「いや、別にそんな」
 トモコさんにお礼を言われて、田口さんは再び照れ臭そうに頭を掻いた。
 店内に流れる歌が終わり、一瞬の静寂が訪れた時。桜井さんが新たな話題を投下した。
「そういえばさ、田口。お前、警察に事情聴取を受けたんだって?」
「そうそう。この前、受けたよ」
「何で? お前、何か悪い事でもしたの?」
「俺さ、暗闇の狙撃手だと思われてるんだよ」
「暗闇の狙撃手? 何だ、それ?」
「そういう異名を持つ殺し屋がいるらしいんだよ。俺もこの前、知ったばかりなんだけど」
「それで、その殺し屋がどうかしたのか?」
「この前、最高裁の判事が射殺された事件があっただろ? あの事件の犯人が暗闇の狙撃手で、しかもそれが俺だと思われてるんだよ」
「そうか。それで事情聴取を受けたのか」
「無理もないよな。俺、グロッグ持ってるんだし。しかも、その暗闇の狙撃手の使ってる銃もグロッグらしいんだよ」
「なるほどな。だから、お前が疑われてるのか」
「そうなんだよ。俺にはアリバイがあるのにさ」
「アリバイ? どこにいたんだ?」
「ファミレスで食事してたんだよ。ちゃんと防犯カメラにも映ってたんだって」
「良かったな。防犯カメラのある場所にいて」
「あと、あれ。硝煙反応も調べられたぞ」
「それで、どうだったんだ?」
「もちろん出る訳ないよ。だって銃なんて撃ってないんだからさ」
「それもそうだよな」
「本当にあの刑事さん、疑り深いんだよ。まあ、疑うのが仕事だから仕方ないんだろうけど」
「あの刑事さんって?」
「海堂って人だよ。恐い顔した人でさ。ねぇ、ユリさん? あの人、恐いですよね?」
「いえ、根は優しいおじさんなんですよ」
「何か笑えるな。田口が殺し屋な訳ないのに」
「そうだよ。こんな地味な殺し屋いないって」
「あのさ、二人とも。フォローしてくれてるのか貶してるのか、どっちなの?」
「いや、フォローしてるんだよ」
「うんうん。田口君は虫も殺せないような人って事だよ」
「大体さ、俺が殺し屋だったらもっと贅沢な生活してるって。何せ、報酬っていう副収入があるんだからさ」
「そうだよな。田口って結構、質素な生活してるもんな。車はベンツだけど」
「だよね。コンセントを小まめに抜く殺し屋なんていないよね」
「アケミちゃん、節電の基本だよ? 塵も積もれば山となるだよ」
「田口は誰がその暗闇の狙撃手だと思うんだ?」
「そんなの知らないよ。大体、この前までそんな人の存在すら知らなかったんだからさ」
「ああ、そうか。でも誰なんだろうな?」
「どうかな? たぶん男だとは思うけど」
「いや、意外と女だったりしてね」
「アケミちゃん、それは無いんじゃないかな?」
「分かんないよ。女の殺し屋だっているかもしれないよ。男女平等の時代なんだし」
「いや、そういう問題じゃないと思うけどな」
「女だよ。実は暗闇の狙撃手は女なんだよ」
「あっ、もしかしてアケミちゃんが暗闇の狙撃手なの?」
「ふふっ、実はそうなのさ。あたいが暗闇の狙撃手なのさ」
「あたいって。一人称、あたいなの?」
「その方が何か殺し屋っぽいでしょ?」
「それ、殺し屋っていうか昔のヤンキーみたいだよ」
「でも、その暗闇の狙撃手って人さ。普段は普通の仕事してるのかな?」
「そうなんじゃない? やっぱり表の顔っていうのはあるんじゃない?」
「だよな。職業欄に殺し屋って書く訳にもいかないしな。でもさ、意外に身近な所にいたりしてな」
「えっ? 何で?」
「いや、ただの当てずっぽだよ。言ってみただけ」
 桜井さんは頭を振ってから、ティーカップを持ち上げてコーヒーを飲んだ。
 暗闇の狙撃手の正体か。やっぱり田口さんが暗闇の狙撃手なのか?
 でも田口さんにはアリバイがあった。だから田口さんに犯行は不可能だ。
 そうなると、やっぱり僕らの全く知らない誰かなのか?
 そもそも暗闇の狙撃手は男なのか?
 山下さんの言うように、もしかして女なのか?
 一体、暗闇の狙撃手の正体は誰だ?
 
 午後八時過ぎ、僕らは事務室に集まって夕食後の一時を過ごしていた。
「うーん、何か可愛い服ないかしらね?」
 マリはデスクの前でパソコンと睨めっこして、マウスを動かしながらネットの海を漂っている。
 また通販で服を買うつもりらしい。
 僕とユリはソファーで向かい合わせに座り、とりとめのない雑談に耽っている。
 何となく気になったから僕は質問してみた。
「あのさ、ユリ。この前、ライフルとマシンガンも使えるって言ってたよね?」
「うん。使えるよ」
「ライフルでさ、すごく遠くにある物に当てたりする事も出来るの?」
「うーん、距離にもよるかな。一キロ以内だったら何とか出来るよ」
「そっか。ユリってすごいんだね……」
「えへっ、ユウちゃんに誉められちゃった」
「マシンガンってさ、あれすごく重そうだよね」
「うん。結構、重いよ。大体、八キロから十キロくらいかな」
「そんなに重いのに持てるんだ?」
「うん。慣れれば持てるよ」
 ユリが頷いて答えた時、デスクの上で電話が鳴り響いた。
「あっ、おっちゃんからよ」
 マリが顔を近づけてディスプレイを覗き込んでいる。電話の相手は海堂警部らしい。
「また何か事件かな?」
「そうかもね」
 僕とユリは緊張で張り詰めた顔を見合わせて呟く。電話機へ顔を戻すとマリが受話器を取っていた。
「もしもし、おっちゃん? 何かあったの?」
「そうだよ。マリ君、また射殺事件だよ」
 僕とユリは同時に息を呑んで、互いに驚愕の表情を突き合わせた。無言のまま、デスクへ視線を戻す。
「今度は誰?」
「原田タケシ、この世界では割と有名な弁護士だよ」
「場所はどこ?」
「今回も自宅だよ」
「住所、教えてくれる? すぐに行くから」
 
 柳沢判事同様、原田弁護士の遺体も俯せの状態で庭先に倒れていた。マリが遺体から顔を上げて海堂警部に問い掛ける。
「ねぇ、おっちゃん。やっぱ暗闇の狙撃手かしらね?」
「今回も一撃で心臓を貫いているからね。その可能性は高いと思うよ」
「第一発見者は誰なの?」
「奥さんのクミコさんだよ。中にいるよ」
「行きましょう」
 和室に案内された僕らは畳の上に正座して、悲しみに打ち拉がれるクミコさんと対面していた。
「大変、お悔やみ申し上げます」
 海堂警部が言葉をかけたものの、クミコさんは口を開く事さえ出来ずに俯いている。
「お話するのは非常にお辛いとは思いますが何卒お願い申し上げます。一刻も早く、憎き犯人を逮捕する為にも」
「はい……」
 クミコさんは掠れる声で返事をして小さく頷いた。
「奥様はどういった状況で、ご主人を発見されたんですか?」
「台所で夕食の支度をしていたら銃声が聞こえたんです。最初は玩具か何かの音だと思って気にも留めていなかったんです。でも、気になったので様子を見に行ったんです。それで外に出たら主人が倒れてて……」
「ご主人の悲鳴は聞こえませんでしたか?」
「聞こえませんでした。声を上げたかどうかも分かりませんけど」
「外に出られた時、周囲に不審人物はいませんでしたか?」
「いませんでした。誰も」
「不審な車もですか?」
「はい。不審車も見当たりませんでした」
「では、それ以前に不審人物や車をお見かけになった事は?」
「そういえば黒い車を二回見かけました」
「黒い車……?」
 海堂警部は顔面蒼白になって身を乗り出す。ユリとマリも息を呑む。きっと考えている事は同じだろう。
「車種はお分かりになりますか?」
「いえ、車は詳しく知りませんので分かりかねますけど」
「ナンバープレートはご覧になりましたか?」
「すいません。そこまでは見てません」
「運転手の姿もですか?」
「はい。見たのは車だけです」
「何か特徴はありませんでしたかね?」
「そういえば左ハンドルでしたね」
「左ハンドル? という事は外車ですね」
 事情聴取を切り上げて原田家を辞した後の事だった。パトカーに乗り込む直前、海堂警部は棒立ちになって虚空を見つめていた。
「柳沢判事と原田弁護士。まさか、この事件……」
「警部さん?」
 
「おっちゃん、どうしたのよ? そんな恐い顔して」
 様子が急変した事に対して、ユリもマリも揃って不思議そうに顔を向ける。
「いや、別に何でもないよ……」
 海堂警部は奥歯に物が挟まったような返答で、苦笑を浮かべて頭を振っていた。
 
 田口さんの家の前にはまたもやあの男がいた。前に会った時と同じく、相変わらず田口さんのバイクに見入っている。
「あんた、また見てんの?」
「あっ、また会いましたね」
「よく飽きないわね。あたしでもそこまではしないわよ」
「そういえば、この前はなかったんですよ。夜中に通りかかったんですけど」
「夜中? それって何日だったのよ?」
「えっと、あれは六日ですね。眠れなくて小腹が空いたから、コンビニに出掛けたんですよ。途中でここを通りかかった時に見たらバイクがなかったんですよ」
「ふーん、そうなの」
「さぁ、泥棒に間違われる前に帰りますよ。では」
 男は右手を挙げてから立ち去っていった。入口の扉へ歩いていき、マリがチャイムを押す。
「あれ? またですか」
 田口さんは虚を突かれたような顔で僕らを出迎えた。迷惑だというよりは純粋に驚いているようだ。
「田口さん、またお話を伺わせていただけますか?」
「どうぞ、警部さん。ユリさん達も上がってくださいよ」
 僕はテーブルの向こうに座る田口さんの表情を観察していた。さっき人を銃殺したばかりにしては落ち着いているように見える。
 本当にこの人が暗闇の狙撃手なのか? 平気で人を銃殺するような殺し屋なのか?
 とてもそんな人には見えない。だけど人は見かけに寄らないから。
 僕が疑惑と葛藤に揺れる中、田口さんは身を乗り出して海堂警部に問い掛けた。
「それで今回はどういったご用件ですか?」
「また射殺事件が起きてしまったんですよ」
「また? 今度は誰が?」
「原田という弁護士の方ですよ。ご存知ありませんか?」
「いえ、知りませんよ」
「田口さん、実は今回も不審な車が目撃されたんですけどね。その車の色が黒で、しかも左ハンドルだったらしいんですよ」
「それはどなたの証言ですか?」
「原田弁護士の奥様です。彼女が目撃したんですよ」
「その不審車が僕のベンツだと、そう仰有りたい訳ですか?」
「違いますか?」
「左ハンドルというだけですよね? 別にベンツという確証はないんですよね?」
「まあ、そうですけどね」
「だったら別の外車かもしれないじゃないですか。フェラーリとかポルシェとか。何も外車はベンツだけではないですよ」
「念の為、お車を調べさせていただいてもよろしいですか?」
「いいですよ。別に怪しい物は何もありませんけどね」
 田口さんの黒いベンツを調べるべく、僕らは外に出で庇の下に集まった。
 海堂警部が洗剤のような容器片手にベンツの車内を動き回っている。硝煙反応を調べているらしい。
 海堂警部が車内から出てくるなり、田口さんは結果を尋ねた。
「どうでしたか?」
「硝煙反応は出ませんでしたね」
「不審物もなかったですよね?」
「何も見当たりませんでしたね。トランクも見せていただけますか?」
「いいですよ。今、開けますね」
 田口さんは鍵を差し込んでトランクを開けてくれた。海堂警部が顔を近づけてトランクの中を覗き込む。
「別にカー用品しか入ってないですよ。ご覧の通りね」
 田口さんの言葉通り、トランクの中にはワックスやスプレーしか入っていない。
「そのようですね」
「それはそうですよ。僕は銃なんて撃ってないし、悪事なんて働いてないんですからね」
 田口さんはトランクを閉めて鍵を掛けると、勝ち誇ったように両手を広げた。
「あと、お車の写真を撮らせていただいてもよろしいですか?」
「好きなだけ撮ってくださいよ。その写真を使って逃走車を目撃した人がいないか聞き込みをするんですよね? でも無駄だと思いますよ。だって僕は善良な一般市民ですから」
 海堂警部がカメラ片手にシャッターを切る。ボンネット側から横からトランク側から。ベンツの周囲を歩き回り、様々な角度から撮影する。暗闇の中で断続的にフラッシュが光る。
 写真の撮影が済んだ頃、田口さんが声を低くして喋り出した。
「そういえば海堂さん。この間、射殺されたのは裁判官でしたよね?」
「ええ、最高裁の柳沢判事ですよ」
「それで今回が弁護士の人ですか。もしかして、ミッシングリンクが存在してるんじゃないですか? ほら、推理小説でよくあるじゃないですか。被害者間の共通点というやつですよ」
「柳沢判事と原田弁護士に共通点があるという事ですか?」
「そうです。仮にこの二つの事件が同一犯による仕業だとしたら、二人の間に何らかの共通点があるはずですよ」
「なるほど。共通点ですか」
「ところで、暗闇の狙撃手という人は個人的な動機で人を殺す事はあるんですか?」
「それはないと言われています。あくまで報酬の為に仕事をするそうです。もっとも、あくまでも噂に過ぎませんがね」
「その話が事実だとすると、暗闇の狙撃手に殺害を依頼した人物がいるんですよね。依頼主はどんな理由でこの二人の殺害を依頼したんですかね?」
「さぁ、どうですかね。それが分かれば事件解決へ大きく前進するんですがね」
「裁判官と弁護士ですから、やっぱり裁判絡みじゃないですか? 例えば刑期を終えて出所した人とか、そういう人が犯人かもしれませんよ。有罪判決を下された事を逆恨みしての犯行かもしれませんよ」
「確かに、それは大いに考えられますな」
「ですよね? 僕を調べるより、そっちを当たってみた方が有意義だと思いますよ」
「いや、これは貴重なご意見をありがとうございます」
「そうだ、海堂さん。暗闇の狙撃手だけじゃなくて、トモコちゃんのストーカーも捕まえてくださいよ」
「あの事件ですか。田口さんは犯人について何か心当たりはありませんか?」
「実は怪しいやつが一人いるんですよ。川島という男なんですけどね。こいつが最近、トモコちゃんに近づいてるんですよ」
「その男性は会社の同僚の方ですか?」
「いえ、違います。紳士服店の店員ですよ」
「その川島という男性とトモコさんはどういったご関係なんですか?」
「桜公園で知り合ったらしいんですよ。彼女、よくそこへ犬の散歩に行くんですよ。そこで顔見知りになったと話してました。トモコちゃん、会社でも元気が無いんですよ。本当に見てて可哀相なんです。だから早く何とかしてくださいよ」
「そうだ、田口さん。今晩はどちらにいらっしゃいましたか?」
「アリバイですか。本屋に行ってましたよ。面白そうな推理小説はないか物色してたんです」
「どちらの本屋ですか?」
「近所の本屋ですよ。ここから十分くらいの」
「何時から何時頃まで店にいらっしゃったんですか?」
「七時半に入って一時間くらいで帰ったから、七時半から八時半くらいですよ」
「ちなみに本は買われたんですか?」
「買いませんでした。何冊か面白そうなのはあったんですけどね。少し考えてからにしようと思って。またカメラを見れば分かるんじゃないですか」
「そうですね。では今から確認を取りに行って来ますよ」
 前回同様、僕らはアリバイの裏を取るべく本屋へ向かった。そして僕らを待っていたのはこれまた前回同様の結果だった。
 カメラに映っていたのは店内を歩き回る田口さんの姿だった。文庫本やハードカバーの本を手に取ってはパラパラと捲って棚に戻している。
 さすがに本のタイトルまでは見えないけど、本人の話していた通り面白そうな推理小説はないかと物色していたようだ。
「またアリバイが証明されましたね」
「前回はレストランで今回は本屋ね」
「うむ、確かにこれは田口さんだね」
 今回もアリバイ成立か。やっぱり田口さんは暗闇の狙撃手ではないんだ。
 
 午後九時。僕らは事務室のソファーに並んで座って、テレビのニュースを見ていた。
 トップニュースは政治のニュースだった。最近は連続射殺事件の影も薄れてきていて、テレビでも新聞でも報道されていない。
「ねぇ、ユリ・マリ。射殺事件ってさ、やっぱり進展は無いの?」
 スタジオからVTRへ画面が切り替わった頃、僕は横を向いて二人に話しかけた。
「うん。残念だけど何も無いよ」
「何度も同じこと聞くんじゃないわよ。ないものはないわよ」
「田口さん以外でさ、誰か有力な容疑者はいないの?」
「今の所はいないみたいだね」
「おっちゃんは銃を持ってるやつらを虱潰しに調べてるみたいだけどね。でも、成果は上がってないって愚痴ってたわよ」
 もしかして、これで事件は終わりなのか? それともまだ続くのか? もし続くとしたら今度は誰が狙われるのだろう?
 VTRが終わり、スタジオの女性キャスターが映し出された頃だった。まるでタイミングを見計らったかのように電話が鳴った。
 僕は電話に出ようとソファーから腰を浮かした。だけど、それよりも先にユリが立ってデスクへ近づいていった。
「あっ、トモコさんだよ」
 ユリはディスプレイを見下ろしながら言った後、左手で受話器を取った。
「はい。トモコさんですか?」
「あっ、ユリさん……」
「また何かあったんですか?」
「はい。カズユキが襲われたんですよ……」
「襲われた? どこでですか?」
「カズユキの家の近くです。帰り道、歩いてたら殴られたらしくて」
「怪我はどうなんですか?」
「肩とか背中に痣が出来てます……」
「今、どちらにいらっしゃるんですか?」
「カズユキの家です。一緒にいます」
「分かりました。今からそちらへ向かいますね」
 
 桜井さんは絨毯の上で左膝を立てて、痛みに顔を歪めて座っていた。トモコさんは心配そうな顔で寄り添うように座っている。
「桜井さん、大丈夫ですか?」
 ユリも身を乗り出して心配そうに声を掛ける。
「まあ何とか……」
「警察へは通報されたんですか?」
「しましたよ。あの警部さんが来て事情聴取を受けましたよ。海堂警部でしたっけ」
「あっ、警部さんですか」
「そうだ。ユリさん、脅迫状が入ってましたよ」
 桜井さんはテーブルの上の封筒を取ってユリに差し出した。
「桜井さんの所へも届いてたんですね」
 ユリは受け取って封筒から紙を出す。やはり真っ赤な字で脅迫文が印刷されている。
「桜井カズユキ、早く高橋トモコと別れろ。別れなければ次は高橋トモコに危害を加える」
「ほんと最低なやつね」
 ユリが脅迫文を読み上げて、マリが嫌悪感を顔中に滲ませる。
「桜井さん、襲われたのは何時頃でしたか?」
「八時二十三分ですよ。襲われる直前に偶然、携帯を見たですよ。今、何時だろうと思って。だから正確な時間ですよ」
「後頭部を殴打されたんですよね?」
「そうなんですよ。歩いてたら、いきなり後ろからガツンと。二三発くらい殴られましたよ」
「顔は見てませんか?」
「見られませんでしたね。最初に殴られた時、倒れてしまったので」
「声も聞いてませんか?」
「聞いてませんよ。無言でしたから」
「という事は男か女かも分からないんですね?」
「そうですね。すいません」
「凶器も見てませんか?」
「見てませんね。何か硬い物だったと思うんですけど」
「犯人は走って逃げたんですか?」
「いえ、バイクです。僕を殴った後、角に置いてあったバイクで逃げたみたいです。バイクのブーンって音が聞こえたので。この目で見た訳ではないですけどね」
「ユリさん、マリさん。早く捕まえてください。お願いします……」
 トモコさんは目に涙を溜めながら訴える。
「だんだん犯行がエスカレートしてきてるし。本当に何とかしないといけないわね」
「うん。そうだね」
 マリとユリは深刻な顔を突き合わせて危機感を募らせている。
「そうだ。川島さんに連絡を取ってみますね」
 スカートのポケットから携帯を出すなり、ユリは川島さんに電話を掛けた。
「はい。もしもし、川島です」
「川島さん、今どちらにいらっしゃいますか?」
「仕事中ですよ。休憩中ですけどね」
「今日お仕事だったんですね。何時までお仕事なんですか?」
「十時までですよ」
「今からそちらに伺ってもよろしいですか?」
「いいですよ。どうぞ」
 
「いらっしゃませ。あっ……」
 レジカウンターには背広姿の川島さんが立っていた。声を潜めながらユリに尋ねる。
「今度は何があったんですか?」
「桜井さんが襲われたんですよ。夜道を歩いている所を襲われたそうなんです」
「闇討ちですか。怪我はどうだったんですか?」
「幸い軽傷で済んだみたいです。川島さんはその頃こちらで働いてらしたんですよね?」
「ええ、夜はずっとここにいましたよ」
「このお店から一歩も出てませんか?」
「もちろんですよ。仕事中ですから。防犯カメラ、ご覧になりますか?」
「では、見せていただけますか?」
「いいですよ。待ってくださいね」
 川島さんは他の店員さんとレジを替わって貰い、僕らは奥の控え室へ案内された。机の上のモニターを操作して防犯カメラの映像を見せる。
「ところで、その桜井君が襲われたのは何時頃ですか?」
「八時二十三分だと言ってました」
「随分と正確ですね」
「襲われる直前に偶然、携帯を見たらしいんですよ。今、何時だろうと思ったらしくて」
「なるほど。えっと、八時二十三分ですね」
 画面の中の人々が倍速で動き、問題の時刻である八時二十三分の場面が流れた。
 レジに立っている店員は間違いなく川島さんだった。ちょうど、お客さんがレジに来ていたらしい。バーコード読み取り機片手にズボンのタグをスキャンしている。
「いますね」
「確かに犯行時刻ね」
「だから言ったじゃないですか。僕はストーカーではありませんよ」
 挑発的な口調ではなく、苦笑混じりに肩を竦めて両手を広げる。
「そうだ。そういえば、また射殺事件がありましたよね? あちらの捜査はどうなっているんですか?」
「今回も物証が無い代わりに有力な目撃証言があったんですよ」
「へぇ、どんな目撃証言ですか?」
「現場から逃走する黒い不審車があったんですけど、その車が左ハンドルだったらしいんですよ。しかも、田口さんの車は黒のベンツなんですよ」
「そのベンツは調べたんですか?」
「もちろん調べました。でも、硝煙反応も出なければ怪しい物も見つかりませんでした」
「アリバイの方は?」
「それがアリバイもあったんですよ。本屋さんにいたんです。防犯カメラに映っていました」
「やっぱり何かトリックがあるんですかね? 硝煙反応にしてもアリバイにしても」
 トリックなんて推理小説の中だけに出てくる物だと思っていた。
 だけど、本当に硝煙反応とアリバイに何かトリックがあるのか?
 もし田口さんがトリックを用いているとしたら、どんなトリックだろう?
 それにしても前回に続いて今回もアリバイ成立か。やっぱり川島さんはストーカーではないんだ。
 
 紳士服店を出た直後、ユリの携帯が鳴った。スカートのポケットから出して開いて左耳に当てる。
「はい。警部さんですか?」
「ユリ君、桜井さんの事件だけどね。凶器が見つかったよ」
「本当ですか? 場所は?」
「現場付近の川だよ。分かるかい?」
「はい。今から伺います」
 川の付近は制服姿の警察官で溢れかえっていた。海堂警部は土手に立って川を見下ろしている。
「警部さん」
「おっ、ユリ君。待ってたよ」
「凶器はどれですか?」
「これだよ」
 海堂警部は懐中電灯をかざして左手で足下を指差した。金属バットが転がっていて、先端に血痕が付着している。
「バットですか」
「随分、古びてるわね。どっかから拾ってきたのね」
「警部さん、指紋は?」
「検出されなかったよ。そうそう分かり易い手掛かりは残ってないものだね」
 この金属バットが凶器か。これで桜井さんは背後から後頭部を殴打されたのか。
 僕は金属バットを見下ろしながら、犯行時の様子を想像して身震いしていた。
 
「うっ……」
 桜井さんの発した呻き声は喫茶店のテーブルを囲む僕らの視線を集めた。椅子の上で苦痛に顔を歪めて、右肩を左手で押さえている。
「桜井、大丈夫か?」
 田口さんが心配そうに顔を近づけて気遣う。
「カズユキ、ごめんね。私のせいで……」
 トモコさんは膝の上で拳を握り締めて声と身体を震わせている。
「何で、トモコが謝るんだよ。トモコは何も悪くないだろ」
「そうだよ。悪いのはこんな卑劣な事をする犯人なんだからさ」
「そうそう。トモコは被害者じゃん」
 桜井さんも田口さんも山下さんも、暖かい言葉をかけたり犯人を糾弾したりする。
「くそっ、許せないな。ケンを壊した挙げ句、桜井をこんな目に遇わせるなんて……」
 田口さんは犯人に対する憤りを見せながら、拳を握り締めてテーブルを睨む。
「そうだ。ユリさん、川島のアリバイはどうだったんですか?」
「それが今回もアリバイがあったんですよ。あの紳士服店でお仕事中だったんです。防犯カメラを見せていただいたんですけど、レジに立っている姿がちゃんと映ってました」
「脅迫状もまた届いてたんですよね?」
「はい、桜井さんの所にも。今度はトモコさんに危害を加えると書いてありました」
「トモコちゃん、気を付けてよ。犯人はトモコちゃんも襲うつもりらしいからさ」
「うん……」
 田口さんの警告に対して、トモコさんは小さく頷く。
「なぁ、桜井。お前って帰り道はいつも同じ道を通ってるのか?」
「そうだな。いつも同じ道だよ」
「昨日もその道を通って帰ったんだな?」
「ああ、そうだよ」
「てことは、犯人は桜井の通勤路を調べた上で犯行に及んだんだろうな。最近、誰かに尾行されてる気配は感じなかったか?」
「いや、別にそんなのはなかったな」
「不審人物も見かけなかったか?」
「そんなやつもいなかったと思うけどな」
「犯人はバイクで逃走していったんだよな?」
「ああ、黒っぽいバイクだったよ」
「くそっ、川島のやつ……」
 田口さんは歯を剥き出しにしながら、怒りの拳をテーブルに打ち付ける。
「田口、まだ川島が犯人だって決まった訳じゃないだろ? それに川島にはアリバイがあったんだろ? さっきユリさんが言ったじゃないか」
「でも共犯者がいるかもしれないだろ?」
「なぁ、田口。落ち着いてくれよ。トモコや俺の事を心配してくれるのはいいけどさ」
「そうだよな。証拠も無いのに決めつけたら駄目だよな。悪い、熱くなりすぎたよ」
「田口、頼むからさ。無茶な事はしないでくれよ」
「大丈夫だよ。別に川島の家に殴り込みに行ったりはしないからさ。それより本当に心当たりは無いのか?」
「心当たりって?」
「お前とトモコちゃんの事を妬んでるようなやつだよ。誰か思い浮かぶ顔は無いのか?」
「いや、別にないよ」
「じゃあ、やっぱり犯人は第三の人物なのか? 川島でも会社の人間でもない、俺達が全く知らないような」
「でも、もし会社のやつだったらショックだな。たとえ、ほとんど喋った事ないやつでもさ」
「桜井、お前も人が良いな。こんな酷い目に遇わされてるっていうのに」
「だって、そうだろ? 同じ会社で働いてるやつが犯人だなんて思いたくないよ」
「本当にお人好しだな。犯罪者に同情なんかいらないぞ。さっさと捕まって刑務所でたっぷりと反省すればいいんだよ。こんな陰険な事するやつは」
 被害者本人である桜井さんよりも、田口さんの方が怒りに駆られている。友人が被害に遭ったからというのもあるだろうけど、それだけではないはずだ。
 きっと田口さんは元々正義感の強い人なんだ。やっぱり、この人が暗闇の狙撃手だなんて思えない。
「そういやさ、田口。お前、また事情聴取受けたんだって?」
「受けたよ。また硝煙反応を調べられたよ。あと車も」
「そういや、また不審車が目撃されたってニュースで言ってたな。左ハンドルだろ?」
「だから余計に疑われてるんだよ。本当に迷惑な偶然だよ。俺にはちゃんとアリバイもあるのにさ」
「アリバイって、お前どこにいたの?」
「本屋だよ。推理小説を買おうと思ってさ」
「じゃあ、お前に犯行は無理じゃないか」
「それでも、あの警部さんは俺を疑ってるんだよ。あの人、どうしても俺を暗闇の狙撃手に仕立て上げたいらしいよ」
「でも二つとも都内で起きてるよな? やっぱり暗闇の狙撃手って都内に住んでるのか?」
「そうなんじゃないの? 北海道や沖縄から遠路遙々やって来て、暗殺してるって可能性もゼロではないけどさ」
「やっぱり意外と身近にいるのかもな。もしかして俺達の知ってるやつだったりしてな」
「いや、さすがにそれはないんじゃないか?」
「分からないぞ。意外にそうかもしれないって」
「そうか? 何で?」
「別にこれもただの当てずっぽだよ。根拠なんて無いよ」
 身近な人物か。もし田口さんでないとしたら、誰が暗闇の狙撃手なのだろう?
 桜井さんの言う通り、僕らの知っている人なのか?
 それとも僕らが会った事の無いような人なのか?
「ところでユリさん。何か新たに分かった事ってありませんか?」
「凶器が発見されましたよ」
「えっ? どこにあったんですか?」
「現場付近の川で発見されました」
「何だったんですか?」
「金属バットですよ」
「指紋とか何か手掛かりは?」
「指紋は検出されなかったそうです」
「そうですか。なかなか推理小説のように上手くはいきませんね」
 
 喫茶店を出ると街に夜の帳が下りていた。トモコさん達が帰ってからも長居していたから随分と時間が経っていたようだ。
「すっかり遅くなっちゃったね」
「そうね。もう八時よ」
 ユリは夜空を見上げる。マリは携帯で時刻を確認している。
 駐車場のメアリーとストリームが見えた頃、目の前でパトカーが停車した。両サイドのドアが開いて背広姿の刑事達が出てくる。大島刑事と小田刑事だ。
「おっ、ユリさん達じゃないか」
「やっぱり、そうだったんですね」
「あっ、お久しぶりです」
「こんな所で会うなんて偶然ね」
 ユリは丁寧に御辞儀をして、マリは腰に両手を当てる。
「君達は何かの事件の調査中か?」
「まあ、そんな所です。大島さん達もですか?」
「俺達はパトロール中だよ」
「パトロールですか。お勤めご苦労様です」
「ねぇ、大島さん。射殺事件の捜査ってさ、今どうなってんの?」
「いや、これといって進展は無いよ」
 マリの質問に対して、大島刑事は溜め息混じりに頭を振る。
 やはり捜査は難航しているのか。このまま暗礁に乗り上げてしまわなければいいのだけど。
「じゃあ、またな」
 大島刑事が右手の拳を挙げた、その時だった。
「おっと」
 大島刑事の右手から鍵が滑り落ちた。道路に落ちた鍵が金属的な音を鳴らす。
 腰を屈めて鍵を拾い上げようとした瞬間だった。一発の銃声が耳を突き破り、僕らは一斉に振り返った。
「うあっ……!」
 大島刑事が漏らした呻き声に、今度は揃ってパトカーへ顔を戻す。
「ああっ……」
 大島刑事は右手で左肩を押さえてアスファルトに座り込んでいた。左肩から流れ出た血が右手の甲を赤く染める。
「大島!」
 小田刑事が血相を変えて駆け寄り、大島刑事の前に屈み込む。
「みんな! パトカーの後ろに隠れて!」
 事態を把握できずに立ち尽くしていると、ユリの大声が耳に飛び込んできた。
 僕は駆け足でパトカーの後ろに回り込む。
 アスファルトに座り込んだ直後、三発の銃声が鳴り響いた。
 パトカーが被弾したらしく、金属音が鳴り響く。
 僕は運転席のドアに背中を預けて、頭を抱えてうずくまる。
「いた!」
 頭を抱えたまま薄目を開けて、L字型に曲げた左腕の間からユリを見上げる。ユリはボンネットの陰から左腕を出して発砲していた。
「逃げたよ!」
 銃声が鳴り止んだかと思うと、ユリが素早く立ち上がった。
「ユウキ! 追うわよ!」
 マリはパトカーの陰から飛び出して、駐車場へ走ってストリームに跨った。
「うん!」
 僕は縺れる足で立ち上がり、ストリームの後ろに乗る。
「あの銃、やっぱり……」
 ストリームが咆吼を上げて走り出す直前、ユリの呟く声が耳に届いてきた。
 
 逃走車は猛スピードで車道を疾走していた。車の色や車種は闇に埋もれて判別できない。テールランプの赤い光だけが見える。
 ストリームは前後を車に挟まれて左側を走る。
 右側には反対方向へ進む車の列が流れている。
「もう、前の車が邪魔ね。こんな速度で走ってたら追いつけないわよ。こうなったら……」
 マリはストリームを右へ移動させた。二列の間をストリームが激走する。
 やがて信号が見えてきた。闇の中で光っているのは幸いにも青信号だ。
 逃走車がコーナーを曲がる。
「ユウキ! 振り落とされるんじゃないわよ!」
 マリの大声がヘルメット越しに響く。
「うん!」
 僕は両腕に力を込めてマリの腰にしがみつく。
 ストリームが急速に左へ傾く。
 コーナーを曲がりきり、ストリームが真っ直ぐに起き上がる。
 安心したのも束の間、対向車が突っ込んできた。
「マリ! 危ない!」
「大丈夫よ!」
 マリはストリームを右へ滑らせて、衝突寸前で対向車を回避した。
 逃走車は二車線の左側を走行していく。ストリームが後方から猛追する。
「マリ、距離が縮まったんじゃない?」
「さっき角を曲がる時に詰められたのね。よーし、一気に追いついてやるわよ」
 再び信号が見えてきた。青信号が点滅して黄色に替わる。
「間に合ってよ……」
 マリが祈るように呟く。
 だけど信号は無情にも赤へと替わった。
「マリ、どうするの?」
「決まってるじゃない。行くわよ」
 通行人が横断歩道を渡ろうと歩き出す。
 ストリームが赤信号を無視して突進する。
 通行人が立ち止まって振り返る。悲鳴とどよめきが涌き起こる。
 ストリームは大きく左へ動いて通行人を回避。誰も轢く事なく横断歩道を通過。
 通行人のざわめきが次第に遠ざかっていった。
 ストリームは走行中の車の列と中央分離帯の間に滑り込む。
 法定速度を遵守して走る車を次々と追い越していく。
 車列が途切れた所で左へ傾いて車道の中央に移動した。
 三度、交差点に差し掛かった。信号は赤だ。
「あれ? 止まったわよ?」
 マリの言葉通り、逃走車は横断歩道の前で停車していた。
 距離が縮まり、テールランプの赤い光が徐々に大きくなる。
「観念したのかしら? さぁ、出てきなさい!」
 マリが威勢良く投降を命じた直後、運転席から腕が飛び出してきた。
 その手に握られてた黒い物体は銃だった。
 マリが撃たれる!
 緊張感が全身を駆け巡った直後、銃声が鳴り響いた。
 目を閉じてマリの背中にヘルメットを被った頭を押し当てる。
 ストリームが減速していく。
 タイヤがスピンする音が耳を突き刺す。
 ストリームが左へ傾いていく。
 シートから投げ出されて体が宙を舞う。
 受け身を取る間もなく、僕の体は道路に叩きつけられた。
「うっ……」
 背中にごつごつした感触と痛みを感じつつ、目を瞑って上体を起こす。
 目を開けた時、倒れているマリの姿が視界に飛び込んできた。
「マリ!」
 立ち上がって駆け寄り、片膝を着いてマリの前に屈み込む。
「マリ、大丈夫?」
「大丈夫よ」
 マリは道路に両手を着いて上体を起こした。不思議な事に体のどこにも血は付着してない。道路に血痕が飛び散っている訳でもない。
「あれ? 撃たれたんじゃ……」
「撃たれたのはタイヤよ」
 マリは座り込んだまま、親指を立てて隣に横たわるストリームを示す。
 そうか。タイヤを狙撃してパンクさせたのか。追跡を止める為に。
「良かった……」
 思わず安堵の溜め息が零れて、全身から力が抜けていった。
「あの距離からタイヤ撃ち抜くなんて敵ながらあっぱれね」
「うん。すごいよね」
「おっと、感心してる場合じゃないわね。ユリ達の所へ戻りましょう」
 さっきと同じように、大島刑事はパトカーのドアに背中を預けて座り込んでいた。顔を歪めながら右手で左肩を押さえて、苦しそうな呼吸で喘いでいる。
 引き摺ってきたストリームを道路に寝かせるなり、マリは大島刑事の元へ駆け寄った。
「大島さん、大丈夫?」
「ああ、何とかな……」
「ユリ、救急車は?」
「さっき呼んだよ。そっちは?」
「逃げられちゃったわ。おっちゃんには電話した?」
「うん。したよ」
「じゃあ、救急車とおっちゃんが来るまで待ちましょう」
 
 僕らは待合室のソファーに腰掛けて、大島刑事の容体報告を今か今かと待ち侘びていた。
 誰もが一様に沈痛な面持ちで俯いている。僕の左右に座るユリとマリも、正面のソファーに座る海堂警部と小田刑事も。
 僕も顔を伏せてスリッパを履いた両足を眺めていた。ソファーに腰を落ち着かせてから数分が経過したけど、僕らは未だに一言も喋れないでいる。それがまた衝撃の大きさを如実に物語っている。
「先生……」
 海堂警部の震える声を耳にして、僕は素早く顔を上げた。白衣を纏った医師がゆっくりとした足取りで歩いている。
「先生、大島の容体はどうなんですか?」
「幸い命に別状はありません。二三週間もあれば退院出来るでしょう」
「そうですか……」
 海堂警部の口から安堵の溜め息が零れる。全身から力が抜けたかのように、首を擡げて両腕を下げる。
「面会は出来ますか?」
「出来ますよ。長時間でなければ」
 大島刑事はベッドの中で退屈そうに欠伸を噛み殺していた。僕らが入ってきた事に気がつくと笑顔を見せた。
「大島君、具合はどうだい?」
「どうって事ありませんよ。ちょっと肩を撃たれただけですから」
「二三週間で退院出来るそうだね」
「ええ、早く現場に戻りたいですよ」
「まあ、何はともあれ無事で何よりだよ」
 張り詰めていた空気が弛緩していくのを肌で感じる。僕も体の力が抜けていった。
 そんな和らいだ雰囲気を押し戻すように、マリが緊張感に満ちた声で話を切り出した。
「ねぇ、おっちゃん。あたし、思ったんだけどさ」
「マリ君、どうしたんだい?」
「田口さんの言う通り、やっぱりこの事件にはミッシングリンクがあると思うのよ。おっちゃん、何か心当たりはない?」
「いや、別に何も無いけどね……」
 海堂警部は明らかに不自然な態度で首を横に振る。
「ねぇ、おっちゃん。何を隠してるのよ? この前の原田弁護士の時だって様子がおかしかったじゃない。何か隠してるわよね?」
 そういえば、そうだった。原田家を出た後パトカーに乗り込む直前、海堂警部は何か言いかけて途中で止めていた。
「いや、別に何も隠してなんかは……」
「警部さん、何かご存知な事があれば正直にお話していただけませんか?」
 ユリがいつになく厳しい表情で海堂警部を問い詰める。
 ユリと海堂警部の視線が交錯する。ユリは鋭い眼光で、海堂警部は驚愕の色を浮かべて。
 先に目を逸らしたのは海堂警部の方だった。俯き加減にリノリウムの床を見下ろす。
 長く重い沈黙が病室に漂う。それを打ち破ったのは大島刑事の声だった。
「警部、俺から話しますよ」
「大島君、いいのかい?」
「隠しておくのも何ですからね。小田、いいだろ?」
「ああ、そうだな」
 小田刑事は短い言葉で返して深く頷く。
「それじゃあ、全てを話すよ」
 真っ白な布団を見つめながら息を吐き出すと、大島刑事は淡々とした声で語り始めた。
 
「大島」
 デスクで資料の整理をしていると、小田が後ろから声を掛けてきた。俺は回転椅子の上で振り返る。
「ん? どうした?」
「殺人だよ。佐藤タカシさんという人から、奥さんのハルヨさんが殺されたって通報が入ったそうだ」
「そうか。よし、現場へ急ぐか」
 佐藤ハルヨさんの遺体は仰向けの状態で倒れていた。心臓から流れ出た鮮血が衣服を赤く染めていて、死に顔は恐怖に歪んでいる。
 部屋はかなり荒らされていた。タンスの引き出しは五段全てが開けられていて、床に衣服が散乱していた。
「死因は心臓を刺された事による出血死。死亡推定時刻は午後十二時から一時の間。凶器はナイフや包丁などの刃物類ですね」
 俺は腰を上げて背後に立つ佐藤さんへ向き直った。
「佐藤さん、発見されたのは何時頃ですか?」
「電話するすぐ前だから八時過ぎですね」
「ハルヨさんは専業主婦でいらっしゃるんですか?」
「主婦ですけどパートはしてましたよ。スーパーのレジ打ちをしてました」
「今日はお休みだったんですか?」
「いえ、仕事だったみたいですね」
「おや? では、どうしてご自宅に?」
「昼休みに帰ってくるんですよ。たまに、外で食べる時もあるみたいですけど」
「何時から何時までですか?」
「十二時から一時までです」
「ちょうど死亡推定時刻と一致しますね。なくなっている物がないか、確認していただけますか?」
「はい。分かりました」
 タカシさんは机やタンスの引き出しなど部屋の隅々を確認した。けれど、紛失している物は何一つなかった。
「どうやら、強盗犯は何も取れずに逃げていったようですね。金目の物を物色している最中にハルヨさんがご帰宅されて鉢合わせしたんでしょう」
「そうですか。帰ってきたばかりに……」
「強盗となると事前に下見をしておいて犯行に及んだ可能性もありますね。最近、不審人物を見かけませんでしたか?」
「そういえば、家の周りをうろついている怪しい男がいたんですよ。一週間前から何度か見かけましたよ」
「どんな人相でしたか?」
「俳優の石田ヨウスケに似てましたよ。一瞬、本物かと思ったくらい似てましたよ」
「身長はどれくらいでしたか?」
「うーん、そんなに高くも低くもなかったと思いますけどね」
「その男の声は聞きましたか?」
「聞いてませんね」
「小田、その男が強盗犯で下見をしていた可能性はあるな」
「そうだな。明日から聞き込みをして、どこの誰だか突き止めないとな」
「ん?」
 俺の視線は部屋の隅に止まった。小田が横顔に問い掛ける。
「どうした?」
「何か落ちてるぞ」
 俺は片膝を着いてしゃがんで、落ちている物を拾って立ち上がった。それは銀色の十字架だった。
「タカシさん、これは奥様の物ですか?」
「いえ、私は見た事がありませんね」
「貴方の物でもありませんか?」
「ええ、違いますよ」
「まさか犯人が落としていった物か?」
「念の為に指紋を調べてみるか。鑑識に回そう」
 十字架を渡してから数分後、鑑識が報告しに部屋へ飛び込んできた。
「鑑識の結果が出ました。付着していたのは被害者の指紋と、それからもう一人別の人物の指紋がありました」
「タカシさんの指紋ではないんだな?」
「違います。照合してみましたが、タカシさんの指紋ではありませんでした」
「てことは犯人の指紋か?」
「ああ、そうかもな」
「よし、こいつは厳重に保管しておこう。ひょっとしたら重要な手掛かりになるかもしれないからな」
 
 翌日、俺達は近隣の住宅を虱潰しに回って聞き込みを行っていた。俺は石田ヨウスケの写真を見せて男に尋ねる。
「この近辺にこの人に似ている人物はいませんか? タレントの石田ヨウスケなのですが」
「そういえば、あの子が似てるな。高橋カズヤ君って子なんですけどね」
「家はどこかご存知ですか?」
「すぐそこですよ。ほら」
 俺達は男が指差す方角に顔を向けた。青空の中、青い屋根の一軒家が建っている。
「小田、遂に見つかったな」
「よし。早速、行ってみるか」
 扉の向こうに立っている俺達を目にした瞬間、高橋は酷く顔を引き攣らせた。その顔は確かに石田ヨウスケに似ていた。
「高橋カズヤさんですね?」
「そうすけど、あんた達は誰すか?」
「私は警視庁の大島という者です」
 俺は警察手帳を示して胸ポケットに仕舞った。
「そして彼が小田。同じく刑事です」
「どうも」
 俺が右手をかざして紹介すると、小田は軽く会釈をした。
「刑事? 刑事さんが俺に何の用すか?」
「伺い事がありましてね。昨日の午後十二時から一時はどこで何をされてました?」
「昼ですか? 家にいましたよ。何で、そんな事を聞くんすか?」
「今、捜査中の事件の参考にと思いましてね」
「事件?」
「強盗殺人ですよ。ここから数キロ程、離れた場所でありましてね」
「だからって何で俺の家に?」
「高橋さん。貴方、芸能人の石田ヨウスケに似てると言われませんか?」
「言われますけど、それが何なんすか?」
「被害者の旦那さんが仰有っていたんですけどね。彼が目撃したんですよ。石田ヨウスケに似た不審人物が被害者宅の周辺を彷徨いているのを」
「見間違いでしょ、そんなの」
「高橋さん、貴方はお金に困ってませんか? 消費者金融から借金をしたりしてませんか?」
「してませんよ」
「友人にお金を借りたりもしてませんか?」
「だから借金なんてないっすよ」
「ところで高橋さん。貴方の御両親は御健在ですか?」
「ええ、両方とも生きてますけど」
「都内に住んでらっしゃるんですか?」
「そうですけど、親んとこにも行くんすか?」
「ええ、ご住所を教えていただけますか?」 
「いいですよ」
 俺は高橋が諳んじた住所を警察手帳に書き留めた。
「それと指紋を採取させていただけますかね?」
「はいはい。好きなだけ取ってくださいよ」
 高橋は面倒臭そうな顔をしながら両方の掌を差し出した。
 
 高橋家のリビングは不穏な空気に包まれていた。トモコさんもトシオさんもケイコさんも一様に固い表情を浮かべている。
「トシオさん、数日前にこの近くで強盗殺人事件があった事はご存知ですか?」
「そういえばニュースでやってましたね。それが何か?」
「実はあの事件にカズヤさんが関わっているかもしれないんですよ」
「カズヤが……?」
「捜査の結果、その可能性が出てきましてね。今日、伺ったのはその為なんですよ」
「何を馬鹿な事を。何の証拠があって、そんな事を言っているんだ?」
「トシオさん、カズヤさんは俳優の石田ヨウスケに似ていると言われませんか?」
「いきなり何を言い出すんだ? それが何か関係あるのか?」
「被害者の旦那さんが不審人物を目撃されたんですけどね。その男が石田ヨウスケに似ていたらしいんですよ」
「それがカズヤだって、そう言いたいのか?」
「その可能性が高いと私は考えています」
「そんな馬鹿な。カズヤが強盗殺人なんて……」
「そこで皆さんにお伺いしたのですがね。カズヤさんがお金に困っていたという話は聞いてませんか?」
「そういえば……」
「トモコさん、何かご存知なんですか?」
「借金があるって言ってました」
「借金? いくらですか?」
「二百万円です」
「おい、トモコ。その話、本当なのか?」
「カズヤが借金?」
「うん。本当だよ」
「そんな話、初めて聞いたぞ。何で黙ってたんだ?」
「だって、お父さんとお母さんには言うなって……」
「口止めされてたのか?」
「うん……」
「まあまあ、お父さん。落ち着いてください」
 俺は両手をかざして、詰問するトシオさんを宥めた。
「それでトモコさん。お兄さんは何でまたそんな借金を?」
「パチンコとかで作ったって、そう言ってました」
「どこから借りているとか、いつまでに返済しないといけないとか。そういった話は?」
「いえ、そこまでは聞いてません」
「お兄さんは他に何か言ってましたか?」
「そういえば一週間前、お金を貸して欲しいと言われました」
「それで貸したんですか?」
「はい。十万円を貸しました」
「それはトモコさんのお金ですか?」
「そうです。自分の通帳から出しました」
「お金を渡したのはいつですか?」
「次の日です」
「そうだ。皆さん、これに見覚えはありませんか?」
 俺は例の十字架の写真をテーブルに置いた。三人が身を乗り出して写真を覗き込む。
「これ、私があげた物です」
「トモコさんが? あげたのはいつ頃ですか?」
「先月です。兄の誕生日にプレゼントしたんです」
「お兄さんの誕生日はいつですか?」
「七月二十日です」
「ネックレスを購入されたのはいつですか?」
「前日だったので十九日ですね」
「どこの店で購入されたんですか?」
「アクセサリーのお店です。近所のデパートの中にある」
「お兄さんはこのネックレスを身に付けているんですか?」
「いつもじゃないですけど、出掛ける時にたまに付けてくれてたみたいです」
「なるほど。そういう事ですか」
「このネックレスがどうかしたんですか?」
「これ、現場に落ちていたんですよ」
「落ちてた……?」
「現場検証の時に見つけたんですよ。最初は奥さんの物かと思って、旦那さんに聞いてみたんです。しかし違うとお答えになって。その後に貴方の物でもありませんかと伺ったら、やはり違うとお答えになったんです。
 それでは、これは一体誰の物だという話になりまして。もしかしたら、犯人が落としていった物かもしれないと思ったんです。それで、こうして確認の為に持ってきた訳なんですよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
 トシオさんはソファーから膝を乗り出して右手を伸ばした。
「それが落ちてたからカズヤが犯人だと仰有るんですか?」
「かなりの有力な証拠だと思いますけどね」
「指紋は調べたんですか?」
「指紋は検出されました。帰ったら鑑識に回してカズヤさんの指紋と照合してみますよ」
「カズヤに借金があるから、だから強盗をしたと言うんですか?」
「ええ、動機も十分という訳ですよ」
「そうだ。アリバイはどうなっているんですか?」
「ご本人は家にいたと仰有っています。しかし、独り暮らしですから証人の方がいないんですよ」
「そんな事は仕方がないじゃないか。独り暮らしなんだから」
「まあ、そうですがね。とにかく、この十字架はかなりの有力な証拠ですよ」
「そんな馬鹿な。カズヤが人殺しなんて……」
 その日の夜、警視庁では捜査会議が開かれていた。大島刑事と小田刑事はもちろんの事、海堂警部も出席していた。
 大島刑事は机を囲む面々を見回しながら、事件に関する報告を始めた。
「今日、私と小田は高橋家へ足を運びました。そこで興味深い事実を入手しました。この十字架はトモコさんが誕生日プレゼントとして被疑者にあげた物だそうです。
 指紋を調べた結果、これまた興味深い事実が判明しました。十字架には被疑者の指紋が付着していたのです。
 尚、被疑者は二百万の借金を抱えている事も明らかになりました。つまり動機も十分にあったという訳です」
「証拠は固まったな」
 海堂警部は背もたれに預けた身体を起こすと、低い声を響かせて宣言した。
「よし。逮捕状を請求しよう」
 
「またか。あんたらもしつこいな」
 扉の前に立つ俺達を目にした途端、高橋は溜め息をつきながら渋面を作った。そんな邪険な態度に構わず、俺は余裕の笑顔を見せて話す。
「そう言うな。俺達も仕事でやってるんだからな」
「それで? 今日は何しに来たんだよ?」
「現場で面白い物を見つけたんだよ。これだよ」
 俺はズボンのポケットからビニールを出して、高橋の鼻先に突き付けた。その瞬間、高橋の顔は蒼白になった。
「そ、それは……」
「見覚えはあるよな?」
「し、知らねえよ……」
 高橋は激しく首を横に振る。
「おかしいな。お前の指紋がべったりと付着してたんだけどな」
「知らねえものは知らねえよ……」
「隠しても無駄だぞ。お前の実家にお邪魔した時、トモコさんが教えてくれたからな。これ、トモコさんがお前の誕生日にプレゼントしてくれた物らしいな」
「だから何だよ……?」
「おそらく真相はこうだろ。被害者と格闘になった際、被害者がお前のネックレスを掴んだんだ。その時、この十字架が落ちたんだ。
 焦ってて気づかなかったのか、それとも回収する暇がなかったのか。とにかく、お前はこんな動かぬ証拠を現場に残して立ち去ってしまった訳だ」
 俺は推理を披露し終えると、ビニールをポケットに仕舞った。そして、今度は一枚の紙を出して高橋の眼前に広げた。
「そう。今日はな、お前を逮捕しに来たんだよ」
 突き付けられた逮捕状を目にした途端、高橋の表情は凍り付いた。
「くそっ!」
 直後、高橋は俺達の間を擦り抜けて走っていった。
「しまった!」
「大島! 追うぞ!」
 俺達がエントランスを出た時、高橋は道路を逃走していた。
 追跡の途中、高橋は転倒した。道路の真ん中で大の字に寝そべっている。その隙に俺達が一気に距離を詰める。
「小田! 挟み打ちにするぞ!」
「おおっ!」
 十字路の分かれ道に着いた時、俺達は作戦通り高橋を挟み打ちにした。飛びかかれば手の届く距離に立ち、行く手を塞いで立ちはだかる。
「さぁ、高橋。もう逃げられないぞ」
「観念するんだな」
 そこへ通行人の女性が通りかかった。俺達が走ってきた方向から、若い女がハイヒールを鳴らして歩いてくる。
 女は眼前の光景に目を見開き、足を止めて俺達を眺めた。
 その直後、高橋は女に向かって突進していった。
 走りながらジーンズの右ポケットに手を入れる。
 ポケットから出てきたのは折り畳みナイフだった。
「まさか、あいつ!」
「まずい!」
 カズヤさんがしようとしている事を悟った二人は必死に追いかけた。
「高橋!」
「止めろ!」
 大島刑事も小田刑事も右手を伸ばしながら叫ぶ。
 カズヤさんの左手が女性に伸びていく。
 女性は逃げ出す事も悲鳴を上げる事も出来ず、恐怖に戦き立ち尽くす。
 カズヤさんは女性を羽交い締めにすると、首元にナイフを突き付けた。
「来るな! ちょっとでも近づいたらこの女を刺し殺すぞ!」
 女性が激しく首を横に振りながら小さな悲鳴を上げる。
 大島刑事は二人の前に立つ。小田刑事は背後で立ち止まる。
「高橋、こんな事をしても逃げ切れないぞ!」
「黙れ! 来るな!」
「これ以上、罪を重ねるんじゃない!」
「黙れって言ってるだろ!」
 カズヤさんがナイフを握った右腕を振り上げた、その直後だった。
 一発の乾いた銃声が閑静な住宅街に響き渡った。
 カズヤさんの両腕が女性から離れて垂れ下がる。
 右手に持っていたナイフが道路に転がり落ちる。
 カズヤさんの身体は崩れ落ちていき、道路の上へ俯せに倒れ込んだ。
 胸と口から流れ出た血がアスファルトをどす黒く染めていく。
 小田刑事は銃を構えたまま、荒い呼吸で立ち尽くしていた。
「高橋!」
 大島刑事は狙撃されたカズヤさんの元へ駆け寄っていった。
「高橋、大丈夫か……?」
 頭を近づけてみると、口から微かに吐息が漏れ聞こえてきた。
 小田刑事はようやく我に返り、銃をホルダーに仕舞う。
 カズヤさんの元へ駆け寄っていき、立ったまま顔を覗き込んだ。
「どうだ?」
「まだ息があるぞ。救急車だ」
「ああ……」
 小田刑事はズボンのポケットから携帯を出して、震える指先で百十九番を押した。
 
 二人は待合室のソファーに並んで腰掛け、肩を落として丸くなっていた。小田刑事の口から弱々しい声が漏れる。
「なぁ、大島……」
「どうした?」
「高橋、死んだりしないよな……?」
「おいおい、縁起でもない事を言うなよ」
「でも、かなり出血が酷かっただろ。もしかしたら……」
「止めろ。悪い事は考えるな」
「これで良かったのか……?」
「仕方ないだろ。ああするしかなかったんだから」
「問題にならないか……?」
「大丈夫だ。お前の取った行動は正しかったんだから」
「だと、いいけどな……」
「ちょっと様子見に行くか?」
「ああ、そうだな」
 手術室の前には手術服姿の執刀医が立っていた。大島刑事は廊下を走っていって尋ねた。
「先生、高橋はどうなったんですか?」
「それが……」
 執刀医は沈痛な面持ちで床を見つめる。大島刑事は最悪の事態を予期しながら聞く。
「それが……?」
「先程、お亡くなりになられました」
 しばらくの間、大島刑事も小田刑事も無言で立ち尽くしていた。
 二人とも言葉を発する事が出来ずに、呆然と執刀医の顔を眺めていた。
「今、ご家族の方が中にいらっしゃいます」
 二人が入るかどうか迷っていると手術室の扉が開いた。
 中から出てきたトモコさん達は二人を見るなり、揃って足を止めて立ち竦んだ。
「どうして、あんたらがここに?」
「我々はカズヤさんのマンションへ行ったんです。彼を逮捕する為に」
「だからって、何でカズヤはあんな怪我を負っているんだ?」
「私が撃ったんです」
「撃った……?」
「逮捕状を見るなり、カズヤさんは逃走を図ったんです。我々は走って追いかけました。その途中、通行人の女性を人質を取ったんです。彼は彼女の首にナイフを突き付けました」
「説得しなかったのか?」
「もちろん説得はしました。しかし、彼は女性の首にナイフを突き刺そうとしたんです」
「それで、あんたがカズヤを撃ったのか……?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、あんたが殺したんだな……?」
 トシオさんは震える人差し指で小田刑事を指差した。
 発砲は正当だった。人質の命を救う為に、あの場面では他に方法はなかった。
 小田刑事はそう主張したかった。だけど、意に反して重い口は開いてくれなかった。
「この人殺し!」
 右腕を下ろすや否や、トシオさんは小田刑事に掴みかかった。
 両手で背広の襟を掴みながら激しく揺する。
「トシオさん!」
 そこへ大島刑事が割って入った。背後から羽交い締めにして、小田刑事から引き剥がす。
「離せ!」
 大島刑事の腕から逃れようと、トシオさんは身体を左右に捻ってもがく。
「あんたがカズヤを殺したんだ。あんたがカズヤを殺したんだ……」
 トシオさんは小田刑事を睨みつけながら、呪詛の言葉を吐き続けていた。
 小田刑事は自責の念に駆られながら、憤怒するトシオさんの顔を見つめていた。
 
「検察は小田の発砲を正当な行動だと認めて不起訴処分とした。ところが、これを不服として高橋の両親が付審判制度に基づいて訴えを起こした。
 裁判は最高裁まで行ったけど、原告側の訴えは退けられて俺達の無罪が確定した。これが高橋カズヤ事件の全貌だよ」
 大島刑事は全てを語り終えると、深く息を吐いてから虚空を見つめた。
 僕は虚空を見つめる大島刑事からテレビへ視線を移す。電源の入っていないテレビにはユリとマリの姿が映っている。
「あの事件を追っていた二人の刑事さんって、大島刑事と小田刑事だったんですね」
「なるほどね。そういう事だったのね」
「もちろん、あの時の小田の判断は間違ってなかったと俺は今でも思ってるよ」
「だから、あの事件は俺達にとっても忘れられない事件になっているんですよ」
「そっか。あの時、何か様子がおかしかったのはそういう事だったのね」
「あの時?」
「何の話ですか?」
「ほら、射撃訓練場の時よ。あたしが銃の話したら二人とも動揺してたじゃない」
「ああ、あの時か」
「あれは顔に出てしまいましたね」
「柳沢判事は無罪判決を下したから。原口弁護士は大島さんと小田さんの弁護士を務めていたから。だから二人が狙われたんですね」
「事件に関わった四人への復讐。そういう事だったのね」
「それで今回は大島さんが狙われた」
「てことは次に狙われるのは……」
 ユリとマリの言葉を受けて、僕らの視線が小田さんへ集中する。
「ええ、僕でしょうね」
 小田さんは唇を真一文字に結んで深く頷いた。
「おっちゃん、何でもっと早く話してくれなかったのよ?」
「すまない。確証が無かったからね」
「とにかく何が何でも小田さんを守らないと。協力してくれるわよね?」
「もちろんだよ。私だってこれ以上、死者も怪我人も出したくないからね」
「うん。頼むわよ」
「そうだ、まだ話を聞いてなかったね。ユリ君、詳しい話を聞かせてくれるかい?」
「私達、喫茶店にいたんです。お店を出た後にあの駐車場で大島さん達と出会って。大島さんが撃たれて私と犯人で銃撃戦になったんです」
「時間は何時頃だったんだい?」
「八時頃でした」
「犯人の姿は見たのかい?」
「暗くて見えませんでした。でも銃は見えました」
「どんな種類だったんだい?」
「グロッグ26アドバンスです」
「グロッグ26アドバンス。じゃあ、やっぱり……」
「はい。やっぱり暗闇の狙撃手による犯行だったんですね」
「おそらく誰かが暗闇の狙撃手に依頼したんだね。この事件に怨みを抱いている高橋と親しい誰かが」
「問題はその依頼主が誰か、ですよね」
「ねぇ、おっちゃん。高橋カズヤに恋人っていたの?」
「事件当時はいなかったようだよ。それよりも前となると私も知らないけどね」
「てことはよ、依頼主は高橋の家族か知人かしらね?」
「その可能性が高いね」
「そういえば、トシオさんってすごく警察に敵意を抱いていますよね?」
「そうね。そういや警察の悪口言いまくってたわね」
「高橋の父親か。確かに彼が依頼主だとしても不思議ではないね」
 僕はトシオさんの顔を思い浮かべてみる。警察を罵倒していた時のあの形相を。
 海堂警部の言う通り、トシオさんが依頼主である可能性は高い。さっきの大島さんの話も考え合わせると尚更だ。
「警部さん、暗闇の狙撃手はこれで諦めるのでしょうか?」
「もう一度、大島君の命を狙ってくるという事かい?」
「はい。私はそう思います」
「確かにその可能性は大いに考えられるね」
「だから病院の警備を強化した方がいいと思うんですよ」
「ユリ君の言う通りだね。警官を何人か配置するよう、上に進言してみるよ」
「警部!」
 鋭く飛び込んできた小田刑事の声によって、ユリと海堂警部の話は中断を余儀なくされた。
「小田君、どうしたんだい?」
「僕も警備に着かせてください」
「おい、小田君。何を言っているんだ……?」
「お願いします!」
 小田刑事が勢い良く頭を下げる。体を九十度に曲げながら深々と。
「分かっているのかね? 君は次のターゲットなんだよ?」
「もちろん、それは重々承知しています。だけど、僕が警備についた方がいいと思うんです」
「それはどういう意味だい?」
「その方が暗闇の狙撃手が現れる可能性が高いからです。次のターゲットである僕もいた方が」
「確かに言われてみればそうだが。しかしだね……」
「お願いします!」
 小田刑事は再び深々と頭を下げた。その熱意に押されたのか、海堂警部は溜め息混じりに頷いた。
「分かったよ。君がそこまで言うのならね」
「ありがとうございます……」
 小田刑事は三度、頭を下げて感謝の意を表す。
「警部さん、田口さんに聞いてみないといけませんね。カズヤさんの事とか」
「あとさ、おっちゃん。トモコさんの親と接触してないかも探ってみないと」
「そうだね。では田口さんの家に行くとしようか」
 
「もしかして、また射殺事件があったんですか……?」
 部屋で向かい合うなり、田口さんは声を震わせながら聞いた。海堂警部は首を横に振る。
「いえ、今回は幸い未遂に終わりました。肩は負傷しましたけどね」
「誰が撃たれたんですか?」
「大島という私の部下です。そこからユリ君と犯人で銃撃戦になったらしいんですよ」
「銃撃戦? ユリさん、お怪我は?」
「大丈夫ですよ。無傷です」
「それでですね。犯人はそのまま車で逃走していったそうなんですよ」
「その車が僕のベンツだったとでも言うんですか?」
「いえ、暗くて見えなかったそうです」
「でも恐いですね。街中で堂々と狙ってくるなんて」
「田口さん、貴方はトモコさんの御両親とは面識がありますか?」
「ありますよ。トモコちゃんの家にお邪魔した時、何度か顔を合わせた事はあります」
「最近はお会いになりましたか?」
「最近は会ってませんね」
「電話やメールでも連絡は取ってませんか?」
「取ってませんよ。トモコちゃんとなら、たまに連絡は取ってますけど」
「それはどういったご用件でですか?」
「別に仕事の話とか、他愛もない世間話だったりとか。それだけですよ」
「そうですか。御両親とは連絡を取ってないと」
「何ですか? トモコちゃんの御両親が何かこの事件と関係があるんですか?」
「いえ、別に参考までに伺っただけですよ」
「とにかく、トモコちゃんの御両親とは最近は接点がありませんよ」
「それと田口さん。高橋カズヤさんとは生前、面識がありましたか?」
「ええ、ありますよ」
「カズヤさんがどのような形でお亡くなりになられたか、ご存知ですか?」
「知ってますよ。警官の人に撃たれて亡くなったんですよね?」
「田口さんはあの事件についてどう思われますか?」
「トモコちゃんには悪いですけど仕方ないとは思いますよ。警官の人だって好き好んで発砲した訳ではないでしょうから」
「なるほど。それが田口さんのあの事件に対する感想ですか」
「でもトモコちゃんは可哀相ですよね。あんな形でお兄さんを失うなんて。カズヤさんが有罪だったにしろ、無罪だったにしろ。だけど、どうしてそんな事をお聞きになるんですか? それが今回の事件と何か関係があるんですか?」
「実はカズヤさんを追っていた刑事は大島と小田なんです。二人は付審判制度に基づいて、裁判に掛けられたんですけどね。最終的には無罪を勝ち取ったんですよ」
「思い出しましたよ。確かトモコちゃんの御両親が訴えを起こしたんですよね?」
「その時、最高裁の判事として判決を下したのが柳沢判事でした。そして、検察側の弁護士を務めていたのが原田弁護士でした。更に今回、狙われた大島はカズヤさんの事件を追っていた」
「つまり、こういう事ですか? 今回の一連の事件はカズヤさんの事件が関係していると」
「そういう事です」
「やっぱり、ミッシングリンクが存在していたんですね。僕の思った通りじゃないですか。だから、お兄さんやトモコちゃんの御両親の事をお聞きになったんですね」
「本当に何もご存知ありませんかね?」
「まさか、こんな風に考えてらっしゃるんですか? 僕が暗闇の狙撃手でトモコちゃんの両親から依頼を受けて、一連の事件を起こしていると」
「違いますか?」
「そんな訳ないですよ。そんな漫画みたいな事、本気で思ってらっしゃるんですか?」
「現にいるんですよ。殺し屋という漫画のような存在が。暗闇の狙撃手という殺し屋が」
「刑事さん、考えてもみてくださいよ。さっき銃を撃ち合った相手と、こんな風に平気な顔で話が出来る訳ないですよ。僕はそこまでの度胸も演技力も持ち合わせていませんよ」
「しかし、私はそういう犯人達を何人も見てきているんですよ。まるで、自分は無関係という顔をして話をする名役者達をね」
「とにかく早く暗闇の狙撃手を捕まえてくださいよ。そうすれば、僕の疑惑も晴れる訳ですからね」
「ところで田口さん。午後八時頃はどちらにいらっしゃいましたか?」
「アリバイですか? 家にはいませんでしたね」
「どちらで何をされていたんですか?」
「ユリさん達と別れた後、紳士服店で買い物をしてたんですよ。八時頃と言えばそこにいたはずですよ」
「どちらにあるお店ですか?」
「桜公園の近くにあるんですよ。また防犯カメラを見せて貰ってくださいよ」
 桜公園の近くにある紳士服店。川島さんが働いている店だ。
「分かりましたよ。早速、行って来ますよ」
 
「まさか、またトモコさんに何かあったんですか……?」
 背広姿の川島さんはカウンターの向こうで顔を強張らせながら尋ねた。ユリが首を横に振りながら答える。
「いえ、今日は別の用件です」
「何だ、良かった。それで用件というのは?」
「また狙撃事件があったんです。幸い未遂に終わったんですけど」
「またですか? 今度は誰が撃たれたんですか?」
「大島刑事という方です。私達も一緒だったんですよ。私と犯人で撃ち合いになって」
「ユリさん、大丈夫だったんですか?」
「大丈夫ですよ。パトカーを盾にしていたので」
「そうですか。安心しましたよ」
「川島さん、防犯カメラを見せていただけますか?」
「カメラを? どうしてですか?」
「田口さんが証言しているんです。事件発生時、このお店にいたと。だから確認を取りたいんです」
「アリバイの確認ですか。お安いご用ですよ」
 僕らはカウンターの奥の小部屋へ通して貰い、立ったままモニターを眺めていた。
 映像には田口さんが映っていた。ハンガーに掛かったズボンやネクタイを手に取って見ている。
「川島さん、田口さんは確かにこのお店にいらっしゃったんですね?」
「いえ、僕は出勤前だったので見てません。でも、こうして映っていますからね。またアリバイが証明されましたね」
「ええ、そうですね……」
「アリバイを聞いたという事は彼への事情聴取はもう済んだのですか?」
「はい。さっき田口さんのご自宅へお邪魔しました」
「どうでしたか?」
「特別な成果は何も得られませんでした」
「それにしても、裁判官と弁護士と刑事ですか。仮に三つの事件が同一犯による仕業だとしたら、何故この三人が狙われたんですかね?」
「実はそれも分かったんですよ」
「えっ? 本当ですか?」
「三人の間にはミッシングリンクが存在していたんですよ」
「ミッシングリンクって推理小説の用語でしたっけ?」
「はい。三人の共通点はトモコさんの兄、高橋カズヤさんの事件に関わっている事だったんです」
「トモコさんのお兄さんがどうかしたんですか?」
「カズヤさんは強盗殺人事件の容疑者だったんです。逃走中、通行人の女性を人質に取って警官に射殺されたんです。だから、カズヤさんのお父さんは警察へ敵意を抱いているんですよ」
「つまり、こういう事ですか。トモコさんの父親が暗闇の狙撃手に依頼を持ちかけて、この一連の事件が起きていると」
「はい。その可能性が高いと思います」
「なるほど。主犯が暗闇の狙撃手で、黒幕がトモコさんの父親という訳ですか」
「川島さん、トモコさんから何か聞いてませんか?」
「何かというと?」
「お父さんが暗闇の狙撃手に依頼をした事を臭わせるような、そんな言葉はありませんでしたか?」
「いえ、そんな発言はありませんでしたね」
「トモコさんの口から暗闇の狙撃手という名前を聞いた事もありませんか?」
「それもありませんね。普通の世間話しかしてませんから」
「川島さんはトモコさんの御両親とは面識はありませんか?」
「ありませんよ。トモコさんとしか面識はありません」
「そうですか。もしかしたらと思ったんですけど」
「ただ、仮にトモコさんの父親が依頼主だとしてもですよ。彼女が何も知らないという可能性もありますよね?」
「確かにそれは考えられますね」
「田口さんには聞いてみたんですか?」
「聞いてみました。でも何も知らないと話してました」
「今回は未遂に終わった訳ですよね。そうなると、暗闇の狙撃手はまた刑事さんの命を狙ってくるんじゃないですか?」
「だと思います。大島刑事だけでなく、小田刑事も」
 そう、暗闇の狙撃手は再び大島刑事の命を狙ってくるだろう。もちろん小田刑事も。
 それにしてもだ。田口さんは結局、三つの事件全てにおいてアリバイ成立か。
 間違いない。やっぱり田口さんは暗闇の狙撃手ではないんだ。
 
「小田さん、大丈夫かな?」
 夕食の最中、僕はふと気になって独り言のように呟いた。
「大丈夫なんじゃないかな? 今の所、何も連絡は無いし」
「そうよ。何か動きがあったら、おっちゃんがすぐに電話くれるわよ」
 すると、ユリとマリの言葉に答えるかのように電話のベルが響いてきた。
「あっ……」
「もしかして警部さんかな?」
「まさか小田さんが撃たれた訳じゃないわよね?」
 僕らは声を潜めて口々に呟いた後、競うようにして事務室へ駆け込んでいった。
 僕が事務室に飛び込んだ時、ユリは既に受話器を取っていた。僕とマリは後ろに立って聞き耳を立てる。
「ユリさん……」
 受話器から漏れてきたのは恐怖に戦くトモコさんの声だった。
「どうしたんですか?」
「変な人に襲われたんです……」
「トモコさんがですか?」
「はい……」
 トモコさんが襲われた。とうとう、恐れていた事態が起きてしまったか。
「今はご自宅ですか?」
「はい。家にいます」
「では今から伺います」
 
 トモコさんはテーブルの前に正座して、膝の上で両手を重ね合わせていた。
 右手の人差し指には絆創膏が巻かれている。ユリが首を伸ばしながら絆創膏を覗き込む。
「怪我されたんですね」
「ナイフを掴んだ時に切ったみたいで……」
「犯人はナイフを持って襲ってきたんですね?」
「はい……」
「時間は何時頃でしたか?」
「確か八時過ぎだったと思います」
「襲われた場所はどこですか?」
「桜公園です。いつも帰り道に通るんですよ」
「どういう状況だったんですか?」
「公園の中を歩いてたら後ろから羽交い締めにされたんです。それで首にナイフを突き付けられて……」
「襲われた正確な位置は覚えてらっしゃいますか?」
「覚えてます。滑り台の梯子の傍でした」
「犯人の姿はどんな感じでしたか?」
「それが全く見てないんです。逃げるのに夢中だったんで」
「声は聞いてませんか?」
「はい。聞いてません」
「男の人でしたか?」
「だと思いますけど……」
「トモコさんが逃げた後、犯人は追いかけてきましたか?」
「よく覚えてません。とにかく逃げる事で精一杯だったので」
「公園を出た後は一直線にご自宅へ帰られたんですか?」
「そうです。それで、すぐ事務所に電話したんです」
「公園でもその後でも何か変わった事はありませんでしたか?」
「変わった事ですか?」
「どんな些細な事でも構わないんです。覚えている事は全てお話しいただけますか?」
「そういえば、何かが落ちたような音が聞こえたんですよ。犯人と揉み合いになってる時に」
「どんな音でしたか?」
「カタンというような、そんな感じの音でした」
「小さな物ですか?」
「たぶん、そうだと思います。音も小さかったので」
「場所は梯子の近くですか?」
「だと思います。少しは動いたかもしれませんけど」
「それはトモコさんの持ち物ではないんですね?」
「私の物ではないですね。何もなくなった物はないので」
「じゃあ、犯人が落とした物かもしれませんね?」
「そうですね。はっきりと見た訳じゃないですけど」
「ねぇ、マリ。公園に行ってみようか」
「そうね。現場検証してみましょうか」
 
 公園に到着するや否や、僕らは携帯電話を懐中電灯代わりに現場検証を開始した。三人で滑り台の周辺を歩き回る。
「えっと、梯子の近くだってトモコさん言ってたよね」
「この辺りね」
「あっ、何か落ちてるよ」
 ユリが左手の人差し指で闇に覆われた地面を指差した。
「えっ? 本当に?」
「どこ? どこ?」
 僕とマリが視線を彷徨わせる傍ら、ユリは腰を屈めて地面へ左手を伸ばす。
 すぐに立ち上がり左手を差し出す。右手に持った携帯電話で拾得物を照らし出す。
「ほら、これ」
 ユリの掌には犬のキャラクターのキーホルダーが乗っていた。そのキーホルダーにはどことなく見覚えがあった。
「あっ、これって……」
「そうよ。確か……」
 何か重要な事に気がついたのか、ユリとマリは驚愕の表情で互いを見合っている。
「マリ、どうしようか?」
「そうね。やっぱ、ここは罠を仕掛けてみない?」
「これを利用して、ここに誘き寄せるの?」
「そうよ。見つからないから、トモコさんの勘違いかもしれない。だから、もう探すのを止めたとか言えば絶対に来るわよ」
「うん。電話してみるね」
 言うが早いか、ユリは携帯電話を掛けた。当然ながら川島さんに掛けたのだと思いきや、聞こえてきたのは違う男の声だった。
「はい。ユリさんですか?」
「大変です! トモコさんが襲われたんですよ!」
「えっ……? 襲われた……?」
「幸い軽い怪我で済んだんですけど、かなりショックを受けてるみたいなんですよ」
「どこで襲われたんですか?」
「桜公園です」
「今、そこにいらっしゃるんですか?」
「そうです。ちょっと探し物をしてるんですよ」
「何を探してらっしゃるんですか?」
「何かは分からないんですけど、犯人が何かを落としたらしいんですよ」
「犯人が? 争ってる時に落としたって事ですか?」
「おそらく、そうだと思います」
「それで見つかったんですか?」
「いえ、それが見つからないんですよ」
「それらしい物はないんですか?」
「ありませんね。でも、もしかしたら勘違いかもしれないですね」
「勘違い? どういう意味ですか?」
「トモコさんが言ってたんですよ。もしかしたら、物音は空耳だったかもしれないって。田口さんにも手伝っていただこうと思って、それで電話してみたんですけど。もう諦めて帰る事にします。これ以上探しても出てこないと思うので」
「そうですか……」
「また何かあったら、すぐに電話しますね」
「はい。お願いします」
 二人の会話を聞きながら僕は唖然と口を開ける。
 そんな、この人がストーカーだったなんて……。
「さぁ、茂みに隠れて待とうか」
 通話を終えて携帯を折り畳むと、ユリは勝利を確信したような笑みを浮かべた。
 
「来ないね……」
「もうすぐ来るよ、きっと」
「そうよ。絶対、来るわよ」
 街灯に照らされて幻想的に輝く夜桜を見つめながら、茂みに身を潜めて獲物が来るのを待つ。
 もう二十分以上は経過しているのに人影一つ見当たらない。たまに車の走行音が聞こえてくるだけで、夜の桜公園は静寂に包まれている。
 本当にあの人は現れるのか?
 もしかして罠だと見破られてしまったのか?
 だからいくら待っても来ないのか?
 そんな危惧が胸を掠めて、深く息を吐き出した時だった。
「あっ、誰か来たよ」
 ユリの囁き声が耳に入ってきて、僕は息を殺しながら目を凝らす。
 犯人の姿は闇に包まれて見えなかった。懐中電灯片手に探しているらしい。闇の中で光の輪が左右に走る。
「行くよ」
 合図を送るや否や、ユリは茂みの陰から飛び出していった。
 僕とマリも走るユリの背中を追いかける。闇の中で砂を蹴る音がやけに大きく鳴る。
 ユリとマリの足が止まり、僕はユリの隣で立ち止まった。
 その男は街灯の明かりに照らされながら背中を向けて立っていた。
 僕らの存在に気がついたらしく、男は慌てた素振りで振り返った。
 何度も見たあの顔が僕らの前に現れる。
「やっぱり貴方だったんですね」
「あんたがストーカーだったのね」
「ストーカーの正体……」
「それは……」
 例によって交互に喋った後、ユリとマリの声は一つになった。
「田口さん、貴方だったんですね」
 ユリとマリに犯人と名指しされて、田口さんは言葉も無く立ち尽くしていた。
 呆然としたその表情が苦笑へ変わっていく。
 潔白を訴えるように、両腕を横に広げながら喋り出す。
「待ってくださいよ。どうして僕が?」
「田口さん、ケンが殺された四月六日の夜は家にいらっしゃいましたか?」
「もちろんですよ。夜中なんだから寝てたはずですよ」
「おかしいですね」
「あんたは出掛けてたはずよ」
「何故そう思うんですか?」
「バイクがなかったんですよ。家の前にあるはずのバイクが」
「バイク好きの男が証言してくれたわよ」
「バイク好きの男?」
「貴方の家の前にあるバイクを見てる男性がいたんですよ。前を通りかかる度に見ていたらしいんですよ」
「その男が証言してくれたわよ。ケンが殺された四月六日の夜中、バイクがなかったってね。それもそうよね。だって、あんたはバイクに乗ってトモコさんの家に行ってたんだから。ケンを殺す為にね」
「そして桜井さん襲撃事件。貴方はここで失言をしましたよね?」
「あんた、喫茶店で喋ってた時にこう言ってたわよね? その金属バットが凶器と見て間違いないんですか? って」
「私は棒です、としか言いませんでした。なのに貴方は金属バットと言いました。鉄かもしれないし、プラスチックかもしれないのに」
「そう、あんたは凶器が金属バットだって知ってたのよ。だって金属バットを使って桜井さんを殴ったのはあんたなんだからね」
「貴女達には失望しましたよ。そんな事が証拠になるんですか?」
 田口さんは肩を竦めながら盛大に溜め息をつく。
「では、バイクがなかったのは何故ですか?」
「そんな真夜中にどこ行ってたのよ?」
「思い出しましたよ。ケンが殺された日は確かにバイクで出掛けました。でも、ケンを殺しにトモコちゃんの家に行った訳じゃないですよ。喉が渇いたから近くの自販機までジュースを買いに行ったんですよ」
「失言に関してはどう説明されるんですか?」
「認めなさいよ。うっかり口を滑らしたって」
「それだって金属バットだと思い込んで言っただけですよ。そんな事で犯人扱いされたら堪らないですね」
「ここに来たのはどうしてですか?」
「そうよ。あんた、何しに来たのよ?」
「僕はただ探しに来ただけですよ。犯人の物が本当に落ちてるかもしれないと思って」
「いえ違いますよね?」
「あんたはあれを回収しに来たのよね?」
「だから違いますよ。僕はただ……」
「あれは貴方の物ですよね?」
「あたし達、さっき見つけたのよ」
「えっ? 見つからなかったから帰ったんじゃないんですか?」
「あれは嘘ですよ」
「あたし達が仕掛けた罠よ」
「本当は見つけたんですよ」
「でも、見つからなかったって嘘をついたのよ。あんたをここに誘き寄せる為にね」
「見つからなかったから諦めたと言えば、貴方は必ずここへ来ると思ったんですよ」
「現場に残してきた決定的な証拠を取り戻す為にね」
「僕のじゃないですよ。きっと、たまたま犯人も同じ物を持っていただけですよ」
「いえ貴方の物です。それ以外、考えられません」
「証拠はあるんですか? その犬のキーホルダーが僕の物だっていう証拠は?」
 田口さんがその言葉を口走った直後、無言の時間が訪れた。
 隣を振り返るとユリの横顔には微笑が浮かんでいた。
「田口さん、貴方は今ご自分で犯人だとお認めになったんですよ?」
「遂に口を滑らせたわね」
「どういう意味ですか?」
「私達、犬のキーホルダーなんて一言も言ってませんよ? あれとしか言ってませんよ?」
「それなのに、どうして犬のキーホルダーだって分かったのよ?」
「確かに私達が見つけたのは犬のキーホルダーでした。そう、これです」
 ユリは左手を開いて掌を見せる。掌にはさっき見つけた犬のキーホルダー。
「でも、どうしてあんたがそれを知ってるわけ?」
「そういう事だったんですか……」
 田口さんは肩を落としながら項垂れた。罠に掛かった事に気がついて溜め息を吐き出す。
「田口さん。貴方、トモコさんの事が好きだったんですね」
「喫茶店で山下さんが話してた、あんたの好きな人っていうのはトモコさんの事だったのね」
「ええ、そうですよ」
「このキーホルダーはトモコさんの影響で付けるようになったんですか? 彼女がこのキャラクターを好きだから」
「その通りですよ。トモコちゃんは僕の気持ちになんて気づいてませんでしたけどね」
「どうしてこんな事を? 好きだったんじゃないんですか?」
「そうよ。何でトモコさんにまで傷つけるような事したのよ?」
「あの子が悪いんだよ。あの子が桜井と付き合うから……」
「そんなのただの逆恨みじゃないですか」
「あんた、話にならないわね。そんなんだからモテないのよ」
「うるさい! 僕は何も悪くないんだ!」
「もうこれ以上、罪を重ねないでください。大人しく捕まってください」
「その腐った根性、牢獄の中で叩き直してきなさい」
「捕まりませんよ」
 顔を伏せたかと思うと、田口さんは肩を揺らしながら笑い出した。
「だって……」
 肩を揺れが止まるのと同時に右手が素早く動いた。
「ユリさん達にはここで死んでもらいますからね……」
 真っ直ぐに伸びた田口さんの右手にはグロッグ26アドバンスが握られていた。
 恐怖に体が凍り付いた瞬間、銃声が響き渡った。
 だけど、それは田口さんが発砲したからではなかった。
 田口さんの右手には何故かグロッグが握られていなかった。
 目線を下げるとグロッグは砂の上に転がっていた。
 慌てて振り向く。ユリが真っ直ぐに左腕を伸ばしている。その手にはベレッタM92。
「さぁ、今度こそ観念するのね」
 僕がやっと状況を理解した時、マリは右手にグロッグを持っていた。印籠を見せつけるように顔の横に掲げている。いつの間にか拾い上げたらしい。
「ユウちゃん、百十番して」
「あっ、うん……」
 ユリの指示を受けて僕はズボンのポケットに手を入れた。
 ポケットの中の携帯を掴んで手を出そうとした、その時だった。
「くそっ!」
 ポケットに手を入れたまま顔を上げると田口さんが逃走していた。砂を蹴り飛ばしながら猛然と走っていく。
「田口さん!」
「待ちなさい!」
 ポケットから手を出した時、すかさずユリとマリも追走を開始した。
 僕がブランコの前を通り過ぎた頃、田口さんは入口の前でバイクに跨っていた。
 エンジン音が轟き、漆黒のバイクが走り出す。
 右側へ走っていき、茂みに隠れて僕らの視界から消え去る。
 道路に出るとバイクのテールランプが彼方に浮かんでいた。
 またもや大捕物が始まるのかと思いきや、逃走劇は呆気なく幕を閉じた。
 闇夜を切り裂いた銃声は走っていた僕の足を急停止させた。
 田口さんの身体がバイクから転がり落ちていく。
 バイク共々、道路の上に倒れ込む。
 僕はユリの元へ駆け寄っていき隣に並んだ。
 左利きのガンウーマンは両手でベレッタを構えていた。銃口から吹き出た煙が闇の中を靄のように漂う。
 ユリがベレッタをホルダーに収めて走り出す。僕とマリはユリの後ろ姿を追いかける。
 僕らが目の前に立ちはだかった時、田口さんは呻き声を上げて上体を起こした。あぐらをかくように両足をくの字に曲げて道路に座り込んでいる。
「さぁ、いい加減にお縄につきなさい」
 マリが両手を腰に回しながら迫る。
「逃げませんよ。もう逃げませんから……」
 田口さんは顔を引き攣らせながら体を後ろに引いていた。
 それから約十五分後、田口さんは駆けつけたパトカーに乗せられて連行されていった。
 パトカーのサイレンが聞こえなくなった頃、ユリは颯爽と踵を返して呼びかけた。
「さぁ、トモコさんの家に戻って報告しよう」
 
「田口君が……?」
 トモコさんは衝撃の事実を聞かされて、大きく目を見張りながら絶句した。
「そうです。さっき、パトカーに乗せられて連行されていきました」
「全部、田口君だったんですか……?」
「はい。自白してくれました」
「そんな……」
 わなわなと唇を震わせながら、膝の上で両手の拳を握り締める。ストーカーの正体が田口さんだった事に計り知れない衝撃を受けているのは想像に難くない。
「あの、ユリさん……」
 急に顔を上げたかと思うと、トモコさんは何か言いたげに口を開いた。
「何ですか?」
「私なんです。話を持ちかけられたのは私なんです」
「話? 何の話ですか?」
 ユリが小首を傾げながら聞くと、トモコさんの震える唇から衝撃の告白が飛び出した。
「暗闇の狙撃手に話を持ちかけられたのは私なんです……」
 しばらくの間、僕らは言葉を発する事が出来ずに呆然とトモコさんの顔を見つめていた。
 永遠に続くかとも思えるような沈黙を終わらせたのはユリだった。
「トモコさんが……?」
「はい。私です……」
「トモコさんの方から依頼されたんですか?」
「いえ、話を持ちかけてきたのは向こうでした」
「詳しいお話、聞かせていただけますか?」
「はい……」
 トモコさんは小さく頷くと、静かな声でゆっくりと語り始めた。
 
 七月十九日、トモコさんはデパートのアクセサリー店でシルバーアクセサリーを見ていた。自分の買い物ではなく、カズヤさんへの誕生日プレゼントを選ぶ為に。
 いつくか品を見ていった末に、十字架のネックレスを買う事に決めた。カウンターにネックレスを置くなり、店員のお姉さんに頼んだ。
「プレゼント用にラッピングしていただけますか?」
「プレゼント用ですね。男性用ですか?」
「はい。男性です」
 会計が終わった後、店員さんはカウンターの奥へ移動して包装を始めた。戻ってきて包みを見せる。
「お待たせ致しました。このような感じでよろしいですか?」
「はい。ありがとうございます」
 明日、お兄ちゃんの家に行って渡そう。喜んでくれるといいな。
 トモコさんは受け取った包みを抱きかかえて微笑んでいた。
 
「おおっ、トモコ。どうした?」
 トモコさんがチャイムを鳴らすと、ドアが開いてカズヤさんが顔を出した。
「ちょっと用事があって来たの。渡したい物があってさ」
「渡したい物? まあ上がれよ」
「うん」
 二人は部屋に入っていき、テーブルを挟んで顔を突き合わせた。
「それで用事って何だ?」
「はい。誕生日プレゼント」
 トモコさんはハンドバッグから包みを出して両手で差し出した。
「おっ、マジで?」
 カズヤさんが笑顔を零しながら受け取る。包みを開けて十字架を出す。
「おっ、シルバーアクセか」
「お兄ちゃん、こういうの好きでしょ?」
「ああ、まあな」
「付けてみてよ」
「おおっ、そうだな」
 カズヤさんはネックレスを首にかけた。
「どうだ?」
「うん。格好いいんじゃない?」
「だろ? ありがとな、トモコ」
 カズヤさんがトモコさんの頭をぽんぽんと右手で撫でる。
「うん」
 トモコさんは照れ臭そうに首を竦めながら笑っていた。
 
 カズヤさんから電話が掛かってきたのはそれから一ヶ月後の事だった。
 その日の夜、トモコさんは自室でテレビを見ながら寛いでいた。番組が終わった頃、ちょうど机の上で携帯が着信音を奏でた。
 手に取って画面を見ると、高橋カズヤと表示されていた。その時、何故か得体の知れない不安に襲われた。トモコさんは急いで携帯を開いて電話に出た。
「もしもし、お兄ちゃん?」
「あっ、トモコ……」
 カズヤさんの第一声は怯えたような声だった。
「どうしたの……?」
「ちょっとな、相談したい事があるんだよ」
「相談? 何?」
「電話じゃ言いにくい事だからさ。直接、会って話したいんだけどさ」
「うん、いいけど。どこで?」
「近くに喫茶店あるだろ? あそこでいいか?」
「いいよ。何時?」
「明日の一時でどうだ?」
「大丈夫だよ」
「じゃあ一時にな」
「うん」
 折り畳んだ携帯を両手で包み込んだまま、トモコさんは考えていた。
 お兄ちゃん、どうしたんだろう?
 すごく深刻そうな声だったけど。
 話って一体、どんな話なんだろう……?
 
 翌日、トモコさんは近所の喫茶店でカズヤさんと会っていた。向かいに座るカズヤさんの表情は見るからに不安げで、精根尽きたようにコーヒーカップを見つめていた。
「お兄ちゃん、話って何?」
「あのさ、トモコ。金、貸して欲しいんだよ」
「お金? 何で?」
「実はさ、借金があるだよ」
「借金? いくら?」
「二百万だよ」
「二百万……? 何でそんなに……?」
「パチンコとかで負けまくってさ。それで何度も借りてたらさ。気がついたら、そんなになってて……」
「借りてたらって消費者金融とか、ああいうの?」
「そうそう。頼む、トモコ。貸してくれないか?」
「でも、私そんな大金持ってないよ?」
「少しでもいいんだよ。頼むよ」
「お父さんとお母さんに相談しようよ」
「いや、それは止めてくれ」
「どうして?」
「父さんと母さんには知られたくないんだよ」
「でも……」
「とにかく、父さんと母さんには内緒にしておいてくれ。なっ?」
「うん。分かったよ」
「それでさ、いくら貸してくれる?」
「十万円くらいなら何とかなるけど……」
「十万か」
「でも十万じゃ全然足りないよね?」
「いや、あとは何とかするよ」
「何とかってどうやって?」
「大丈夫だよ。何とかするから」
「お兄ちゃん、本当に大丈夫……?」
「大丈夫だよ。じゃあ十万頼むな」
 そして、それから三日後。高橋家に二人の刑事が訪れた。
 
 扉を開けると見知らぬ二人の男が立っていた。背広姿の二人を見て、最初は何かのセールスだと思った。
「どちら様ですか?」
「私は警視庁の大島という者です」
「同じく小田という者です」
 二人は警察手帳を示しながら自己紹介をした。大島刑事が警察手帳を胸ポケットに戻して話を続ける。
「ちょっとカズヤさんの事で、お話を伺いたいんですがね」
「お兄ちゃんの?」
「お兄さんという事は貴女は妹さんですか?」
「はい。高橋トモコです」
「トモコさん、御両親は今いらっしゃいますか?」
「はい。いますけど」
「では、中でお話を伺いたいのですがね。お邪魔してよろしいですか?」
 しばしの逡巡の末、トモコさんは僅かに顔を動かして頷いた。
「ええ、はい。どうぞ……」
 どうして警察の人がうちに? 
 しかも、お兄ちゃんの事を聞きたいって何で?
 お兄ちゃんに何かあったのかな?
 トモコさんは不安に苛まれながら二人を家に招き入れた。
 テーブルに置かれた物を目にした瞬間、トモコさんは大きく目を見張った。
 これ、私がお兄ちゃんにあげた十字架だ。何でこの人が持ってるの?
 言うかどうか迷ったけど、トモコさんは正直に打ち明ける事にした。
「これ、私があげた物です……」
 トモコさんは大島刑事に十字架のネックレスの事を説明した。
 それからトシオさんと大島刑事が押し問答を始めた。 
 だけど、トモコさんの耳には二人の会話は入ってこなかった。
 トモコさんはただ呆然とテーブルの上の十字架を見つめていた。
 
 大島刑事と小田刑事が帰った後、高橋家の食卓は異様な雰囲気に包まれていた。トモコさんもトシオさんもケイコさんも、三人揃って無言で箸を動かしている。
「ねぇ、お父さんお母さん。私、あの話しない方がよかったのかな?」
「別に隠す必要はないだろ。カズヤは無実に決まっているんだからな」
「そうよ。何もやましい事なんてないんだから」
「それよりトモコ。そういう大事な話はすぐお父さん達に教えるんだぞ」
「うん。ごめんなさい……」
 小さく頭を下げて謝るトモコさん。
「お兄ちゃん、犯人じゃないよね?」
「当たり前だろ。カズヤがそんな事する訳ないだろ」
「そうですよ。カズヤに限ってまさかそんな」
「じゃあ、あの似た人っていうのは?」
「有名人に似てるっていうあれか?」
「石田ヨウスケに似てる人がうろついてたってあの話?」
「うん。あれは何かな?」
「あんなの当てになるか。ただの見間違いかもしれないぞ」
「ええ、カズヤじゃありませんよ」
「そう、かな……?」
 
 夕食後。トモコさんはベッドに横たわり、カズヤさんの事ばかり考えていた。胸の中でどんどん不安は膨らんでいき、心配で堪らなかった。
 いてもたってもいられなくなり、ベッドから飛び降りた。机の上の携帯を手に取り、ベッドに腰掛けてから電話を掛けた。
 五回のコール音が鳴った後、カズヤさんの声が聞こえてきた。
「トモコ?」
「あっ、お兄ちゃん?」
「どうした?」
「今日ね、警察の人達が来たよ」
「やっぱり来たか。あいつら、何か聞いてきたか?」
「うん。色々聞かれたよ」
「どんな事、聞かれたんだ?」
「お兄ちゃんがお金に困ってないかとか」
「それで何て答えたんだ?」
「私、借金の話しちゃったよ」
「話したのか?」
「うん。話さない方がよかったかな?」
「いや別にそんな事ないけどさ」
「そう? ならいいけどさ……」
「父さんと母さんは何か言ってたか?」
「黙ってた事、お父さんに怒られちゃったよ」
「借金の話か?」
「うん。何で黙ってたんだって」
「そっか。トモコ、ごめんな」
「ううん……」
「それで他には?」
「あとネックレスを見せられたよ」
「ネックレス?」
「何かね、ビニールに入ったの見せられたの。その中にね、銀色の十字架が入ってたの」
「十字架? それがどうかしたのか?」
「現場に落ちてたんだって」
「現場に?」
「強盗のあった家の隅に落ちてたんだって」
「十字架がか……?」
「うん……」
「そ、そうか……」
「ねぇ、お兄ちゃん。あれ、お兄ちゃんのなの?」
「ち、違うよ……」
「私があげたやつじゃないの?」
「そ、そんな訳ないだろ……」
「警察の人達、お兄ちゃんが犯人だって思ってるみたいだよ。お兄ちゃんに借金があるから。だから……」
「おい、トモコまで俺の事を疑ってるのか?」
「違うよ。でも……」
「くそっ、あいつら本当に頭にくるな」
「ねぇ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「お兄ちゃん、犯人じゃないよね……?」
「当たり前だろ」
「女の人も殺してないよね……?」
「だから俺じゃないって」
「信じてもいいんだよね……?」
「信じろ。俺は犯人じゃないから」
「うん。分かった……」
 そうだよ。お兄ちゃんが人殺しなんてする訳ないよ。
 あの優しいお兄ちゃんがそんな事する訳ないよ。
 お兄ちゃんは無実だよ、絶対に。
 まるで自分に言い聞かせるように、トモコさんは心の中で繰り返していた。
 
 信じ難い知らせが耳に入ったのは自室で読書に勤しんでいる時だった。読み疲れてきたら休憩を取ろうと、文庫本を机に置いたその時。
 廊下から足音が聞こえたかと思うと、激しくドアがノックされた。
「トモコ!」
 ドアの向こうから響いてきたのはトシオさんの悲痛な声だった。その声の調子から瞬時にただ事ではないと悟った。
 トモコさんは胸騒ぎを覚えながら、椅子から立ってドアを開けた。トシオさんは蒼白の表情で棒立ちになっていた。
「どうしたの?」
「カズヤが……」
「お兄ちゃんが?」
「カズヤが病院に運び込まれたって……」
「病院?」
「たった今、電話があったんだよ」
「何で? お兄ちゃん、病気なの?」
「怪我をしてるらしいんだよ」
「どうして? 事故?」
「それが事故でもないらしいんだよ」
「じゃあ何で?」
「とにかく病院へ行くぞ」
 
「先生、カズヤの容体はどうなんですか?」
「それが意識不明の重体なんです」
「意識不明……?」
「生死の境を彷徨っているような状態です。かなり危険な状況ですね」
「カズヤは助かるんですか?」
「正直に申し上げると極めて厳しい状況です」
「お願いします! カズヤを助けてください!」
「もちろん我々としても最善は尽くしています。ですが……」
「お願いします! 何とかしてやってください!」
 トシオさんが医師の白衣の袖を掴んで揺する傍ら、トモコさんは言葉も無く立ち尽くしていた。
 医師との話を終えた後。トモコさん達は病室の外のソファーに腰掛けて、カズヤさんの回復を祈っていた。
「お兄ちゃん、助かるよね……?」
 そんな事を聞いても分かるはずもないと知りつつ、御両親に向かって問い掛ける。
「大丈夫だ。絶対に助かるよ。なぁ、母さん?」
「ええ、助かりますよ。絶対に」
 トシオさんもケイコさんも、自分に言い聞かせるように断言する。
 そうだ。お兄ちゃんが死んだりする訳ない。お兄ちゃんは絶対に助かるんだ。
 だけど、そんな三人の希望的観測は無残にも打ち砕かれてしまった。
 手術室の扉から出てきた執刀医は沈痛な表情を浮かべていた。
「先生、カズヤは……?」
 ソファーから立ち上がるなり、トシオさんが声を震わせながら尋ねる。
 執刀医はマスクを口の下へずらすと最悪の結末を告げた。
「残念ながら、お亡くなりになられました」
 トモコさんは一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。頭の中が真っ白になり、目の焦点が消失した。
「お会いになりますか?」
「はい……」
 声を振り絞るようにして、トシオさんは微かに頷いた。
 カズヤさんはベッドの中で安らかに眠っていた。
 死に顔を目にしても尚、トモコさんはカズヤさんの死を信じられずにいた。
 本当は生きているのかもしれない。
 だから待っていれば目を覚ますかもしれない。
 ベッドの前で震えながら、そんなありもしない事を考えていた。
 
 カズヤさんがこの世を去ってから三日後、トモコさんは虚ろな眼差しでベッドに横たわっていた。
 カズヤさんを失ってから、もぬけの殻のように無気力になっていた。大学へ行く事も出来ずに、自室に籠もって一日の大半を過ごしていた。カズヤさんの顔を思い出す度に涙が零れそうになった。
 また目頭が熱くなってきた時、机の上で携帯が鳴った。重い身体を起こし、ベッドから降りて携帯を手に取る。
 画面には大島と表示されていた。
 最初は出ないでおこうと思った。だけど大事な用事かもしれない。そんな直感が働いたから携帯を開いて電話に出た。
「どうも、大島です」
「何ですか?」
 トモコさんは尖った声で答えた。今更、何の用だという意味合いを込めて。
「近日中にどこかでお会いできませんか? 私と小田と三人で」
「どうしてですか?」
「お返ししたい物があるんですよ」
「返したい物?」
「会っていただけませんか? どうしても嫌だと仰有るならポストに入れておきますが」
「分かりました。いいですよ」
「では、明日でよろしいですか? ちょうど日曜日ですから」
「はい。場所と時間は?」
「貴方のご自宅近くの喫茶店、そこに一時でよろしいですか?」
「喫茶店に一時ですね。分かりました」
 
 翌日の日曜日、トモコさんは約束通り喫茶店で二人と落ち合っていた。コーヒーを飲んでテーブルにカップを置くと、大島刑事は静かに喋り出した。
「トモコさん、御両親の様子はどうですか?」
「お父さん、裁判を考えてるみたいなんですよ」
「裁判?」
「お二人を訴えると、そう言ってます。何か、そういう制度があるそうで」
「もしかして付審判請求の事ですか?」
「はい、それです。今、色々と調べて準備してるみたいです」
「そうですか……」
「それで、返したい物というのは何ですか?」
「これです」
「これ……」
 大島刑事がテーブルに置いた物は銀色の十字架だった。トモコさんは顔を近づけて十字架を見つめる。
「ええ、カズヤさんが身に付けていた物です」
 大島刑事が小さく頷く。トモコさんは右手を伸ばして、そっと十字架を摘み上げた。
 十字架を左手の掌に乗せて、右手を左手の下へ支えるようにして置く。
 目を細めて形見となってしまった十字架を見つめる。今にも溢れそうな涙を堪えながら。
 トモコさんはそっと左手を閉じて十字架を手の中に包み込んだ。
「小田さん、一つお聞きしたい事があるんです」
「何ですか?」
「お兄ちゃんを撃った事、今でも間違ってるとは思ってませんか?」
「ええ、間違ってるとは思ってません」
「どうして……?」
「もちろん、お兄さんの命を奪った事は申し訳ないと思っています。ただ、あの状況では撃つしかなかったんです」
「トモコさん、小田だって何もお兄さんを殺したくて撃った訳ではないんです。人質の命を守る為に発砲したんです。それだけは分かってください」
「でも……」
 トモコさんは顔を伏せてテーブルの木目を見つめた。
 次の言葉を口にしようと息を吸い込んだ。
 でも、お兄ちゃん死んじゃったじゃないですか。
 そう言いたかったけど、そこから先は嗚咽と涙で言葉にならなかった。
 そして二年後、トモコさんは暗闇の狙撃手と出会った。
 
 その日、トモコさんはケンを連れて桜公園のベンチに座っていた。右手に手綱を握りながら砂の上に寝そべる愛犬を眺めていた。
「可愛い犬ですね」
 頭上から聞こえた声に顔を上げると、目の前に一人の男が立っていた。目を細めながらケンを見下ろしている。
「何という名前ですか?」
「ケンです」
「ケン、雄ですか?」
「はい。雄ですよ」
「僕も犬を飼ってるんですよ。ブラックという名前なんですけどね。隣、よろしいですか?」
「はい。どうぞ」
 トモコさんは体を横に動かして場所を空けた。空いた空間に男性が腰を下ろす。
「すいません。煙草、吸ってもいいですか?」
「はい。構いませんよ」
「では失礼します」
 男は胸ポケットから箱とライターを出した。煙草を一本抜いてライターで火を付ける。
「男の人ってみんな煙草吸いますよね」
「僕、ヘビースモーカーなんですよ。貴女は吸われないんですか?」
「私は吸いませんけど兄がヘビースモーカーだったんですよ」
「でした? でした、というのは?」
「二年前に亡くなったんです」
「交通事故とか、ご病気ですか?」
「いえ違います。お兄ちゃん、強盗殺人事件の容疑者だったんです」
「強盗殺人、ですか?」
 トモコさんは事件の詳細を男に語った。カズヤさんが強盗殺人事件の容疑者で、警官に撃たれて亡くなった事を淡々と話した。
「あの事件ですか。覚えてますよ。確か御両親が裁判を起こしたんですよね。最高裁まで進んだけど、結局は無罪が確定したのですよね?」
「はい。勝てると信じてたんですけど……」
「なるほど。カズヤさんの妹さん、高橋トモコさんですね?」
「はい。そうです」
「その二人の刑事の事、怨んでらっしゃるんですか?」
「正直に言うと今でも怨んでます」
「その二人の名前は何というんですか?」
「大島と小田という人です」
「お兄さんの命を奪ったその二人が憎い訳ですね」
「それと裁判官と弁護士の人も」
「裁判官と弁護士?」
「最高裁の裁判官の人、柳沢という人だったんです。それと検察側の弁護士が原田という人で。その二人も許せなくて……」
「つまり、こういう事ですか。二人の刑事に無罪判決を下した柳沢判事と、それに一役買った原田弁護士も許せないと」
「はい……」
「なるほど。そうですか……」
 男は意味深な微笑みを浮かべながら、爽やかな春の青空を見上げていた。
 
 その日以来、トモコさんは男と桜公園で頻繁に顔を合わせていた。二人並んでベンチに腰掛けて他愛もない雑談に耽っていた。
 そんなある日の事、男は唐突に妙な事を打ち明けた。
「実はね、トモコさん。僕、暗闇の狙撃手なんですよ」
「暗闇の狙撃手? 何ですか、それ?」
「いわゆる殺し屋ですよ」
「殺し屋……?」
「僕ね、これまで何人もの人間を銃殺してきたんですよ。漆黒のフェラーリに乗って、グロッグ26アドバンスという銃で」
「そんな、まさか……」
「信じられませんか?」
「だって、そんな……」
「ねぇ、トモコさん。あの四人の事、憎んでらっしゃるんですよね?」
「あの四人?」
「ほら、前にお話されていたじゃないですか。大島と小田という刑事二人と、柳沢判事と原田弁護士。この四人が許せないと」
「あっ、あの話ですか」
「トモコさん。その四人、僕が消して差し上げましょうか?」
「消す?」
「もちろん殺すという意味ですよ」
「そんな、殺すって……」
「憎いのでしょう? あの四人が憎いのでしょう?」
「それはまあ……」
「報酬さえお支払いいただければ殺して差し上げますよ。どうです?」
「でも殺すなんて……」
「心配いりませんよ。貴女が依頼主である事は決して発覚しません。もちろん僕が逮捕される訳もない」
「本当に殺し屋なんですか?」
「本当ですよ。一人殺して差し上げたら信じていただけますか?」
「ええ、はい……」
「いいでしょう。では、まず始めに柳沢判事を殺して差し上げますよ」
 
 回想と自白を終えると、トモコさんはゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が滲んでいる。
「私、最初は半信半疑だったんです。殺し屋というのも殺すというのも。でも次の日になったら本当に殺されてて……」
「私達にストーカー調査の依頼を持ちかけた時、あの時はまだ彼が暗闇の狙撃手だと知らなかったんですか?」
「知りませんでした。だから、私てっきりあの人がストーカーだと思って……」
「そうだったんですか……」
「ユリさん、あの人、言ってたんですよ。次は小田刑事を殺すって……」
「小田刑事を……?」
「この前、彼から電話があったんですよ。病院の向かいにビルがあるそうなんですけど、そこの屋上からライフルで狙撃するって。そう話してたんです……」
「いつですか?」
「いつかは言ってませんでした。でも、近いうちにやるから楽しみにしててくださいって……」
 屋上からライフルで狙撃か。次のターゲットは大島刑事ではなく、小田刑事なのか。
「お願いです。あの人を止めてください。これ以上、殺さないように捕まえてください……」
 僕はユリの横顔に視線を注ぐ。ユリはじっとトモコさんの目を見つめ返している。
「分かりました。絶対に捕まえてみせます」
 ユリは硬く唇を結びながら大きく頷いてみせた。
 
「今日も来ないわね」
「うん。そうだね」
「昨日も一昨日も来なかったし。もしかしてもう諦めたのかしらね?」
「だといいんだけどね」
「でもさ、油断させといて忘れた頃に来るかもしれないわよね」
「そうだよね」
 暗視鏡で向かいのビルを監視していると、マリとユリの会話が耳に流れ込んできた。僕らは三方向に散っている為、二人は大きめの声が聞こえてくる。
 張り込みを開始してから三日目。幸か不幸か暗闇の狙撃手は一向に姿を見せない。今日もまた今の所は異常なし。
 それにしても春とはいえ屋上は少し肌寒い。僕はパーカーを羽織っている上半身を抱き締めるようにして身震いをする。
「ねぇ、ユリ。それ、マシンガンよね?」
「そうだよ。一応、持ってきたの」
「重そうね」
「重いよ。九キロくらいあるよ」
「あたし持ってみたいわ」
 暗視鏡を目から外して振り返ると、マリがユリの隣に立っていた。いつの間にか移動したらしい。
「うん。いいよ」
「よーし……」
 マリは腰を屈めて両手でマシンガンを持ち上げた。
「お、重いわね……」
 両腕を震わせながら顔を歪めている。
「だだだだだだ!」
 銃口を正面に固定したまま、口で連射音を叫ぶ。
「快感……」
 目を閉じて、ご満悦な表情で呟く。言うと思った。
「こんな重いの撃つのはあたしには無理ね」
 気が済んだらしく、マリは腰を屈めてマシンガンを足下に寝かせた。
「ユウちゃーん」
 ユリは遠巻きに眺めていた僕に手招きをする。
「ユウちゃんも持ってみる?」
「う、うん……」
 せっかくのお誘いなので、僕は持ち場を離れてユリの元へ歩み寄っていった。マシンガンを担ぎ上げて立ち上がって構える。
「ほ、本当に重いね……」
 ふらつきそうになるのを両足で踏ん張って堪える。早くも両腕が張ってきたから、マシンガンを足下に置いた。
 それにしても緊張感が薄れてきている。まるで遊びに来たみたいな雰囲気だ。こんな事でいいのかな。
「さぁ、休憩はこれくらいにしましょう。各員、配置に着いてください」
 そんな僕の心配を振り払うかのように、ユリが手を叩いて場の空気を引き締めてくれた。
 僕らは再び持ち場に着いて警備を続行する。暗視鏡で両目を覆い、右へ左へ動かす。
 暗闇の狙撃手は忘れた頃にやって来るかもしれない。油断大敵という四字熟語を胸に刻みながら、緑色の世界の中に暗闇の狙撃手を探す。
 だけど暗闇の狙撃手は一向に現れない。時折、病院の前を車が通り過ぎていくだけ。不審人物も見当たらない。
「やっぱり今日も来ないのかしらね」
 退屈そうなマリのぼやき声が闇夜に漂った、その時だった。
 僕は向かいのビルの屋上に人影を発見した。何をするでもなく、じっと突っ立っている。
 帽子を目深に被っている為、顔は見えない。だけど、どう見ても性別は男だ。
「ユリ、マリ……」
 暗視鏡を目から外して左右に首を曲げて呼びかける。
「ユウちゃん?」
「どうしたの?」
「こっち……」
 空いている方の左手で手招きする。二人は駆け寄ってきて僕を挟んで両脇に立った。
「あそこに誰かいるよ……」
 震える指先で闇の中に佇む不審人物を指し示す。
「あそこ?」
「どれ?」
 ユリはライフルのスコープを覗き込み、マリは暗視鏡を目に当てる。
「本当だね」
「怪しいわね」
「あれ、もしかしてそうなのかな?」
「あっ、座ったわよ」
 マリの報告を聞いて再び暗視鏡を覗いてみる。確かにさっきまで立っていた男は腰を下ろしていた。
「やっぱり、あいつ……」
 マリが何か言いかけた、その直後。男は何かを右肩に担いだ。
「あっ……」
「あれって……」
 ユリとマリが驚愕の声を漏らす。
 男が肩に担いだ細長い物体はライフルだった。
 小田刑事が撃たれると息を呑んだ次の瞬間、鳴り響いた銃声に体が震え上がった。
 続いてビルの下で何かが落下した物音が耳に入ってきた。
 最初は暗闇の狙撃手が撃ったのかと思った。だけど違った。
 暗視鏡を目から外してユリを見ると、ライフルの銃口から煙が吹き出ていた。
 再び暗視鏡を覗く。男が構えていたはずのライフルが見当たらない。
 そこでようやく事態を把握した。ユリがライフルでライフルを狙撃してビルの下に落下させた事を。
 男が右へ左へ忙しなく首を動かす。己のライフルを落下させた狙撃手の姿を探し求めて。
 急いで立ち上がり、左へ走っていく。暗視鏡からその姿が消える。
「追うよ!」
「待ちなさい!」
 僕が暗視鏡を目から外した時、ユリとマリは既に走り出していた。
 二人の背中を追いかけたけど僅か数歩で足を止めた。
 マシンガンが置きっ放しだ。ここに置いていく訳にもいかない。
 一旦、引き返す。右肩にマシンガンを担いで再び走り出す。
 病院の外に飛び出すと小田刑事が呆然とした顔で立ち尽くしていた。
「ユリさん、マリさん。さっきの銃声は……?」
「小田さん! 大島刑事の事、頼みましたよ!」
「あたし達、暗闇の狙撃手を追いかけるから!」
 駐車場に辿り着いた頃、メアリーがエンジン音を轟かせていた。ユリは運転席に、マリは後部座席の左側に座っている。後部座席の窓から二人の姿が見える。
 マリにドアを開けて貰い、後部座席の右側に座る。荒い呼吸で肩を上下させる。
 マシンガンを担いでの激走で太腿は硬く張っていた。腕と右肩が痛い。
 シートの下にマシンガンを寝かせる。右手の甲で額の汗を拭って一息つく。
「あっ、忘れてたわね」
 マリが僕の足下に目を向ける。今、置いたライフルとマシンガンに。
「ユウちゃん、持ってきてくれたんだ」
 アイドリング音が響く中、ユリがハンドルを握る。バックミラー越しに目が合った。
「よーし! 飛ばすよ!」
 ユリの掛け声が車内に木霊し、エンジンが唸りを上げる。
 メアリーが駐車場を飛び出して走り出す。
 ビルに向かって走行していると、猛スピードで走る黒い車が窓の外を過ぎっていった。
 甲高いブレーキ音が耳を突き刺し、メアリーが急停止。
 慣性の法則に従い、体が前に倒れる。
「逃がさないよ!」
 ユリの勇ましい声が飛ぶ。メアリーがスピン音を響かせながらUターン。
 今度は後部座席のドアに体がぶつかる。体勢を立て直す暇もなく、メアリーが急発進。
 運転席のシートに頭が激突しそうになる。両手で盾を作って回避。
 両手で運転席のシートにしがみつきながら前方を見る。
 フロントガラスの向こうで、漆黒のフェラーリがエンジンを唸らせながら激走している。
 こうして、メアリーと漆黒のフェラーリによる壮絶なカーチェイスが幕を開けた。
 
 漆黒のフェラーリは赤信号を無視して逃走していた。
 盛大にクラクションを鳴らされながら、横断歩道を激走していく。
 もちろん僕らが乗ったメアリーも突き進んでいく。
「悪いわね! 信号守ってる場合じゃないのよ!」
 マリが振り返りながら叫ぶ。
 カーチェイスの舞台は一般道から高速道路へ。
 闇夜を照らす街路灯の光が次々とフロントガラスを掠めていく。
 料金所が見えてきた。青地に白抜きの字。ETC.専用の看板が迫ってくる。
 漆黒のフェラーリが料金所を通過。続いて僕らのメアリーも通過。
「ユリ! 撃ってくるわよ!」
 マリが大声で警告を発した次の瞬間、一発目の銃声が鳴った。
 メアリーが左へ滑る。僕とマリの体も左へ傾く。
 僕の左肩がマリの右腕にぶつかる。
 二発、三発、四発。続け様に銃声が響く。
 ユリが素早く左右にハンドルを切って銃弾を回避する。
 メアリーが右へ左へ何度も横滑りする。
 マリにもたれかかったままだった僕は体を起こす。
 運転席のシートにしがみつき、背中を丸めて身を守る。
「銃、仕舞ったよ!」
 恐怖に震えていたら、ユリの報告が耳に飛び込んできた。
「なかなか追いつけないわね」
 フロントガラスの向こう側を見つめながら、マリがじれったそうに歯がみをする。
「ユウちゃん! 運転代わって!」
 膝の上で拳を握り締めていると、ユリが前を向いたまま大声で頼んできた。
「えっ? 僕が?」
 突然のご指名に困惑顔でバックミラーを見る。
 ユリの鋭い眼光がバックミラー越しに僕を射抜く。
「早く!」
「わ、分かったよ……」
 言われるがままに二つのシートの間をくぐり、助手席に腰を収める。
「せーので入れ替わるからね。いい?」
「うん」
「せーの……」
 ユリはアクセルから右足を離し、シートの上で体育座りの姿勢を取る。
 僕は腰を上げて空いた空間に足を滑り込ませる。
 ユリは這うようにして運転席から助手席へ。
 僕は中腰の姿勢から運転席に座る。
 すぐにハンドルを握り締めてアクセルを踏む。
 入れ替わりに成功して安堵の溜め息をついた時、疑問に思った。
 何で僕と代わったのだろう? 僕だってそれ程、運転は上手くないのに。
「よーし……」
 僕の疑問を余所に、ユリは助手席の窓から身を乗り出す。
 何をするつもりなのかと、ハンドルを握りながら横目で見守る。
 ユリがガンホルダーからベレッタを抜き取る。そこでやっと入れ替わりの意図を理解した。
 左利きのガンウーマンは真っ直ぐに両腕を伸ばして狙いを定める。
 緊張の余り大きく息を吸い込んだ時、銃声が耳を突き刺した。
 左のリアタイヤを狙撃されたフェラーリが甲高いスピン音を響かせる。
 速度を失った漆黒のフェラーリは中央分離帯に激突して停車した。
「さすがユリ! ストリームの仇、取ってくれたわね!」
 マリが声を弾ませながら胸の前で拳を握る。
「出てきたよ!」
「まだ逃げる気ね!」
 運転席のドアが片翼を広げるように勢い良く開く。車内から男が飛び出してくる。
 メアリーのヘッドライトに照らし出され、闇の中から姿が浮かび上がる。
 男は中央分離帯に沿って逃走していく。
 追走していくと、いつの間にか一般道に出ていた。ニュース番組で閑静な住宅街と表現されるような場所だ。
 左右に立ち並ぶ家々が後方へ流れていく。フロントガラスの向こう側に巨大な建物が姿を現した。
 闇の中、廃工場が不気味な雰囲気を漂わせながらそびえ立っている。暗闇の狙撃手が開け放たれた扉へ駆け込んでいく。
 僕らを乗せたメアリーは車ごと廃工場へ突入。
 堆く積まれた木箱の間を通り抜けていく。
 暗闇の狙撃手の足が止まる。踵を返して僕らへ向き直る。
 急ブレーキが掛かり、ヘッドライトの明かりが消える。
 暗闇の狙撃手の姿が闇に包まれて見えなくなる。
 僕らは一斉にメアリーから飛び降りる。一列に並び、暗闇の狙撃手と対峙する。
「お久しぶりですね、マリさん」
 暗闇の狙撃手がマリに冷たく微笑みかける。
「貴女もご無沙汰ですね、左利きのガンウーマン」
 今度はその冷たい微笑みが僕の隣に立つユリに向けられる。
「私達は田口さんが暗闇の狙撃手で、貴方がストーカーだと思っていました」
「でも逆だったのね」
「暗闇の狙撃手の正体……」
「それは……」
 例によってユリとマリの声が一つに重なり、目の前に立つ男の名を告げた。
「川島ショウゴさん、貴方だったんですね」
「いつ僕の正体に気がついたんですか?」
「ついこの間ですよ」
「最初からあんたの事を疑ってた、って言いたい所だけどね」
「どうして分かったんですか?」
「トモコさんが全て自白してくれましたよ。自分が暗闇の狙撃手に話を持ちかけられたと」
「桜公園で出会って、あんたにあの四人を殺してあげるって言われたってね」
「彼女、喋ってしまったんですか。しまったな。こんな事ならあの女も消しておくべきでしたね」
「これまで現場で目撃された黒い外車というのは田口さんのベンツではなく、貴方のフェラーリだったですね」
「そういや、あんたの車も黒い外車だったわね。田口さんばかりに気を取られてて、すっかり忘れてたけど」
「貴女達は僕の事をストーカーだと思い込んでいたようですね」
「貴方がトモコさんと接触していたのは依頼の話をする為だったんですね」
「てっきり、トモコさんに気があるからだと思ってたけど。殺しの話を持ちかける為だったのね」
「その通りですよ。まさか、ストーカーだと疑われるとは思いませんでしたよ」
「貴方もあの事件について疑問を持ってらっしゃるんですか?」
「疑問? どういう意味ですか?」
「あの時、小田刑事が高橋に向かって発砲した事。あれは間違いだったと、そう思ってらっしゃるんですか?」
「いいえ、あんな事件には何の興味もありません。僕はただ仕事をしたまでです」
「依頼を受ければ誰でも殺すんですか?」
「もちろんですよ。それ相応の報酬を頂ければね。それが僕の仕事ですから」
 僕は横目でユリの表情を伺う。その顔には静かな怒りが浮かんでいた。
「銃はお持ちのようですね」
 暗闇の狙撃手の視線がユリのガンホルダーに注がれる。
「ええ、この通り」
 左利きのガンウーマンは左右のガンホルダーを手で叩く。
「ベレッタM92ですか。良い銃をお持ちですね」
「貴方の愛銃はグロッグ26アドバンスなんですね」
「さあ、お喋りはこれくらいにしてそろそろ始めましょうよ」
「どうしても戦わなければいけませんか?」
「当然じゃないですか。貴女もそのつもりではないのですか?」
「大人しく自首していただけませんか?」
「ご冗談を。この僕がそんな事をする訳ないですよ」
「分かりました」
 左利きのガンウーマンは首を縦に振り、勝負を受けて立つ意思を表明する。
「そう来なくてはね」
 暗闇の狙撃手は不敵な笑みで頷き返す。
「ユリ……」
「ユリ!」
 僕とマリはユリの身を案じて背中に声を投げかける。
「大丈夫だよ。絶対に勝つから」
 振り返ったユリは穏やかに微笑んでいた。真っ直ぐに僕らを見つめながら、力強い声で勝利を誓う。
「大した自信ですね」
「もちろんです。負ける訳にはいきませんから」
「マリさん、ユウキ君。君達はどこかに避難していてください。流れ弾に当たって命を落としたら損ですからね」
「ユリ、そんなやつさっさとやっつけちゃってよ」
「うん……」
 ユリは短い言葉を返して深く頷いてみせる。
 マリは踵を返して、ゆっくりとした足取りで歩いていく。
 僕はユリとマリを交互に見た後、マリの背中を追いかけた。
 僕らはドラム缶の壁の前に避難して、暗闇の狙撃手と対峙するユリを見守る。
「では、こうしましょう。このライターが地面に落ちたら勝負開始です。よろしいですか?」
 暗闇の狙撃手が右手を前に差し出す。掌にはライターが乗っている。
「ええ、いいですよ」
「では、いきますよ」
 暗闇の狙撃手が右手を真上に振り上げる。
 ライターが宙へ舞い上がる。
 回転しながら落下してきて地面を叩く。
 それと同時に両者がホルダーから銃を抜く。
 銃声が二発、鳴り響く。
 双方が撃った弾は外れたらしく、二人とも走り回っている。
 ユリは右へ、暗闇の狙撃手は左へ。それぞれ反対方向に駆けていく。
 二人ともドラム缶の山を盾にして工場の両端で様子を見合う。
 顔を出しては発砲。そして、まだすぐに隠れる。
 一番前のドラム缶に穴が空く。被弾したドラム缶から灯油が漏れ出す。
 続いてガス管に当たったらしく、金属的な音が鳴り響いた。
 銃声が途切れて一瞬の静寂が訪れた頃、暗闇の狙撃手が中腰の姿勢を取った。
 地を這うように低い姿勢を保ち、階段へ走っていく。
 ユリが立ち上がって三発、発砲。
 暗闇の狙撃手は被弾する事なく、階段を目指して駆ける。
 暗闇の狙撃手が階段を登り切った時、ユリもドラム缶伝いに走り出した。
 反対側の階段を目指して疾走していく。
 暗闇の狙撃手が走るユリに銃を撃つ。
 四発の銃弾は外れたらしく、金属音が鳴る。
「読まれてしまいましたか」
 暗闇の狙撃手はユリを見下ろしながら、悔しそうに舌打ちをした。
「上から狙ったのね」
 マリの解説を聞いて僕はやっと暗闇の狙撃手の意図を理解した。
 左利きのガンウーマンと暗闇の狙撃手による壮絶な銃撃戦は続く。
 僕もマリも固唾を呑んで戦況を見守る。呼吸をするのも忘れてしまう程に。
「今の所、互角ね」
「ユリ、勝てるよね?」
「当たり前じゃない。ユリが負けるわけないでしょ」
 何を聞くんだとばかりに、マリは力強く断言してみせる。
 僕がユリへ顔を戻したその時、ユリの左手からベレッタが滑り落ちた。
 急停止してベレッタを拾いに引き返す。
「ユリ……!」
 マリが小さな悲鳴を上げるのと同時に、暗闇の狙撃手が二丁拳銃で乱射。
 ユリはベレッタ目がけて走る。飛び込みながらベレッタを拾い一回転。
 鉄材の山を盾にして左腕を出す。右膝を着いて左膝を立てた体勢で発砲。
 暗闇の狙撃手も更に二丁拳銃で応戦。ユリが立ち上がって二発撃つ。
「うっ……!」
 撃ち終わった後、ユリの体は床に崩れ落ちた。右目を閉じて顔を歪めながら、右手で左肩を押さえている。
「ユリ!」
 マリが心配そうに叫び、一歩前へ踏み出す。
「大丈夫だよ。ちょっと掠っただけだから……」
 ユリは笑顔を作り、僕らに視線を送る。
「惜しかったな。今度は心臓を撃ち抜いてみせますよ」
 暗闇の狙撃手が薄笑いを浮かべて階段を駆け下りていく。
「くっ……」
 階段の中段に差し掛かった時、暗闇の狙撃手は足を滑らせた。
「チャンスよ!」
 マリが叫ぶのと同時に、今度はユリが二丁拳銃で連射。
 暗闇の狙撃手は素早く起き上がり、階段を駆け登っていく。
「ああっ、惜しかったわね」
 悔しそうに歯軋りをして、拳を握り締めるマリ。
「あっ……」
 ユリが右手のベレッタを見つめる。何度トリガーを押しても弾は出ない。
 すぐさまベレッタを遠くへ放り投げて再び走り出す。
「あと一丁になっちゃったね」
「大丈夫よ。向こうだって同じくらい撃ってんだから。そのうち切れるわよ」
「もう弾切れか」
 マリの言った通りだった。暗闇の狙撃手は舌打ちをして、左手に持ったグロッグを足下へ投げ捨てた。
「これで互角だね」
「あとは弾が何発残ってるかね」
「どうしたんですか?」
 いつの間に拾ったのか、暗闇の狙撃手は右手にライターを握っていた。口には煙草を咥えている。
「貴女の実力はこの程度ではないでしょう? もっと僕を楽しませてくださいよ。左利きのガンウーマン!」
 煙を吐き出して吸い殻を足下に投げ捨てる。
「舐めた真似してくれるわね」
 マリは歯軋りをしながら暗闇の狙撃手の挑発行為を見上げる。
「あれ……?」
 暗闇の狙撃手を見上げていたマリの顔が左右に動く。廃工場を見渡しながら僕に尋ねる。
「ねぇ、ユウキ。何か変な臭いがしない?」
「臭い?」
 鼻を動かして異臭を嗅ぎ分けてみる。確かに臭う。これは何度も嗅いだ事のある臭いだ。
「この臭いってガスだよね?」
「ガス漏れしてるみたいね」
「でも何で?」
「ほら、さっきのあれよ」
「あれって?」
「暗闇の狙撃手が乱射したでしょ? その時、ガス管に当たって穴が空いたのよ」
「だ、大丈夫かな?」
「火種がなかったら爆発はしないわよ。だから大丈夫だと思うけど」
 僕らが話している間も二人は走り回っていた。銃は撃たず、互いに隙を伺っている。
 壮絶な銃撃戦を中断させたのは鼓膜を突き破らんばかりの爆発音だった。
 顔を引き攣らせながら振り返ると後方で火の手が上がっていた。
「も、もしかして……」
「ガス爆発ね」
「でも何で?」
「そっか。煙草よ」
「煙草?」
「さっき暗闇の狙撃手が吸い殻を捨てたでしょ? きっと、あれが火種になったのよ」
「これは早く決着をつけないといけないようですね」
「望む所ですよ」
 灼熱の炎が勢いを増しながら燃え広がる中、銃撃戦が再開される。ユリと暗闇の狙撃手が火の壁を避けながら走る。
「さぁ! そろそろ決着をつけましょうよ!」
 暗闇の狙撃手が走り出した直後だった。一メートルも進まない内に身体がよろめいた。
 右手に握ったグロッグが滑り落ちていく。
 グロッグは手摺りを越えて階下へ。
 床に落ちたグロッグがカタンと音を立てた。
 僕はグロッグから視線を外して再び階上を見上げる。
 暗闇の狙撃手は尻餅を着いたまま、呆然と座り込んでいた。
「そういや、さっきドラム缶に弾が当たった時に油が流れたわね。それで足を滑らせたのね」
 マリの解説を聞いて事態を把握した。そういえば、あそこは油が流れ出た場所だった。
「どうやら私の勝ちのようですね」
 ユリが暗闇の狙撃手の前を見下ろしながらベレッタの銃口を向ける。
「そんな、この僕が負けるなんて……」
 暗闇の狙撃手は愕然と背中を丸めて床に両手を着いている。
「殺してくれ……」
「それはできません」
「どうして……?」
 暗闇の狙撃手が顔を上げて唖然とした表情でユリを見上げる。
「正当防衛でもないのに悪戯に人の命を奪うなんて。そんな事、私には出来ません」
 目を閉じて大きく首を横に振る。再び真っ直ぐに暗闇の狙撃手を見据える。
「だから生きて償ってください。自分の犯した罪を牢獄の中で償ってください」
「そうかい。分かったよ……」
 暗闇の狙撃手が首を擡げて項垂れる。
 手摺りに両手を掛けて、だらりと腕を投げ出す。
 ユリに向けたその顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「さよなら、左利きのガンウーマン……」
「止めて!」
 ユリが手を伸ばしてながら駆け寄る。
 だけど、ユリの左手は暗闇の狙撃手に触れる事なく空を切った。
 手摺りを乗り越えた暗闇の狙撃手が落下していく。黒煙を上げる火の海へ、真っ逆さまに。
 その直後、階下で何とも言えない嫌な音が響いた。
 暗闇の狙撃手は地獄の業火に焼かれて見えない。
 世界から隔離されたような、永遠とも思える沈黙が流れる。
 我に返った時、マリは階段目がけて走り出していた。
 僕が階段を登り切った頃、マリは呆然と座り込むユリの背中に声を掛けた。
「ユリ、早くここから脱出しないと」
「うん……」
 ユリは小さく頷いて重い腰を上げた。暗闇の狙撃手を死なせてしまった無念さを滲ませながら。
 あとはメアリーに乗って脱出するだけだと思ったけど、僕らを待ち受けていたのは恐ろしい事態だった。
 入口は炎に包まれていた。高い炎の壁が僕らの行く手を遮っている。入ってくる時にメアリーが通った空間は崩れ落ちた木箱で埋もれている。
「どうしよう。これじゃ出られないよ……」
「このままじゃガス中毒と一酸化炭素中毒であの世行きね……」
「どうするの……?」
 ユリもマリも僕も絶望感に苛まれながら行く手を阻む木箱の山を見上げる。
「そうだ!」
 炎の熱に顔をしかめていた僕はユリの大声で我に返った。
 素早く身を翻して僕の脇を擦り抜けていく。
 振り返った時、ユリはメアリーの傍に立っていた。
 右側の後部座席のドアを開けて車内へ飛び込んでいく。
 メアリーから飛び出してきたユリはマシンガンを抱えていた。
 黒く巨大な銃を左肩に担ぎながら駆け戻ってくる。
 僕とマリの間を駆け抜けて小箱の壁の前で急停止。
「二人とも下がって!」
 ユリの迫力に気圧されて僕は踵を返して後退する。
 マリも僕と同じ位置くらいまで下がり、ユリを頂とした三角形が出来上がる。
 ユリは左肩に担いでいたマシンガンを障害物へ向ける。
 その刹那、爆音が僕の鼓膜を突き破った。
 身体をくの字に曲げて耳を塞ぎながら目を閉じる。
 爆音が鳴り止んで目を開けた時、障害物は跡形もなく消えていた。
 視線を下げると幾つもの破片が床に散乱していた。
 両手を耳から離して腕を下ろす。ハウリングのような凄まじい耳鳴りがする。
「出るよ! 乗って!」
 ユリは足下にマシンガンを投げ捨てて大声で指示を飛ばす。
 僕らは三角形を崩して一斉にメアリーの元へ。
 ユリが運転席に乗り込んでドアを閉めた頃、僕とマリも後部座席に飛び込んだ。
 エンジンが唸りを上げてメアリーが急発進。
 散乱した木箱の欠片を蹴散らしていく。パキという音が何度も鳴る。
 僕は運転席のシートにしがみつき、膝の間に頭を入れて丸くなる。
 廃工場から脱出したメアリーが停車した頃、背後で凄まじい爆発音が轟いた。
 頭を抱えて踞っているとドアの開く音が立て続けに二回聞こえた。
 両手を頭から離して上体を起こすと、車内にユリとマリの姿が見当たらなかった。
 二人に続いて僕もドアを開けて車の外に出る。
 ユリとマリはメアリーを背にして呆然と立ち尽くしていた。
 マリの隣に立って三人一列に並んで廃工場を見上げる。
 巨大な黒煙が揺らめきながら夜空へ昇っていく。
 燃えさかる灼熱の炎が轟音を響かせる。
 僕らは言葉も無く、大炎上する廃工場を見上げていた。
 
 左利きのガンウーマンと暗闇の狙撃手による銃撃戦から一夜明けた翌日、僕らは満開の桜の下で弁当箱を出してシートに座っていた。桜公園は大勢の花見客で賑わっていて、賑やかな笑い声が四方から耳に入ってくる。
「じゃあ、せーので開けるよ?」
「いいわよ」
「うん」
「せーの」
 僕らはユリの合図で同時に弁当箱の蓋を開けた。前のめりになりながら三人で覗き込む。
 ユリの弁当箱にはおにぎりやタコさんウインナーが入っている。マリの弁当箱にはおにぎりや唐揚げが入っている。
「あっ、ユウちゃんのお弁当いいね」
「ユリの凝ってるわね」
「二人ともおいしそうだね」
「早速、食べ合いっこしようか」
「そうね」
「うん」
「ユウちゃんの卵焼き、甘くておいしいね」
「そうね。やるじゃない」
「ユリとマリのもおいしいよ」
 僕らは互いの弁当に箸を伸ばす。三人でやたら誉めあいながら弁当を摘んでいく。
「ユリ、すごかったわね。あの銃撃戦」
「危なかったけどね。あの油の事がなかったら」
「あのマシンガンぶっ放してるとこ、最高に格好良かったわよ」
「ほんと?」
「そうよ。あたし、後ろで見てて鳥肌立ったわよ」
「ねぇ、ユウちゃん。見ててくれた?」
「僕、実は見てないんだ。目を瞑ってたからさ……」
「そっか。せっかく、ユウちゃんに格好いいとこ見せられたと思ったのに」
「でも、びっくりよね。あいつが暗闇の狙撃手だったなんて」
「うん。ワンちゃん好きの人に悪い人いたね」
「あんな悪いやつでも死なせたくなかったわね」
「死なせたくなかったよ。ちゃんと生きて償って欲しかったよ」
 あの後、駆けつけた消防車によって廃工場は鎮火された。焼け跡からは黒焦げになった暗闇の狙撃手の遺体が発見された。
 後日、暗闇の狙撃手は被疑者死亡のまま書類送検された。こうして一連の事件は解決したのだった。
「そういえばさ、ユリ。肩は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。傷はまだ残ってるけど痛みはないから」
「そっか。良かった」
「ユウちゃん、心配してくれてたんだ?」
「そりゃあ、まあ……」
「最後はユウちゃんのおかげだよね」
「えっ? 僕、何もしてないよ?」
「そんなことないよ。ユウちゃんがマシンガン持ってきてくれたから脱出できたんだよ」
 そう言われると誇らしげな気持ちになる。
 マシンガンを担いでいた両腕にはまだ張りが残っているけど、重い思いをして運んだ甲斐があったものだ。
「さすが左利きのガンウーマンよね。ユリに撃ち抜けない物はないって感じよ」
「撃ち抜けないものはない、か」
 マリの賛辞を受けて、ユリは顎の下に左手の人差し指を当てた。左腕を下ろした後で僕に視線を投げかけてくる。
「じゃあ、ユウちゃんのハートも撃ち抜いちゃおうかな?」
 悪戯な笑顔を見せて、フレミングの法則のように左手で銃を作る。
 真っ直ぐに腕を伸ばして僕の心臓へ狙いを定める。
「ばーん」
 左利きのガンウーマンはウインクをして、左手で作った銃を撃ってみせた。
 
 

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