エピローグ(1)
さて、あらためて、このお話は天使についてのお話です。
ミカの中の天使は消えました。大天使様と指導天使様も去りました。
ミカの天使についての記憶も消え、肩甲骨のムズムズもなくなりました
だから「天使のお話」は、これでおしまいです。
ただ、登場人物たちがどうなったかについて、かなり長くなりますが、もうしばらくお付き合いください。
8月24日、ミカはお見舞いのあと、しばらく図書館で勉強し予備校へ行きました。
家に帰ったのは9時半頃。
おじいちゃんとおばあちゃんが、バースデーケーキを用意して待っていてくれました。
「こんなことするのは、久しぶりだなあ」とおじいちゃん。
「去年まではあなたが乗り気じゃなかったから。いいわよね?」とおばあちゃん。
「うん。ありがとう。嬉しい」とミカ。
おじいちゃんがロウソクに火を灯します。
「ミカ、18才のお誕生日おめでとう」とおじいちゃん。
「ハッピー・バースデー」とおばあちゃん。
ミカがロウソクを吹き消します。
おとうさんから「お誕生日おめでとう」のメールがきました。
LINEにもメッセージが入っていました。
「お誕生日おめでとう!」とマイ。
「ハッピバースデー」とヨッシー。
タエコは「おたおめ」のスタンプ。
そしてノエルからもメールが。
「お誕生日おめでとう。おれの大事なミカへ」
8月27日の日曜日は、学校で受ける全国記述模試。先に受けた共通テストの模試と合わせて、総合判定が出ます。
その共通テスト模試の結果が9月1日金曜日の始業式の日、ウェブ上で確認できました。
ミクッツの4人は、放課後カフェテリアに集まります。
「全然ダメだった」とヨッシーが深刻な顔で言います。
「正答率、天大法学部の合格ラインに全然足りてない。県立T大にも足りてない」
「ヨッシーは国公立一本だからなあ」とマイ。
「あ~どうしよう。浪人して予備校通う余裕ないし。みんなはどうだったの?」
「私は、国立のほうが、まだ少し足りない」とマイ。
「わたしは、第一志望が、まだまだ」とミカ。
「みんなはいいよ。予備校でしっかり対策できるから」
「苦手科目は?」とタエコ。
「世界史と政経」とヨッシー。
「ちょっと待って」と言うとタエコはLINEを始めました。
しばらくスマホをいじって、5分ほどしてタエコが顔を上げて言いました。
「ヨッシーのカテキョー候補。指導経験あり」
「それって、ひょっとして?」とミカ。
「アニキ」
「でも、謝礼なんて払えないし...」とヨッシー。
「1回2時間。『JUJU』のクラシックバーガーセットでOK」
「ええ? 本当に?」
「関係者特別割引」
「でも、それじゃあ...」
「遠慮無用」
「ありがとう。本当に...じゃあご厚意に甘えて」
ヨッシーが笑顔になりました。憧れの天大法学部の先輩に教えてもらえるので、一層嬉しいようです。
9月5日火曜日、ミカは担任の松本先生との面談です。
「志望は変わらず、かな」と松本先生が穏やかに言います。
「はい。第一志望にはまだまだですが、がんばります」とミカ。
「森宮さんの場合、バンドのせいでスタートが相当遅れたからね。ただ、それは強みでもあるんですよ。打ち込んできた分の時間とエネルギーを受験に費やすことができる。経験上、そういう子は急に伸びる」
「予備校にも通い始めました」
「そうですか。ただ、気になるのが」
一呼吸おいて松本先生。
「大学後にどういう進路を希望するかまだわからない、と言っていたけれど、その点は?」
「まだ...よくわかりません」
「得意な科目を生かして狙える最高のところに行っておく、というのはありだけれど、後で後悔することもある」と諭すように松本先生。
「具体的でなくても、イメージは持っておいたほうがいい」
「わかりました」
誕生日のあと、日曜日を含むだいたい週3回のペースでミカはノエルのもとに通います。
毎回だいたい2時間過ごします。最初の1時間、ミカは病室で学校や予備校のテキストを開きます。
「わざわざここでやらなくてもいいんじゃないの?」とノエル。
「記憶が定着しやすいんだ」
「ははは。じゃ、おれは、ミカの記憶力を活性化させる、触媒みたいなものか?」
「この空間でノエルといると、落ち着いて安心するんだ」
勉強が一息つくと、二人は唇を重ねます。
唇を離して見合わせると、決まってノエルが鼻をミカの鼻にこすりつけます。
「ノエル、好きだね。『エスキモーのあいさつ』」
9月に入ったある日、勉強が一段落したミカが言いました。
「ノエルがベッドの上で見ている風景、わたしも見てみたい」
「そうか、じゃあ、下りるから待ってて」
「そのままで向こうにちょっと寄って」
ノエルが寝転がったまま左側に寄ります。
右側に空いた場所に、ミカが上って横になります。
二人の間に少しだけ隙間が空いた状態で、二人並んで天井を見上げます。
「思ったより、天井が高く感じる」とミカ。
「そうか。おれは慣れっこになっちゃった」
しばらく黙ってそのままでいました。
ミカが少しノエルのほうに寄ります。体が触れるようになりました。
ノエルが、ミカの上半身に背中から腕を回しました。
ミカは、ノエルのほうを向いて体を少し丸めました。
ノエルもミカのほうを向きました。
そして、互いに腕を回して抱き合いました。
その日は、ずっとそのままで過ごしました。
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9月15日、予備校の授業が終わった後、ミカはタイシくんから呼びかけられました。
「先に帰ってて」とマイとタエコに言うと、ミカはタイシくんのほうを向きます。
「引き止めてごめんなさい、森宮さん」
「ミカでいいですよ」
「ではミカさん。いっしょにノエルのお見舞いに行きませんか」
「そうですね」
「あさっては日曜ですが、いかがですか」
「大丈夫です」
「時間は?」
「わたしはいつも2時頃に行きます」
「じゃあ、僕からノエルにメールいれて、OKならミカさんにメールします」
その日、ミカが帰宅して夕飯を食べ終わったころメールが着信しました。
タイシくんです。
「ノエルOKです。あさって午後2時に病院のロビーで」
「了解です。よろしく」とミカは返信しました。
17日の日曜日。セミの鳴き声もまばらになってきました。
ミカはタイシくんと付属病院の1階ロビーで待ち合わせ。
2時少し前、7階のノエルの個室に向かいます。お母さまとお父さまがきていました。
「よう」とノエル。
「具合はどうだい」とタイシくん。
「まあまあかな」とノエル。
「来てくださってありがとう。今日はお二人なのね」とお母さま。
「ええ。8月のライブで紹介してもらいました」とタイシくん。
ノエルの両親は、気を遣って外に出てくれました。
今日はおもにタイシくんとノエルが話をし、ミカは聞いています。
学校のこと、受験勉強のこと。
「タイシはぬかりないだろうけど、ミカが心配だな」とノエル。
「まだ4ヶ月あるから、これから伸びますよ」とタイシくん。
「疲れると悪いから」と1時間くらいたったころ、タイシくんが言いました。
「もう帰るか?」と少し寂しそうにノエル。
「ああ。また来るよ」
「勉強がんばれよ」とノエル。
「ありがとう」とタイシくん。
ミカとタイシくんは、1階ロビーのカフェに入りました。
席に着くと、タイシくんが口を開きます。
「ミカさんは、頻繁に来られているのですね」
「えっ...どうしてそう思うのですか?」
「なんとなく、二人の雰囲気を見てると」
「正直な話、よく来ています。だいたい日曜日は毎週。あと平日も何日か」
二人はドリンクに口をつけます。
「頻繁に会っているミカさんの目から見て、彼の病気についてどう思いますか」
「そうですね...あまり良くないと思います」
「ぼくも、今日会ってそう思いました。明らかに衰弱しています」
「...」
「心配です」
重くなった雰囲気を変えるべく、ミカが話題を変えました。
「タイシさんは、おうちがお医者さんだから医学部なんですか?」
「そのことが無いとは言えませんですが、親から『医者になれ』と言われているわけではありません」
「じゃあ、自分からなりたい、と思ってるのですね」
タイシくんはドリンクに口をつけて言います。
「小さいころから生き物に興味がありました。高校では生物部にいました」
「へええ」
「ずっと『生命の神秘』に興味があって、生物学も考えましたが、人間の生命に日々直接向き合う医師になりたい、と思うようになりました」
「患者さんのために、ということですか」
「医師である以上、患者さんに尽くすことは大前提です。けれど、それだけでは続かないと思います」
「そうですか」
「家が医院ですので、いろいろな患者さんを見ています。必ずしも感謝されるわけではない。怒鳴られたり、罵られたりすることもあります」
「...」
「命を救うことができない、という状況にも多く直面するでしょう。シビアな仕事です」
「そうですね」
「患者さんのために、ということを忘れてはならない。けれどそれだけでは続かない」
「...」
「だから、自分のための目標を持つようにしたいと考えています。患者さんの生命と真正面から向き合うことを通じて、『生命の神秘』をより深く理解する、という目標です」
「...ご自分の将来について、本当によく考えてられるのですね」
「ミカさんはどうですか? 将来は?」とタイシくん。
「一応理工系を考えているのですが、将来についてイメージが湧きません。先生から、大学後のことも考えて進学先を決めるように、と言われているんですけれど」
「ぼくからこんなこと言うのもなんですけど、理系だからとか偏差値とかにとらわれずに、間口を広げて考えてみてはいかがですか?」
「というと、文系も?」
「そうですし、理系だったら医療系も選択肢に含めてみては、と思います」
「ありがとう。参考にします」
カフェで30分くらい過ごして、二人は病院を後にしました。
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9月24日の日曜日。夏の名残が薄れて、本格的な秋に向かいます。ミクッツの4人は、学校経由で申し込んだ伝統ある予備校の統一模試を、会場のルミ大で受けます。朝9から6時過ぎまでの長丁場。マイとミカは「疲れた~」を連発し、ヨッシーは例によって「ダメだった~」を連発。タエコは「泰然自若」というところでしょうか。
統一模試の翌日、学校と予備校の間の時間をミカはノエルの病室で過ごします。
勉強が一段落着くと、ミカはベットに上り、横になってノエルと向き合います。
軽くキスをして、「エスキモーのあいさつ」。
「制服、しわにならないか?」とノエル。
「大丈夫。アイロンかけるから」とミカ。
ゆっくりとした口調でノエルが言います。
「実は、おまえにどうしても聞いておきたいことがある」
「なに? 改まって」
「なんでも答えてくれるか?」
「たいていのことなら」
「よし、じゃあ」
と言うと、ミカの目を真っすぐと見ながらノエルが言います。
「おまえのブラのサイズ」
「えっ?...それは...恥ずかしいよお」
「こっちは余命宣告受けてんだから。どうってことないだろう」
「わかった...内緒だよ」
「ああ」
「じゃあ、言うね...Cカップ」
「ほーお...それって、女子高生が憧れるサイズじゃん」とミカの胸元に目をやりながらノエルが言います。
「なんでそんなこと知ってるの?」
「マンガ...ヒマだから、図書室にあるコミックス全部読んじゃった」
「そういうことに興味あるんだ」
「あたりまえだろ。こう見えても健全な男子高校生なんだから、ビョーキだけど」
「...いつまで見てんの?」
ノエルはミカの胸元から目を離します。
その次の土曜日、予備校の授業のあと、ヨッシーが加わった4人でAUショッピングモールのランジェリーショップに行きました。「女友達で集まってパーティーをするときに使う」という言い訳で、ショップの人がニコニコしながら勧めてくれる上下のセットを吟味して、結局、比較的無難そうなのを2セット、ミカが選びました。3人と別れた帰り道、ミカは遠回りしていつも行かないコンビニに寄ります。
翌日はもう10月。ミカはいつもとおり2時頃にノエルの病室に行きます。
相変わらず個室です。お母さまが看護師さんに言ってくれているらしく、扉を閉めているときは看護師さんたちも気を遣ってくれうようです。
いつもとおり、ときどき言葉を交わしながら、ミカは予備校のテキストに取り組みます。
1時間ほどして、ミカはベッドに上がります。上半身起こした状態でキス。抱き合ったまま体をベッドの上に倒します。
しばらく抱き合ったままで黙っていました。
ミカが口を開きます。
「この先...行く?」
「...」
「わたしはいいんだよ。ノエルがそういう気になってもいいように、準備してきた」
「...それは...やめとこう」
「どうして?」
「おまえの気持ちは嬉しい。でも、それは...おまえの未来の恋人のために、とっときな」と優しく諭すような口調でノエル。
「そんな...なんかさびしいな」
「恋人には、永遠の愛を誓えるヒトになってもらってくれ」
「永遠、なんて...誰にもわからないよ。明日のことだって」
ミカの頬を一筋の涙が伝いました。
「未来が不確定なのはわかる。でもおれの場合、未来はほぼ確定している...タイミングの問題だけ」
「...」
「おれは永遠を誓うことはできない。だから、ミカには、永遠を誓えるヒトと巡り会ってほしい」
そう言うと、ノエルはミカに回した腕にギュッと力を入れて抱きしめました。
「こうやっておまえを近くに感じているだけでいいんだ、おれは」
その晩、ミカはいっしょに行ってくれた3人にLINEで報告します。
「そう。でもノエルくんの意思だからね」とマイ。
「ミカの気持ちは嬉しかったんじゃない?」とヨッシー。
「そう言ってくれた。でも本当は、もうそんなことする元気がなかっただけかもしれない」とミカ。
8月末に受けた記述模試の結果がわかりました。
7月末の共通テスト模試の結果とあわせた総合判定で、タエコが4段階で一番上のA判定。マイはB判定です。ミカとヨッシーはともにC判定。
落ち込むかと思ったヨッシーが意外と元気でした。
「カテキョーのおかげで、どんどんわかるようになってきてる」とLINEに書き込みます。
「最近はね、数学も教えてもらっている。数学分の謝礼は、単品のフィッシュバーガー」
「へえ。タエコのお兄さん、数学も得意なんだ」とミカ。
「法学は論理的思考が命」とタエコ。
タイシくんには、顔を合わせるたびにノエルの具合を聞かれます。そのたびにミカはいたたまれなくなります。
お見舞いに行ったときに、ノエルに、タイシくんに話をしていいか聞きました。
「おれは、まだ話したくないけれど...まかすわ、おまえに」
「いいの?」
「おまえの気持ちが楽になるなら」
10月7日の土曜日、予備校の授業は5時過ぎに終わります。
タイシくんを改めて「ノエルの親友」」としてマイとタエコに紹介すると、タイシくんと二人で駅前商店街に行き、喫茶店に入ります。
「ごめんなさい。急に申し訳なかったかしら」とミカ。
「いえ、大丈夫ですよ」とタイシくん。
注文したコーヒーが運ばれてきます。
一口飲んで、ミカが話し始めます。
「ノエルの病気の話です」
「やはり。そうかと思いました」
「タイシさんは、うすうす気づいているようだけれど」
「そういうことですね」
「はい。彼は余命宣告を受けています」
「どれくらい」
「去年の9月初めに『残り1年』と言われたそうです。だから、もう、いつ来ても...」
「ぼくも時々顔を見に行ってますが、消耗が激しいのは感じてました」
「彼は、タイシさんにはまだ話したくなかったようです。けど、わたしから話すことの了解はもらっています」
「お気遣いいただいて、ありがとう」
しばらく黙ってコーヒーを飲んだのち、タイシくんが言います。
「けれど...悔しいです。これが例えばあと8年とか先で、自分が医師になっていたら、彼の力になれたかもしてない」
「...」
「変ですよね。まだ医学部に受かってもいないのに」
「そんな...」
「専門的な立場で彼の命と向き会うことができない、ただの親友として見守ることしかできない自分が、歯がゆいです」
一呼吸おいてタイシくんが続けます。
「その点、ミカさん。あなたはノエルの側にいることで、彼に多くのものを与えている。それができるあなたが、ぼくは...うらやましい」
「そんなこと...わたしはただお見舞いに行っているだけです」
「それだけのことで、彼の支えとなれる、そんな彼とあなたの関係性が、ぼくにはうらやましいんです」
「タイシさんの顔を見ると、彼も気持ちが楽になると思います。だから...お見舞いができるうちに、できるだけ行ってあげてください」
「そうですね。そうします」
その晩、ミカはノエルにメールしました。
「タイシさんに話した」
「了解」と返信メール。