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湿原の怪物 その1

結局、マティエがその場をおさめてくれたことでなんとか俺の逮捕は避けられた。とはいっても彼女からはカミナリのような説教を喰らってしまったわけで。
「歴史書の編纂……ああ、それもあるがな、あいつは宮廷画家もやってるって話だったぜ」
イーグが寝床でパンをかじりながらそんなこと話してくれた。
宮廷画家か……つまりは絵描きもやってたってわけだな。結構凄いやつだったんだ。
でもって、エイレの一件以来、マティエはいつものムッツリ顔に戻ってしまった。まあどちらかといえば馴れ馴れしく近寄ってくるよりこのくらいの距離感の方がお似合いだ。俺もそんな饒舌じゃないしな。
といっても騒ぎを起こしたのは俺の責任だし、仕方ないから今日泊まる宿に入ってきた時に軽く頭は下げておいた。
「エイレは私なんかより遥かに位が高い。下手したらその場で処刑されてもおかしくなかったんだぞ」
うん、まだ怒りは治まってなかったみたいだ。
しかし、と一呼吸おいて、マティエは続けた。
「エイレも庇ってたんだ……お前のことを。頭を叩かれたなんて生まれて初めてだってな。それも笑いながら」
「マジかよ、ラッシュに頭殴られたら大抵のやつは死ぬか激怒するのにな」
うん、イーグの言うとおりだ。俺のゲンコツに耐えられるやつなんてトガリかルースくらいだしな。

そんな話をしている時だった。
窓から眺めた視界の端が、たくさんの揺れる灯りでみるみる間に賑わって来やがった。
マティエいわく「いや、祭りじゃない」と。てなわけで寝ぼけ眼のジールを連れた四人で、おれはシィレの街外れへと……まるであの灯りに呼び寄せられるように向かっていった。

ああ……分かるさ。この前のアラハスの時といい、港町での時といい、俺が向かうところには決まってなにかしら事件とか天変地異が起こるってことくらい。
そして今回もその悪い予感は当たっちまっていた。
松明を手にしたたくさんの人垣をかき分けて進むと、そこには血にまみれた一人の男が。
「おいしっかりしろ! なにがあったんだ!」
衛兵のひとりが、男に必死に声をかけている。その後ろには同様にボロボロになった人間……らしきものが転がっていた。
瞬間、俺の身体からさあっと血の気が引いた。
なんなんだありゃ……俺ですら、いや獣人ですら人間をあそこまでボロ雑巾にするのは不可能だ。
やれるとしたら、今まで俺たちが倒してきたバケモノくらいなものか。
ジールも初めて見るらしく、その光景に口元を覆って嘔吐をこらえているように思えた。
「なんなんだよこれ……並の力じゃ手足なんて引きちぎることなんてできねえぞ」
そうだ、俺も居ても立っても居られなくなり、別の場所でかろうじて立ちあがろうとしていた人間を抱き起こし、声をかけた。
とはいっても胸からおびただしい血を吹き出している。おそらく手当てしてもダメだろう。
「わかるか、俺の姿が」
口からごぼごぼと血の泡を吐きながら、男はか細い声で「獣人か」と答えた。よし、まだ息はあるみたいだな。
「なにが起きたんだ、話せる範囲で言ってくれ」
傍らでイーグが耳を立てて声を聞いてくれていた……つまり話はこうだ。
こいつらは商隊のメンバーのひとりらしく、ここシィレや、俺たちのいるリオネングを行き来していたところ、突然巨大なバケモノに襲われたらしい。
「この先にある霧の湿原みてえだ。そこで……え、なに!?」
イーグの顔に動揺が走った。
「巨人、首のない……人間の塊のような、鎧」
「なんなんだそりゃ?」男の話していることが、あまりにも断片的すぎて分からない。
そして、男の魂はこと切れた。

……………………
………………
…………

「あっちはなんて言ってた?」
「首のない巨大なバケモノが徘徊していたそうだ。そいつに商隊は壊滅させられた……とのことだ」
マティエも別の生き残りに聞いていたらしい。しかし商隊とはいえ護衛にそこそこ腕の立つ戦士を雇うのは今の時代当たり前のこと。そいつらもなす術なく巨人に捕まり、身体を握りつぶされたそうだ。
さらに腑に落ちない点がひとつ。巨人は馬や積荷には一切手をつかなかったらしい。
「つまりは人間を殺すだけか。なーんか変なバケモンだな」
それがイーグの見立てだ。つまりは……残酷に殺すことしか頭になかったようだ。

分かってるな? とばかりにマティエは俺の方を見つめていた。
やれやれ、仕事が一件増えちまったか。

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