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 あれから、二週間程が経ちましたの。あの日見た光景は誰にも未だに、話せておりません。藤枝がいなくなって二週間、行方不明とされた藤枝のことを、お屋敷の中では使用人たちが声を潜め、口々に憶測を飛び交わせております。どのお話にも、必ず尾を付けておりますのは、藤枝がお父様のお手付きになられた使用人だということかしら。その話は、藤枝が居なくなる前からも、どこから漂ったのか、密かに囁かれておりました。だって、私から見ても、お父様と藤枝は取り分け親しくなさっているように見えたもの……。お母様は、それを聞いて、酷く悩んで……いえ、怯えていたのかしら。

私には、お母様がその話を耳になさった時、嫉妬や恥ずかしさというものではなく、恐れを抱いているように思えてなりませんでした……。

さて、その噂が事実だからなのか、私のためと父性が働いたのか、はたまた単なる気紛れか、お父様が今日は帰っていらっしゃるみたい。

 私は、それをお部屋で待っているのだけれど、相変わらずお庭にあるあの穴は、蓋をほんの少しずらして口を開けていらっしゃいますわ。藤枝が消えた日の、本当の話をしたって、誰も信じてなど下さらないのでしょうね。

 




 だから私は、藤枝のことを知らないとしか言いようがありませんの。

 





 「凛子、ただいま戻ったよ。」

 縁側でお庭を、どれ程見つめていたのかしら。お父様が帰っていらしたことにも、私の隣りに立っていらしたことにも、全く気が付けませんでしたの。

 「まぁ、お父様。

 凛子は、お出迎えに行かせて頂こうと思っておりましたのに。

 すみませんでしたわ。

 お帰りなさいませ、お父様。」

 お父様は、小さな唸り声をお溢しになりながら、私の隣りに腰をお下ろしになられました。こんな風に、並んでお父様と座り、お庭を見つめるだなんて、私の記憶では一度もありませんわ。

 「凛子、戻るのが遅くなってすまなかったな。お母様に続いて藤枝までいなくなってしまって、寂しいだろう。

 お前は、使用人の中でも藤枝とは一番親しくしていたように見えたからな。

 お母様もいなくなってしまって、さぞかし悲しんでいるのではないかと思って、これでも飛ぶように戻って来たのだよ、凛子。」

 どことなく、悲しげに眉を寄せ、笑みを浮かべるお父様に、私は問いかけます。

 「私は、確かに藤枝と、どの使用人の方よりも親しくしていたけれど、それはお父様も同じでなくって。」

 「凛子、それはもしかしてお父様と、藤枝の関係のことかい。

 凛子は、昔から勘が鋭い子だったからなぁ。そうか、では、もう大方を知ってしまっているのだね。」

これ程までに後悔に満ちた笑みを、私は見たことがございません。お父様の顔は、何かを咎めるようにも見え、何かを悔いているようにも感じられました。

 「えぇ、大体のことは承知していますのよ。お父様、私、そんなにも勘が鋭くありまして。」

 「ん、あぁ、凛子は小さい時から色々なことに敏感というか、繊細ともいえるのかな。兎に角、鋭い子だったよ。

 お父様が、帰った時なんて、今日は伽羅の匂いのお家からお戻りになったのなんて、尋ねたりするくらいの子だったからねぇ。」

 ほとんど屋敷にはお戻りになられないお父様が、私の幼少の頃のお話をなさいます目は、慈しみというのか、思い出の文を開く時のような懐かしさに満ちたものでございました。

 「意外ですわ。

 ほとんど、お家には戻って来ては下さらないのに、私の子どもの頃の出来事を覚えていて頂けているなんて。」

 「あっはっはっは。

 凛子は、手厳しいねぇ。

 確かに、お父様は家にはほとんど帰って来なかったが、たまに帰って来た時は、これでもかっというほど、凛子のことを目に焼き付けていたんだよ。」

「そんなお調子の良い言葉は、私には通じなくってよ、お父様。

 それなら、他の女性のところなどに行かずに、私に会うために、こちらに帰って来て下されば良いことですもの。」

「……。」

「あ、私ったら。

 ごめんなさい、お父様。

 お気に障ってしまったのなら、許して下さい。

 私ったら、いつもお口が過ぎると藤枝に叱られていましたのに……。

 またやってしまいましたわ。」




「あーいやいや、そうじゃないんだよ、凛子。

 お前は、何も気にする必要はない。

 そうだな、こんな時にということが相応しいのか、

お父様には分からないが、お母様のいない今の間に、お前に知っていて欲しいことがあるんだ。

 凛子、お父様はね、何も好き好んで毎日毎日家に帰って来ないんじゃないんだよ。

 お父様だって、本当は毎日家に帰りたいさ。凛子ともこうして、ただ話をするだけの時間を作って、庭を眺めたり、散歩をしたりしたいんだ。

 けれど、お父様はそれができないんだよ。

 何故ならね、それはお母様との約束だからだ。」

 

 水の中に、頭から浸かって、誰かの声を聞いた時と同じような感覚を耳にしながら、私は小首を傾げ、お父様の言葉を待つしかできませんでした。そんな私の内情を察したのか、優しく、ぎこちなく肩を抱き寄せては、お父様は口をお開きになります。

「驚くのも当然だよ。

 誰が聞いたって、普通の人なら皆、凛子と同じ反応をするだろうし、同じ気持ちになるさ。

 お父様も、正直、お母様が分からなくなることが多くてねぇ。

 もう、凛子も気が付いていると思うが、お母様は他人の同情や、憐みを受けて可哀想だけれども、健気な奥様に見られたいと考えるような人だ。

 そんなお母様はねぇ、お前がお腹に宿ったと分かった時に、お父様に家にはほとんど帰って来るな、女をつくってそちらに帰れと言い出してねぇ。

 初めは、揶揄っているだけだと思っていたんだが、夜、帰っても屋敷に入れてすらもらえないなんてことになって、仕方なく、お父様は、お母様の言う通りにしているんだ。お父様は、この家の頭首ではあるけれど、戸主権は元々母様の物で、婿養子のお父様はやはり、お母様には逆らえないのだよ。山葉家は、代々、女の人が戸主を務める大富豪の家だからね、凛子も、いずれ女戸主になって、婿を迎えるんだよ。

 その時は、お父様の肩身の狭さを思い出して、その人には優しくしておあげなさい。

 お母様のようになってはいけないのだよ、凛子。

 お前は、お母様に似ている所が多いから、気を付けないと。

 意識していれば、お母様のような人にはならないから、だから、素敵な優しい女性になりなさい。

 どんな理由であれ、たまにしか帰ってこないお父様には、そんなことを言う資格等、ないのかもしれないけれどね……。」

 笑顔とするには、あまり似つかわしくない顔で私を見つめるお父様。

 お父様も、このような顔をなさるのね。




 私、初めて知りましたの……。

 いつも、豪快な笑みを絶やさず、御自分の人生を思うままに歩まれている、そんなお父様だと思っていましたのに。本当は、そのような生温いものではなくて、風景画に押し込められた人間と同じ。戸主権や財に惑わされさえしなければ、それ程までに身を縮めて生きる必要などありませんでしたのに……。




 「お父様……。

 お可哀想、お母様がそのようなことを仰っていただなんて、私、全く知りませんでした。お父様は、お母様には逆らえませんものね。

 ねぇ、お父様。

 私、優しい女性になりますわ。

 お母様のように、世間の目ばかり気にしている女性にはならなくってよ。

 私は、思うまま自由にある、それでいて賢い淑女になってみせますわ、お父様。」




 私の心には、何が流れているのかしら。藤枝、貴方なら分かっておいでになって。




 「そうか、そうか。

 お父様は、その言葉が聞けて、とっても嬉しいよ、凛子。

 直に、お母様も戻ってくるかもしれないが、そうなっても、今の事は、今日の話は忘れないでおいて欲しい。」

 「分かりましたわ、お父様。

 けれど、いくらお母様の言い付けだからって、使用人に手を出すのはいけなくってよ。

 お母様が、お怒りになりますわ。

 ご自分より身分が低い相手で、ましてや使用人ですもの。

 ですから、お気を付けになって、お父様。」

私は、悪戯っ子のように笑んで見せます。

「はっはっはっはっ。

 凛子に一本取られてしまったな。

 ははははははっ。

 じゃぁ、お話はまた後にして、今日はお父様と食事にでも行こう。

 話し込んでいるうちにもう、夕暮れ時だ。

 さ、お母様がいない間は、二人で少し羽根を休めようじゃないか、な、凛子。」




 そう仰って、立ち上がるお父様に続き、私も腰を上げます。辺りは、日が沈み、随分と暗く思える頃合いになっておりました。庭の木に止まっているのであろうひぐらしが、その背を必死に震わせ、何かを叫んでおられますわ。




何をそんなに、叫ぶ必要があるのかしら、ふふふっ。




 「行こうか、凛子。」

 廊下をお歩きになられようとしたお父様の背に、私は思い出したかのように声を掛けますの。

 「あ、待って、お父様。」

 「ん、どうしたんだい、凛子。

 おめかしは、別にしなくても大丈夫だよ。」

 「もう、お父様ったら。

 そうではなくて、凛子、お父様にお願い事がありますの。」

 「お願い……とは、どんなことだい。

 お父様ができることなら、なんだってしてあげようではないか。

 だから、言ってごらん。」

「あそこにある、穴の蓋を元に戻して欲しいの。

 少し、ずれていて、それに気が付かないで誰かが通ってしまっては危ないですし、私も、お庭をお散歩する時に、転びたくはないですもの。」

「なんだ、そんなことか。

 分かったよ、お父様が行って蓋を穴に被せてくるから、少しここで待っていなさい。」

「えぇ、私、ここでお父様を見つめておりますわね。」

 お父様は、砂利を踏み鳴らし、その身を少し覗かせている穴へと近付いて行かれます。





 ざっざっざっざっ。





 ざっざっざっざっ。





 ざっざっざっざざざざざざざざざざざざざざざっ。






 ……カタン……。






 じりじりという、名も知らぬ虫の音に耳を傾け、私は一人、お庭を見つめております。

お父様が、白い手に引き擦り込まれてから、月が空に見えるほどの時間が経ちましたのに、閉じられたままの穴は、あの日のように、口を開くことはございません。

虫の騒ぎの中に、静かに息を潜めつつ、そっと鎮座しているだけに見えるその穴に、私は歩みを向けておりますの。

お庭から見ている時は、もう少し遠い場所にあるように思われましたこの穴は、そう離れている訳でもございませんのね。

 私は、ゆっくりと腰を屈め穴に被さる蓋に手をかけ、砂利と擦れる音すら気にも留めず、横にずらして参ります。

 半分ほど開け、前のめりになって穴の中を覗き込んでみますと、私は微笑んでしまいました。

 

 月や星の灯りでも、十分に中が確認できたのですもの。

 

だから、私は、底も測り知れないような穴の闇に向って、声を掛けました。





 「まぁ、そこにいらしたのね、お母様。」

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