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5話 第二の殺人事件が起きてしもたでんがなまんがな。

「このあたしが腕によりを掛けて作ったんだからね。味わって食べなさいよ」
 マリは両手を腰に当てながら、大威張りに胸を張っていた。
 ハンバーグの見た目は至って普通だ。
 禍々しいオーラも放っていない。
 だけど、問題は味の方だ。
「いただきます」
 意を決してフォークを握って、ハンバーグを切る。
 恐る恐る口元へ運んで食べる。肉の味が口に広がる。
 うん、ハンバーグの味がする。
「どうなのよ?」
 マリは腰を曲げながら僕の顔を覗き込む。
「うん。おいしいよ」
 僕は笑顔で頷く。
 良かった。漫画みたいな、あり得ないくらい不味い料理じゃなくて。
 油でべとべとになった口から安堵の溜め息が漏れそうになった。
 咄嗟に息を止めて口を閉じる。
「ユリはどう?」
「おいしいよ。マリも上手いじゃない」
「うん。マリもいいお嫁さんになれるんじゃないかな」
「そ、そうよね。あたしの未来の旦那は幸せ者よね」
 何故か、ちらちらと僕を見ている。
 動揺の理由が分からず、二口目のハンバーグを咀嚼しながら首を傾げる。
「まあ、気が向いたらまた作ってあげるわ」
 誉められて気を良くしたらしく、両手を腰に回しながら頷いている。
 相変わらず、すぐ調子に乗る性格だ。
 そんな和やかな食卓の空気を一変させたのは、鳴り響く電話のベルだった。
 僕らは事務室を振り返ってから、三人で顔を見合わせる。
 互いの張り詰めた表情を見れば同じことを考えているのは一目瞭然だった。
 僕らは一斉にフォークを皿に置いて事務室へ駆け込んだ。
「はい。白鳥ユリ・マリ探偵事務所ですけど」
「ユウキ君……」
 受話器から響いてきたのは前回よりも重い海堂警部の声だった。
 にわかに心拍数が上昇して呼吸が苦しくなる。
「まただよ。今度は永田が殺されたよ」
「二人目、ですか……」
 受話器を左耳に押し当てたまま、溜め息をつきながらディスプレイを見つめる。
 表示されている日付は1月15日。
 僅か二日後、第二の事件発生か。
「しかも、遺体の状態が前回と酷似しているんだよ。見るも無惨な程、傷だらけでね。これは同一犯の可能性が高いね」
そうなると、やっぱりあの二人のどちらかが犯人なのか? 
 タカヒロさんとキョウさん。
 ふたりの顔が脳裏に浮かぶ。
「現場はどこですか?」
「今回も自宅だよ。またユリ君とマリ君を連れて来てくれるかい?」
「分かりました」

「ほんとに前と同じだね」
「これは前より酷いわよ」
 庭に俯せの状態で横たわる遺体を見下ろしながら、ユリとマリが揃って渋面を作る。
 体中に付いた無数の傷跡。
 土にどっぷりと染み込んだ、どす黒い血。
 僕は遺体の惨状に吐き気を催した。
 顔を歪めながら右手で口を覆う。
「頬に痣が付いてますね」
「何度も靴で踏みつけたのかもね」
 激しい怒りと憎悪を込めて、血塗れの永田を踏みつける死神。
 煙草の吸い殻を踏み消すように、ぐりぐりと靴を左右に揺らしながら。
 そんな惨たらしい光景を想像して、体中を恐怖が駆け巡った。
 これ以上は見ていられなくて目を逸らす。
「おっちゃん、目撃者はいないの?」
「現場検証が終わったばかりだから、これからだよ」
「なら、さっさと行きましょう。前みたいに死神を見た人がいるかもしれないわよ」
 有力な目撃証言は三軒目の住宅で得ることができた。
 40代くらいの男性は玄関先で興奮気味に語り出した。
「私、逃げていく死神を見たんですよ!」
「本当ですか? どこで目撃されたのですか?」
「コンビニで買い物をした帰りに、たまたま通りかかったんですよ。車で走っていたら、偶然に見かけて」
「正確な時間は分かりますか?」
「正確には分かりませんけど、大体8時頃でしたね」
「何か変わった所はありましたか?」
「そういえば、大きな鎌を持ってましたよ」
「鎌ですか。具体的にはどれくらいの大きさでした?」
「たぶん、これくらいだと思います」
40代くらいの男性は右手を頭上に掲げた。
 左手をお腹にくっつけて大きさを示す。
「凶器は鎌か」
「死神だから鎌ってわけね」
 ユリは右手を顎に当てながら呟く。
 マリは両手を腰に回しながら息を吐く。
 鎌か。鎌で森嶋と永田を殺したのか。
 あの傷だらけの遺体が目に浮かんで顔をしかめる。
「あれ……?」
 ユリは何故か素っ頓狂な声を上げた。
 僕は何事かと思いながら、ユリの横顔に問い掛ける。
「ユリ、どうしたの?」
「ううん。何でもないよ」
ユリは無理に作ったような笑顔で首を横に振っていた。
どうしたんだろう? 
 何でユリは素っ頓狂な声を上げたんだろう?

 キョウさんの態度は前回と同じように落ち着き払っていた。
 向かいのソファーに体を沈めながら足首を組んでいる。
「警部さん、今回はどういったご用件ですか?」
「二人目の被害者が出てしまったんですよ。今度は永田が殺されました」
「そうですか。永田も……」
 俯きながら唇を噛み締める。
 相変わらず演技なのか、自然な態度なのか判別できない。
「キョウさん、今回も現場から逃走した死神を目撃した方がいたんですよ。その目撃者が言うにはね、鎌を持っていたらしいんですよ」
「なるほど。死神だけに凶器は鎌という訳ですか。それで、僕の家に鎌を探しに来たと?」
「いえ、そういう訳では」
「建前は必要ないですよ。本音でおっしゃってくださいよ」
 キョウさんは首を横に振りながら、海堂警部に向かって右手をかざす。
 海堂警部は背中を曲げて、キョウさんの顔を覗き込む。
「では、伺いますがね。最近、鎌を購入されたことはありませんか?」
「買ってませんよ」
「誰かから譲り受けたこともありませんか?」
「貰ってませんよ」
「この家に元々、鎌は置いてありますか?」
「いいえ、ありませんよ」
「吉野家に鎌があるのを見たことはありませんか?」
「そんなに家の隅々まで把握している訳ではないですけどね。少なくとも、僕は見たことがありませんよ。でも、普通は部屋の中に隠したりはしないんじゃないですか? もし僕が犯人なら、どこか人目に付かないような場所に隠しますけどね」
「おっしゃる通りですな。決定的な証拠を家の中に隠しておく犯人なんて、私もお目にかかったことがありません」
「いいですよ。そんなに僕を疑ってらっしゃるなら、部屋の隅々まで探してくださいよ」
「では、お言葉に甘えて」
 リビングや浴室や玄関を一通り探し終えると、僕らは台所へ踏み込んだ。
 僕は冷蔵庫を背にして立つ。
 海堂警部がナイフや包丁を調べている最中、キョウさんとユリはテーブルの横で話し込んでいた。
「ユリさん、料理の方はどうなんですか?」
「一応、一通りは作れますよ」
「料理はユリさんがされてるんですか?」
「いえ、今はユウキ君が作ってくれてます」
 ユリが僕へ視線を送る。キョウさんも僕へ顔を向ける。
 どう反応していいのか分からず、僕は愛想笑いを返す。
「前はユリさんが作ってらしたんですか?」
「ユウキ君が助手になってからは全然、作ってなかったんですけどね。この前、久しぶりにオムライスを作ったんですよ」
「へえ、オムライスですか。それは食べてみたかったですね」
「サクラさんはお料理がお上手だったんですか?」
「結構、色々と作ってくれましたよ。いつも、そこの椅子で食べてましたね」
 奥の椅子に右手をかざす。
 手前の椅子にキョウさんが座っていたらしい。
「もう二度と、サクラの手料理は食べられないですけどね……」
 切なげにテーブルを見つめる横顔に、胸が締め付けられる。
 そうか。大切な人を失うというのは、そういうことなんだ。
 一階の捜索を終えた僕らは二階へ昇っていった。
 キョウさんが部屋のドアを開ける。
「こちらが寝室ですよ」
 部屋の左側に真っ白なベッドが二つ並んでいる。
 手前がサクラさんのベッドだったようだ。
 淡いピンクのカバーが掛けられた枕が乗っている。
 キョウさんは今ここで独りで寝ているんだ。
 眠れぬ夜だって何度もあっただろう。
「サクラさん、クラシックが好きだったんですか?」
 やるせない思いでベッドを眺めていた僕はユリの声に振り返る。
 ユリは本棚の前に立っていた。
 振り返ってドアを背に立つキョウさんに話しかけている。
「そうなんですよ」
 キョウさんは懐かしむような笑顔で頷いて、本棚へ歩いていく。
 ユリの隣に並んで一緒に本棚を見上げる。
「ショパンは特によく聴いてましたね。ピアノでもよく弾いてましたよ。最初に聴かせて貰ったのが別れの曲だったんですけどね。なかなか上手でしたよ」
「あの曲ですか」
「ユリさんもピアノを弾かれるんですか?」
「はい。学生の頃はたまに弾いてましたね」
 ユリってピアノが弾けるんだ。
 それは初耳だ。ユリのピアノ、聴いてみたいな。
「ユリさんとサクラって、何となく雰囲気が似てるんですよね。ユリさんはケーキとか甘い物は好きですか?」
「好きですよ。特にケーキは」
「サクラもケーキが好きだったんですよ。夜、急に食べたくなる時があって。よくコンビニへ買いに行ってましたよ」
「分かります。私もたまにそういうことがあるので」
 微笑を交わしながら話す二人に嫉妬を感じて胸が疼く。
 何を考えているんだ、僕は。ユリは恋人でも何でもないのに。
 それにしても、キョウさんのユリに対する態度は特別な感じを受ける。
 もしかしたら、ユリにサクラさんを重ね合わせているのかもしれない。
 ピアノとケーキという共通項もあるから。
「失礼しますよ」
 談笑する二人に構わず、海堂警部は絨毯の上で膝を着く。
 ベッドの下を覗き込んでから立ち上がり、今度は奥のベッドの下を覗く。
「こういう所なら鎌も隠せそうですけどね」
 キョウさんはクローゼットを開けながら皮肉混じりに笑う。
 ハンガーに掛けられたコートが何着かぶら下がっている。
 白いコートはサクラさんが着ていた物だろう。
「見てください」
ハンガーを棒から外して引っ張り出し、中を空にして鎌など存在しないことを訴える。
「さあ、もういいですよね」
キョウさんは全てのハンガーを掛け直すと、クローゼットの扉を閉めた。
「タンスも見せていただけますか?」
「ええ、もちろん」
タンスへ近づいていき一段目の引き出しを開ける。
 ワンピースやTシャツが入っている。服の色は大半が白だ。
「服の下に隠してなんかいませんよ」
 右から順番に捲る。
 下には茶色い板が見えるばかりで、キョウさんの言葉に嘘偽りがないことが分かる。
 この服は全てサクラさんの遺品なんだ。
 持ち主が亡くなれば全ての物が遺品と化すんだ。
 そんな当たり前の感想が浮かんできて、感傷的な気分が胸に広がる。
「サクラさん、白がお好きだったんですね」
「白は特に好きな色だと言ってましたよ。ユリさんも白、似合いそうですね」
「好きですよ。持ってる服の半分くらいは白ですね」
「そうなんですか。まあユリさんなら何を着ても似合うと思いますよ」
「ありがとうございます」
 二人の話に耳を傾けながら、僕はサクラさんの写真を思い浮かべていた。
 そういえば、あの写真で着ていたワンピースの色も白だった。
 キョウさんは六段全ての引き出しを開けて中を見せてくれた。
 だけど、やっぱり鎌は隠されていなかった。
 キョウさんが引き出しを閉めて立った時、海堂警部はカーテンに覆われた窓を眺めながら告げた。
「あとは外ですな。お車も見せてもらいますよ」

「ねえ、ユウキ」
 家の外に出た直後、マリの囁き声が背後から聞こえた。
 靴を止めて、入口の扉を振り返る。
 マリはいつになく険しい顔をしていた。
 僕の隣に並ぶと、右手で口を隠しながら耳打ちをした。
「ユリとキョウさん、なんかいい感じよね?」
「うん。だよね」
「もしかしたら、ユリとサクラさんを重ねて見てるのかもしれないわね。似てるって言ってたし」
「うん。僕もそう思うよ」
「でも、あんまり仲良くならない方がいいと思うのよね。キョウさんだって、共犯かもしれないんだし」
「マリはタカヒロさんが死神で、キョウさんが共犯だと思ってるの?」
「まだ断言はできないけどね。とにかく、事件に関わってる可能性はあるわよ」
「でもさ、二人とも人を殺すようには見えないけど」
 僕は前を歩くキョウさんの背中に視線を送る。
 キョウさんとユリと海堂警部が白い車の前で足を止める。
「あんたね、見た目で犯人が分かるなら警察も探偵もいらないわよ」
 そんな僕の言葉に対して、マリは呆れ顔でオーマイゴッドポーズを取る。
 白い溜め息が顔の前で渦を巻いて消えていった。
 僕らは話を切り上げて、三人の元へ追いついた。
 エアコンで暖まっていた体が真冬の北風に晒されて冷えていく。
「キョウさん、車の鍵を貸していただけますか?」
「はい。どうぞ」
 キョウさんは海堂警部の大きな手に鍵を置いた。
 海堂警部は車にリモコンキーを向ける。ピッと音が鳴る。
 海堂警部は運転席のドアを開けて車内へ体を押し込んだ。
 海堂警部がキョウさんの車に乗り込んで調べる傍ら、二人は相変わらず楽しそうにお喋りをしていた。
「キョウさんのお車も白なんですね」
「そういえば、ユリさんのも白でしたよね」
「はい。メアリーです」
「メアリー? 車種の名前ですか?」
「いえ、私が付けた名前です」
「名前を付けているんですか?」
「やっぱり変ですかね?」
「いえ、可愛らしくていいと思いますよ」
「あれ? キョウさん、指輪はどうされたんですか?」
 ユリの視線がキョウさんの左手へ注がれる。
 確かに左手の薬指には指輪が嵌められていなかった。
「たまに外すんですよ。ずっと付けてる人もいるみたいですけどね」
「そうなんですか」
「そういえば、ユリさんって独身ですか?」
「はい。私もマリも独身ですよ」
「ユリさんならきっと素敵な男性と巡り会えると思いますよ」
「そうですか? だといいんですけどね」
 ユリの結婚相手か。
 ユリはどんな人と結婚するのだろう?
 純白のウェディングドレス姿のユリ。
 その傍らに立つタキシード姿の僕。
 不意にそんな妄想が浮かんでしまった。
 また何を考えているんだ、僕は。
 結婚どころか、付き合ってもいないのに。
 恥ずかしい妄想の世界から帰還した頃、バタンという物音が響いた。
 体を震わせながら目を向けると、海堂警部がトランクの前に立っていた。
 僕が妄想の世界へ旅立っている間に、車から出てきてトランクまで調べ終えたらしい。
「ねえ? 鎌も黒装束もドクロの仮面もなかったでしょう? 僕を調べたって何も出てきませんよ。もちろん、お義父さんだって無関係でしょうし」
「快くご協力いただいて助かりましたよ」
「いえ、僕にできることであれば何でも協力させていただきますよ」
「ありがとうございます。では、我々はこれで」
海堂警部が踵を返して、僕らが門外の道路に出た直後だった。
「泥棒!」
闇夜を切り裂く若い女性の悲鳴に、僕らは揃って振り返った。
 若い女性が右手を伸ばしながら立ち尽くしている。
 その数メートル先を男が走っていた。
 暗くて色までは見えないけど、お腹の前にハンドバッグを抱えている。
「待て!」
 僕らが呆気に取られる中、真っ先に駆け出したのはキョウさんだった。
 引ったくり犯が振り返って距離を確認。
 再び前を向いて走る。
二人の距離が一気に縮まっていく。
キョウさんの両手が犯人の腰へと伸びる。
背後からタックルを受けた犯人が倒れる。
犯人の手から落ちたハンドバッグがアスファルトに転がる。
キョウさんは犯人の背中に馬乗りになって見事に取り押さえた。
「離せ! 離せよ!」
僕らがようやく追いついた頃、犯人が体を捻って抵抗し始めた。
 二人の姿が街灯の真下でスポットライトを浴びたように浮かび上がっていた。
 キョウさんの肩越しに犯人の顔を覗き込んでみる。
 アスファルトに押し当てられた顰め面にはまだ幼さが残っていた。十代の少年だろう。
「大人しくしろ。暴れると罪が増えるぞ」
海堂警部がドスのきいた声で警告する。
「馬鹿ね。すぐ傍に刑事のおっちゃんがいるのに」
マリが両手を腰に当てながら、小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「刑事?」
少年が右目だけを開けて真上に立つマリを仰ぎ見る。
「そうだよ。このおじさんね、刑事さんなの」
 ユリが腰の後ろで両手を組んで、微笑を浮かべながら少年を見下ろす。
「そうだったのか……」
まさか刑事だとは思ってなかったらしく、少年は溜め息混じりの苦笑を見せる。
「午後10時32分、窃盗の現行犯で逮捕する」
 海堂警部は左腕に嵌めた腕時計へ目を遣って時刻を告げる。
 少年の前に屈み込んで懐から手錠を出す。
 金属音が鳴って少年の腕に手錠が掛けられた。
「身体検査をさせて貰うからな」
革ジャンのポケットに手を入れて探り、大きく頷いてから立ち上がる。
「凶器は所持していないようだな」
「持ってないっすよ」
 海堂警部は背広の上着のポケットから携帯電話を出した。
 ボタンを押して左耳に当てる。
「私だ。窃盗犯を捕まえたんだよ。至急、応援に来てくれ。分かった。待ってるよ」
手短に用件を伝えて、携帯電話を折り畳んでポケットに戻す。
 ハンドバッグを拾い上げると、被害者の女性へ近づいていった。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんかな?」
「ええ、大丈夫です」
「近頃、何かと物騒ですからな。くれぐれもお気を付けください」
「はい。どうも、ありがとうございます」
 女性は差し出されたハンドバッグを受け取って頭を下げる。
「事情聴取がありますからね。悪いのですが、ここに残っていていただけますか?」
「はい。分かりました」
 数分後、少年は駆けつけたパトカーに乗せられ連行されていった。
 被害者の女性は事情聴取を受けた後に帰された。
「いやあ、キョウさん。お手柄でしたな」
「いえ、そんな」
 海堂警部の賛辞を受けて、キョウさんは照れ臭そうに頭を掻く。
 右手を下ろして隣に顔を向ける。
「ユリさんも気を付けてくださいよ。引ったくりもそうですけど、世の中には女性にもっと卑劣なことをする男がいますからね」
「ユリなら銃でやっつけちゃうわよ。ねえ?」
 マリはフレミングの法則のように、左手で銃を作ってユリにウインクを飛ばす。
「銃? ユリさん、銃が使えるんですか?」
「はい。今日は持ってきてないんですけど」
「意外ですね。ユリさんって、お淑やかなイメージがあるので」
「でも、キョウさんって足が速いんですね」
「こう見えても、運動は得意なんですよ。高校の頃、陸上部だったので」
「陸上部ですか。50メートル走のタイムって何秒でした?」
「50メートルは6秒6がベストでしたね」
「本当に速いんですね。運動会でもいつも一番だったんですか?」
「そうですね。大抵は一位でしたよ」
「全く衰えてないんですね」
「今でも欠かさずジョギングはやってるんですよ。何だか、走らないと落ち着かなくて」
「羨ましい限りですな。私は足が遅いですから」
「おっちゃん、ほんとに遅いもんね」
 海堂警部は苦笑を浮かべながら、キョウさんの足を見下ろしていた。
 マリが隣から冷やかすように笑いかける。
「ゴルフは得意なんだけどね。キョウさん、ゴルフはどうですか?」
「いえ、ゴルフは一度もやったことがないですね」
 海堂警部の質問に対して、キョウさんは首を横に振った。
「そうですか。あれは足が遅くてもできますからね。そういう意味では、私にとってはいいスポーツですよ」 
 海堂警部は両手を腰の後ろで組みながら笑っていた。
 大きな肩が暗闇の中で揺れていた。
 それにしても本当に驚いた。
 キョウさんの足がこれ程までに速いとは。
 見事な脚力を披露した二本の足に、僕は羨望の眼差しを送っていた。

 タカヒロさんは顔をしかめながら、左手で右肩を押さえていた。
 ユリが向かいのソファーから身を乗り出しながら尋ねる。
「肩、どうかされたんですか?」
「昼間、庭でゴルフの素振りをしてたら痛めたんだよ。さっき医者に行ったら五十肩だと言われてね。腕が上げられないんだよ。やっぱり、年には勝てないね」
「どこの病院ですか?」
「ここから車で20分くらいのかかりつけの所だよ」
「あれ? タカヒロさんも指輪されてないんですね」
 ユリの指摘を耳にして、タカヒロさんの左手に視線を注いでみる。
 本当だ。左手の薬指には結婚指輪が嵌められていない。
「ああ、さっきまでお風呂に入ってたんだよ」
 タカヒロさんは膝の上に乗せた左手を顔の前に持ってきた。手の甲で顔が隠れる。
「確か、キョウ君はずっと付けていると言っていたな」
「そういえば、そんな話をされてましたね」
「サクラもそうだったな」
「そうですね。二人ともずっと付けていると話してましたね」
「あれ? そうなんですか? キョウさん、たまに外すと話してらしたんですけど」
「えっ? 本当かい?」
「さっき、お家にお邪魔したんですよ。その時、そうおっしゃってましたよ」
「おかしいな。確かに、前はずっと付けてると言ってたんだけどね」
「最近、外すようになったんじゃないですか?」
 タカヒロさんとカズミさんが首を傾げながら見合う。
 これはどういうことだ? 
 何か深い意味があるのかな?
「そういえば、あの指輪はサクラの物なんだよ」
「えっ? そうなんですか?」
「うん。キョウ君がそう言っていたよ」
 キョウさん、自分のではなくサクラさんの指輪を嵌めているのか。
 大切な遺品だからずっと身に付けていたいのだろう。
「ところで、お邪魔したと言ってたね。キョウ君の家にはもう行ったんだね?」
「はい。実は引ったくり事件があったんですよ」
「引ったくり?」
「はい。キョウさんの家を出た直後、目の前で」
「それは災難だったね。それで、どうなったんだい?」
「キョウさんが追いかけて捕まえたんです。すごく速かったですよ」
「捕まえたのかい。キョウ君に怪我はなかったのかい?」
「大丈夫でしたよ。すぐに警部さんが手錠を掛けてくれましたから」
「そうかい。それは大変だったね」
「キョウさんは高校時代、陸上部だったんですよね?」
「そうだよ。私なんか足が遅いから本当に羨ましいよ」
「タカヒロさん、足が遅いんですか?」
「自慢じゃないが遅いよ。昔、会社の同僚達と草野球をやってたんだけどね。ワンヒットで二塁から還れないから、よくみんなに冷やかされてたよ」
「そういえば、運動会でも下の方ばかりだって言ってましたね」
「仕方ないだろ。スポーツは嫌いじゃないんだけどね」
「さて、そろそろ本題に入らせていただきますがね」 
 海堂警部は口元に拳を当てると、咳払いをしてから話を切り出した。
 さっきまでの和やかな空気が一変して、瞬時に緊張が広がる。
「タカヒロさん、今晩はどちらにいらっしゃいましたか?」
「またアリバイですか。仕事から帰った後、ずっと家にいましたよ」
 先程までの穏やかな笑顔とは打って変わって、タカヒロさんは溜め息をつきながら真顔で答える。
「ご帰宅されたのは何時頃ですか?」
「6時半頃だと思います。いつも、それくらいですから」
「カズミさん、間違いないですか?」
「はい。テレビを見てましたよ」
一瞬の迷いもなく、カズミさんは首を縦に振る。
「ところで、タカヒロさん。目撃証言によって、凶器が鎌だと判明したんですよ。この家に鎌は置いてませんか?」
「鎌ですか? 鎌なんて置いてませんよ」
「過去にも置いてありませんでしたか?」
「ありませんよ。今も以前も」
「キョウさんのご自宅で鎌を見かけたことはありませんか?」
「記憶にないですね」
「奥様もありませんか?」
「そうですね。私の知る限りではありませんけど」
「差し支えなければ、部屋を見させていただきたいんですがね」
 海堂警部がその提案を持ちかけると、タカヒロさんの顔が引き攣った。
 見るからに動揺している。
 追い打ちをかけるように、海堂警部はソファーから身を乗り出す。
「探すんですか?」
「何か不都合なことでもありますか?」
「いえ、そういう訳では」
タカヒロさんは歯切れ悪く頭を振る。
「それなら、探させていただいても構いませんか?」
 吉野夫妻は互いに顔を突き合わせて無言で相談を交わす。
 タカヒロさんは海堂警部へ顔を戻すと首を縦に振った。
「分かりました。お調べください」
「それでは、失礼して」
 海堂警部がソファーから立ってクローゼットへ歩いていく。
 僕らも後を追って背後から捜索を見守る。
「おっ」
 クローゼットを開けた途端、海堂警部は興味深そうな声を上げた。
 変わった物を発見したのかと思いきや、クローゼットの中には白いゴルフバッグが立っていた。
「ゴルフをおやりになるのですか?」
「ええ、唯一の趣味ですね」
「ゴルフと言えば、さっきキョウさんともゴルフの話をしていたんですよ」
「そういえば、この前、ゴルフバッグを買ってましたよ」
「ゴルフバッグを?」
 海堂警部が慌てて振り返る。その理由はすぐに見当がついた。
「キョウさんはゴルフをおやりにならないんですよね?」
「そうなんですよ。だから、妙だと思ったんです。でも、最近興味が出てきたらしくて」
「おかしいですな。さっき話した時は興味がないと言ってましたけどね」
「あれ? そうなんですか?」
「ゴルフバッグを買ったというのはキョウさんから聞いたのですか?」
「いえ、買っている所を見たんですよ」
「それはいつ頃の話ですか?」
「おそらく、11日だったはずですけど」
「場所はどちらです?」
「スポーツ用品店ですよ。近所のデパートの中にある」
「ちなみに色は何色でしたか?」
「白でしたね」
「文字は入ってましたか?」
「ええ、入ってましたよ。じっくりと見た訳ではないので、何が書いてあったかまでは覚えてませんけど……」
 まただ。さっきの指輪の話といい、このゴルフバッグの話といい。この二つの矛盾は何だろう?
「ところで、他の部屋も見せていただけますか?」
「サクラの部屋ならこっちですよ」
 サクラさんの部屋は落ち着いた雰囲気が漂っていた。
 窓は白いカーテンで覆われ、壁際に本棚とベッドが置いてある。
「これ、アルバムですか?」
 ユリが本棚の前で左手をかざして、扉の前に立つタカヒロさんを振り返る。
「そうだよ」
「もしよろしければ、見せていただけませんか?」
「構わないよ」
 タカヒロさんは笑顔で快諾すると、本棚からアルバムを出してユリに渡した。
 ユリが本棚を背に正座して、膝の上でアルバムを開く。
 僕とマリとタカヒロさんはユリを囲むようにして座る。
 三輪車に乗った写真。公園でブランコを漕いでいる写真。
 一ページ目には幼い頃のサクラさんの姿が写っていた。
「あっ……」
 不意にアルバムを捲っていたユリの手が止まる。
 純白のウェディングドレス姿のサクラさんと、白いタキシード姿のキョウさん。
 バージンロードを歩いている写真。
 白いウエディングケーキにナイフを入れているケーキカットの写真。
 二人でトーチを持ち、ロウソクに火を灯しているキャンドルサービスの写真。
 そのページの写真には披露宴の各場面と笑顔の二人が何枚も収められていた。
「たくさん、あるんですね」
「一生に一度の晴れ姿だからね。嬉しくなって、つい何枚も撮ってしまったよ」
「この人ったら、大はしゃぎしてたんですよ。サクラのスピーチの時には途中で泣き出しちゃって」
「泣かないってサクラと約束したんだけどね。守れなかったよ」
 カズミさんが冷やかすように笑い、タカヒロさんは切なげな顔で回想する。
 真ん中のページにはサクラさんの写真が左右に四枚ずつ貼られていた。
 床に座っている赤ん坊の頃の写真。
 小学生からは全てソファーに腰掛けた写真。
 ページが進むに従って身長が高くなり、大人になっていく。
 十六枚。二十四枚。僕はユリがページを捲るのに合わせて心の中で数える。
 写真は次の左ページで途切れていた。上の方に二枚。全部で二十六枚。
「これは?」
「毎年、サクラの誕生日に私が撮ってたんだよ。零歳の頃からずっとね」
「この右の写真が二十五歳の時ですか?」
「そうだよ。その写真だけね、キョウ君が撮ってくれたんだよ」
「キョウさんが?」
「サクラがその写真を持ってきてくれた時に話してくれたよ。私が毎年その写真を撮っていることを教えて、頼んで撮ってもらったとね」
 タカヒロさんがサクラさんを愛していたように、サクラさんもまたタカヒロさんのことを愛していたんだ。
 親子の絆を実感して胸が締め付けられる。
「だけど、これが最期の写真になってしまったな……」
 タカヒロさんは虚ろな眼差しで写真を見つめていた。
 呟くその声は悲しみに溢れていた。

 フロントガラスの向こう側で赤信号が光っていた。
 僕は後部座席の右側に座って、ぼんやりとその光を見つめていた。
「ねえ、ユリ。キョウさんのこと、好きなの?」
 マリが不躾な質問を投げかけたものだから、僕は急に我に返った。
 僕は慌てて左へ顔を向ける。
 運転席で前を向いたまま、ユリが素っ頓狂な声を上げる。
「えっ? 好き?」
「どうなの? やっぱ好きなの?」
「好きっていうか、いい印象は受けたよ。優しそうだったし」
「あんまり仲良くしない方がいいわよ。あの人も共犯かもしれないんだし」
「うん。分かってるよ」
 ユリがしおらしい声で返事をすると、マリが嫌らしい顔を近づけてきた。
「ユウキ、あんた焼き餅、焼いてたわよね?」
「そ、そんなこと……」
 僕は体を引きながらたじろぐ。
 右肘が後部座席のドアに当たった。
「誤魔化したって無駄よ。あんた、すぐ顔に出るんだから」
 しっかりと観察されていたとは。さすがは探偵だ。
 確かに僕はすぐ感情が顔に出る。
 もし明日、世界が終わると知らされたら、明日にも世界が終わりそうな顔をしているだろう。
「そっか。ユウちゃん、焼き餅焼いてくれてたんだ」
 僕は逃げるように顔を背けて、窓の外に目を向けた。
 隣の車のテールランプが闇の中で赤く光っていた。
 メアリーのアイドリング音とエアコンの音が車内に響く。
「あのさ、マリ。指輪の話、どう思う?」
「あれね。別に大したことじゃないと思うわよ。最近外すようになって、そのことを二人が知らないだけじゃない?」
「それにね、ゴルフバッグの話も気になるんだよね」
「あれも買ったはいいけど、やっぱりやる気が無くなっただけじゃない?」
「そうかな?」
 やっぱり、ユリも指輪とゴルフバッグのことは気になっていたらしい。
 マリの言う通り、取るに足らないことなのかな?
「それにさ、タカヒロさんの肩の怪我も気になるよね」
「そうね。ゴルフの素振りで痛めたって言ってたけど、嘘かもしれないわよね。被害者と格闘になった時に痛めたって可能性もあるし。まあ、医者に話を聞いておいてって、おっちゃんに頼んでおいたし。明日になれば、何か分かるかもしれないわね」
 そうか。犯行時に痛めたことを誤魔化す為に考えた嘘という可能性もある訳だ。
 そこまでは考えていなかった。
「ねえ、ユウちゃん」
 ユリに呼びかけられて、窓の外から運転席へ顔を戻した。
 バックミラー越しに目が合う。
「ユウちゃんはタカヒロさんとキョウさん、どちらかが犯人だと思う?」
「そうだね……」
 目を伏せて考えてみる。
 確かに、タカヒロさんはインタビューで物騒なことを口走っていた。
 だけど、だからといって本当に殺したとは思えない。
 大切な人を失った悲しみと怒りの余り、つい言ってしまったのだろう。
 マリは甘いと言うかもしれないけど、僕はそう信じたい。
 キョウさんだってとても人を殺すようには見えない。
 人は見かけによらないと言うけど、あの穏やかに笑う人が殺人者とは思えない。
「僕は二人とも、犯人であって欲しくないかな。ユリは?」
 顔を上げて、バックミラーを見据える。
 ユリはバックミラー越しに僕を見つめていた。
「私も同じだよ。二人とも無実だったらいいなって思うよ」
 穏やかな微笑みがバックミラーに映っていた。
 静寂な車内にエンジン音だけが響いていた。
 そう、僕らの願いは同じだ。
 二人とも犯人であって欲しくない。
 タカヒロさんもキョウさんも、二人とも無関係であって欲しい。

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