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授法

「あ……ああ……」腹を刺されたスンキはただ喉の奥から呻き声を洩らし、眼をかっと見開いて眼前の虚空を凝視していた。



「スンキ」キオウもまた喉の奥で妻の名を囁くばかりで、手を差し伸べることさえも心に浮かばずにいた。




 ただテンニだけが、スンキの腹に刺し込んだ七寸釘を握り締めたまま、にやり、と笑った。




          ◇◆◇




 ぴくり、とリョーマは耳をそばだて、次にはがばっと立ち上がった。



「リョーマさん?」ケイキョが驚いて見上げる、が、鼬にも何故仔犬がそのような仕草を見せたのかすぐに理解できた。



「どうした」障子を開け縁側に出て来たリューシュンが、二匹の精霊たちの様子を見て眼を丸くする。



「スンキさんが、やられやした」ケイキョは叫んだ。「テンニが、山賊の山に」



「何だと」鬼も叫ぶ。「リョーマ、元の姿--」




 そこで三足ははたと言葉を失った。




 リョーマは今、仔犬の姿のままだ。




 元の、龍馬の姿に戻るには--




「こ」ケイキョは茂みの下に置いてあった巻物を鼬の口に咥えて持ち上げた。「これを、陰陽師さんが」



「--」リューシュンは茫然とそれを見た。「それは?」



「陰陽師さんが、いざという時のために残してくれた、色んな呪の手引きでやす」ケイキョは巻物を咥えたまま地面に眼差しを落とした。「あっしに、いざという時にはこれを使え、と」



「--」




 リンケイが。




 リューシュンは心の中で呟いた。




 鼬は、陰陽師の名を最後まで知らされずにいたのだろうか。
 ただその呪の手引きだけを渡されて、後は法力を駆使してなんとかしろと、そう言い渡されたのだろうか。




 そんなことを、想う。




「使えるか」リューシュンはそれを振り払い、厳しく訊いた。



「な、なんとも」鼬は自身なさげに鬼を見上げる。「あっしにそこまでの法力なんて」



「けど」鬼はそれでも言う。「やってみろ。それしかない」



「--」







 --ケイキョさま。







 脳裡に届いたリョーマからの呼びかけに、鼬ははっと身をすくませた。







 --おれに、お力を。







 リョーマは仔犬の身を地に伏せ、瞼を閉じて新しき主より受ける法命を待っている。



 ケイキョはぎゅっと眼を瞑り、それから開き、尻尾をくるりとひと巻きして子犬の額に触れた。




「ノウマクサンマンダバサラダンセンタマカロシヤダソワタヤウンタラタカンマン」




 巻物にて教えられた通り呪を唱える。




 ややあった。




 何も、余計な事を想ってはいけない。
 鼬はひたすら耐えた。



 心の裡に、頭が龍、体が馬の、リョーマの元来あるべき姿を描く。



 強く閉じる瞼がずきずきと傷む。




 --法力が--欲しい。




 鼬は強くそれを望んだ。




 --法力が!




          ◇◆◇




「何か、聞えたか」スルグーンは不意にそう言って立ち止まった。



「ん」リンケイもつられて止まる。「何か、とは?」



「--」雷獣は今来た道を振り返る。




 陰曺地府のくすんだ世界の中、そこここを背を丸めて歩く鬼や鬼魂らの他動くものもない。
 何かぶつぶつと呟く者はいるが、それは世を恨む言葉でしかなく、聞き取るほど価値のあるものとも思えない。




「何か、聞えたチイ」スルグーンはしかし、そんな風景を己の肩越しにじっと見る。「何か……呪文のような」



「--」リンケイは雷獣の後頭をじっと見た。「呪文?」




 陰陽師自身には、何も聞えなかった。
 だが、呪文--それは恐らくこの雷獣よりも自分の方が遥かに身近に知っているはずのものだ。



「どんな呪文だ?」訊く。



「--」雷獣は小首を傾げる。「ノウマク、サンマン、ダ……」



「ケイキョか」リンケイは眼を見開いた。「リョーマを呼び戻す為の呪だ。お前にはそれが聞こえたか」



「焔に関わりがあるのかキイ」スルグーンが振り向く。「この呪文はチイ?」



「焔?」リンケイは訊き返す。「直接にはない、だが龍馬を呼ぶためのものだ。龍馬は魔焔を吐く、間接には関わりがあるということになる」



「行ってもいいかキイ」スルグーンはばさり、と翼をはためかせた。「何か、必死になってそれを詠み続けてる奴がいるチイ」



「--」リンケイは、拳を握り締めた。「ああ。よろしく頼む」




 素早く、スルグーンは天心地胆に飛び込み消えた。




 --何が起きた。




 独り陰曺地府に取り残された陰陽師は、推察するしかなかった。
 だが、ふ、とつい微笑む。




 --今度はこちら、陰曺地府側で、陽世に行けぬことを悔しがるとはな。




 考えられるとすれば、山にて何事か危急の事態の起こった事だ。
 実をいうとリンケイは、リューシュンがすぐに自分を追いここ陰曺地府に飛び込んでくるのではないかと思っていたのだ。
 だが鬼は来ない。



 そしてケイキョが、巻物にて伝授した呪を早速ながら読誦し始めた。



 危急の事態が起きたとしか、考えられぬ。




 --頼む。




 リンケイは眸を細め、今一度スルグーンに心の中で伝えた。




 --法力を、貸してやってくれ。




          ◇◆◇




 がん、と脳天を殴られたような衝撃を感じた。




「あぐッ」




 ケイキョは呻いて身を仰け反らせる。
 だが痛みに歪んだ表情で眼を開けると--




 そこには巨大な龍馬が、陰陽師の庭から高くその頸を上空に向け立ちはだかっていた。




「よし」聡明鬼が叫ぶ。「行くぞ、ケイキョ」馬の尻尾からその背に駆け上がる。



 鼬も慌てて後に続く。




 --まさか、おいらがこれを?




 昇りながらも鼬には信じ難かった。
 だがその理由はすぐに判った。




 馬の背に、あの小さく奇妙な生き物が先に乗っていたのだ。




「スルグーン」リューシュンが叫ぶ。



「陰陽師に頼まれて来たチイ」雷獣はふわりと浮かんだ。「当面の間、おれの法力を貸してやるキイ」



「陰陽師--」リューシュンは思わず辺りを見回すが、当然のことながらどこにもその姿は見えない。「あいつは、行ったのか」



「ああチイ」スルグーンは頷く。「陰曺地府の森羅殿で、待ってるはずだキイ」



「うん」リューシュンも頷く。「すぐに行きたいが、まずは山だ」




 リョーマはすでに満天の星の下を翔けはじめていた。




          ◇◆◇




「懐かしいものだろう」テンニはにやにやと笑いながらキオウに言った。「いや……お前自身には懐かしくもないものだろうな。これを腹に刺されたのはお前ではなく、お前の」



「貴様」キオウは身を震わせて怒鳴った。「十八層地獄へ叩き落してやる。閻羅王ではない、この俺がだ」



「--」テンニはきょとんとした顔になり、それから口を耳まで裂けるかと思わせるほど大きく開けて笑った。「はははは。お前が、この儂をか。ははははは」



 スンキはがくりと頸を垂れ、大笑いするテンニの腕の中でゆさゆさと揺れた。



「スンキ」キオウは頭の中が真っ白になる想いに捕われた。妻は、そして自分の子は、もうこの手に取り戻せないのか--



「この女は死んではおらん」テンニは笑うのをやめ、馬鹿にしたように顎を持ち上げてキオウを見下げた。「腹に七寸釘を刺されるということは、お前も知っておるだろう、模糊鬼が生まれ出ないようにするための呪だ」



「--」キオウは、はっと眼を見開いた。
 そうだ、確かに自分の母ハユクも、地獄で子を、つまり模糊鬼を生まぬようにと腹に七寸釘を刺されたのだ。
 そしてそれを山賊どもが抜き去ったがため、模糊鬼、つまり自分は今ここにこうして生まれ存在しているのだ。
「スンキ」上ずった声でキオウはもう一度妻を呼んだ。



「あ、なた」蚊の鳴くような声でスンキは答え、震えながら首を持ち上げた。



「ああ」キオウは思わず手を伸ばし、妻を抱き締めようと望んだ。



 だがテンニはそれを許さず、一歩退いた。
「この釘が抜かれるのは、儂の体が元に戻ったその時だ」



「--」キオウは牙をぎりりと噛み締めてテンニを見た。



「考えろ」テンニはもう一度顎を上げキオウを見下げた。「時間とやらの他に、儂の体を元に戻す術を思いついたなら、再びこの地に来て儂を呼べ」




 テンニはそう言ったかと思うと更に背後に素早く下がり、薮の中へスンキともども消えた。
 キオウが慌てて薮を掻き分けた時にはもはやその姿は消えていた。
 ただそこには、黒く渦巻く天心地胆がうっそりと立ちはだかっていた。




          ◇◆◇




「あの打鬼棒の奴が逃げたチイ」リョーマの背の上でスルグーンが告げた。「女をさらっていったキイ」



「なんだって」リューシュンが眉を寄せた。「くそ、間に合わなかったのか」



「とにかく、行きやしょう」ケイキョがそわそわする。「キオウさんに、一体どうなっているのか聞かないといけやせん」



「テンニは、陰曺地府へ行ったんだろうな」リューシュンは、前を睨んで言った。「キオウも、追って行ったんじゃないのか」



「--いえ」ケイキョが答えた。「キオウさんは……身じろぎもせずに立ち竦んだままでやす」



「身じろぎもせずに?」リューシュンが不審そうに鼬を見る。「一体、何で--」だが鬼はすぐに眼をしばたたかせた。「まさか、何か言い含められたのか」



「言い含められる、って」今度は鼬が聡明鬼に訊いた。「一体、何を」



「わからん」リューシュンは首を横に振った。「とにかく、急ごう」




 嫌な予感が鬼を襲うのだった。
 何事もなければ、妻を捕えられて黙って見逃し、追いかけもせずにいるキオウではないはずだ。
 体つきは華奢でありながら豪胆とも言えるほどに敵を恐れず立ち向かうキオウ、冷徹なまでに策を練る才も持ち合わせているキオウ、その模糊鬼キオウが何故、妻を再び捕えられたというのに手をこまねいているのか。




 テンニに、何を言われたのか--




 山が見えてくるまでの時間が今ほど長いと思ったことはなかった。
 だがリューシュンは飛び降りたいのを耐え、リョーマが全霊を傾け天を翔けてくれるのに任せた。




 満天の星の下に、模糊鬼はいまだ独り、茫然と佇んでいた。




「キオウ」リューシュンはその姿を認めるや、今度こそ龍馬の背からひらりと身を躍らせた。



 模糊鬼は、自分を呼ぶ聡明鬼の声に肩をぴくりと揺らしたが、すぐに顔を向けることはしなかった。



「キオウ、スンキが攫われたのか」リューシュンは模糊鬼の傍に来、自分よりも背の低い、少年のような鬼の俯いた顔を覗き込むようにして訊いた。「テンニに--何か、言われたのか」



「--」キオウは眼を閉じ、ますます俯いた。



 自分に、話せないのか。
 リューシュンは、眉を寄せた。
 それは何故か。
 自分に話すと、スンキの身に危険が及ぶことだからか。
 それとも、自分に話してもどうしようもないことだからか。
 それとも、自分に話す気にならないからか。



 自分は、そのことを話すに値せぬ者、信ずるに値せぬ者なのか--



「俺は」キオウはやっと顔を上げ、わずかにリューシュンの方へ顔を向けた、だがその眼を見ない。「しばらく、消える」



「何」リューシュンは戸惑った。「消える、って」



「すまない」キオウはまた眼を閉じ、そしてそれを開け、ようやくリューシュンを見た。「今は、何も訊かずにいてくれ」



「--」



 キオウは言葉を失うリューシュンに意志の見えぬ視線をただ真っ直ぐに送り、それから後ろざまに跳んで茂みの中へと消えた。



「キオウ!」リューシュンは叫んだ。




 だがその呼びかけに応えるものは、満天の星空の下で風に揺れる枝葉の音ばかりだった。

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