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第11話 命満ちる大地への賛歌

『キィアアー』
 また、悲鳴に似た声が、風に乗って流れてきた。
 ぬかるむ地面に足を取られそうになりながら、レオは湿地へと踏み込む。

 ただ、その途中で違和感に気付いた。

 先ほどから何度か悲鳴を聞いたが、同じような声の繰り返しばかりで、人の言葉は聞いていない。それに、声の出所(でどころ)は地面近くの低いところのようだ。
 さらには、人の入れないような低い草むらの中から声が聞こえてきて、さすがにレオもその事実に思い当たった。

「これ、人の声じゃなくねえ?」
「やれやれ、やっと気付いたか」
「うお!? だから急に出て来んなって」
 いつの間にか、教授がレオの背後に忍び寄り、彼の独り言に答えた。
 そのさらに後ろには、ジュリアも一緒について来ている。

「静かに。大きな声を出すんじゃないぞ」
「わ、わかったよ」
 教授の言葉の意味も考えないまま、とりあえずレオはそう答えておいた。

『キィアアァー』
 また、悲鳴に似た声が聞こえてきた。
 しかも今度は、かなり近い。

「どこだ……?」
 レオは体勢を低くし、ぬかるんだ地面を見渡しながら声の主を探す。

 教授のほうは、何かを探すことなく、じっとレオのほうを観察している。
 たぶん教授には、『答え』はわかっているのだろう。
 すぐにそれを教えないことに不満を覚えつつも、これも勉強だとレオは自分に言い聞かせる。そしてじっと、あの声が聞こえてくるのを待った。

『キィイアァー』
 そしてついに、その声がレオの耳に届いた。

 だが、同時に聞こえてきた他の声に惑わされ、声の主を突き止めるには至らなかった。
 何の気もなしにレオは振り返り、そして変わらずレオのほうを見ていた教授と目が合う。
 だが、教授の後ろに来ていたジュリアのほうには、油断があったようだ。その視線が一瞬、レオの左後ろにある大きな草の塊へと注がれる。

「不覚」
「むう、今のは反則ぎりぎりといったところじゃのう」
 二人の声を無視し、レオはその草むらへと手を伸ばした。

 草の奥に、柔らかくて弾力のある、人の頭ほどの大きさの何かがあった。その表面は、何やらヌルヌルとした粘液で覆われている。

『グヮアッ!!』
「うわ!? 何だこりゃあ!?」
 レオだけでなく、放り出されたそれ(・・)も、悲鳴に似た声を上げていた。

 それは、淡い緑色の大きなカエルだった。ただ、レオが子供のころによく村で見た手のひらに載るほどのものより、二回りは大きい。

 浅い水たまりに逆さに転落したカエルは、体を捻って体勢を整えなおすと、怒った子供がするかのように頬を大きく膨らませる。
 それから、乱暴を働いた相手を威嚇するかのように、不気味な鳴き声を発した。
『ボゥボゥボゥボォオオオゥ』

「うおっ!?」
「ほう……これはまた」
 顔を引きつらせるレオを横目に、好奇心を刺激された教授は一人で喜びの表情を浮かべる。
「そうか、今は渡りの季節じゃったな。ならばこの辺りで声が聞こえてもおかしくはあるまいて。とはいえ姿のほうは、わしも遠くで飛んでおるのを一度しか見たことがないがな」

 一方、レオはおびえたような表情のまま、その背に隠れるかのように教授の後ろに回った。
「何じゃお主? カエルが苦手なのか?」
「いや、子供の頃、よく森の方からこんな声が聞こえてよ。夜遅くまで起きているとボオボオっていうオバケに連れて行かれるって……」
「私も、旅先でバオウという怪物について聞いた。姿を見に行こうとしたら、怒られた」
 ジュリアという少女は、自分の感情を表情や口調に表すことは少ない。だが、決して大人しいとか臆病ではなく、その内面はむしろ外から見た印象の真逆。
 それが近くで接したレオの感想であった。

「やれやれ、誰に似たのやら」
「両親」
「わしもか!?」
 それは教授にとって予想外の答えだったのだろうか。明らかに驚いた表情をしていた。

「それで、バオウとかいうのは、また別の化け物なのか?」
「いや、同じものじゃよ」
 教授はすぐに表情を戻し、レオの問いに首を横に振る。

「この手の話は、各地に広く伝わっておる。ボオボオやバオウの他にも、ブーブや、ボウオウなど、元は同じ声なのに聞く者によって変わってしまうのは興味深いのう。わしは民俗学は専門外じゃが、各地の呼び名を調べて、その傾向を考察してみるのも面白そうじゃな」

 じゃあ、とレオは足下のカエルを指差す。
「あのボオボオの声は、このカエルだったってのか?」
「森の中から聞こえたというなら、違うじゃろうな。こ奴はただ、たまたま聞いた声を覚え、真似たに過ぎん」
「そ、それじゃあ、やっぱり……」
 レオの顔色は、少し青白くなったように見えた。

「何をそんなに怯えておる? まさかボオボオとやらに(さら)われそうになったわけでもあるまい」
「いや、そうだけどよ……」
 子供のころに植え付けられた恐怖というものは、大人になってもなかなか覆せない時がある。それを察して、教授は一つため息をついた。

「子供を攫う化け物など、(しつけ)のための口実にすぎんわい。そんなものが本当におるのなら、とっくに討伐依頼が出ておるはずじゃ」
「いや、この年になってそんなことを言われても……」
「そもそも、奴らの獲物はネズミなどの小型哺乳類じゃ。人間の子供など大きすぎて攫って飛ぶことなどできんわい」
「飛ぶ!? それじゃ、あのボオボオは、鳥かなんかかよ?」
 うむ、その通り、と教授がうなずく。

「ボオボオの正体は、月光鳥(ルノルニス)という夜行性の鳥の声じゃ」
「鳥!?」
「本来は深い森の中で暮らしておる鳥じゃ。声だけなら夏になるとよく聞かれるんじゃがな。昼の間は巧妙に姿を隠しており、姿を見ることは非常に難しい」
「そ、そうか……鳥か……」
 そういうレオの顔は、長年の恐怖から解き放たれたかのように緩んでいた。

「まあ、不気味な声に加え、夜だけに鳴くこと、姿を見るのが難しいことから、子供の躾に役立つ化け物、などという物語が生まれたんじゃろうな」
 教授はそれを、生暖かい笑みとともに眺める。
 普段表情が動くことの少ないジュリアの顔にも、微かな笑みが浮かんでいるように見えた。

「な、なんだよ……」
 レオはわずかに顔を赤らめつつも、ごまかすかのように教授に質問を投げる。

「そ、それで、結局、このカエルは何なんだ?」
「こ奴らの名は、百鳴蛙(ヘクトカントゥス)。先に言っておくが、ちゃんと手を洗っておけよ。こ奴らの体表の粘膜には、弱い毒が含まれておる。うっかり目を擦ったりすれば、視力が落ちることもありうる話じゃ」
「お、おう……」
 湿地の中にも、細流のようなきれいな水が流れている場所がある。手に付着した粘液を洗い流したレオに、教授は解説の続きを語り始める。

「こ奴らは、声帯を発達させ、他の動物の声を真似る能力を身に着けたカエルの一種じゃ」
「声真似? なんでそんなことを?」
「諸説あるのじゃが、オスがメスの気を()くため、というのが一番有力じゃな」
「…………つまり、物真似がうまいほうがもてるってことか?」
 レオはしばし首を傾げ、自分なりの解釈をひねり出す。

「そういうことになるな」
 その答えに、教授は満足そうにうなずいた。

「人間の場合、もてる条件は容姿、性格、家柄や地位、職業、能力、振る舞いなど人によって様々じゃが……動物の場合は、たいてい強さか能力。このカエルのメスにとっては、声真似のレパートリーが豊富なオスが何より魅力的、ということじゃな」

『ピィーピィー』『クックックックックックッ』『チィーチュルルルル』
『ガァー、ガァー』『キィッキィッ、キィッ』『クコココココ』
『クヮックヮックヮッ』『ボォボォボォ』『ギャッ』

 ここまでに聞いた二つの声だけでなく、他にも様々な声が湿地に満ちていることを、ここになってようやくレオは気付いた。
 たった今鳴き始めたというわけでもないのだろう。ただ、レオの意識に上らなかっただけなのだ。

「すげえな。これ全部、カエルの声なのか?」
「本物の鳥の声も多少は混じっておるようじゃが、ほとんどはな。こ奴らの声のレパートリーが豊富なのは、その周りで数多くの生き物が暮らしている証拠。すなわち、自然の豊かさをはかる指標ともいえる生き物なんじゃ」
「自然が豊か……ねえ」
 レオにとってそれは、これまで考えたことのなかったもの。知る機会もなかったというより、知る気にもならなかったというほうが正解かもしれない。

「他には、鳴き声で餌となる虫をおびき寄せるとか、大型の獣の声で敵を威嚇するという説もあるが、はたしてどこまでまで信憑性(しんぴょうせい)があるのやら」
「しんぴょーせい?」
「どこまで信じてよいかわからんということじゃ。例えば、虫についてじゃがな……近くで虫のオスが鳴いていたとしよう。そして、その虫の声をカエルが真似る。それを聞き付け、近づいてきた虫のメスを、カエルが捕食する。これが、カエルが意図したものか、はたまたただの偶然か……どうやって判断する?」
「そ、それは……」
 腕を組み、少し考えてみたレオであったが、答えは出そうにない。

「虫はいつでも鳴いているというわけではないしのう。そこまで知能は高くないはずなんじゃが……」
「でも、さっきの威嚇は、レオに有効だった」
「なっ!?」
「とはいえ、カエルがレオのトラウマを知っておるわけはないし……これもただの偶然ではないかのう」

『ボゥボゥボゥボォオオオゥ』
 そんな人間たちの話を聞いていたわけでもないだろうが、またレオの近くでカエルが『ボオボオ』の声を発した。

「うるせえ!」
『ウルセー!』
 カエル相手に思わず怒鳴り返してしまったレオの声を、足元にいた一匹が真似する。

「大声を出すなと言ったじゃろうが。この通り、人の声も真似るぞ。ただ、人の声は複雑なため、あまりうまくはいかんようじゃがな」

『ウルセー!』『ウルセー!』『ウルセー!』
 近くの一匹だけでなく、周りのカエルたちも、競い合うように声を上げる。

「ほ、どうやら気に入られたようじゃの」
「やっぱり、類は友」
「さっきからこんなのばっかりかよ」
 人間とカエルたちに寄って集《たか》ってからかわれ、レオは肩を落とす。

「時折、誰もいないはずの沼地から人の声がするなどといった怪談めいた話があるようじゃがな。その原因の多くはこ奴らと考えられておる」
 教授に指を差されたカエルが、抗議するようにウルセーと鳴いた。

『キィーーーー』
 様々な鳴き声に交じり、再びあの声が聞こえてくる。

「さて……この、お主が人の悲鳴と聞き間違えた声じゃがな……声の主は導竜鳥(サウロノータ)という鳥じゃ」
「そうか……よかった」
 教授の言葉に、レオは安堵の声を漏らす。先ほども一度見せた、気の抜けたような表情が、それが単なる言葉だけではないことを雄弁に物語っていた。

「よかった? 何がじゃ?」
 予想外のレオの反応に、思わず教授は聞き返す。

「いや、悲鳴をあげた人がいないんなら、それでよかったんじゃねえかと」
 その言葉に、教授とジュリアは思わず顔を見合わせた。

 やれやれ、と柔らかい笑みをレオに向けたのち、教授は一つの推測を告げる。
「もう一つ朗報があるぞ。その鳥、サウロノータはある習性を持っておる。わしが依頼を受けた件、それと係わっている可能性が高いんじゃ」

しおり