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8 ~ハングリー・クライ・ウルフ~

 
挿絵



 どんよりとした、今にも降り出しそうな空だった。東屋本社ビル、新帝国タワーから東京の街を見下ろす新帝王の瞳には、今まで見た事もない世界が映し出されていた。この街が自分のものになった。宇田川リカによって殺された【ヨルムンガンド】・九々龍俳山の代わりに、この街の闇世界、特に芸能界に構築された闇の構造を支配する帝王に、急遽、六条美姫が選ばれたのである。
 それは、この東屋にて、あらゆる業界のドン・支配者が集まった【未来計画委員会】が、冬の最中のクリスマスの夜に、突如何者かに攻撃を受け、新しく建造された新宿ハイスカイタワーと共に崩れ去った直後だった。それから、九々龍の後で空いていた帝王の座が、【アドラスティア】率いるアナレンマ48選抜メンバー六条美姫に転がり込んできたのである。
 今、六条の背後には車椅子に座った「元老」が、美姫ティの後ろ姿を見ていた。美姫を新しい帝王に指名したその張本人。この國を長らく牛耳ってきた【未来計画委員会】のメンバーが全員死亡した今、元老は彼女を頼みとしている。もし宇田川リカが生きていたら、きっとリカが新帝王となっていた事ただろう。だが、リカは加東ルミ江との戦闘の末、突如として姿を消した。芹香に事情を聞いたが、UFOに連れ去られたという。美姫は復讐を誓った。リカを失ったのはルミ江のせいだ。必ずルミ江はこの手で仕留めてやる。これまで、誰も勝った事のないあの最強の殺し屋を倒すのは自分だ。
 かつての宇田川リカは野心に燃えた女だった。帝王となるために自分の障害となる相手は誰だろうと攻撃し、潰していった。業界を引退させられた九々龍を殺ったのもリカ自身だった。忍術を使えば、東屋も怖くない。東屋を乗っ取る。そうかつてリカは美姫に言った。リカは最も帝王に近かった女だった。だがもはや、自分は宇田川リカを超えた。リカなど及ぶべくもない力を手に入れたのだ。その意味で、リカが消えた事は、美姫にとって、ラッキーな事だったと言っていいだろう。思わず知れず美姫はニヤリとする。委員会が絶滅した事も、ラッキーである。残るは、あの最強と謳われた殺し屋加東ルミ江だ。ルミ江を倒した時、美姫は最強になるのだ。しかし、六条美姫にリカのような野心はなかった。その代わりに美姫は天性の殺し屋だった。キラーレディと呼ばれ、ナチュラルボーンキラーとしての美姫は、自分より強い相手を消す、只それだけを生き甲斐としてきた。帝王となったのも、結局戦いのための手段と捉えていた。だから、加東ルミ江は自分が倒す。
 美姫は振り返り、そのつり目で自分の背後の年寄りを見やる。元老。その男は明治維新成立当時、志士として活躍し、以来、日本のドンとして影から支配してきたという。維新当時からの本当の名を、長沼乱舟(ながぬまらんしゅう)といった。「幕末三舟」は、実は「幕末四舟」だったのである。海舟、泥舟、鉄舟につぐ第四の幕臣・乱舟。維新時に名を残した他の多くの志士達とは異なり、彼は歴史の表舞台から完全に自己の姿を消し去る事で、影から日本を支配する事を選んだ。一度滅んだ江戸幕府を、明治政府の影で復活させる。それが「東方屋敷」(東の幕府)だ。乱舟は新政府の元老であり、同時に東屋幕府の征夷大将軍でもあった。それゆえ歴史から自身の記録だけを抹消し、真の支配者となる事ができたのだといっていいだろう。すなわち乱舟の名を口にする事は、この国ではタブーだった。だからこそ、四舟は三舟となった。それは、乱舟が維新時より交流してきた忍から学んだ事であった。隠形の術である。
 歳は百五十を超えているはずなのに、まだ七十代にしか見えなかった。噂では、レンジャーを育てた忍の長から、秘伝の長寿薬を貰っているという。長寿薬は毒物を原料の一部に使用し、普通の人間が飲めば死んでしまうような代物だとされる。だから忍の長老でさえ、それを用いない。しかし、この元老は七十の時、平然と薬に挑戦し、しかも彼の体質は、薬を受け入れたのである。以来、全く老化が停止した。
「あの女はわたしが倒す」
 美姫ティはピアノ線使いの忍、ブラック加東ルミ江の強さを知りながら、自分のアルティメット・ラケットなら絶対に勝てるという自信があった。
「このラケットに勝てる武器なんてありゃしない」
「安心するな。ヨルムンブラックの本当の恐ろしさは、これまでの戦いで、彼女は一度だって本当の必殺技を使って来なかったという事だ。ヨルムンピンクは確かに一時ブラックを追い詰めた。だが、あんなハプニングでピンクが姿を消さなくても、ブラックが本気を出せば、ピンクとて命はなかったのだ」
 美姫のまぶたがピクっと動いた。ブラック加東ルミ江の必殺技はピアノ線だけではないだと? ヨルムンピンク、宇田川リカのマジックハンドは自分のアルティメットラケットに唯一対抗できる武器だと思っていた。だが、それ以上の武器をルミ江は持っているというのだ。
「それは?」
「蛇瞳(じゃどう)だ。これから彼女は、お前が強敵としてルミ江の前に立ちはだかった時、それを『見る』事になるだろう。お前が強ければ強い程、ルミ江は封印を解き、蛇瞳を使う。蛇の頭を持ったメデューサというのが居るだろう。見る者を石にする。あるいはバジリスク。それは、相手を見るだけで死にいたらしめる、必殺技だ」
「見るだけで相手を殺す……」
 まさに伝説のバジリスクか! なんという恐ろしい女。宇田川リカは突如現れたUFOというハプニングによって宇宙(そら)の彼方へと消えてしまった。だが、そうでなかったとしても、加東ルミ江にはリカのマジックハンドを超える必殺技があったのだ。それを今まで封印してきただけの事だ。しかもその蛇瞳を使えば楽に勝てるのに、ルミ江は今まで使わなかった。美姫は、鋭い眼光で元老を見た。その拳に力が入っている。
「分かったな? それがお前がこれから戦おうとしている相手だ」
 美姫は、フン、と言うと元老の元を去った。部屋を出ると長い廊下を大股で歩いてゆく。美姫が向かう次の部屋・遊戯場には、その女が待っている。上等だ! ルミ江は、殺ろうと思えば一瞬にして美姫を殺せる。だが天性の殺し屋としての美姫の本能は、ルミ江に向かっていっていた。彼女を殺して、自分が最高の殺し屋である事を証明してみせるのだ。
 三週間もの間姿をくらました加東ルミ江は、静かで、神秘的な表情で六条美姫を出迎えた。ビリヤード台、ダーツ、様々な遊具が並ぶ遊技場「キャンディバー本陣」のドアを開けたまま立ち止まり、美姫は慎重に距離を埋めていく。
「わざわざ御苦労だったな。今となってはあたしが帝王だ。この業界でお前を生かすも殺すもあたし次第--------もし業界で仕事を続けたいのなら、あたしの許可がいるが?」
 美姫はボーイに持ってこさせたカクテル「パープルタウン」をルミ江に勧める。これも美姫が好きな紫色のカクテルだ。
「続けるわ」
 ルミ江は美姫をじっと見て答えた。カクテルを手にしたが、口許には運ばない。毒など入っていないといわんばかりに、美姫は一気に煽ってカツンとテーブルに置いた。
「お前、どこで何をしていた?」
「……」
「大河は出てこない。CMはキャンセル。ところがだ、闇稼業の方ではあっちこっちで目撃されている。仕事を休んで、そんなに何をしてたんだ?」
(それは、私じゃない)
 ルミ江は怪訝な顔つきになっている。ずっと、上遠野杏奈の部屋にいた。杏奈について渋谷に出たことはある。だが、車からほとんど出ていない。前に、マネージャーの熊田も似たような事を言ってた気がする。美姫の言葉で、ますます記憶が混乱する。
「いいだろう。この三週間、どこへ行ってたかは、あえて聞かないでおいてやるよ。あたしも、帝王になった事だし、これまでの事にいちいちこだわる気はない。しかし、言うまでもなく、業界に復帰するにあたっては条件がある。この業界のルールは分かっているな? 帝王の言う事には従う。これからはお前はあたしの配下になる事。あたしの命令に従い、動いてもらう。あたしのレンジャーだ。時にはあたしの命令で、誰かを殺しにいく事もな」
 美姫は腕を組み、ルミ江の顔をじろじろ見ながら左右に歩き回る。
「そんな目で見るなよ、ぞっとする」
 ルミ江の大きな目に美姫は警戒する。だが、美姫はルミ江の必殺忍法の秘密を知っている、という事を相手に示したのである。
「世間に夢を見させている加東ルミ江。その影でお前は殺し屋稼業。これまで数多くの人間の血を吸ってきたお前のピアノ線--------お前がそんな女だなんて、世間は誰も分かっちゃいない。あたしもそうさ。あたし達はこのうす汚い世界に生きる半分悪魔で半分天使さ。この世界で生きる者は誰だってそう。せいぜい、表向きは世間に向かって、夢を見させる事だな。大河の方は手配してあるから安心しな。さっそく現場に戻れるよ」
 なにを企んで戻ってきたんだ加東ルミ江よ。美姫は、ルミ江が自分に素直に従う為に業界に戻ろうとしているのではない事を分かっていた。だが、ルミ江の目ろみなどどうでもいい。どうせこの女は自分の手によって死ぬのだから。せいぜいそれまで、メディアの中で華々しく夢を演じるがいい。
「私、あなたが好きになりそう」
 美姫帝(ミキティ)は笑っている。
 ルミ江と別れた後、美姫は諜報部から【未来計画委員会】を壊滅させた相手を知らされた。美姫は自らその相手を始末するべく、次の襲撃の準備に入った。

 晴海、蓬莱テレビ本社。深夜0時を回っても、煌々と明かりが着き、建屋は眠る事がない。その長い渡り廊下から港の夜景を見ている加東ルミ江の隣に、上遠野杏奈が立っている。杏奈はスタジオでの音楽番組の収録後で、ルミ江は楽屋に杏奈を訪ねた。
「あたし-----今度こそ死ぬかもしれないナ」
 杏奈は唐突にルミ江を驚かすような事を言った。
「敵がどうも、あたしの事を嗅ぎ付けたみたいなんだ。ま、いつか来るって分かってたけど、ドーやら帝王になった六条美姫が直接あたしを殺りに来るらしい」
「私が守るわよ……絶対。だから安心して」
 ルミ江の言葉に、杏奈は微笑んだ。
「気にさせてしまったかな。いやそうじゃないんだ。別に怖がってる訳じゃない。ただ一応挨拶しておこうかなと思って------ただそれだけだよ。あんたを巻き込むつもりなんてない」
「どうして……あたし達、友達でしょ」
「あぁ、もちろんそうさ。だけどこれはあたしが一人で立ち向かわなくちゃいけない問題なんだ。あんたにはこれからやる事がある。あたしとは違う。あたしの役目は、あんたの為に道を作る事、それだけさ。あんたに比べりゃ、あたしのやった事なんてちっぽけなもの」
「そんな事言わないでよ、杏奈! 私が必ずあなたを守るから」
 杏奈は夜景に目を移し、じっと見いった。
「ありがとう。わたしあんたに会えて本当によかったって思ってるよ。あんた、ほんとにいいヤツだ。今まで会った、この業界の人間の中で最高だ。あんたのファンになったすべての人は、祝福されている」
 杏奈は撮影時の濃いメイクのまま、再び微笑んだ。ルミ江は決心した。絶対に杏奈を死なせなんかしやしない。かつて、廃人になった友人の悲劇は繰り返さない。孤独な戦いを続けてきたブラック加東ルミ江にとって、本当の心を打ち明ける友達は少なかった。いや、本当には居なかった。彼女の正体を知る同業者は、戦いの相手でしかない。そんな自分に、はじめて出来た友達。二度と、失いたくなかった。

 しかし、そんなルミ江の想いとは裏腹に、翌日の深夜、封鎖された新宿のハイスカイタワー崩落現場に、上遠野杏奈は六条美姫と対峙していた。杏奈の運転するアウディA4が自分の追跡者の存在に気づいてから、杏奈は相手をここまで誘導した。美姫が乗っていると分かっていた。封鎖を突破し、クレーンやショベルカーが立ち並ぶ寒々とした崩落現場の手間まで来た。車から降りると、後ろを確認する。黒いフェラーリが停まっている。すらりとしたショートヘアの女がその中から現れた。愛らしい美少女の面影に残忍さ、凶悪さを宿した視線を上遠野杏奈の方に送る業界帝王、六条美姫。その手にはアルティメットラケットが握られている。杏奈はラケットの破壊力を知っていた。ラケットのスマッシュが放つプラズマガンの威力は、車ごと人間を吹き飛ばす。すべてを跳ね返すプラズマの威力は、銃弾、ミサイルであろうと撃った者の方に帰っていく。普通に戦って勝てる相手ではない事を杏奈は承知している。
「一匹狼のアーティスト・上遠野杏奈か。お前が委員会を壊滅させた犯人だったとはね。だが感謝するよ、お前のお陰でこのあたしが帝王になれたんだからね」
「それは、おめでとうだな」
 上遠野杏奈が笑うと、八重歯が一本キバのように突き出している。
「ちょっとさ、お前、音波兵器なんか一体どこで盗んだんだ? バックに誰が着いているんだよ?」
「--------あたしは誰ともつるんじゃいない。あんたとは違うからな。あんたも、あたしの事、一匹狼だって今言ったじゃん」
「お前一人で、そんな大それた兵器を使える訳ないだろ。東屋財団クラウド局にはお前に関する記録は残ってない」
「あんまり東屋を信用しない方が利口だよ。あいつらは、あたし等の事使い捨てだから。あんただってそうだよ。つかの間の帝王。しょせんはお飾りなんだ」
「なんだって? 面白い事言うわね。何の根拠があってそんな事を言う?」
 六条美姫の笑顔からギリギリと歯ぎしりの音が聞こえるようだ。
「あたしはこう想う。ハイスカイタワーは最初から崩れる予定で建てられていた。誰がっていうと、元老がさ。あたしの力だけで崩れた訳じゃない。決められたシナリオの一つだったんだ、きっと。タワーは恐ろしく脆く出来ていたに違いない。【未来計画委員会】は、元老の後継者足り得ないと思ってたんだよ。あのジイさんのお眼鏡に叶うような、日本の未来を担う奴はあそこには一人もいなかった。エリート中のエリートが集まってたはずだったけど。ただただ私腹を肥やす事が関の山の、俗物共に元老は失望していたんだ。だからあたしに潰させた」
「元老がそんな事考える訳ないだろ! テメー勝手な理屈並べてんじゃねーよ!」
 美姫の手に握られたラケットの中心が妖しく輝きはじめる。杏奈は車からギターを取り出した。
「ほぉ~そいつがお前の武器か。どうやって使うのか、見せてもらおうじゃないか」
「先に教えてやる。あんたが立っている場所は、ちょうどあたしの音が集積する場所にあたる。ギガアンプは、あたしのギターによって、ビルを破壊したり、人間や車を攻撃したり、幾らでも強弱つける事ができる。この場所は、周囲を取り囲んだギガアンプが集まっているところなんだ」
「ギガアンプだと? そんなものがどこにある、ここにはそんな御立派なものは-----」
「ビルの広告さ」
 美姫帝の釣り眼は驚いて街を見渡した。街中のビルの壁面に存在する広告。その一つ一つが、壁掛け型の薄いスピーカーなのか?! 普通の広告がほとんどだが、中には巨大スピーカーの広告もあった。紙や布と同じ厚さのスピーカーは、すでに開発されている事を美姫は知っている。サウンドペーパーという。だが、そんな事が可能だとすれば、杏奈一人の力ではありえない。美姫はぞっとした。強力なバックアップ体制がなければならない。それも、広告をも牛耳る巨大権力・東屋財団だ。背後に、東屋財団クラウド局の協力がなければ成しえない------。やっぱり、杏奈が言った事は、真実なのか。ハイスカイタワーは、破壊されるべくして建設されたのか。
「なるほどな。それがお前の兵器か。つまりお前は、まんまとあたしをここへ誘い込んだって訳か! 面白いじゃないか。このアルティメットラケットに跳ね返せないものなんかない。たとえ音だろうと光だろうと何でもな。お前の超音波が勝つか、それともあたしのラケットが勝つか。やってみようじゃないか」
 これ以上の会話は続かない事を二人は知っていた。杏奈がギターを構えると、街中から静かにアンプの低音が響く。廃墟のビル後の瓦礫の山を前にして、二人の女が殺し合いを開始する。杏奈は知っていた。アルティメットラケット相手では、超音波が跳ね返される事を。もちろん銃を使おうと何を使おうと無駄だ。杏奈にできる事、それはたとえ刺し違えて自分が死ぬ事になっても、目の前の六条美姫を止める事だ。
 杏奈がギターをかき鳴らした。街中のギガアンプが一斉に超音波を発する。杏奈の動きと同時に美姫帝は回転し、ラケットが弧を描く。突如、二人の目の前の廃墟が爆発する。巨大なコンクリートの塊が舞い上がり、二人の頭上に落下してくる。美姫が再びラケットを振ると、コンクリートは杏奈に向かって落ちて来る。杏奈はギターを抱えたままアウディの影に飛び込んだ。横になりながら、ギターを鳴らす。美姫は杏奈の動きが見えない為、音だけで反応し、ラケットをむちゃくちゃに振り回した。ギガアンプの広告の幾つかが爆発した。音がアンプに帰っていってハレーションを起こしたのである。
「------------うるぁ-----ああ……!」
 横殴りにアウディA4に向かって美姫のラケットが振られた。アウディは吹っ飛び、廃墟に激突した。が、杏奈はそこには居なかった。杏奈は走りながら、ギターをかき鳴らしている。廃墟が美姫に向かって瓦解する。しかし美姫がラケットを宙に振り上げると、瓦礫の山は宙を移動し、近くのビルに突っ込んでいった。美姫がこれ以上移動したり、ギガアンプを破壊すれば、杏奈に勝ち目はなかった。しかし、観察するに、美姫のラケットの威力はせいぜい半径百メートルの範囲内だ。自分がこの場所を移動しないかぎり、美姫はラケットを使って自分を倒せない。残されたギガアンプを使ってどこまでやれるか、今の杏奈には未知数だった。
「キメてやる、スマーーッシュッッ!」
 美姫の頭上に振り上げられたラケットの青白い輝きが、プラズマ弾となって杏奈の隠れる廃墟の一角に飛んでいく。大爆発を起こし、瓦礫が吹っ飛んだ。杏奈は、転がりながら難を逃れた。だが、杏奈はギターを手から離した。杏奈は左足を負傷した。見るとギターは三十メートル離れた場所に転がっている。美姫の足音が近づいて来る。
 シュッ! 宙を切り裂く音と共に、美姫の足下に、刃を持った長方形の物体が突き刺さった。足を止め、美姫帝が辺りを見渡すと、いつの間にか加東ルミ江が立っていた。どうやらバイクで来たらしい。
「何しに来た?」
 訝しげに美姫はルミ江に尋ねる。杏奈もルミ江に気づいて驚いて顔を上げた。
「わたしは今あなたと戦うつもりはない。だから、このままここを立ち去りなさい!」
 ルミ江は杏奈に何かあれば必ず助けるつもりだった。だが、杏奈はルミ江を巻き込みたくないと、勝手に彼女の前から居なくなり、音信不通になったのだ。ルミ江は杏奈の行方を追い、ようやくこの決闘の場所まで辿り着いたのである。
「やっぱり三週間姿をくらましてたのはあたしに楯突く為だったのか。ナメたマネしやがって!」
「無茶は止めて、これはあたしの戦いなんだ。あたしは消えても構わない。けど、あんたを失ったら、あたしに希望はない」
「あなたはわたしが助けるって、言ったでしょ」
 ルミ江は杏奈を立ち上がらせた。
「それどういう意味か分かっているの? お前はあたしを敵に回すという事だよ」
 美姫の言葉が冷たく鋭く放たれる。
 ルミ江はギロッと帝王美姫を睨む。
「おっと、あたしも今お前と戦うつもりはないよ。『蛇瞳』は勘弁してよね。さすがのこのラケットも、お前の蛇瞳では通用しそうにないしな」
 川崎製のバイクに跨がり、杏奈を後ろに乗せたルミ江が立ち去ろうとすると、再び美姫は声を掛けた。私はお前の秘密を知っている。
「あたしを敵に回した事を忘れるなよ加東ルミ江。いいか、お前の片目を奪ってやる。どうやら蛇瞳は、両目でないと使えないらしいな。片目だったら、ピアノ線は使える。ピアノ線だけで、お前はあたしのラケットに勝てるか。もっとも、あたしを倒しても、片目じゃタレント生命は終わりだな、フフ、フフフ」
 片目というハンデで、蛇瞳を封印させ、ピアノ線のみでアルティメット・ラケットに勝てるか? もし死を逃れたとしても、片目を奪われれば、当然芸能生活を断念しなければならず、大河ドラマも降番しなければならない。それは死よりもルミ江にとっては辛いはずだ。ルミ江はバイクを出した。
「すまなかった、あんたを巻き込むつもりはなかったのに」
「わたしはもう、あなたを失いたくないから」
 かつて友人を助けられなかった悔いを持つルミ江は、杏奈を友人だと思っているからこそ、助けに来たのだった。

 現代のバベルの塔、恵比寿・八本木ヒルズ。成り上がりの億万長者にとって、数々夢の舞台となったこの場所で、数多くの野心家がここまで上りつめ、そして去っていった場所。そこに、青い学蘭に身を包んだモモタロウの居るクラウドがあった。桃流太郎は黒いデスクから立ち上がると、加東ルミ江を出迎えた。
「今夜は来てくれてありがとう」
 ルミ江は桃流にここへ呼び出された。
「怪我の様子はどう?」
「あぁ-------おかげ様で大分良くなった。あんたにはすっかり世話になっちまったな。感謝する。俺は、今まであんたらヨルムンガンド・レンジャーの戦いに巻き込まれたくないと思って、ずっと避けてきた。何が起こっているのかはよく知っていたが。只、あんたの戦いを高みの見物していただけだった。でも、ちょくちょく口出ししてしまったためにこんな事になっちまった。口だけ出して高みの見物なんて甘すぎたな。助けてもらった恩という訳じゃないが、このままじゃ俺も【サイクロトロン】クラウドを率いる一国一城の主だ、借りは必ず返す」
 桃流は、目をギラギラとさせながら煙草に火を着けた。
「いらないわよ、そんなもの」
「そうはいかない。いや--------俺の一方的な考えと受け取ってもらってもいい。あんたに、迷惑は掛けない。俺はこれから、掴まってる逢坂芹香を助けに新宿の東屋社屋に向かうつもりだ。芹香は、俺を助けようとした為に美姫に掴まり、今どうなってるのか俺の情報網をもってさえも聞こえて来ない。生きているといいんだが-------このまま放ってはおけないさ」
「芹香だったら、私が助けにいくわ。だからあなたは、この戦いから一切手を引いて」
「そいつはお断りだな。あんたには迷惑を掛けるつもりはないと、さっきから言っているだろ。これは、俺の戦いなんだ。モモタロウの鬼退治って奴さ。その結果、俺がどうなるのかは分からない。一応伝えておこうと思ってな。これが俺の最期の姿になるかもしれんな。だがついでに、あんたの為に道を切り開いてやるさ」
 このトップアイドル・モモタロウも、アーティスト・上遠野杏奈と全く同じ事を言う。自分のために、革命の道を切り開くというのだ。迷惑を掛けないからなどと言って。自分のために、加東ルミ江のために、誰もが命を捨てていいという。一体何故なんだ?
「桃流さん、一つ聞くけど、ヨルムンガンド・レンジャーでもないあなたが一体どうやって帝王と戦うつもり。相手は忍のプロなのよ」
 桃流は壁に飾ってある一本の黒い木刀を取り出した。
「こいつさ」
「-------木刀? そんなもので?」
「あぁ。こいつは黒檀の最上級の木刀だ。こいつを削るのには、相当苦労があっただろう。何しろ恐ろしく堅いからな。おそらく世界に二本とない代物だ」
 木刀は、佐々木小次郎の物干竿のように長い。武蔵が小次郎と対峙した時、物干竿よりリーチが長い木刀で倒した。
「バカな事いわないで」
「俺がふざけてるとでも? いや、至って真面目さ。これはな、俺の家に伝わる伝家の宝刀だ。戦国時代に作られた。観光地のみやげとはちげーんだよ。真剣以上と言われている。こいつは刀を相手にした時も、傷一つ着かなかった。むしろ、相手の刀の方が刃こぼれした。俺はこいつ一本だけでやる」
「死ぬ気なのね。あなたの美学なんか通用する相手じゃない」
 美姫のラケット相手に、木刀はむろんの事、刀だろうと銃だろうと通用しない。
「まぁ待て、確かに俺はレンジャーじゃあない。だがな、俺には俺の戦い方があるんだ。今夜、そいつを見せてやるつもりだ。今度はあんたが、高みの見物をしていて欲しい」
 部屋に【サイクロトロン】ジュニアの一員が顔を出し、「桃流さん、出番です」と言った。桃流は黙って頷くと、壁面に室内シアターを出した。
「ここでテレビを見ていて欲しい。俺がこれから生出演する番組で起こる事を、見守っていて欲しいんだ。あんたが見守ってくれりゃ俺は戦えるぜ。ここには酒も各種あるし、つまみも高級チーズや各種ソーセージ、いろいろある。口に合うかどうか分からないが。食べてくれ。----------じゃあな!」
 ジュニアがルミ江の為に、いろいろなつまみと飲み物を用意した。黒檀の木刀を持った桃流とジュニアは去り、ルミ江は一人部屋に残された。
 みんな……どうしてこんなに、勝手な事ばかり。……あたしなんかの為に。ルミ江は唇を噛んだ。
 再び、ドアが開いた。あの公安七課の女が入ってきた。確か東京バイスだったか。
「あなたも、呼ばれているのね。加東ルミ江さん」
「金剛アヤナ……」
 黒いショートヘアを立てた金剛アヤナは、ビシッと化粧を決め、真っ赤なニットの上着に、黒いミニスカート、同じく黒くて膝まで隠れる靴下を履いている。
「何をするつもりなのかしら、彼は。あなた、知っているんでしょ」
 ルミ江は尋ねた。
「見ていれば分かるわ」
 ルミ江は以前宇田川リカが言った事が気になっていた。
「ねぇ、アヤナ。聞きたい事があるんだけど」
「どうぞ」
「クーデターって、本当なの? -------宇田川リカから聞いたわ。彼女が、得意になって喋ってた。あなた達、東屋に対抗する勢力が近い内にクーデターを起こす計画を持っているってね。そうなれば、この国は東屋と反東屋の内戦状態となり、あなた達が勝てば、かつてない粛清政治が行われるって」
 ルミ江は席に着かず、立ったままアヤナを見据えた。アヤナは、モニターに映るCMをじっと見つめている。
「あなたは、いかにも正義の代理人のような面構えで私に近づいてきた。けど、あなただって東屋と何も変わりがないんじゃないかしら? たとえあなた達が勝ったとしても、この国に残るものは、結局闇だけ--------違う?」
 するとアヤナはモニターから視線を動かさず語り出した。
「あなたが考えている以上に、事態はこの国の根幹に関わっている。芸能界という一つの封建社会の中で起こっている事件だけじゃない、芸能界は戦いの縮図だった。戦いは不可避よ。この国には、闇を操る勢力と、それに対抗する勢力との間の確執が続けられてきた歴史がある。私たちの敵の総帥は、高輪の元老と呼ばれる男。その男とは、あなたも委員会で会ったはずよ。男の名は、長沼乱舟。歴史から消え去っているけど、維新時から国政に関わり、半永久的に元老としてこの国を支配している。彼は、あなたを高く買っている。先だって、ハイスカイタワーの事件で全滅した委員会メンバーよりも、誰よりもあなたを評価している。今、彼は六条美姫を芸能界帝王に選んでいる。でもいずれ、近い将来にあなたが帝王になるはずなのよ。彼のシナリオの中では」
「------冗談じゃない」
「いいえ、ハイスカイタワーの事件は、全部元老が仕掛けた事なのよ」
 ルミ江はハッとした。あの鹿児島出身のアーティストの顔が浮かぶ。
「驚いたかしら? 上遠野杏奈が彼らに操られていたと言ったら」
「そんな、-------嘘だ!」
 だが、ルミ江も杏奈の正体を計りかねているところだった。杏奈がどうしてあのギガアンプの音波兵器を設置し、使う事ができたのかを考えれば、東屋財団が介在しているというのは自然な帰結だった。
「よく聞くのよルミ江。もう逃げては駄目。あなたの為に、モモタロウも、これから命を捨てようとしている。上遠野杏奈が東屋の汚い仕事を請け負ったのも、彼女の本心は東屋の意図とは全然違う。彼女は、自らが悪の手に染まろうとも、あなたの為に行ったのよ。あなたの為の道を作る為に、東屋を逆に利用した。自分がどうなろうと構わない。自分への評価も気にしないし、たとえ死んでも構わないとね」
「杏奈も……桃流太郎も……。なんでみんな、私のためにと、そんな事ばかり言うのよ! アヤナ、教えてよ! あなたも前に言った。高輪の元老とかいうヤツも言っているらしい。私のどこに、そんな、他人の命を費やす価値があるというの?! 答えてよ!」
 勉強大好きアヤナさん。
 そうこうしている内、モニターにモモタロウが現れた。
「いい、この国を二つに分けてきた勢力の戦争は近い内に必ず始まる。あなたがそのトリガーになった。でも、そうでなくても起こりうる戦争なの。もう、誰にも止められない。最高権力を持つ元老も、もちろんワタシ達もね。さぁ始まるわよ」
 アヤナは画面を注視した。レーヴァテイン主演のバラエティー「TV維新レーヴァちゃん」は、騒然とした雰囲気で始まった。あの青い学蘭に身を包んだ番長オーラを漂わせたモモタロウが、配下の【サイクロトロン】メンバー達にも青い学蘭を着せ、その彼らは皆、真剣を抜き身で持ち、どうやら放送局全体を占拠しているようだ。普段は陽気なレーヴァテインのメンバー達が、皆、深刻な顔つきで刀を持って桃流の背後に立って並んでいる。そして学帽を目深に被った桃流太郎だけは、椅子に深々と座り、照明を鈍く反射させる黒檀の高級木刀を持っているのだった。帽子の影から覗く両目はギラつき、頬はいつもより痩けて見えた。
「この番組をご覧になっているみんな---------今日は俺から、大事な話がある。それで、こんなオープニングになっちまった。こんな日が来る事を、芸能界に入った時の俺は、考えもしなかった。メンバー達もそうだと思う。だけどこの業界の時計の針は、もう戻っちゃくれないんだ。今の俺も、後戻りできないところにいる。これ以上、俺は、テレビの向こうでおれたちの事を憧れてくれて見守り、応援してくれているファンの方々を裏切る事ができない。おれたちは、トンでもない嘘つきだった……。まずそれを謝りたい」
 そう言うと、桃流は突如帽子を脱ぎ、バタン!と床に土下座した。土下座は、五分間、続いた。その間に、画面の外で、バタバタという音が響いてくる。警備員たちが突っ込んできたらしかった。しかしその後、叫び声が響き、誰かが【サイクロトロン】の一員に斬られたらしい。警備員は左腕から血を流し、唸っている。蓬莱テレビは、今完全にモモタロウに占領されていた。クーデター対策の施された迷宮のような構造の建物だが、十年以上も出入りし、知り尽くしているモモタロウには、自分の家も同然だったと言える。いや、当のテレビ局も、まさか【サイクロトロン】に襲撃されるなどとは思っていない。
「静かにしろ!!」
 桃流は立ち上がり、怒鳴った。自分の一番の見せ場を瞬間的に計算できる男だった。ケレンミたっぷりの男だった。その才能は天才的だった。その見せ場を邪魔された桃流は激怒し、顔を赤黒く興奮させたまま、画面に向かった。
「おれたちの世界では、ずっと殺し合いが当たり前だった。これまで、みんなが知らないところで、無数の殺し合いが続けられてきた。でもそれは、世間に知れ渡る事は決してなかった。何故かって、おれたちの世界を牛耳ってる、東屋財団の仕業さ。東屋幕府だ。やつらは、政治・経済、マスコミも牛耳っている。この蓬莱テレビだってそうだ! そのお陰で、真実は決して表にでない仕組みになっている。俺も、人を殺した事がある---------」
 目を向いて、そのまま絶句した。だがおもむろに続けた。
「しかし、今日みんなにこんな恥をさらしたのは、俺がたとえ人殺しと罵られてもいい、おれたちを操り、紳士のツラでこの国を牛耳ってるやつらを許さない事にしたからだ! 俺は今日をもって芸能界を引退する。これから新帝国タワーに向かう。俺の命を救ってくれた人のために、俺はそこへ向かわなければならない。モモタロウの鬼退治さ。そして俺の戦いが終わったら、俺は自分なりのケジメをつけるつもりでいる。芸能界を止めたからって、今までの罪は許されない。もし、こんな俺でも、まだ----------」
 桃流は涙を溜め、再び言葉を切った。レーヴァテイン・リーダーの篝(かがり)が桃流の肩に手をやり、「桃流!」と励ました。
「こんな俺でもまだもしファンでいてくれる人がいたなら、俺は大通りをまっすぐに進むから、ドームのパレードん時みたいに!一緒に着いてきてほしい--------。あくまでも俺のお願いでしかない。わがままな事だと分かっている。だが、俺の人生の最期を皆で見届けて欲しいんだ」
 演説が終わり、【サイクロトロン】のメンバーが機材を盗み、その一部はそのまま蓬莱テレビを占拠したまま、桃流太郎がオープンカーに乗るのを中継した。新帝国タワーへと向かう様子がテレビには映し出される。
 街は急速に変化した。路上に人が集まり出している。ルミ江とアヤナが見守る間、見る見るうちに群衆が群がり、映像はヘリからのカメラに切り替わると、新帝国タワー近くから数キロの道が、数十万の群衆で埋まっていた。それらは、生放送を見て駆けつけたファン達だった。これがモモタロウの力。東屋財団によって作り出されたブームであるリーゼント・シンドロームスターとは違う、長年この国で愛されてきたトップスターの姿だった。桃流には結果が分かっていた。こうなる事を。ここ一番という時に外さない。絶対にキメる。それが日本一の男前スターの伊達ぶりだった。レンジャーでもない彼が東屋財団に唯一対抗する道、それはファンを味方につける事だった。テレビ局を乗っ取り、世間に全てを暴露する。そんな真似は、たとえ加東ルミ江でもできない。というより、やれない。
「桃流さん、死ぬ気ね。-------さぁ、あなたは助けにいかないの、ルミ江」
 アヤナがルミ江をじろっと見た。金剛アヤナは畳み掛ける。
「私たちの事。どう思ってるか知らないけど、高輪の元老という不老の男がこの国に居る限り、この国は変わらないわ。絶対にね。元老が倒されればどうなるかは確かに分からない。その結果、どっちに転んだっていいじゃない? あの男がいつまでも日本を支配している限り、この国は本質的に何も変わらないという事を、よくよく考えてみて。私たちはそれに抵抗し、闇社会を駆逐する、健全な、新しい日本社会を作ろうと戦っている。何もしないで、彼らの恐ろしさに対して無知で、知ろうとしない、目を背けているのは、彼らの一味であり、手下なのよ。私は断言するわ。--------この国で何が起こっているのかを知り、彼らよりも常に一枚上手でありなさい」
「私は、自分の信念に従って戦うだけよ!」
 ルミ江は勢い良く外に飛び出していった。アヤナは、ルミ江が消えたドアの向こうを見ている。

 東屋には、自分の片目を奪うと宣言した帝王六条美姫が待ち構えているだろう。きっと、芹香は生きている。自分と、桃流太郎を誘き寄せる為の罠として。それも分かっているが、もはや我慢がならない。どうしてこうみんな加東ルミ江を過大評価するのか。救世主だとでも言うのだろうか。ルミ江はバイクを走らせながら、自分がチリヂリに飛んでいくような気分に浸った。もう、どうにでもなれ。私は救世主でも改革者でもない、だけど、わざわざ死に場所を求めるだけのために戦地に向かったモモタロウをむざむざ放っておく事はできない。なんて迷惑な男だ。あいつを助けるために私は命を掛けなければならない。確かに、モモタロウがテレビで演説した時、溜飲が下がった。今まで鬱屈してきた偽りの気分が晴れたような気がした。でも、そのために、業界の構造が変わって、芸能界を続けられなくなるかもしれないという不安もある。こんな段階になっても、ルミ江は芸能界の夢を捨てる事ができない。すべてが東屋財団に仕掛けられた事だったとしても。
 加東ルミ江の黒いバイクは群衆で立ち往生となり、ルミ江は忍の術でビルの壁面によじ登ると、屋上を伝ってジャンプを繰り返し、新帝国タワーへと向かった。入口付近では、群衆の最前線が警官、機動隊、警備員たちと揉み合いをしていた。スタンガン仕様の特殊すぎる警棒で武装した者も居る。砂利やレンガの投石が降り注ぐ。すでにそこに桃流太郎の姿はなかった。中へ侵入したらしい。だが、間違いなく掴まったに違いない。レンジャーでもない上に、テレビで大演説をし、数十万の群衆を引き連れては、自ら掴まりにいくのと同じである。前回の二の舞ではないか。
 ルミ江はタワーに侵入すると、階段から上階へと上がっていった。不思議と見つからないで済んだ。だがこれも、敵が、ルミ江が来る事を知っていて罠を張っているからであろう。ルミ江はタワーのどの部屋に彼らが掴まっているのか大体予想が着いていた。従業員のための遊戯場がある。「キャンディバー本陣」。前にここで二人で話をした。帝王となった六条美姫は、その部屋が好きで、現在は彼女一人で独占している事を掴んでいた。その階へゆくと、案の定部屋のドアは開いていた。
 中にはビリヤード台があり、カウンターバーがあり、壁にダーツがあった。前と変わっていない。その他、バカラなど、様々な大人向けのゲームがある。薄暗いのが難だ。部屋の中央のビリヤード台の手前に、椅子が二つ背中合わせに置かれ、そこに芹香とモモタロウがロープで縛られていた。その他に、人は居なかった。第一階自体、人の気配がない。ルミ江が部屋に入るとドアが自動ロックされる。
 近づくと桃流は痣を作っていた。気絶している。芹香が言った。
「どうして来たの……ルミ江ちゃんなら、罠だって分かる事なのに------。私が掴まってる事、罠だって分かってるのに、桃流さんも、ルミ江ちゃんも、なんで来るのよ!」
「私は死なないわ。必ずあなたたちをここから助け出す」
「そうじゃない……、美姫はあなたをこの部屋に入れる為にあたし達を生かしているんだから」
 ルミ江は部屋を見回した。途端に六条美姫の声が響いた。
『こんばんは、加東ルミ江。お前の片目を奪うとあたしが宣言したのに、現れるとはさすがだよ。雌狐め。今夜こそ餌に引っ掛かったわね』
「あなたこそ姿を現しなさい! あなたは私と勝負がしたいんでしょ?!」
『フフフ……蛇瞳(じゃどう)を使われては、いくらあたしのアルティメットラケットが最強でも勝ち目はないからな……今夜は必ずお前の片目を奪う。それから後日改めて勝負しようじゃないか。片目を奪わなければ、この部屋から出さないわ』
 美姫の声が部屋の中でかすかにエコーする。
「ルミ江ちゃん、ビリヤードのキューに気を着けて! 彼女は部屋の外から全てのキューを操作できるわ!」
『芹香、余計な事しゃべんなこの裏切り者がぁ!!』
 桃流が気づく。ルミ江は二人のロープを短刀で切って立ち上がらせる。
「木刀なんかで突っ込んでいくなんて、無茶をしないで」
「気をつけろ……この部屋の壁に飾ってあるビリヤードのキューは、勝手に動き回る。まるで生き物のようにだ。動き回るのを決して目を離しちゃいけない。死角から襲撃されれば、キューの先端から針が飛ぶ。あれはキューの形をした、空飛ぶ自動ダーツマシンなんだ。俺たちはあれで殺されはしなかったが脅迫された」
 芹香と桃流の言う事は、にわかには信じられなかった。美姫の武器の一種か。ルミ江が見る限り、部屋の壁面に、三本のキューが飾られているに過ぎない。
「じっと視線を反らさず、死角を作らず、動かない方がいい」
 桃流はやけに警戒した。
「壊した方が早いわ」
 ルミ江は短刀をもってキューの方へ行こうとした。ルミ江の腕を桃流が掴んだ。
「近づかない方がいい。むしろ一定の距離を保つんだ。近くで撃たれたら避けられないぞ。待て、さっきまであった一本はどうした?!」
 三本あったはずのキューが、一瞬の内にニ本になっていた。
「もう部屋のどこかに移動している」
 桃流は、死角を無くす、といって自分とルミ江を背中合わせにロープで縛った。
『下らない事してるわねぇ。お前達。そんな事したって無駄よ』
「下らないのはあなたの方でしょ、こんな馬鹿馬鹿しい手段でしか戦えないなんて」
「しゃべるな! 気が散る」
 桃流は焦っていた。
 影が動いた気がした。キューが宙に浮いていた。部屋の角でじっと動いていた。
「おおかた、ワイヤーで釣って操作してるんでしょ。ほんとにバカバカしい……」
『だったらあなたのしたいようにすれば?』
「そうするわ。桃流さん、悪いけどほどくわよ」
 言うが早いかルミ江はロープを切り、ピアノ線の分銅を回転させる。キューを斬るつもりだった。
「よせ! 相手の罠だ、分からないのかッ!」
『ハッハッハッハッハ!』
 美姫は二人の様子がおかしいらしい。監視カメラの映像を見て笑い転げているのだろう。ルミ江はムッとした。
 キューは部屋の奥へ飛んでいく。驚いた事に、部屋の奥でキューは大きく伸びていた。太さも変わっている。二倍以上の長さと太さである。愕然とする内に、キューの場所を完全に見失った。
「あなたは私には勝てない。一対一で対決しようとしない者に、私に勝つ事はできない」
『何だって?』
「この憶病者!」
『ふ、ふざけんなぁ~!!』
 美姫の声と共に、ビュン!と音がして目の前にキューが現れた。視界が真っ赤になった。美姫が撃ったキューの矢が、左目にヒットする。左目から血が流れる。桃流と芹香がハッとした。
「やった! あたしの勝ちだ! ザマミロ……お前の片目は奪ったぞ」
 ルミ江はうずくまり、矢を抜いた。
 やがてゆっくりと立ち上がって、左目を抑え、右目でカメラを睨み上げた。
 次の瞬間の加東ルミ江の様変わりには、その姿を見る全ての者が驚いた。
「上等だよ! そんなにあたしの蛇瞳が恐いのかよ! 目を奪いたきゃ奪えばいいんだよ! ここからがあたしの本当の始まりだって気がするよ! 第二のブラック加東ルミ江の誕生だってな!」
 それは阿修羅の如く様変わりし激しい怒りに全身をまとった加東ルミ江の姿だった。美姫はぞっとしながらドアのロックを操作して開けた。三人は廊下へ出ていった。
 美姫帝は勝ったはずなのに、ルミ江の姿を見て急に不安にとらわれていた。
 モニター室の美姫に、東屋の部下が入ってきて耳打ちする。
「なんだって? ----------まずいぞ」
 元老が今夜の顛末を高輪の邸宅から見ていて、加東ルミ江の行動を高く評価し、近々、帝王を加東ルミ江に取り替えるという情報だった。どうやら、美姫の使った罠は元老には気に入らなかったらしい。正々堂々とした決闘(デュアル)とは認めなかったようだ。東屋の六条美姫の支持者たちは、加東ルミ江を忌み嫌っていたので、耳打ちに来たのだった。
 桃流と芹香は黙々と前を進むルミ江に声を掛けられずにいた。建物の裏側から外に出ると、群衆も居ない。
「あんた、左目の様子は? 大丈夫か」
 桃流は心配して声を掛ける。
「じゃあお先に!」
 ルミ江は振り返り、拍子抜けするようなほがらかなトーンで、ウインク、いや左目を潰したまま二人に微笑んで、片手を上げた。
「『ストップ! ギャングアイドル』の啖呵をやってみたよ」
 そう言うと、ルミ江はバイクに跨がった。

 バイクは品川区の高輪に向かっていた。高輪の元老の邸宅は二千坪と、都心にしてはかなり大きい。そこには、体育館のように巨大な日本建築が聳え立ち、周囲は木々と高い塀で覆われ、中の城のような屋敷を見る事はできない。しかも武装警備員に守られ、彼らはサブマシンガンを持っている。もし侵入しようものならたちまち蜂の巣にされ、殺されるだろう。だが、それも相手が忍ではないという前提でだ。特に加東ルミ江のような忍のエリートに、入れない場所はない。元老、長沼乱舟の邸宅も例外ではない。
 元老はねずみ色の着物姿で和室に設えたモニターの前に座り、入ってきた加東ルミ江を出迎えた。彼は、暗殺を警戒し、明治政府の表舞台には決して出る事なく日本を影から支配してきた。しかし、今までおよそ五十回暗殺の危機にあい、これを切り抜けてきた。その言葉の一言一言が、これまで激動の近代日本を支えてきた迫力に満ちている。
「やはりそうか」
 元老は静かに言った。
 入ってきた加東ルミ江は両眼とも正常で問題なかった。
「あの部屋の秘密に気づいたのだな」
「そうよ。あの部屋は、奥行きが極端に狭くなっている。キューの動きを警戒し、部屋を調べなかった為に最初は気が着かなかった。キューが部屋の奥へ行くと大きくなったように感じたのは、あの部屋の遠近が狂って見える為。そのせいで、キューの動きも掴みにくくなる。でも実際はワイヤーで釣って操作していただけ。私はとっさにドラマの『マジ駆る九ノ一』で覚えたマジックを使い、片目に矢が刺さったフリをした。そのお陰で美姫は、私に勝ったと思って、私たちを部屋から出した」
「-------見抜いたのはお前がはじめてだ。お前のその美しい両目は何物にもごまかされない」
「何故あなたは、委員会を杏奈に殺させたの?」
「お前は大方分かっていて、わしに質問しているのだろう」
 元老は静かに語った。
「彼らは、この国の未来を任せるに値しない連中だった。ずっと悩んでいたのだ。もはや、全てを白紙に戻したくなった。九十九%までは完璧だったわしの計画は、ふと停止した。このままでは、わしの国家百年の計が危うい。このままではいけない、という考えがふつふつと沸き上がった。そこへ、ブラック加東ルミ江がさっそうと登場した。自分が作ったこの国が、何かが足りない、何かが違う、私利私欲にまみれた者たちだけがトップに立っている現状に私は満足しなかった。だから自ら作ったものを人生の最後に、自らの手で壊すつもりだった」
 ルミ江は元老を厳しい目で見下ろす。
「つまり、わしにとって最後の希望がお前なのだ」
 元老はルミ江をじっと見上げる。
「さぁ私を殺せ」
 ルミ江は頷くと、一歩近づき、ピアノ線を両手でピンと張った。
「そんなものはわしには通用しない。わしは、忍の長から授かった不老不死の術をマスターしているのだからな」
 銃や剣、ピアノ線はおろか、爆弾でも死なないという。
「私はもう十分に生きた。私を殺せるものは、お前しかいない。そう、お前の蛇瞳でしか不老不死の術は破れないのだ。わしはずっとこの時を待っていた。この瞬間をな」
 ルミ江は沈黙し、一度目を瞑った。
 再びその美しい大きな両目が開いた時、元老には、ルミ江の両目から眩い光が迸ったように感じられた。元老の身体はバキバキと音を立てた。全ての神経は破壊され、細胞が破壊された。元老は血を吹き出し、それでも無言のまま絶命した。この屋敷の主にして、日本の盟主である男が死んだ事に、まだ誰も気づかない夜明け前、ルミ江のバイクは高輪の邸宅を後にした。

 加東ルミ江の戦いを、世の人々は誰も知らない……。

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