4 治療契約
胡桃が聞きかじったパープルガイというホストクラブ。洒落たフォントの看板に黒とシルバーで統一された店内は、スタイリッシュに洗練されている。いかにも高級そうだ。
最高潮に緊張した胡桃は、サクヤ、サクヤ……とぶつぶつ練習しながら、スーツケースを持って入店した。
黒いスーツを着た店員の背中を見た途端、やっぱり帰ろうかなと考えてしまうが、ふるふると首を小さく横に振る。
いいや駄目だ。ここまできて怯むわけにはいかないと己を鼓舞する。
指名は咲夜。その一言を発すればなんとかなるはずだと考えていれば、オーナーの凌駕が胡桃の入店に気づき、顔を向けた。
そんな彼は小さく鼻で笑う。
キャリーバックを持つ子は、東京観光に来た一見さんだろうか?
せめて荷物をホテルに置いて来いよと、内心冷ややかだ。
とはいえ胡桃に気づかれないよう細心の注意を払い客を値踏みする。
彼女の大きな胸を見て、にやりと笑みをこぼす。
(シャンパンを空けさせてみるか。支払いができなければ、動画会社にでも紹介して、素人もので2、3本撮影できそうだな)
知人に連絡を入れようと考えているオーナーが、スーツのポケットのスマホに手をかけたところで、彼女から耳を疑う言葉が飛び出した。
「さ、さ、さ咲夜さんに、あ、あ会いに来たんです……」
「咲夜ですか。彼の指名料は結構高いですよ」
「お、お金なら……も、持ってきていますから」
自信なさげな胡桃が、今にも泣き出しそうな声で、必死に咲夜を指名する。
客の顔を覚えるのは得意なのだが、1日だけ復活の咲夜にこだわる胡桃と一切の面識がない。
彼女は初来店のはずだ。
どこで咲夜を知ったのだろうか?
と訝しむオーナーは眉根を寄せ、店内の様子をさっと軽く見回す。琢磨は今、ボックス席に座ったばかりのようだ。
すぐに接客できない琢磨が胡桃を相手にするまでもない。
そんな結論に至ると、オーナーの口角が、にぃ~っと笑うように持ち上がった。
「咲夜はただいま別のテーブルについておりますので、別のホストが可憐な姫をおもてなしいたしますね」
「い、いえ……さ、咲夜さんだけで……お願いします」
「それですと、しばらくお1人にしてしまうので、そういう訳にはいきませんが」
「ま、待ちます……。私……咲夜さん以外に興味がないので、他の方は嫌です」
「そのように仰るなら、他のホストをつけませんが、本当によろしいんですね」
胡桃がこくんと頷いたため、オーナーは通路前方に向かって手を伸ばし、案内を始める。
「テーブルへご案内いたします。どうぞ」
そう言って歩き出した、オーナのあとを追うように続く。
1日だけ復活するホストだからこそ、がつがつとした営業もされないだろうし、次回も来て欲しいと強請られないはずだ。
断れない性格の胡桃が窮地に陥ることはないだろうと見込んでいるので、他のホストに接客されるのは、話にならない。
冷静に考えているものの、あまりの緊張から歩き方がぎこちなく、挙動もよそよそしい。
自分が場違いな気がして、帰りたいなと考えてしまったが、帰る家もないんだったと、肩を落とす。
彼が来る時間を短縮できないものかと考える胡桃が、どもりながらにオーナーへ尋ねた。
「ど、ど、どうすれば……咲夜さんが、早く来てくれますか?」
「それでしたら、あのテーブルにあるボトルと同じものをご注文ください」
そう言ったオーナーが顔を向けた先にある黒いボトル。
彼の視線に釣られるように、胡桃もそれをじぃ~っと見つめて釘付けになる。
とはいえ初見のボトルについて、見てもよく分からない。
それなら、まあいいかと、オーナーの言葉に従うように発した。
「じゃ、じゃぁ……あ、あれをください」
「かしこまりました。ただいまお持ちいたしますね」
爽やかに笑うオーナーが、少ししてから持って来たドンペリを、至って静かに開栓し、胡桃のグラスに注ぐ。
「咲夜が来るまでにボトルを空にしていると、彼も喜びますよ」
オーナーがにっこりとスマイルを作るため、ソファーに座る胡桃は、上目遣いに頷いた。
◇◇◇
オーナーが気配を消しながら、華やかな笑顔を見せる琢磨の元へ来てしゃがみ込み、こそっと耳打ちする。
「20代の素人っぽい子が1人で来て、咲夜を指名しているんだけど、知り合いか?」
「15年前の客の中に、今も20代の子がいるわけがないだろう」
よく考えろと言わんばかりに、咲夜が呆れ口調で返す。
「個人的に知り合いとか?」
「凌駕のせいでここにいるだけで、俺は今日のことを誰にも喋ってない」
「やっぱりそうだよな。じゃあ、ヘルプでつないで適当にあしらっておくわ」
「1人なんだろう……。すぐに行くからヘルプを付けるな」
(業界のカモになるだろうが……。ったく。それにしても、誰が咲夜なんて指名してんだよ)
内心ぼやいているのは、鬼上司と有名な影山琢磨だ。昼に白浜胡桃を叱責していた人物なのだが……。