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訣別

 大きな、背中だったな――





 そんなことを想う。

 聡明鬼のことだ。



 リシは、キオウという鬼が妻とともに一瞬で消えてしまった時、自身では一体何が起こったのかまったくわからないまま、激しく混乱し叫び呻き声を挙げてうずくまる聡明鬼――やがて力尽き果てたかのように地に突っ伏したまま震えるだけで呼びかけにもまったく応えぬ様となった聡明鬼を、龍馬トハキの背の上に乗せようとした。



 だが聡明鬼の逞しい体はびくとも動かせず、リシは為すすべもなかったのだった。

 トハキが尻尾を伸ばして来、聡明鬼の体に巻きつけ、持ち上げて自分の馬の背に乗せてくれた。

 つまり聡明鬼をトハキに乗せたのはリシではなく、トハキ自身だったというわけだ。



 にも関わらず、聡明鬼に訊かれた時リシは、自分がトハキの背に聡明鬼を乗せたとした。

 無論そのことでトハキが自分に怒ったりするなどということはない。

 しかし、リシは咄嗟にそのような“嘘”をついたのだ。



 何故だろう――



 自分でもよくわからないのだが、それはある意味では聡明鬼に対する虚栄心――負けたくないという、根拠のない想いの所為でもあったろうし、またある意味では聡明鬼に、自分への感謝の念を持たせたいという想いでもあったろう。



 どちらにせよ、決して清い心の在り方とはいえない。



 リシは眉をひそめ、ふう、と嘆息した。

 自分は、なんという未熟な行動をしてしまったのだろう――それにしても。





 大きな、背中だったな――





 邸まで戻る間、トハキの馬の背の上で支え続けた聡明鬼の背中を、また想う。

 支え続けた、といえども、それについてもやはり、大部分はトハキが飛びながら馬の尻尾を聡明鬼に巻きつけ落っこちないように支えてくれていたというのが実情だ。

 リシ自身はただ、後ろから聡明鬼の背に手を添えていたにすぎない。



 その背中のことを、想っているのだ。



 聡明鬼自身は一晩経つと大分気力を取り戻したようで、顔つきも以前のごとく意志に満ちたものになっていた。

 そのことには、リシも大いに安堵しているのだ。



 だがその先のことを、何故かリシは心の中で封じてしまい、見ないように――想わないようにしていた。

 それは、リシ自身でも気づかぬうち、無意識にそうしていたのだった。

 それはつまり、元気を取り戻した聡明鬼が、これからどうするのか、ということだった。





 けれど、どんなに見ないように、気づかないようにしたところで、それが立ち消えてしまうことは決してなかった。







「聡明鬼様ご一行が、明日お発ちになるとのことでございます」







 それを聞いたのは、マトウの室で壁際に控えていた時だった。

 従者がマトウに報せに来たのだ。



「まあ」マトウはしばらく言葉を失っていた。

 マトウにとっても、聡明鬼たちが去ってしまうことは寂寥に値することなのだ。



 そしてリシにとっては。



 リシは、それを聞きはしたが特に顔を振り上げるでも眼を見開くでもなく、ただ壁際に貼り付くように控え、前を見ていた。





          ◇◆◇





 ムイの、挽いたものを見る。

 それは、小さな茶色の甕の中に収められてあった。

 その天紙を破り、木蓋を引き抜き、テンニは中を覗き込んでいた。



 鬼の鼻に、懐かしき草の香りが届く。

 思わず、どこまでも吸い取らんとばかり大きく息を吸う。



 眼を閉じる。



 そのまま、テンニは息を止めていた。

 やがてゆっくりと、息を吹き出す。



 甕を持つ鬼の手が、小さく震え出す。





 ――儂は。





 隻眼を、ゆっくりと開く。





 ――これを……やっと手に、入れた。





 隻眼で、もう一度甕の中を覗き見る。

 ムイは黒味がかった濃い緑色をしており、砂のように乾いている。



 テンニは鬼の爪の先にほんの少しだけその粉をすくい取り、傍に用意した器の水の中に落とした。

 緑色の粉が、水面に浮かぶ。



 甕に木蓋を嵌め込み、そっと下に置いて、テンニは震える手で水の器を取り上げた。

 片方だけになった手で、持つ。

 黒く焦げたままの、鬼の手だ。



 そしてテンニは、その水を飲んだ。

 眼を閉じ、仰のいて、自分の体の中に水が――ムイが落ちてゆくのをじっと感じ取る。





 ――ああ。





 テンニは今、確かに思った。





 ――儂は……生き返る。





 その意識は、妙なものであった。

 鬼となった今、投胎もしていないのに「生き返る」ことはあり得ないのだ。

 にも関わらずテンニは今、間違いなく自分がこれから生き返るのだと信じて疑わなかった。

 一度死に、鬼となってまた死にかけたが、今度は鬼として生き返るのだ。



 ムイがあれば、自分は閻羅王に変わり人間と鬼との生死を、いつまででも掌握し管理し続けられる。

 陽世と陰界すべてを、支配し続けられる。





 ムイがあれば。





          ◇◆◇





 日が変わった。

 だが、今はまだ夜だ。

 真夜中で、半月は姿を隠している。

 それに代り小さな星々が、ここぞとばかり全天を覆い、ささやかながら輝きを競い合っている。





 庭の芝を、鬼の足が踏みしめる。

 星空を仰ぎ、しばらく眺めて、また一歩を踏み出す――そして止まる。



 行く手に佇む者がいたのだ。



 闇の中に立つ黒衣の者だが、鬼はそれが誰であるのかすぐにわかった。



「どうした」訊く。「こんな時間に」



「――それはこちらの科白だ」黒衣が答える。「私は今宵、見張りの番だ」



「そうなのか」鬼は言い、また歩を進める。



「何処へ行く」黒衣が訊く。「こんな時間に」



「――」鬼は少し置いて「地獄へ」と答えた。



 それから二足は闇の中、少しずつ慣れてきた眼で無言のまま互いを見た。



「世話になったな」鬼が言う。



「――」黒衣はいまだ言葉もなく、ただ鬼を見ていた。



 鬼はまた足を踏み出し、黒衣の傍を通り過ぎて行こうとした。 

 黒衣は振り向くが、言うべき言葉がわからない。

 首を振る。

 



「行くのか」





 リシは、大きな背中に投げつけるように、訊いた。



 リューシュンは肩越しに振り向き「ああ。行く」と答えた。



「もう、行くのか」リシはまた訊いた。



「ああ」リューシュンは頷いた。



「――」リシはじっと聡明鬼を見た。



「いろいろあったが、ありがとうな」リューシュンはにこりと笑った。「じゃあ」



「戻って来るのか」リシは急いでまた訊いた。



「――」今度はリューシュンが陰陽師見習いをじっと見た。「どうだろうな」首を傾げる。



「戻って来い」リシは続けて言ったが、その声は上ずり震えていた。



「なんでだよ」リューシュンは口を尖らせた。



「なんでもだ」



「どうしてだよ」



「どうしてもだ」



「――」リューシュンは少し黙ったが「ははは」と突然笑い出した。



「何が可笑しい」リシが肩をいからせる。



「最後まで、同じだな」リューシュンは肩を揺すって笑いながら言った。



「何が、同じなのだ」



「お前と俺の会話がだよ。最後まで、おんなじことを言い合ってる」



「――」リシは目線を足元に落とした。「最後……?」



「ああ」リューシュンは頭を掻いた。「すまん。最後じゃないかもな」



「また」リシは強く眼を閉じた。



「うん」リューシュンは頷いた。



「いつか」リシは眼を閉じたまま、また言った。



「うん」リューシュンも、また頷いた。



「――」リシは眼を開けもう一度聡明鬼を見た。



 聡明鬼も頷きながら陰陽師見習いを見た。



「きっと」リシはリューシュンを見ながら続けて言ったが、その声はかすれて声にならなかった。





 リューシュン





「――」リューシュンは、リンケイが陰曺地府に行く前最後に自分の名を呼んだ時の声――それも声にならない、風のような声だった――を思い出した。





「――会いたい」





 リシは必死の様相で声を絞り出したが、それと同時に彼女の眼からは涙が溢れて頬にすべり落ちた。





 リューシュンが何かを答えようとする前に、その手は自然とリシの頬に伸びて涙を指で拭ってやっていた。

「ああ」それから、リューシュンは答え、そして笑った。「会おう」



 リシは自分の涙を拭う鬼の手をそのままに任せ、初めてにこりと微笑んだ。

 少し悲しげにも見える、微笑みだった。

 リューシュンは最後にもう一度、リシの頬に手を触れた。

 初めて触れる女の頬は柔らかく、その感触は手に心地よかった。



「マトウの傍にいろ」リューシュンは手を頬に触れたまま言った。



 リシは小さく頷いた。



「玉帝が護ってくれる」そう言いながらリューシュンは頬から手を離した。



 リシはまた小さく頷いた。





「またな。行ってくる」

 そう言って、聡明鬼は天心地胆に沈み込むように消えた。





 リシは真夜中の庭に、独り立っていた。

 今宵は見張りの番だ――彼女は聡明鬼に、そう言った。

 それも、本当のことではなかった。

 本当の見張りの番の者と、交代した――してもらったのだ。



 なんとはなしに、聡明鬼が夜の内に発つのではないかと、思い立ったからだ。



 ――最後まで……か。



 聡明鬼の消えた地点から、頭上の星空に眼を移す。



 ――最後まで、私も正直な行動を取らずじまいだった……否。



 ぎゅっと眼を瞑る。



 ――最後では、ない。



 自らに言い聞かせるかのように、リシは心で強くそう思った。

 それまでに自分の為すべきことも、ちゃんと解っているのだ。

 それはつまり、聡明鬼が自分に頼んだこと、人間と鬼との諍いを止めさせ間を取り持つということだ。



 眼を開ける。

 もう一度、涙が伝い落ちた。

 拭ってくれる鬼の指は、もうない。

 リシは、自分でそれを拭いた。





「また、会おう」

 鬼の消えた闇に向かって、呟く。

「ありがとう」





         ◇◆◇





 ――柔らかかったな。



 陰陽界を歩きながら、自分の手を見る。





 ざああああ





 周囲では今日も風ではない風の音が渦巻く。



 ――リンケイに、話してやろう。



 手を見る内、ふとそんなことを思う。



 ――あいつ、女を抱いたから自分の勝ちだとか何とか言っていやがったからな……まあ、俺も抱いたわけじゃあないが。



 手を下ろし、歩を早めて歩く。



 ――そうだ、女に『あれをしてやった』と言ってやろう。



 歩きながら、にやりと笑う。



 ――あいつ、あの切れ長の目を見開いて『本当か』と驚くだろうな。



 くくく、と歩きながら肩を揺する。

 そんなことを独り思う内、潜るべき天心地胆が見えて来た。

 リューシュンは顔を引き締めて、そこへ飛び込んだ。

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