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風の中

 ざああああ


 それはまるで波のごとく、強くなり、弱くなり、だが完全に途切れることはなく、リンケイ--この初見の闖入者をためつすがめつしながら、すぐ傍をかすめてゆく。


 --なるほどこれが、音に聞えた陰陽界の“風”というものか。


 陰陽師は摺り足に近い歩みを静かに進めていた。
 耳を、頬を撫でるのは大気の揺らめきではない。
 怨念の、憎悪の、そして助けを乞う悲哀の声でもある。


 --こんな所に俺はあれほど来たがっていたのだから、趣味が悪いと言われるのも無理はないな。


 独り、歩を進めながらにやりと笑う。
 怖れはない。
 不安も、緊張も抱いてはいない。
 右手に握っていた斬妖剣を、歩きながら腰に挿し直す。
 聡明鬼の--リューシュンの手から受け取った、剣だ。

 足は、素足のままだ。
 傷めるかも知れないが、別に構わぬだろうと思う。
 何しろ今から、足どころではなく恐らくは全身、この身のすべてに、傷を負うことになるのだろうからだ。
 ここ陰陽界から陰曺地府へ抜け出た暁には、もはや無傷でいられるつもりでなど端からいない。

 そしてもはや、逃げ場所などないのだ。
 生きたまま陰曺地府へ来る--陽世へも、上天へももはや行く術はない。


 やがてリンケイは、地面からそそり立つように存在する黒き淵を見つけた。
 自分の目で見つけるのは、これが最初だった。
 近づくとそれは、淵を細かく震わせながら佇む影のようだった。
 或いは震える淵に囲まれている黒き闇のようでもあり、墨汁のようでもある。
 確かに言えることは、その向こうに平和で穏やかな--そう、上天のように心安らぐ場所など、皆無であるに違いないということだ。


 それがつまりは、天心地胆だ。


 陰陽師は、そこへ足を踏み入れ、そして全身入った。


          ◇◆◇


 ふう、とため息を洩らす。

「どうした」夫が少し笑いながら、訊く。

「ええ」スンキも少し笑う。「随分、静かな日が続くなと思って」

「--そうだな」キオウは答え、梢の向こうの夜空を見上げる。

 新月の今宵は、星屑がひしめき合い賑やかな様相を見せている。
 特に、そこから何かが降って来るという予感を持つわけではない。
 だが、考えてみればいつそのような事が起きたとしても意外ではない、そういう状況のはずだ。

 打鬼棒を手許に取り戻したテンニが、何処かに身を潜めている--それは陰曺地府であるのかも知れないし、ここ陽世の何処か山の中であるのかも知れない。
 キオウとスンキは、キオウが山賊の頭として棲んでいた天幕に身を寄せていた。
 フラもいる。
 山の空気は冷たく、スンキの身重の体には厳しい環境なのかも知れないと、模糊鬼は考えもしたが、妻はそれでも良いと言った。
 陰曺地府にいるよりは、この山の中の方がまだ安心できると言うのだ。
 それは、キオウと、そしてその妻スンキのことも守ってくれるだろう龍馬フラが、近くにいてくれるからだ。
 フラは黒犬の姿となって、石の上に坐るキオウの足許に蹲っていた。

 だが不意に、フラはぴくり、と耳をそばだて、閉じていた目の片方だけを開けた。

「どうした、フラ」キオウは、今度は真顔で問うた。「何か来るのか」

「えっ」キオウの隣に坐るスンキも驚いて犬を見下ろす。


 啼いてる。


 フラは、念によりキオウにそう教えた。

「啼いて……誰が?」キオウは訊いた。


 リョーマ。


「リョーマが? 何故……」キオウは眸を揺らした。「陰陽師は?」


 --行った、みたいです。


「--陰曺地府へ?」


 --はい。


「そうか……聡明鬼は」


 --わかりません。あいつは何も……


「……そうか」

「陰陽師さまが、陰曺地府へ行ったということなの?」スンキが、そっと訊く。「聡明鬼さまと?」

「いや、独りで行ったようだ」キオウは考えを述べた。「だが聡明鬼もすぐに追って行くだろう」

「リョーマは、独りになってしまったのね」スンキは眉を曇らせた。

「大丈夫だ、ケイキョがいるからな」キオウは頷いた。「しかしずっと仕えていた主を失ったことに変わりはない。フラ、リョーマにもここへ身を寄せるように伝えてくれないか」


 --ここに、来たがるでしょうか、あいつ。


 フラはちらり、と主を目だけで見上げた。

「来たがるさ。お前もいるしな」キオウは微笑む。



 ざざざ



 激しく葉擦れの音が起こったのはその時だった。


          ◇◆◇


「ん」

 天心地胆を抜け陰曺地府へと出たリンケイが最初に目にしたのは、思いもかけぬ再会の相手だった。

「スルグーン」呼ぶ。

「よう、チイ」雷獣はふわりと宙に浮いている。
 初めて洞窟で出遭った時のようにだ。

「ここに来ていたのか」リンケイはにこりと微笑んだ。「一人か」

「ああ、キイ」スルグーンは浮かびながら頷いた。

「体の方はもうすっかり好いようだな」リンケイは施療者の眼差しでスルグーンを見た。

「ああ……あの時は、あれだチイ」

「何だ?」リンケイは眉を上げた。

「その、だからまだ言ってなかったと思ってキイ」スルグーンは浮かびながら顔を横にそむけた。

「何をだ」リンケイは訊く、が、いつものように大体は察しがついていながら空恍けているのだ。

「だからチイ、あれをだキイ」スルグーンは顔を戻さず嘴を小さく上下させてぶつぶつ答える。

「歯切れが悪いな。お前らしくもない」リンケイは腕組みをしてため息をついた。

「だから」スルグーンはむすっとした顔をやっと正面に向けた。「礼を言ってなかったっていうんだチイ」

「ああ」リンケイは目を丸くしてみせた。「そういえばそうだな。礼を言ってもらっていなかった」

「お前、礼を言えっていうのかキイ」

「いや、別に俺はどっちでもいいが」リンケイは肩をひょいとすくめた。「気になるんなら言ってくれてもいいぞ」

「ちきしょう」スルグーンは嘴をさらに尖らせるかのように喰ってかかった。「あの時は助かったチイ、ありがとうキイ」叫ぶ。

「--」リンケイはしばらく黙ってスルグーンを見ていたが、とうとう吹き出して大笑いし始めた。

「お前」スルグーンはやたら羽ばたいた。「何が可笑しいチイ」

「まさか陰曺地府に来てこんなに楽しい気分が味わえるとは思わなかったな」リンケイは眦を指で拭いながら言った。「お前はこれからどうするんだ、スルグーン」

「おれは」雷獣は言い淀んだ。「そのチイ、あいつと一緒に、戦で闘おうと思うキイ」

「戦、か」リンケイは真顔になりスルグーンをまじまじと見つめた。「聡明鬼と、か」

「--」スルグーンは浮かんだまま俯いた。

「どうした?」

「お前、あいつの名を知っているのかチイ」スルグーンは顔を振り上げた。「聡明鬼の、本当の名をキイ」

「--」リンケイは少し考えた。「ああ」頷く。
 知ったばかりのところだ。

「その、教えてくれないかチイ」スルグーンはまた俯いた。「おれは、どうしても」猫の目をぎゅっと瞑る。「思い出せないチイ」

「--」リンケイは雷獣を見た。


 玉帝さまは、どうお望みだろうか--


 ふと、陰陽師の胸中にはそんな想いが生まれる。
 消してしまった記憶、そのほんの一部分である聡明鬼の名--リューシュンの名を、この叛逆者スルグーンに戻すことを、玉帝はお望みになるだろうか、お許しになるのだろうか。


「あいつの名は、俺の口からは教えられん」リンケイは静かに答えた。「だが恐らく、遠からずあいつ自身の口から教えてもらえるだろうよ。何故ならお前はあいつの」にこりと微笑む。「友達だからな」


 スルグーンが猫の目でじっとリンケイを見た。


          ◇◆◇


 キオウとスンキは、はっと音のした方へ振り向き、キオウはスンキを背に隠しスンキは夫の背に手を置きその肩越しに様子をうかがった。
 フラも犬の姿のまま牙を剥き喉を唸らせ、茂みの向こうを睨みつける。
 だが音の後、姿を見せる者はいなかった。

 しばらく三足は身じろぎもせず音の聞えたところに注意を向けていたが、やがてフラが、地面に鼻をつけながらそろりと足を踏み出した。


「テンニか」キオウが低く問う。


 --テンニ、ではないみたいです。


 フラは答え、それから顔を上げたかと思うと走り出し茂みの中に飛び込んだ。
 ほどなく黒犬は、茂みの中で見つけたものを主人に報せた。


「なんだって」キオウは眉をしかめ戦慄の声を上げた。

「どうしたの」スンキが半ば悲鳴のような声で訊く。

「--山賊の一人の」キオウは妻に背を向けたまま答えた。「首、だけがあったらしい」

「え--」スンキは口を抑え言葉を失った。



 くくくく



 遠くから、風の音と紛うほど小さく、その邪悪な笑い声が聞えてきた。


「テンニ」キオウは怒鳴った。「貴様か」

「キオウ」

 邪な声は模糊鬼を呼んだ。
 姿は見えない。

「お前と同じ事をしたまでだ」

「--」キオウは牙をぎり、と噛んだ。

 スンキは息を潜め、ただ夫の背に隠れている。

「お前は土地爺の首を落として行った。人間の町に」

「やめろ」キオウはまた怒鳴った。「何の為にこんな事をする」

「儂も見せしめに山賊どもの首を落として行ってやろう」

「閻羅王を斃すことをやめたからか」キオウは姿の見えぬ敵に向かって訊いた。「俺を裏切り者と呼ぶか」

「お前にはどうせ出来ぬ事だったろうよ」テンニはそう言って風に乗せ高笑いを放った。「裏切るも何もないわ」

「--」キオウは屈辱の言葉を浴びせられ怒りに身を震わせた。

「さて、それはともかくだ」突如声が近くで聞え、鬼の夫婦は坐っていた岩から飛び上がって地に降り立った。

 茂みからフラが飛び出し、激しく吼えながら声の主に飛び掛る。


 だがテンニはひらりと跳んでかわし、枝の上に焦げた足を音もなく乗せて立った。


「何が望みだ」キオウは見上げて鋭く訊いた。「その黒焦げの体を俺に治せとでもいうのか」

「察しがいい」テンニはにやりと笑った。「頭脳だけは相変わらず良いな」

「悪いがお門違いだ」キオウは睨みつけたまま言った。「俺は医者でも法力使いでもない。ただの鬼だ」

「だが龍馬を操っている」テンニも睨み返した。「龍馬の吐く焔についてもお前なら下手な法力使いより余程知っているだろう」

「--」キオウは黙り込んだ。

「儂は龍馬二匹の焔に全身巻かれてもこの通り動くことができておる」テンニは両腕を体の左右に広げ自分の体を見下ろした。「人間のままだったならばこのような事はなかったのだろうな」

「--」

「とはいえ他の鬼どもも、龍馬に焼かれれば消炭となって消えておった。だが儂は他の鬼どもとは違う。鬼となった今このように無事で--まあ、片手は失ったが、動けておる。ならばこの焦げた体を元通りに戻すことも、ひょっとして無理なことではないのかも知れぬと思ったのだ」

「--」キオウは答えない。

「何が必要なんだ、模糊鬼」テンニは木の上からひたりと睨み下ろしながら訊いた。「儂の体を元に戻すためには」

「--」

「答えぬと、山賊どもの首がまたそこいらに転がるぞ」不敵な笑みを唇の端に広げる。

「よせ」そこでキオウは怒声に乗せ言葉を発する。「時間だ。時間が経てばいずれお前の体は元に戻る」

「--」今度はテンニの方が黙る。

「ただ待つだけだ。それしかない」

「--他には」

「ない」


 テンニは焦げた顔を横に向け、ふ、と息を吐き、次の瞬間木の上から消えた。


 ざざ


 元降妖師が消えた後で、枝葉が揺れた。

「やめろ」キオウは思わず茂みの方へ走った。「あいつらを殺すな。他の方法を俺が考える」

「ほう」背後で声が答える。

 はっとして振り向いたキオウの眼に、テンニとその腕を首に巻きつけられ捕えられたスンキの姿が飛び込んだ。

「スンキ」視界がぐらり、と揺らめく。「やめ」


 テンニは、手首のない方の腕でスンキの首を捕えていた。
 もう片方の手は、頭上高く差し上げられている。
 キオウの震える眼は、そこに握り締められたものをはっきりと見据えた。


 それが何か、知っていた。


 --そこまで、真似をするというのか--


 奇妙なことに一瞬、模糊鬼の頭の中にはそんな想いが走ったのだ。

 それは、彼キオウが模糊鬼となり生まれることを導いた、ものだった。


 七寸釘だ。


 テンニは特に何も言わずじっとキオウを見据えたまま、狙い違わずその釘を、キオウの子を宿すスンキの腹に深く刺した。

しおり