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夢絶えて

 いつも思うのだが、楽しい夏は何故早く過ぎてしまうのだろうか。夏になればなったで、暑いとうんざりするのだが、過ぎ去ってしまうとなんだか惜しい。夏のイベントほど心を浮かれさせるものはそうそうない。海に山に縁日。永遠に続いてほしいと思う毎日。子供のころは、夏空はどこまでも青く、時間は永遠と思われた。
 十一月中旬の土曜日。昼食を取った後、研究室でだらだらと読書をしていたら、玄関のインターフォンが鳴った。一階に降りて玄関を開けると蓮歌が立っていた。
 「よくできました」俺は満面の笑顔で蓮歌を褒める。
 「なにそれ?」蓮歌は顔をしかめた。
 「お前、いつも俺がいない間に忍び込むだろ。今日はインターフォンを鳴らし、常識的に来た。成長が叔父さんには嬉しいよ」
 「あほか」
 一蹴されてしまった。ちょっと俺が惨めだが、そんなことはさておき。
 「まあ、上れよ」俺は蓮歌を研究室に招き入れた。

 ドリップでコーヒーを淹れる。やはり深まる秋には熱いコーヒーだろう。蓮歌用に砂糖とミルクを持っていく。
 「おら、配給だぞ」俺はマグカップの乗ったお盆をテーブルに置いた。
 「あ、砂糖とミルクつけてくれたんだ。ありがとう」
 蓮歌は嬉しそうにほほ笑む。砂糖とミルクをたっぷりとコーヒーに淹れ、マドラーでぐるぐるとかき回す。口を付け
 「うまー」と蓮歌は声を漏らした。
 そんなにうまいか? いつもならブラック派の俺だが、今日は砂糖とミルクを入れて試してみることにした。
 ・・・意外とうまい。疲れのたまった体にしみ込むようだ。食わず嫌いは良くないようだなと思いつつ、はっとする。蓮歌がにやにやと俺を見てくる。俺は
 「べ、別に、砂糖とミルク入りコーヒーが意外と美味しいなんて思ってないんだからね!」と条件反射をしてしまった。
 蓮歌はぷっと吹き出し、「はいはい、ツンデレ、ツンデレ」と笑った。
 蓮歌はカップをテーブルに置いた。
 「とりあえず日記読んだよ」
 「で、どうよ。何か手掛かりはあったか?」と俺は問うたのだが、蓮歌は形のいい眉毛を釣り上げた。
 「ジローさん、ちょっとは自分で考えなよ」
 う、と俺は言葉に詰まる。それはそうなんだが。俺のへぼ考察より、蓮歌のずば抜けた頭脳の考えをまずは聞いてみたかったのだ。
 だが。
 それでは年上の俺の面目が立たない。まずは自分の意見を披露する。
 「昭和十五年の若林サロンに集まったのは学生三名。亡くなった鬼軍、それと行野、女子学生の名武紅子。日記にはこんな記述がある」

 昭和十五年五月十五日
 授業後にいつもの行野、鬼軍、名武のメンツで研究室に集まった。昨今の文学についてだべる。忙しい毎日であるが、こういった肩ひじ張らない集まりはいい。

 「と、こんな感じ。この日の記述からは学生たちの特徴もうかがえるね」

 相変わらず行野君の頭の回転には舌を巻く。切れる頭脳とは彼のことだ。将来は東京帝国大学に進学して日本中世史専攻の学者になりたいと言っている。彼ならなれるだろう。鬼軍君は控えめで内省的だ。とつとつとしゃべり、勉強の跡が察せられる。名武君は彼らの議論をすまし顔できき、時にユーモアある発言をする。彼女は愛嬌がある。このサロンの雰囲気を明るいものにしている。

 「うん。行野って男子学生がこのサロンのエースで、紅ちゃんが紅一点だよね。そして内気なのが鬼軍君」蓮歌は思案顔でいう。
 「そのとおり。しかも、この行野ってのは結構過激な学生だったみたいだね。こんな記述もあった」

 しかし、行野君は優秀なのだが、彼の左傾思想はどうにかならないものか。当局の学生への取り締まりも厳しくなっている。高校を退学になってしまえば、帝大には入れなくなるというのに。たびたび忠告はしているのだが。

 「とのこと」
 「うんうん。で紅ちゃんのほうは?」
 「これが若林助教授に恋心を抱いているね」
 
 昭和十五年五月二十日
 名武君がやたらと積極的だ。先生はご結婚はどうなさるの、とか、今度博物館へ連れて行ってくださいとか。去年からそういうことは、たまにあったが、今年に入って多くなってきた。考えてみれば彼女はもう十九歳だし、結婚してもいい年ごろだ。昨日は先生といつまでも学問について語っていたいし、一生先生と一緒に歩めたらいい、とまで言った。

 蓮歌は
 「先生と学生の禁断の恋だよね。なんかエッチ」という。
 「恋に国境はないのだよ。すべてを超越する」
 俺は深遠な思想を開陳した。
 ・・・
 沈黙が場を支配する。
 「ジローさん、そんなセリフは、新しい彼女を作ってからにしたら?」
 ぐぬぬ。小娘。痛いところを突きおって。
 実は去年、五年間付き合ってた彼女に振られた。一時期は結婚の話も出ていたのだが、水の泡と消えた。それ以来女性との縁はない。会社では同僚はみんな結婚しており、合コンの話も来ない。まあ、合コンのメンバーとしてカウントされるほど、俺はイケメンではないのだが。

 「で、続きは?」蓮歌は促す。

 ところが気になるのは鬼軍君だ。彼は明らかに名武君に恋をしている。だべっている間も名武君のほうをちらちらとみて、彼の細面の頬が赤くなっている。彼の性格上、好きだとなかなか言えないのだろう。どうしたものか。

 「三角関係だねぇ」蓮歌は嘆息した。
 「恋ってのはいつの時代も変わらないね」と続けた。
 「まあ、そうだな。この名武の人物はどんな人かというと」

 名武君は麗人である。男子学生の人気が高いのもよくわかる。性格は明るく、品がある。断髪で、女子には制服がないので、和服で登校しているが、それが断髪に良く似合う。かえって女らしさを醸し出している。鬼軍君が惚れるのも理解できる。私もたまに見とれてしまう。その彼女が私に好意を寄せてくれているとは。

 「若林先生も満更じゃないってことだよね。で、この行野さんの左傾ってあれだよね。マルクスとか、共産主義とか」
 「そのとおり。このころの学生はマルキシズムに傾倒しているのが多かったんだ。昭和十五年ごろはだいぶ下火になっていたんだけど、一部の学生は、軍国主義とか軍と癒着した財閥に抗議の声を上げていたんだ。九高会誌にはこんなことが書かれている」

 悪徳財閥、悪徳教授を撃て
 この日本を取り巻く状況は、日毎に目まぐるしく変化している。農村はますます疲弊し、年では労働条件が悪化し、予断を許さない。その中で、農民、労働者の生き血を啜るものがいる。周知のこと、それは財閥である。彼らは腐敗政治家、軍部と結託し、この国の労働者階級の上に胡坐をかいている。特にシリウス紡績などは、当校の熊谷教頭と黒い噂が絶えない。学生諸君、目を光らせよ。
河童寛太郎

 「他には、こんなのも」

 熊谷教頭に問う
 熊谷教頭はいったい誰の味方か。先日も学生課より一人学生が呼び出され、そのまま警察署に連行された。その後は退学となった。退学を先導したのは熊谷教頭という。いやしくも教育者たるもの、警察の犬に成り下がるべきではない。反動教授と言われても反論はできまい。熊谷教頭に問いたい。先生は(まだ先生と呼べるなら)我々学生とどのような未来を思い描くのか。
河童寛太郎

 蓮歌は言う。
 「この河童さんって、よく会誌に記事を投稿してるよね。常連の闘士ってとこかな。シリウス紡績って、もしかして今のシリウス総合ビジネスのこと?」
 「そう。戦後は財閥解体によって、何社かに分割されたんだけど、その後再統合。高度経済成長の波に乗って、現代日本を代表する一社になった」
 なるほどねぇ、と蓮歌は真面目な顔になり、
 「就職するなら、そういう会社がいいよね」とつぶやく。
 「ん? ああ、そうだな。給料も福利厚生も、だいぶいいらしいしな」俺はぎこちない返事をした。
 続けるぞ、と俺は九高会誌を脇にどけ、若林助教授の日記「無用日記」に手を戻し、ページを繰った。
 「若林先生と紅子の恋は進展する」

 昭和十五年六月九日
 今日の午後、校長に呼び出された。校長室に入ると名武君の父親が来校されていた。何事かと思ったら、名武君と結婚してほしいと頭を下げられた。名武君の強い希望だという。知らなかったが、名武家は男爵でその一人娘が名武君だ。帝大出の(自分でいうのもなんだが)前途洋々たる九高助教授に、ぜひ婿養子になってほしいとのこと。校長と名武男爵は昵懇の仲のようで、とんとんと事が進んでいく。校長の推薦を断るのは難しいし、私としても結婚してもいい年ごろだ。しかし鬼軍君のことを考えると胸が痛む。

 「とまあ、こんな感じだけど」

 昭和十五年七月七日
 名武君との婚約が決まった。校長が仲人となる予定だ。とんとん拍子に婚約成立となった。名武男爵は、家にまで訪ねてこられ、「三顧の礼」をもって迎え入れられた。このことをクニの母に伝えたら、電話口で泣き、いい縁談が決まったね、亡くなったお父さんも喜んでいるよ、と言われた。もはや断る手はない。婚約発表は十月を待つ。

 「このあとは夏休みに入って、特に目立った記述はないね。研究関係ばっかり。その後は」

 昭和十五年九月二十四日
 鬼軍君が研究室に来た。名武君への恋心を私に告げた。どうしたらこの気持ちをうまく伝えられるのか、信頼している先生にお聞きしたい、とのこと。なんということだ。私は大したことは言えず、まずは手紙を書いてみてはどうか、とおざなりなことを言ってしまった。婚約のことなど言えるはずもない。これは裏切りか。

 昭和十五年十月一日
 婚約発表の日だった。婚約の記事は『帝都毎日新報』の社会面に記事が載った。名武男爵は政財官に人脈をもっており、華族のうちでも有名な実業家だ。放課後、鬼軍君がノックもせずに研究室に入ってきた。あまりにもひっそりと入ってきたので、気づいたときは驚いた。青い顔をして何も言わず、悲しい目で私を見続けていた。私は声をかけられなかった。鬼軍君はしばらく立ちすくんでいたが、何も言わず研究室を去っていった。私はどうすれば良かったのか。
 
 昭和十五年十一月二十五日
 今日は一生忘れられぬ日になった。鬼軍君がビルディングの屋上から飛び降り自殺をした。当たり前の話だが、最近はサロンにも来ないので、どうしたのかと思っていたら、この事件である。遺書はない。学校は上から下までの大騒ぎである。動機は名武君との婚約のことに違いない。いたたまれない。これは私の罪だ。

 昭和十五年十一月二十六日
 行野君が来た。彼は鬼軍君が自殺したのは自分のせいだという。どういうことだろうか。原因は明らかに私が婚約を隠したことだろうに。彼が言うには、熊谷教頭とシリウスは*****

 「ねぇ、ジローさん、不思議だったんだけどさ、この*****ってなに? 卑猥な単語?」と蓮歌はけげんな顔になる。
 「そんなわけあるか」俺は反論する。
 「原本の日記の万年筆の文字がにじんで解読できなかったんだよ。たぶん水かお茶をこぼしたんだと思う。濡れの跡があった。鬼軍の自殺関係はここまで。あとは」

 昭和十五年三月三十一日
 今日で今年度は最後。名武君は帝大には進学せず、高校を卒業したら、私と結婚する。行野君は無事に三年生に進級した。学生としての彼らと過ごせるのもあと一年。もっとも名武君とは一生の付き合いになるが。教師として、亡くなった鬼軍君のためにも、彼らに貢献したい。

 「という記述でこの日記は終わり」
 俺はタバコを箱から一本抜きとって火をつける。うまい。体がすっと軽くなる感じがする。ゆっくりと煙を吐き出した。
 「なるほどねぇ」と蓮歌は腕組みをしながら、「目をつける箇所は、だいたい冴えてる私と同じだわ。悔しいことに」と何気に失礼なことを言った。
 「ま、結論としては、鬼軍が信頼していた若林助教授に裏切られ、同時に失恋をしたことだな」俺は途中まで吸ったタバコを灰皿で消す。
 「うーん、そうなんだけどさぁ、なんか足りない気がするんだよねぇ」と蓮歌は承服しない。左手の人差し指をこめかみにあて、小首をかしげ、目をつぶった。
 「足りないピース・・・この河童寛太郎さん、気になるよね。他に会誌の記事で、ジローさんが目を付けたところはどこ?」
 「いろいろあるけど、特にこれとこれだな」と俺は付箋のついたページを開き、読み上げた。

 熊谷教頭は金権の魔物
 熊谷教頭を取り上げるのは、この九高会誌で何度目か分からない。それほどまでに彼の闇は深い。さらに記事を費やさなくてはならないのは、九高生としては情けない話である。熊谷教頭は次期校長にならんがために文部省の役人に多額の賄賂を渡しているようだ。現校長はあと二年で退任である。彼が校長になったら、締め付けが一層厳しくなることは火を見るよりも明らかだ。賄賂の資金は巨大財閥Sが用意したと聞く。教師という聖職にあるものが、このような悪行に手を染めてもいいのか。今こそ声を上げるべき時だ。
河童寛太郎

 「とか」

 自由の敵熊谷教頭
 仲間がまた一人九高を去った。今回もやはり熊谷教頭が音頭を取った。そんなに国家権力に首を垂れるのがいいのか。彼の学生時代には自治と自由の空気があったはずだ。その空気が若い彼を育んだはず。それを忘れてしまったのだろうか。出世する、したい、というのはそれを忘れるということだろうか。高等教育機関は真の意味で自由最後の砦とならねばならぬ。自由なきところに発展はないと筆者は確信している。将来の日本の未来のため、隗より始めよ。熊谷教頭と戦うべきである。
河童寛太郎

 「とか。財閥Sは大方シリウスだろう」
 「ふーん、そう」蓮歌はまだ目をつぶったままだ。
 「で、ジローさんの結論は裏切りと失恋でいいの?」
 「そ、それしかないだろ。論理的な帰結だ」俺は少したじろいだ。
 「でもさぁ、その論文、専門誌に載せてもらえるクオリティなの?」
 ううむ。なかなか穿ったことを言う。正直俺もパンチ力不足だと思っている。
 「じゃ、蓮歌はどう推理するんだ?」
 蓮歌はゆっくりと目を開く。
 「ねぇ、ジローさん」
 「なんだ?」
 「河童と言えば?」唐突に蓮歌は聞いてきた。
 河童と言えば・・・
 「きゅうり」

 蓮歌は空を飛ぶカピバラを見たような顔になった。
 「聞いた私が悪かったわ」
 俺は土下座をする。「ちょっと待ってください。僕がアホでした」
 「ジローさんは、きゅうりを餌にして、河童釣りに行きたいんですねぇ」。
 「ごめんなさい」
 ジローさんは本当に文学部出たのかよと、蓮歌は大きくため息をつくと
 「何が言いたいかというと、河童忌といえば?」と質問した。
 「あ、ああ。芥川龍之介か」俺はだんだん頭が回ってくる。
 芥川には「河童」という中編小説がある。そこから芥川の命日を「河童忌」という。
 「正確に芥川の命日は、ジローさん、知ってる?」
 昭和の初めだったと思うが、正確には知らない。そのことを蓮歌に伝えると
 「昭和二年七月二十四日」と答えた。
 「でね、これを西暦に直すと、1927年7月24日だよね。で、数字だけを残す」
  1927724
 と蓮歌はテーブルの上のメモ帳に書いた。そして
 あくたがわりゆうのすけ
 とその下に書く。
 「そしてその番号順に字を拾うの。1は「あ」、9は「の」」
 あのくゆゆくが
 「意味がつながる文字を後ろからつなげると」
 がくゆくの
 「つまり行野学」
 ! 
 「そうか、行野学の学は「まなぶ」じゃなくて「がく」と読むのか!」
 俺は驚いた。タバコを悠々と吸っている場合じゃない。灰皿でもみ消した。
 「この河童って根拠なんだけど、寛太郎ってつけているじゃない。芥川は同じ作家である菊池寛を親友として兄貴分として、とても慕っていたから間違いないと思う」
 となると。
 「河童寛太郎こと行野学が熊谷教頭を執拗に攻撃していたことと、行野が言っていた鬼軍の自殺は自分のせいだってのが気になるな。それとシリウス紡績。つながりが見えればいいんだが」
 八十年前のことだ、若林も行野も熊谷も生きてはいないだろう。現時点で調査できるのは、シリウス紡績ぐらいしかない。
だが・・・
俺はメッシュのチェアに背を預け、深く息をついた。
 「だめだな、こりゃ」
 「なにが?」蓮歌は不思議そうな顔をする。
 「いや、分かってると思うけど、今調べられるのはシリウス紡績、現在のシリウス総合ビジネスだ。だけど、アポを取ろうにも日本を代表する会社だ。コネもないし、関係のない俺みたいな、吹けば飛ぶような中小企業の社員は相手にしてくれないだろう」
俺は万歳をした。お手上げである。
「いやいや、ジローさん。諦めたらそこで試合終了だよ。こんな時は、この蓮歌さんに任せなさいって」と蓮歌は花が咲くようなウインクをした。

 次の金曜日、俺はJR市ヶ谷駅にいた。蓮歌とここで待ち合わせなのだ。なぜかというと蓮歌と二人でシリウス総合ビジネスを訪問するため、最寄り駅の市ヶ谷駅にいる。ちなみに平日なので、俺は蓮歌に有給休暇を取らされた。なんてこった。
 午後一時に集合である。俺は十五分前に着き、蓮歌は十分前に着いた。
 ジャケットにひざ丈のフレアスカートにパンプスという姿で蓮歌は来た。いつものポニーテールではなく、髪は下ろしている。薄く化粧をしており、その雰囲気からはとても女子高生とは思えない。美しい顔がさらに美しく、若手の高学歴高偏差値OLといっても過言ではない。
 「うっす。ジローさん」と蓮歌は言った。
 ・・・言葉遣いは直したほうがいいだろう。
 俺は「お疲れさま」と答える。
 スマホを取り出し、地図を開く。シリウス本社はここから少し歩く。
 「んじゃ、行くか」と言ったとたん、蓮歌は流しのタクシーを拾った。
 ちょっと。なにをしてくれてんの。
 「ジローさん、早く乗りなよ」蓮歌が中から手招きをする。
 そういえばこいつ、競馬で金儲けしてるんだったけ。ブルジョアが。安月給の俺は財布の中に三千円しか入ってないのだ。蓮歌が代金を払ってくれるものだと見越して、結局俺はタクシーに乗った。
 タクシーで五分少し。滑らかにタクシーはシリウス本社の正面玄関に着いた。代金はやはり蓮歌が払った。俺が財布を出そうとすると、蓮歌は「いいよ、いいよ。今日は私のわがままなんだから」と言って、すばやく払ってしまった。運転手さんの非難する目に俺は傷ついた。穴があったら入りたいよぉ。
 大人として、叔父として情けない・・・

 シリウス本社のビルは立派の一言だった。全面ガラス張りの高層現代建築。うちの会社の社屋が何十個入るのだろうか。出入りする人も高級スーツを身にまとっており、できるオーラがバリバリ出ている。
 しかしどういうつもりなのだろう。俺はシリウス総合ビジネスには何のコネもない。ましてや女子高生の蓮歌はなおさら。「行っても門前払いだって」と蓮歌に何度も言ったのだが「いいからとにかく来い。来なかったらお宝DVDがどうなるか分かってんだろうな!?」と脅された。
安物のよれよれのスーツを着ている俺。警備員にじろじろ見られながら、自動ドアをくぐり、広いロビーのソファに腰かける。蓮歌は受付に行き、受付嬢と何か話していた。話し終わったのか、こちらに歩いてきて、蓮歌は俺の横に座る。
 五分ほど経ち、エレベーターから一人の女性が出てきた。知的な顔立ちに腰まである長い髪。眼鏡をかけており、高そうなスーツを着こなしている。俺と蓮歌の前まで来て足を止め、深く一礼した。
 「お待たせいたしました。社長秘書の諸田です。社長室へご案内いたしますので、役員専用エレベーターにお乗りください」
 は? 俺は目が丸くなった。
 ・・・どういうこと?

 役員専用エレベーターは、振動はもちろん、音もほとんどせずに、俺たちを役員フロアへ迅速に運んだ。役員フロアはしんと静まり返っている。高級ふかふか絨毯を踏みながら、秘書に先導されて、一番奥の社長室に通された。
 「やあ、蓮歌ちゃん、来たか!」
 大きな窓を背にして、高そうな椅子に座っていた恰幅の良い、六十ぐらいと思われる男性が大きな声をあげた。
 「こんにちは。中原社長。お忙しいところ、時間を割いていただき、ありがとうございます」        蓮歌はお辞儀をした。
 蓮歌の声のトーンは上がっており、いつものお転婆娘からは遠い、おしとやかな雰囲気を醸し出していた。
 しかし。
 え? 蓮歌は社長と知り合いなの? なんで?
 蓮歌は俺のほうに手を向け、
 「こちらは叔父の港町正二郎、いちおう歴史学者です」と紹介する。
 おい、いちおうってなんだよ。そんな初対面の紹介あるかよ、と心の中で突っ込んでいたが、はっと我に返り、
 「あ、蓮歌の叔父の港町正二郎です。その・・・お会いできて光栄です」と咄嗟に頭を下げて言う。
 「どうぞ、よろしく!」
 中原社長は手を差し出す。俺は握手をした。中原社長の握力は強い。手が痛くなった。中原社長は、まあまあ、掛けてくれたまえ、と俺らを応接用ソファに座らせ、秘書にコーヒーを持ってこさせた。コーヒーの香りは良く、上質だった。
 中原社長は、
 「いやー、学者のおじさんがいるとはね! 蓮歌ちゃんはやっぱり頭のいい家系だ。蓮歌ちゃんの予言は外れたことがない。次のレースもうちの馬、頼むよ。またこちらの席においで。最終レースの女神さん!」と言った。
 蓮歌は隣の俺のほうを向き、ほほ笑んだ。
 「ジローさん、中原社長はGⅠ五冠馬シュンタロウバレーの馬主さんよ」と衝撃的なことを言った。
 こいつ・・・
 「勝負師の勘」使って、その馬のレースの結果当ててやがる! しかも気に入られて馬主席でレース見てるよ!
 「しかし不思議だねぇ。蓮歌ちゃんが来ると、いつも決まってうちの馬が一着だ。どんな魔法なんだい?」
 「それは企業秘密です」と蓮歌は微笑んで切り返す。
 ガッハッハと中原社長は大声で笑い、俺たちは本題に入った。
 俺たちが調査をしている旧制高校生のこと。日記の解読と会誌の照らし合わせ。ペンネームに隠された暗号。そしてシリウスで行き詰ったこと。
 蓮歌は真っすぐな視線を中原さんに向け、
 「中原社長、お願いです。昭和十五年の役員名簿を見せていただきたいのです」と言った。
 「なるほど」と中原さんは、顎をさすり、思案顔になった。
 しばしして、
 「これはフジさんに聞くのが一番だな」と言って、中原さんは社長デスクの上の電話を使った。
 「ああ、中原です。村川室長お聞きしたいんだが、今日はフジさんはいらっしゃるかい? 社長室にお越しいただけないかと聞いてもらえるかな」

 十分ほど経ったのち、その「フジさん」なる人物が現れた。背は低く、だいぶ年を取っているようだが、年よりくささはない。髪が黒々としていて、その体は内側から静かにエネルギーが沸きだしている感じがする。
 「どうも藤野です。嘱託で社史編纂室に所属しています」とフジさんはニコニコしながら挨拶をした。中原社長が、お席をどうぞ、とフジさんをソファに座らせた。社長は俺たちにフジさんを紹介する。
 「こちらは藤野さん。私たちは敬意をこめてフジさん、と呼ばせてもらっている。この会社の生き字引だよ。私が新入社員のころは、仕事のイロハから酒の飲み方まで、ずいぶんお世話になったんだ」
 フジさんは「いやいや社長。私は何もたいしたことはしておりません」と謙遜した。
 「またまたー。いや、実に慎み深い。これだからみんなフジさんのことが大好きなんだよ!」と社長は笑い、「手間をかけさせて申し訳ないのだけれど、昭和十五年の役員名簿を見せてもらえないかな」とフジさんに聞いた。
 「かしこまりました」とフジさんは言い、脇に抱えていたiPadを操作し始めた。しゅっしゅっと手が動く。そして俺たちの前にiPadが差し出された。フジさんが言うには、今はほとんどの資料が電子化しており、社内データベースにアクセスすることによって、時間をかけることなく目的の資料を閲覧することが出来る、とのことである。
 俺たちは画面を見つめる。そして、その名を見つけた。

 副社長 鬼軍将司

 鬼軍という名は珍しい。鬼軍将太の関係者だろう。そしてもう一つ気になる名を見つけた。

 学務顧問 熊谷芳郎(第九高等学校教頭)

 これは・・・
 「この副社長の鬼軍将司が鬼軍将太の関係者であることを知りたいんですが、なにか資料がありますか?」と蓮歌はフジさんに聞く。
 それなら履歴書の家族欄がいいでしょう、とフジさんは答える。同じようにiPadを駆使して鬼軍将司の履歴書の家族欄を俺たちに見せてくれた。
 履歴書の家族欄には、

 長男 鬼軍将太

 と書いてあった。確定だ。鬼軍将太の父親はシリウス紡績副社長だった鬼軍将司だ。
 「この熊谷芳郎という人は、鬼軍将司と何か関係がありますか?」と蓮歌はフジさんに聞く。
 「はい。熊谷学務顧問は鬼軍副社長の弟です」
 な、なんだって!?
 「これは私が若いころ、上司から聞いた社内事情なのですが、幼いころ芳郎さんは熊谷家に養子に行ったようですね。苦学を重ねたうえ帝国大学を卒業し、教職に就かれた。将司さんは同じく苦学して中学を卒業して、シリウス紡績に入社した。将司さんは偉い学者になりたかったようですが、大学に行く学資がなく、やむなく中卒でシリウスに見習社員として入りました。将司さんはビジネスの才能があったんでしょうね。大卒社員を追い越して、ぐんぐん出世し、副社長にまで上り詰めた。
 やがて戦争が悪化して、思想統一が叫ばれるようになったころ、シリウスに学務顧問を設置することになった。学務顧問は社内の思想教育を担当する役員です。鬼軍副社長の強い、いや強引ともいえる推薦で、芳郎さんが就任した。その頃の鬼軍副社長は社内の実質ナンバーワンだったので、弟かわいさだったのでしょうね。学務顧問の給料も法外でした。鬼軍さんは芳郎さんを高等学校の校長を経て、ゆくゆくは帝国大学の教授にしたかったようです。自分の果たせなかった夢を芳郎さんに託したんですな。事あるごとに、俺の弟は帝大教授になる男だ、と言っていたらしいです。文部省にも接待や献金なんかで盛んに働きかけていたようです」
 
 そういうことか。これでつながった。整理してみると・・・
 若林助教授は第九高等学校で個人的なサロンを開いていた。メンバーは若林を中心にして、行野学、鬼軍将太、名武紅子の四名。鬼軍将太は名武紅子に恋をしていたが、当の名武は若林助教授に惚れている。若林は名武と婚約するが、そのことは鬼軍に黙っている。一方で「河童寛太郎」、つまり行野学はシリウス紡績と熊谷教頭を九高会誌上で激しく糾弾。その熊谷は父親の実弟、つまり叔父である。熊谷は兄であり、将太の父親である将司の強い推薦でシリウス紡績の学務顧問に就任し、法外な給料を受け取る。熊谷は帝大教授になるために、兄とともに金に物を言わせて文部省とつながっていく。行野はそれを知らず、間接的に親友を攻撃したことになる。やがて婚約が発表となり、信頼している若林に裏切られ、名武との恋にも破れ、内省的な鬼軍将太は絶望感から自殺。

 といったところか。
 ここまでまとめたことを簡単に中原社長とフジさんに伝えた。
 「そんなことがねぇ」と中原社長はいい、「人とは儚いものですな」とフジさんは嘆息した。二人にお礼を言い、俺たちはシリウス本社を後にした。
 中原社長は「また遊びに来なさい! 君たちはお酒いけるんだろう? 次は料亭で大宴会といこうじゃないか!」と豪快に笑った。

 頭を冷やすため今度はタクシーを使わず、市ヶ谷駅に向かって、蓮歌と一緒にとぼとぼと歩いた。今日はいろいろあった。達成感というよりも、やるせなさがある。蓮歌はふと俺のほうを向き、
 「ジローさん、私たちもいつか歴史の中に埋もれていくのかな」と切ない顔をした。
 俺は胸ポケットからタバコを一本抜き取り、まよわず火をつけ、大きく息を吐いた。
 「そうだろうな。有名な言葉にもあるとおり、俺たちは「大河の一滴」だ」
 「なるほどねぇ」
蓮歌は手を上にあげ、ぐっと伸びをする。
俺は、細く長くタバコの煙を吐き出し、
 「ま、これでこの事件は終了だな。関係者はみんな亡くなっているだろうし、プライバシーも問題なし。俺は論文を書くよ」
ふと隣の蓮歌を見たら、左手の人差し指をこめかみにあて、目をつぶり、小首をかしげている。
 蓮歌はハッと目を開き、そのあとニコリと俺に笑いかける。
 「ジローさん、もしかしたら、歴史の生き証人に会えるかもよ」
 え、まじ?
 「いやいやいや、関係者は死んでるって! 仮に生きていたとしても、どこにいるか分からんだろ」
 ふふふ、と蓮歌は不敵な笑みを浮かべる。
 「ちょっとした賭けだけど、この蓮歌さんを信じなさい。勝ち筋を見つけるのは、得意なんだから!」

しおり