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 十月十二日水曜日 午前九時
 加野家

 加野恵子は庭で洗濯物を干していた。
 干し場のそばにある犬小屋には柴犬のジャックが寝そべっている。
 早朝、なぜか激しく吠え、家族一同何事かと飛び起きた。夫の範夫はバットを持って家の周囲を見回ったが結局何もなく、恵子は胸を撫で下ろしたものの、ジャックの吠え声は激しさを増し、範夫がどんなに叱っても止むことはなかった。
 近隣の迷惑になるからとジャックを家の中に入れると一応吠え声は止んだものの、窓の外に向かって低い唸りをずっと続けていた。
 舅の征太郎はこの間の豪雨といい、今度は大地震が来るのではないかと懸念したが、小学五年の千華も二つ下の百華も「おじいちゃん考えすぎぃ」と笑った。
 恵子も一緒になって笑っていたが、不安の染みがぽとんと心に落ちた。
 しばらくして落ち着いたジャックは居間のフローリングの上で寝そべった。
 みんな結局そのまま起床し身支度を整え、恵子の作った少し早い朝食をゆっくりと食べた。
 千華と百華が登校し、コーヒーを飲みながらそれを見送った範夫が今度は家を出る。
 夫を玄関先で見送った恵子は何となくだるさを感じていた。変な目覚め方をしたからだとリビングで寝ているジャックを睨む。飼い犬は呑気にいびきをかいていた。
 だるいからと言って犬のように寝ているわけにはいかない。家事は待ってくれないし、誰もこなしてくれない。
「よしっ」
 エプロンをつけたお腹を両手でぽんと叩き、気合を入れる。ポケットに犬の刺繍が施されたピンクのエプロンは去年、千華と百華が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
 今年は何をくれるのかな。
 恵子は二週間先の誕生日に思いを馳せながら、洗濯機に汚れ物を放り込んでスイッチを入れた。
 その後すぐテーブルに置いたままの食器の後片付けに取り掛かる。
 征太郎は朝食後、ジャックの頭を撫でながら話しかけていたが、いつの間に自室に引っ込んだのか居間にはいなかった。
 気楽でいいわねと苦笑いし、汚れた食器を洗うと洗濯物が洗い上がるまでの間に子供たちの部屋に掃除機をかける。掃除機を持ってリビングに戻るとジャックを無理やり起こし、門のそばに置いた犬小屋に戻した。
 早朝の騒ぎは何だったのかと呆れるほど、ジャックは何食わぬ顔で自分の定位置に寝そべった。餌の入った皿を置くと起き上がり、がつがつと食べてからまた寝る。
「ああ、あんたがうらやましいわ」
 恵子は心から呟いて、洗い上がった洗濯物を干す準備を始めた。
 物干し台の竿をきれいに拭いてバスタオルから干し始める。ハンガーに通した男物のシャツを竿に引っ掛けていく。
 千華や百華のブラウスやTシャツも同じように干しているとジャックがまた唸り声を上げ出した。
「もう、またぁ? いったい何?」
 恵子は風ではためくバスタオルを手で除け、ジャックに顔を向けた。
 男が門の内側に立っていた。錆びた門扉の耳障りな音はしなかったので、範夫が開けたままだったのだろう。
 じっと立ってこっちを見ている姿がなぜか奇妙で、恵子の腕に鳥肌が立った。だが、すぐに誰なのかわかり、恵子は安心した。
 男は吉村哲治だった。この辺り一帯の一番の土地持ちの素封家だ。かくしゃくとして征太郎とは大違いの老人だった。
「何か御用ですか」
 恵子はにっこりと微笑んだ。
 哲治は同じ姿勢のまま微動だにせず、返事もしない。首を前にがくりと落として、上目遣いでこちらを見ている顔に恵子は再びぞっとした。
 ジャックの唸りが大きくなり、威嚇の姿勢を取る。
「あ、あかんよ。ジャック」
 恵子は一応たしなめたが、飼い犬をこんなに頼もしく感じたことはない。それほど哲治は日頃とは打って変わって気味が悪かった。
 哲治がゆっくりと動き出す。
 範夫がレンタルして千華と百華に大ひんしゅくを買っていたゾンビ映画の動く死体のようだと恵子は思った。そして、さっきなぜ奇妙に感じたのかがわかった。哲治の身体が微妙に捩れているのだ。歩く度にどこかが引き攣れ、どこかが弛む。
「よ、吉村さん? な、な、何か?」
 恵子は後退りしながら、もう一度訊ねた。
 哲治の顔も身体と同様、動く度に微妙に歪む。
 それは表情の変化というものではなかった。顔の皮を丸ごと剥ぎ、もう一度頭蓋骨に被せてみたものの元に戻せず引き攣れているような、それがだんだんとずれているような――そこまで考え、自分の想像に全身に震えがきた。
 哲治が身体を引き摺るように移動し、ジャックの前を通り過ぎようとした。
 牙を剥き出してジャックが激しく吠え立てた。
 哲治は首をがくんとジャックに向け、大きく口を開いた。
 一瞬だった。
 顔が横に割れた哲治の『口』は、ジャックの上半身を咥え込んだ。うなじあたりでフードのように垂れた鼻から上が揺れ、逆さになった眼が見開いたまま空をさまよっている。
 ジャックの後ろ足と尾は抗いの動きを見せる間もなくだらりと力を落とした。咥えられた胴体は絞るように皮が引き攣れ、少しずつ生命の厚みが失われていく。
 嚥下する動きに合わせ揺れる哲治の逆さまの顔がこっちを向いた。白く濁った目が恵子を見る。
 腰が抜けて座り込んだジーンズの尻が濡れ、染みが広がっていく。
 哲治の『口』からジャックの抜け殻がばさりと落ちた。肉も骨もなくなり、ただ皮だけが絞りかけの雑巾のように残っているだけだった。
 哲治の『口』が恵子を向いた。大きく開いた真っ赤な口内にある穴から黒い触手が伸びたり縮んだり出入りしている。
 哲治が『口』を閉じた。さっきよりもさらに顔が歪んでいたが、恵子にはもう見えていなかった。息も絶え絶えに白目を剥いて失神していたからだ。
 哲治はゆっくりと近寄り、ジャックと同じように恵子の上半身を一瞬で咥え込んだ。
 力の抜けた腕や脚が哲治の嚥下運動に合わせてぶらぶらと揺れ、身体の中身も精気も全部哲治に吸い込まれていく。
 数秒後、衣服を着たままの恵子の皮を哲治の『口』はぶら下げていたが、ジャックのときのように吐き出さなかった。恵子を咥えたまま全身をぶるりと震わすと、徐々に恵子の皮が膨らみ始める。
 身体の厚みが戻った恵子は頭に被さっている哲治の皮を引き抜いた。
 微妙に捩れた恵子がゆっくりと窓を振り返る。
 リビングに立つ征太郎が放心状態でこっちを見ていた。

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