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5 治療開始①

 うつろな胡桃の視界に、輝く革靴の先端が向いたまま止まっている。

 あっ、咲夜さんが来てくれたのかと思い、顔を上げた。
 その瞬間、きょとんとした表情を見せたまま固まった。

 なんて言おうかと迷ったものの、思ったままの言葉が口をつく。

「影山部長……?」
 ホストクラブの店内で、源氏名ではなく自分の本名が飛び出してきた。とんでもない窮地だ。

 だがその言葉に動じる様子のないナイスガイが、にっこりと笑い、ことさら丁寧に言葉を返す。

「お客様どうかされましたか?」

「咲夜さんって、影山部長ですか?」

「はじめまして、咲夜です」
 琢磨が再び営業スマイルを作る。

「影山部長ですよね?」
 酒に酔い、目の座った胡桃がジト目で見つめる。

「誰かと勘違いなさっていますか?」
「……声でわかりますよ、影山部長」
 核心を持って告げる言葉。悩める琢磨が髪をくしゅっとかきあげ観念した。

「なんで白浜がここにいるんだよ」

「それは私の台詞だと思いますけど」

「ホストクラブなんて、白浜にまったく似合わないだろう」

「部長から、男性恐怖症を治せと言われたので、荒療治……的な」

「的な、じゃないって。今すぐ帰れ」

「今来たばかりの客を帰すなんて、酷いです。ここに座ってください」
 早く座れと言わんばかりに、ソファーをポンポンと叩く。
 その姿を見て、はぁ~っと深いため息が返ってくる。

「白浜は客じゃないだろう」

「部長って、ご結婚してましたよね。それなのにホストクラブで働くって、最低ですね」

「あのな~、俺は離婚したから今は独身」

「あれ? そうだったんですか?」

「まあいいだろうこの話は──」
 深掘りされたくないのだろう。
 面倒そうに言った琢磨がテーブルの上のボトルを発見して、顔を引きつらせた。すでに半分以上空いている。

「なんで、ボトル注文してんの……」

「咲夜さんが早く来るにはどうしたらいいか聞いたら、このボトルを頼んで、空にしてって教えてもらったので」

「それ……いくらするか知ってんのか?」

「心配はいりませんよ。今日は10万円持ってきてますから」

「そのボトル、20万するけど」

「え?」
 琢磨を見上げる胡桃の目が点になる。

「毎日会ってる俺を呼ぶために、ドンペリ頼むって馬鹿なのか?」

「ド、ドンペリって嘘ですよね」

「それも、よりによって高いやつな」

「か、影山部長~。20万なんて聞いてないです。奮発しても3万くらいだと思っていたのに!」

「わからないのに、勧められるまま適当に頷いたんだろう」

「そ、そうですけど……そんなお金ないですよ~」
 泣き顔を見せる胡桃を見て、琢磨から再び、はぁ~と深いため息がこぼれる。

「俺がオーナーに話を付けておくから、とにかく白浜は家に帰れ」

「そ、そんな~。それなら今日、私が勇気を持ってここに来た意味がないじゃないですか」

「俺には関係ないだろう」
「関係大ありですよ。影山部長が『男に慣れろ』って言ったからここに来たんです」

「それでホストクラブに来るって、どうかしているだろう」

「だって、ホストの方だったら、私に合わせてくれるだろうと思ったんですよ~。こうなったら部長が責任とってくださいよ~」

「白浜って、酒が入ると気が大きくなるんだな。いつもの弱々しい姿はどこに行ったんだ?」

「知りませんよ、そんなこと」

「ったく、わかったよ。ボトルが空くまで一緒に飲んでやるから、それでいいだろう」
 致し方なく腰をおろす琢磨を、胡桃がジト目で見つめる。

「部長……。こんな所で働いて、彼女に怒られないんですか?」

「いないよ、そんなやつ」
 ふ~んと、小さく頷く胡桃。

「それならいいですね」
「ん? 何がだ?」

「私……。帰る家がないので、部長の所にしばらく置いてくれませんか? 離婚してるし、彼女もいないなら問題はないですよね」

「何を言っている。白浜を泊めるのは無理に決まっているだろう」

「ルームシェアの子の彼氏が海外赴任から帰ってくるから、この先暮らす家の当てもないんですよ」
 肩を落とす胡桃は、深い息を吐きながら俯いた。

「待て、白浜の個人的な事情まで、俺には関係ないだろう⁉」

「そういえば、うちの会社、副業は禁止ですよね。いいのかな~」
「な、なんだよ」

「私に部屋を貸してくれないなら、会社に報告しますよ!」
「上司を脅す気なのか?」

「悩む部下を助けてくれないからです」
「助ける義理なんてないだろう」

「へぇ~、影山部長はそんなこと言うんだ~。月曜日、真っ先に人事に報告しに行きますから」

「ったく、なんで俺にこだわるんだよ」

「私の中で、今一番苦手な男性が影山部長だから、部長を克服できれば、他の男性はイケる気がして。最強の荒療治的な、ははっ」

「はぁ~、俺をラスボスみたいに言うなよ」
 呆れながらにくしゃっと笑う琢磨の顔を見て、胡桃が微笑む。

「そんな風にいつも笑っていたら、女子社員にモテモテなのに、もったいないですね」

「俺が笑ってたら、みんな俺に惚れるだろう。会社の人間と付き合うつもりはないから、いいんだよ」

「ははっ、部長って、どんだけ自意識過剰なんですか。私は部長なんか好きになったりしないですよ~、残念でしたぁぁ~」

「白浜……。お前、会社の飲み会で、酒はほどほどにしとけよ」

「ん~? なんでですか?」
「──あのなぁ……。残念でしたじゃないだろう……」

「部長と一緒に暮らすから、よろしくね」
 胡桃がにへへと笑う。

「マジで話が通じないな」
(これなら、明日には忘れているんじゃないか)
 本当に居座り続けるつもりではなかろうかと、内心冷や冷やものだった琢磨の体の力が抜け、琢磨が安堵する。

「部長が歴代ナンバーワンホストなんて聞いたら、みんな驚くだろうな〜。『咲夜です』だって」

「わかった。わかった。うちに置いてやるよ」

「やったぁ~、ありがとうございます」
 顔の赤い胡桃が、両手を挙げて喜ぶ仕草を見せる。

「白浜の新しい部屋が見つかるまでだからな。早く探せよ」
「ははは、どうしようかな〜」

「まあいい。オーナーに話をつけてきたら、一緒に帰るぞ」
 そう言った彼が席を立ち店を出ると、彼のマンションへ2人で向かった。

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