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地獄絵図

 リューシュンは、鬼どもを次から次へと掴んでは天心地胆の向こうへ放り込んだ。

 だが鬼の数は知れず、こちらも次から次へと踊り出て来る。

 さらに他の天心地胆からも、わらわらと出て来ては陰陽界を駆け巡り駆け去ってゆくのだ。





 ――くそ、独りでは埒が開かん。





 リューシュンは歯噛みしたが、どうすることも叶わなかった。

 せめてここに、コントクやジライ、ケイキョやスルグーン、そしてリンケイが居てくれたならば。



 そんなことを思う間にも、鬼どもはリューシュンの手をかいくぐり、またその手に噛み付き、振り解き、逃げ去ろうともがく。

 リューシュンは痛みと怒りに任せて、拳を握りがつんごつんと鬼どもを殴りつけた。

 気絶する鬼や泣き叫ぶ鬼、その場にしゃがみ込んでしまう情けない鬼たちもいたが、多くはリューシュンに止める術もなく、陽世へと潜り抜け出てしまうのだった。





 ――やはり陰曺地府に行って、テンニを斃してしまわねばどうにもならないか。





 そう判断し、リューシュンは矢庭に鬼どもから手を離し、天心地胆に最初の目的通り身を潜り込ませた。





          ◇◆◇





「さあ、これでいつ鬼どもが攻め込んで来ても恐れることはない」

 人々はそんな事を言い、互いに頷き合って心を強め合った。



 マトウの言葉通り皆は集い、邸の周りを鋼や巌にて強固にかため守り、門を造り、簡単にはよじ登れぬほどの立派な櫓を組み上げた。





「地上の天心地胆から来る鬼どもに対しては、あれでいいんでやしょうが」ケイキョが、そわそわと心配そうに歩き回りながら言う。「奴ら、空から降って来たりはしねえでやしょうかねえ」



「その時は、おれたちの出番さ」リョーマが、仔犬の鼻をくんくんと鳴らしながら安心させる。



「そうだな」黒犬のフラも、頷く。「俺たちが、空の天心地胆から来る鬼どもを焼き尽くしてはたき落とす」



「そうで、やすね」ケイキョは尚も不安を拭えぬ様子で、遥か上空に存在する天心地胆――地上からはなかなか眼に留めることができぬそれを、見上げた。

 龍馬二頭で――トハキが力を貸してくれたとしても三頭で、こと足りるのだろうか。

 恐らく決して足りはしないのだろう。

 陽世に棲むすべての龍馬たちを集めることができるのであれば心強いであろうが、鬼どもが襲い来る場所はなにもこのマトウの邸のみと限ったことではない。

 陽世中で、この世のいたるところ、あらゆるところで、鬼どもと人間たちとの闘いが始まろうとしているのだ――

 ケイキョは今更ながら、ぶるっと鼬の身を震わせるのだった。





          ◇◆◇





 リューシュンは、走った。

 森羅殿を目指して、ひたすらに走った。

 走ろうとした。

 だが道を真っ直ぐに開けてはもらえなかった。

 陰曺地府では、陰陽界の比ではない数の鬼どもが叫びながら狂ったように走り回り、逃げ回っていたのだ。

 阿鼻叫喚というものを間近で眼にする事態だった。





「リンケイ」叫ぶ。





 だがその声がおよそ届くだろうとは思っていなかった。

 それでも呼んだ。



「リンケイ。コントク。ジライ」



 鬼どもがわあわあ、ぎゃあぎゃあと喚き散らし、リューシュンの呼びかけを消す。





「閻羅王」





 ついにリューシュンはその名を叫んだ。



 鬼どもが、声を失い眼を見開いて、声の主を振り向く。



「閻羅王、聞こえるか」リューシュンは続けて叫んだ。「俺だ。聡明鬼だ。テンニと闘いに来た」



 鬼どもが、近くにいるのであろう閻羅王をきょろきょろと探す。

 だがその姿は見えない。

 そもそもリューシュンは、閻羅王に呼びかけているつもりなどなかった。



「閻羅王」の名を借りて、鬼どもに対し言葉を浴びせかけていたのだ。



「だがこうも大勢の鬼どもが騒ぎたて走り回っていちゃ、闘いの邪魔になって仕方がない。こいつらは鬼のくせに、ここ陰曺地府とあんた閻羅王を見捨てて、陽世に逃げ込もうとしているんだな。そんな不義理の奴ら、この俺がテンニを討ち取った暁に、あんたは再びここ陰曺地府に迎え入れるつもりでいるのか」



 それまで単純に、自分が逃げおおせることのみを思っていた鬼たちが、そこで初めて「その後」のことに思いを馳せた。



 確かに今自分だけが逃げて、テンニと打鬼棒がいなくなったその後、また何事もなかったかのように戻って来られるだろうか。

 閻羅王が、それを許すだろうか。



 鬼どもはそれぞれ、強く首を振った。



 その時こそ、自分たちは最期を迎えるのだろう。

 十八層地獄に叩き落されて。





「た、倒そう」鬼の一足が、言った。



 全員の鬼が、振り向く。



「そ、そうだ」別の鬼が、答える。

「そうだ」

「あのテンニとかいう奴を」

「俺たちも、やっつけよう」



「俺に任せろ」リューシュンはすかさず言葉を継ぐ。「お前たちは俺の後ろからついて来ればいい。力を貸してくれ。打鬼棒のことは任せろ」

 言いながら思うのは、斬妖剣をぎらりと光らせて構えるリンケイの姿だ。

 リューシュンとて、打鬼棒で打たれてはその後がない。

 無闇に近づくことはできないのだ。

 だが、人間であるリンケイならば、それが叶う。





「騙されるな」





 だがその時、遥か彼方から別の鬼どものがなり立てる声が届いた。



「そいつは聡明鬼、閻羅王様に楯突いていた者だぞ。閻羅王さまの友達のような面をしてその名を呼んではいるが、信用してなるものか」

「そうだそうだ」

「閻羅王様に楯突く鬼ではなく、我等こそが閻羅王様とここ陰曺地府を守り抜くのだ」

「そこにいるような嘘つきの鬼こそ、倒してしまえ」



「何」リューシュンは牙を噛み締めた。



 まさか今ここで、自分への反駁を露にしてくる鬼どもがいるとは、さすがの聡明鬼にも予測がつかなかったのだ。

 だが今そのような理由で、鬼同士が争っている時ではない。



「待て」リューシュンは、自分を睨みつけ迫り来ようとする鬼どもに慌てて手を挙げた。「俺が信用できないならそれはそれでいい、だが今は俺でなく、テンニを斃してくれ。俺とのことはその後にしてくれ」



「逃げるのか」

「卑怯な奴だ」

 差し止められた鬼どもが文句を言い立てる。



「何だと」ついリューシュンもむかっ腹を立てる。「卑怯とは何だ」



「卑怯は卑怯だ」

「貴様打鬼棒が怖いから、今更のように閻羅王様に組しようと企んでおるのだろう」

「女々しい奴よ」

「女鬼の腐ったような鬼だ」

 鬼どもは次から次へと言いたい放題を言い募る。



「貴様らッ」リューシュンは牙をぎりぎりと鳴らし、次にはだっと駆け出して鬼どもに掴みかからんとした。





「閻羅王なにする者ぞ」





 その時、更に別の方向から別の鬼のがなり立てる声が轟いてきた。



 リューシュンをはじめすべての鬼は、またはっとしてそちらの方を見た。



「これからの陰曺地府、いやさ陰界に限らず陽世も、統べるのはテンニ様その方に他ならぬ」



「テンニ様、だと?」リューシュンは耳を疑った。



「そうだ、テンニ様だ」新たに現れた鬼どもは揃って頷いた。「あのお方こそがこの先、閻羅王に代って世を統べる方なのだ」



「お前ら――」リューシュンと、そこにそれまでいた鬼どもすべては、言葉を見失った。



「逆らう者は誰だ」

「テンニ様に楯突く者、今ここで儂らが喰い殺してくれる」

「名乗るがよいわ」

「どいつだ」



「ふざけるな」リューシュンは更なる怒りを声に籠めた。「テンニにつくとは、お前ら正気か。どういうつもりだ」



「ふざけてなどいるものか」鬼どもはしかしひるまない。「儂らの仲間は今次々と、陽世に出て行って人間どもを支配に治めておるところだ」



「な」リューシュンは愕然とした。「テンニの、従者が」



「そうともさ」

「ふははは」

「今頃陽世のばかな人間どもが、鬼と話し合って事を収めようなどとばかな考えを起こして逆に頭から喰い千切られておるところよ」

「はははは」

「ぎゃははは」

 鬼どもは牙を剥いて狂ったように笑い合う。





「黙れ」リューシュンは怒鳴りつけた。「見て来たようなことをほざくな。貴様らこそどうしようもないばか鬼どもだ」





「見て来たことだ」鬼どもは鼻を鳴らした。「テンニ様がな」



「何だと」リューシュンは腹の中にどす黒い影がたちまち広がるのを留められなかった。「テンニが――そう、言ったのか」



「当たり前だ」

「だからテンニ様はこの世もあの世も手にできるのだ」

「なにもかもお見通しなんだからな」

「ばか鬼はお前の方だ」

「ききき」

「はははは」



「貴様らはただ打鬼棒が恐いだけじゃないか」リューシュンは理性を打ち捨てたかのように牙を剥き凶暴じみた様相になり怒鳴った。「何がテンニ様だ、もはや貴様らには憐憫の情すら持てぬわ」走り、一番近くにいる鬼の顔面に正面から爪を突き立て、引き裂く。



「貴様聡明鬼、よくも」

「やってしまえ」

「ぶち殺せ」



「打鬼棒の男につく奴らこそ殺してしまえ」

「やってやれ」



 いま陰曺地府は、血となって流れこそしないが鬼どもが互いに切り裂き合い噛み千切り合い、まさに地獄絵図と化したのだ。





          ◇◆◇





 森羅殿には最初、助けを求める鬼どもが集まり来、次に破壊せんと目論む鬼どもが群がり来た。



 リンケイ、コントク、ジライの三足は、助けを求める鬼どもは森羅殿内の鬼差や小鬼たちに任せ、破壊しに来る鬼ども――その違いは遠目にあってもその様相、表情で一目瞭然だった――には容赦なく刃を突き立てた。



 牛頭と馬頭はいつものように閻羅王の傍で、最後の砦の守りに就いていたようだったが、敵として襲い来る鬼の数が尋常でないことを知るやただちにリンケイ達に交ざり闘い始めた。



 走り来る鬼どもを斬り、突き、押し倒し、蹴り上げ踏みつけ、完膚なきまでに叩きのめす。



 しまいには鬼差や鬼卒、小鬼までもが武器を取り闘いに加わった。

 力に劣る者は哀れにも敵鬼の牙や爪の犠牲になるばかりであったが、それでも恐れるものはいなかったのだ。



 ここ森羅殿もまた、壮絶なる地獄絵図の様を呈していた。





          ◇◆◇





 星屑にも見まがうほどの数だった。

 だがそれは星ではなかった。

 すべからく、鬼だったのだ。





 それらが堕ちてくるその数は、とても人間たちの予想できるものではなかった。

 それも道理で、生きている人間たちには地獄の鬼が一体何匹いるのか、わからないのだ。

 かつて鬼だったものが投胎して人間になったという人間もいるだろう。

 しかし人間として生まれ出、人間として育って行けば、もはや鬼であった頃の事などまったく思い出すことはないのだ。



 今、空からわらわらと降って来る鬼どもは、かつて鬼であった者にとっては初見の鬼にすぎなかった。





「来るか」





 マトウが空を見て一言、言った。



「はい、鬼どもが来ます」リシは慄然と叫んだ。



「いや」マトウは首を振った。「来るというのは、地獄絵図の世界がだ」

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