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ポピー/星を見る君 花を知る君

閑話:彼らと終幕に至る×××

「君が知らないことを、僕が知っているわけないだろう?」
 ポラリスは『ハナ』がそう言った時、自分の役目がそろそろ終わりに近づいていることを理解した。
ただ、このまま終わらせるわけにはいかなかった。『ハナ』がこのまま、自分が何者かを思い出しても、きっと行き着く先は同じだからだ。
 燃やされて、沈んで、それでもできなかったことを終わらせる。もしくは、それを終わらせなくても、先に進めるようにする。そうしなければ、きっとポラリスも『ハナ』も、何度でもこの場所と同じようなところへ行ってしまう。
「ハナ、何か思い出したか?」
 その質問に、彼は答えなかった。
 答えられないだろうとは、思っていた。彼が答えられることは、ポラリスにだってわかるからだ。
 ポラリスがわからないことは、彼にもわからない。
 ただ、ポラリスは『ハナ』が『わかりたくないこと』はわかる。理解しているけど、理解を拒否していることが何かはわかるのだ。
 だから今、『ハナ』の頭の中で、突然色々な『わかりたくないこと』が渦巻いていることが、全部わかってしまった。
 わかりたくないこと。
 わからなければいけないこと。
 わからない方がいいこと。
 全てイコールで繋がることもあれば、全く繋がらないこともある。それはきっと『ハナ』もきちんと理解している。だからポラリスにもわかる。だけど、『ハナ』には、それらの違いを切り分けることができない。彼の中には『わかる』と『わからない』しか存在していないからだ。曖昧な定義を認識できない。
 きっと今、『ハナ』はどれを受け入れるべきで、どれを受け入れなくてもいいいいのかを選べずにいる。
 様々な人間の『痛み』を見てきた中で、どれが自分に必要なのか、全て抱えていくべきなのか、所詮は他人のものと捨てていくしかないのか。
 その先に続くものが何かもわからないのに、運命は皮肉な時にばかり回る。
 軋んで悲鳴をあげるように、ギシギシと回るのだ。

Case.5 :ポピー/星を見る君、花を知る君

 人が死ぬ時、何を思うのかに興味がある。……というと、何だかとてもアブナイ人みたいだ。
 誤解はしないでほしい。私は人の死ぬところなんて絶対に見たくないし、誰かに死んで欲しいわけでもない。家族や友達には、ずっと元気で、幸せでいて欲しい。
 それでも、思わずにはいられないことがある。
 死を選んだ時、死ぬしかない時、何を考えながら逝くんだろう、と。
 それは私、北村綾香にとっては、人生において知らなければいけない必修科目みたいなものなのだ。どうしてこんなことを必修しなくてはいけないかを話すと、ずいぶん長くなってしまうのだけど。
「そんなに離れた場所じゃないんだし、もっと頻繁に帰ってくればいいのに」
「それじゃわざわざ一人暮らししてる意味がないでしょ。バイトとか色々あるの!」
 半年ぶりくらいに帰った実家で、お母さんからお小言をちょうだいして、ため息をひとつ。電車で一時間半は、近そうで遠い。親が思っているほど、気軽に帰れない。この街はそこそこ都会ではあるけど、それでも大都会に比べれば終電だって早いのだし。夜間の長距離バスなどは、意外と結構疲れるし。
 あと、個人的に嫌な思い出もあったから、何となく地元に帰りづらかったのもあって。
「せめてこまめに連絡くらいしなさい。死んでるんじゃないかと思ったわ」
「もう、私の年齢じゃそう簡単に死なないでしょ……心配しすぎ」。
 事故か大きな病気か――自殺でもしない限り。それは言わないでおいたのだけど。
 だけど、お母さんが続けて言った言葉を聞いて、私は息をのむことになった。
「でもねぇ、最近もあんたとそんなに変わらない歳の子が亡くなったのよ。ほら、お母さんが通っている園芸サークルで一緒になった人でね。何か……橋の下? で亡くなったとかで、事件じゃないかって騒ぎになったのよね」
「え、ええ? 橋の下?」
 思わずびくりとした。もちろん、『心当たり』があったからだ。
「どの辺?」
 違っていて欲しかった。自分が連想した場所とまるで違う場所だったら、そのまま綺麗に忘れることができた。
「ええと、ほら北区の……花井だったかしら? あるでしょ、ほら、新しい住宅街のあたり。橋の下で死んでいたとかで、事件性があるのかないのかって、ちょっと騒ぎになったみたいで。結局、事件ではなかったみたいなんだけど」
「うん……」
「そういえば、あんたが高校の時にも似たような話あったよね。橋から高校生が落ちたとかで、騒ぎになってなかった?」
「そうだね、同級生だよ、それ」
「ああ、そうね。だから覚えていたんだわ」
 私は、変な顔をしていなかっただろうか。
 お母さんは、特に気にした様子もなく「住宅街なのに、何か物騒でいやね」などとぼやいて、テレビのチャンネルを変えている。
 事件ではなかった。なら、どうして橋の下なんかで死んだのだろう。
 ――北区花井の橋の下。
 川が駅前と住宅街を分断している場所だけど、『花井』という地名の場所には橋は一か所しかない。北区花井のあたりで川が緩やかにカーブを描いて、別の区域に向かっているから。行ったことがあるから、知っている。
『花井に橋は一か所しかないから、行けばうちの場所が大体わかる』
 そう言ったのは、彼だったから。
 三年前に、橋から落ちていなくなった、彼だったから――。

***

 花井駅から徒歩十五分。駅前には華やかなモールがあるけれど、駅から離れるごとにお店はコンビニくらいになって、その橋を越えた向こう側は比較的新しい一戸建てや高層マンションの建ち並ぶ住宅街になる。
 川を挟んで住宅街が綺麗に切り分けられているような印象だ。
 私の家がある辺りは、昔ながらの下町っぽさのある界隈なので、この辺りの外観だけはいかにも高級っぽく作られたオシャレな住宅街は、同じ街なのに別世界みたいに感じる。
 新興住宅街といっても、できてから二十年、三十年と経っている。最近では一軒家でマイホームなんてご時世でもないし、その橋の周りも、あまり管理されているとは言えない寂れ方をしていた。
「三年前は、もうちょっと素敵に見えていたんだけどなぁ……」
 高校生だった頃の自分が浮かれていたから気にならなかったのか、それとも三年ですっかり寂れてしまったのか。単に、今が冬だからいっそう物寂しく見えるだけかもしれない。
 海が近いわけでもないし、住宅街を流れる川は、そんなに大きなものじゃない。だから、花井橋も特別に見栄えがする立派なものではなかった。
 橋の脇にある階段は、手すりがやや錆びついていて、枯れたススキと葦がますます寂れた感じを演出している。遊歩道を少し歩いたところに、枯れてカサカサになった菊の花束があった。
(飛び降りた……って場所ではなさそうだけど)
 橋からやや離れた場所だ。そもそも、あの橋はさほど高くないから、飛び降りには向かない。
 彼だって――死にはしなかった。
(でも、ここで死ぬ人って……他にいる?)
 じっと、枯れた菊の花束を見つめていると――。
「あの」
「ひゃあっ!?」
 変な声が出た。
 振り返ると、菊の花束を小脇に抱えた女の子が立っている。戸惑い半分、心配半分といった顔。多分、年齢は同じくらい。
「驚かせてしまって、すみません」
「あ、いえ……こちらこそ」
 お互い、気まずい顔でぺこぺこと頭を下げた後、私は改めてそこにある枯れた菊の花束を見た。それで、彼女も何か察したらしい。
「あの、啓太のお知り合いですか?」
「え? だ、誰?」
 誰も何もない。いかにもな菊の花束を持っている彼女が言うからには、きっと亡くなった人の名前が『啓太』だったのだろう。
(ひ、人違い……か)
 何だか気が抜けてしまって、その場に座りこんでしまった。
「……大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。その……大変失礼なんだけど、ここで亡くなった人がいるって聞いたので、知り合いかと思って。でも、人違いだったみたい」
「そうなんですか。てっきり、啓太の大学のお友達かと……」
「啓太さんには悪いけど、本当にただの人違いです……。その、えーと、……失礼なことをきくようだけど自殺、とかじゃないよね?」
「ああ、こんな場所で死んだので誤解を招いたみたいですけど、病死です……」
「そ、そう……ごめんなさい、啓太さんにも謝っておいてください」
 我ながら、何を聞いているんだろうと思うし、何を言っているんだろうと思う。
 だけど、彼女は少し考え込んだ後、新しい菊の花束を置いて、古い花束はポリ袋にいれて持っていたトートの中に押し込んだ。
「私、小野千里といいます。この近所に住んでいる大学生です」
「あ、私は北村綾香です。私も大学生で……東京の方の大学に行っているんですけど、今は帰省でこちらに」
 微妙な空気で自己紹介をした後、彼女――千里さんは、少しだけ困ったように笑った。
「これも何かの縁ですし、駅前でお茶していきませんか?」

***

 あの橋の下で亡くなったというのは、千里さんの幼なじみだった。手術の難しい心臓の病気で、余命もわずかというところで亡くなったので、自殺かどうかはかなり疑われたらしい。
「どちらかというと……事故? みたいなので。変なところで急に倒れたから、騒ぎに……すみません、啓太が空気読まなくて」
「いやその、病死で読む空気とかないと思うので、本当お気になさらず……」
 千里さんは私の一つ下。亡くなった啓太さんも同級生で一つ下。私の家から花井までは結構離れているから、通っていた小中学校は違う。高校ももちろん別。もしかしたら、『彼』にとっては後輩かもしれないけれど。
 なにはともあれ、勝手に勘違いして不穏な空気を出して、しかも相手からは事情を聞いておいてこちらは言わないというのもどうかと思い。正直に言えば、誰かに聞いて欲しい気持ちも多少はあり。
「あの辺りに住んでるなら、知ってるかもだけど、三年前にあの橋で、飛び降りがあったよね」
「ああ……そういえば。火事になった家から出てきて、わざわざ橋から飛び降りたって……ちょっとおかしな状況だったから、けっこう噂になってました。たしか、藤宮さん、でしたっけ」
 やっぱりと言うべきか、近所ではかなり騒がれたようだ。わかる。私が近所に住んでいたとしてもきっと噂する。
「それ……藤宮くんね……。私の……元カレでして」
「あー……」
 千里さんは何とも言えない顔をしてから「実は啓太も元カレで」とフォローなのかよくわからない事実を明かした。そんな気はしていた。わざわざ定期的に花を供えているくらいだし。
 おかげで、花井橋で不審なことになった元カレ持ち同盟ができあがってしまった。何そのひどい呪い。
「その場にいたわけじゃないから、私も詳しい状況は知らないんだけど、藤宮くん、一命はとりとめたけどずっと意識不明だって聞いていて……でも、状況的に……自殺っぽかったから、橋の下で同じ歳くらいの男子が死んだっていうから……その」
「意識が戻った後の藤宮さんが、死に直しにきたんじゃないかと?」
「そう……それ」
 話が早い。やたらと物分かりが良いと思ったら、どうやら彼が飛び降りた時の状況が状況だったので、事件性がないか近所に軽く聞き込みが入ったらしい。とは言っても、自殺の可能性が高いとの見方が強かったため、本当にごく一部だったようだが。
「私の弟が、その人の弟と同級生だったからだと思います。啓太や、もう一人の幼なじみのところには来なかったらしいので」
「藤宮くん自身には友達とかいないしね……交友関係とかわからないよね……」
 彼女がいたのに友達がいない男子とは……という感じではあるけど、実際、私は付き合っていた短い間にも、それ以前にも、彼が友達どころかクラスメイトの誰ともまともに話しているところを見たことがない。
 多分、私以外とほとんど何も話していなかった。かといって、無口なのかと言えばそうでもなく、話しかければきちんと答える。打てば響くけど打たなければ響かない。そういう男子だった。
(だけど、ちゃんと話せば答えてくれる人だった)
「何かあの事件、本当に不思議だったんですよね。だってあの橋、自殺するにはちょっと微妙じゃないですか」
 千里さんが小首をかしげる。確かに、高すぎず低すぎず、落ちて即死する可能性は低そうで、かといって溺死できそうな感じでもなく。
「だから、焼身自殺をしようと思ったけど死にきれなくて、熱くて錯乱して川に飛び込んだんじゃないか、って近所で噂されてたんですけど。それにしても何かちょっとおかしくて……」
 火事で火傷を負って、パニックになって家のすぐ近くの川に、というのはわからないでもない。理屈として筋は通っている。それなのにおかしいとはどういうことだろう。
「その、何故か川に飛び込んだ時にぬいぐるみを抱えていた? ……とかで。心当たりありますか? 綾香さん」
 ――心当たりは、あった。
 それは恐らく、高校生男子が持つにはややファンシーなクマのぬいぐるみだったはずだ。それ以外にない。私は彼の部屋にいって、他にそれらしきものがまるでなかったのを知っている。
 彼の部屋にあったのは、教科書と参考書と、古びた図鑑ばかりで、マンガや雑誌すらほとんどなかった。私が買って押しつけたクマのぬいぐるみは、あの殺風景な部屋で浮まくっていた。
「はぁ……ちょっと、コーヒーとパフェ追加で頼んでいいかな?」
「あ、じゃあ私もケーキと紅茶追加で」
「付き合ってくださいますか」
「もうここまで来ると、私も謎が解けないとすっきりしないやつですよ」
 女子二人、追加のスイーツをオーダーして、向き合った。
「それじゃあこれから、藤宮君の話をするね」

***

 藤宮透――藤宮君は、気がつけばいつも空を見上げている人だった。
 二年になってクラスが同じになった。だけど全然話さなかったから印象にも残らなくて。
 だけど、空を見上げる背中だけは、ほとんど毎日ずっと見ていた。
「もう、なんで花壇が北側なの……ちゃんと育たないじゃん」
「南側は運動部のボールが飛んでくるのよ……それに運動部の子たち、全然気にしないから花壇の上でも気づかず荷物置いちゃうし」
 花壇の土をいじりながら、顧問の先生が言い訳みたいにいうのを、いつも不満げに聞いていた。
「うちだって部活なのにー!」
 母校の園芸部の花壇は、校舎の北側、駐輪場の脇にある。北側なので日当たりは悪くて、あまり園芸向けではない。でも、日当たりの良い南のグラウンド側は、運動部の領域なのだ。
 駐輪場の脇には古いベンチがある。それは駐輪場での待ち合わせや、自転車に乗る前の荷物整理のために置かれているのだけど、彼は放課後になると決まってそのベンチに座っていた。そして、いつも何をするでもなくぼんやり空を見ている。北の空に星が輝きだすと、おもむろに帰る。
 一年の頃は屋上が使えたので、園芸部はプランターを屋上に置いて活動していた。だけど屋上でサボる生徒が急増したために、園芸部は、この寂れた花壇に追いやられたのだ。だから、藤宮君が放課後をそこで過ごしているのは、二年になってから知った。四月からずっと、園芸部の部活で花を育てながら、私は彼の背中を見ていた。
 毎日見ていると、気になるものだ。ましてや、それがクラスメイトなら。本当に一人で空を見ているだけで、何もしないものだから。
「あの、藤宮君」
 初めて声をかけた時、無視されるかもと思ったのに、存外素直に振り向いたから驚いてしまった。人形みたいに無表情。だけど、割とイケメンの方。その時、私は同じクラスだというのに、初めてまともに藤宮君の顔を見た。
「何を見てるの?」
「星」
 ものすごくシンプルな答えが返ってきて、逆に戸惑った。その時、まだ空は明るかった。
「いや、星は出てないけど」
「昼間は光が強いから見えないだけだ。星はずっとそこにある。星が出たら、星を見ながら帰る」
「……外灯あるから、夜になってもあんまり見えなくない?」
「見える星は見える。こぐま座のαとか」
「こぐま座のアルファ?」
「北極星。ポラリスとも言う。二等星で光が強い方だし、年中見える」
 はじめての会話はそこで終わり。私の方がさっぱり理解できなかったからだ。星に興味がなかったのだから、仕方がない。藤宮君の話も、こちらが聞きたいこととは微妙にズレていたし。
(何でいつもベンチに座ってるのかが知りたいんだけどな……)
 結局、その理由を知ったのはかなり後になってからだった。
 その日は、いつものように星が見え始めてからベンチを立った彼が、帰り際に「アレがポラリス」と指差してくれた。
「世界中どこから見ても、北極星は北の空に見える。年中いつでも」
「へぇ! すごいね!」
 本当は、北極星がずっと北の空に輝いていることなんて、小学校の理科の授業で習うレベルのことだった。私はすっかり忘れていたし、覚えていたとしてもわざわざ星を探そうなんて思わなかったから、純粋に感心してしまったのだ。
 ――それからだろうか。
 たまにだけど、私は藤宮君に声をかけるようになった。藤宮君はクラスでは無口だけど、話しかければどんなことでも律儀に答えてくれる。
 家が北区でやや遠いこと。星には子供の頃から詳しい。勉強は数学が得意。花にはそれほど興味がない。
「それで、花に興味がない藤宮君にひとつお願いがあるわけですが」
「……わざわざ前置きするということは、花に関係あるのか」
「園芸部が廃部の危機なので、名前だけでいいから部活に入ってくれない……かな」
 私達の通っていた高校は、部活の最低人数が三人から。だけど、三年生が受験のために途中で引退した場合、翌年までは二人でも活動可能なのだ。不人気な園芸部はその年の新入部員がゼロ。三年の二人が引退したら、部員は私一人。ひとまず来年の新入生に賭けるにしても、それまでにどうしてももう一人必要だったのだ。
 藤宮君は考えるそぶりもなく、答えた。
「別にいいけど」
「いいの?」
 即答すぎて、逆に聞き返してしまったくらい。
「……知っていると思うけど、僕は暇だから」
「あ、あの、名前だけ貸してくれれば、別に活動はしてなくてもいいよ」
「そういうわけにもいかないだろう」
 どうせ、すぐそこのベンチにいるのだし。必要な時にだけ部員らしくしてくれればそれで良かった。だけど、意外にも藤宮君は律儀に園芸部の活動に参加してくれた。放課後には、ちゃんとジャージに着替えて、時には私よりも早くに来てベンチで部費の帳簿をつけていた。顧問にまで頼りにされている。
「この花の種は?」
「千日紅。別名ストロベリーフィールズ。花言葉は『色褪せぬ恋』、『不朽』。花の時期は夏。あと、こっちはマリーゴールド。マリーゴールドはわかるよね?」
「よく花壇に植わっている、黄色っぽい丸いやつか?」
「それ。ちなみに花言葉は『嫉妬』、『絶望』。花の時期は夏」
「……それはその辺に植えていていい花なのか?」
「私も最初に知った時、ちょっと思った。あ、今植えているのは基本的に夏の花ね」
 去年までは屋上だったから、今花壇にあるのはプランターに植えた苗を植え替えたものだけ。萎えを買うほど部費はないので、地道に去年採った種から育てていた。
 藤宮君は、花に興味がないと言っていたのに、部活だからと地道にノートにとっていた。植える時期、咲く時期、肥料のやり方、私がついでに教えた花言葉まで。
「今咲いているのはポピーね。ケシの花」
「アヘンの材料だな」
「できないから! 日本では栽培禁止種だから! っていうか、ポピーシードとか普通にお菓子にも使われるし、安全だからね!?」
「知ってる」
 藤宮君は、たまに真顔で冗談なのかよくわからないことを言ってくるので困る。
「ポピーの花言葉は『思いやり』。赤は『慰め』、白なら『忘却』と『眠り』だ」
「わざわざ調べたの」
「君がいちいち花言葉を言うから、園芸に必要な知識なのかと思った」
「別にそんなことはないけど」
「そうなのか? 星座と似通ったところがあって多少、興味が湧いたんだが」
 藤宮君いわく、花言葉の由来は星座の名づけと似ていて、ギリシア・ローマ神話が元になっているものが多い。だから覚えやすい、とのこと。
 そんな話をしたから、花言葉を教えるかわりに、星座の話を聞くことが日課のようになっていった。
 星座の話は、日本でも見えるものもあれば、遠い外国でしか見えない星の話もある。いつのまにか私たちは、けっこう仲良くなっていた。少なくとも、藤宮君にとっては学校で唯一まともに話す相手が、私だったのは確かだろう。クラスメイトとは、相変わらずほとんど会話をしていなかったから。
「綾香、よく藤宮君と喋れるね」
「まぁ、顔はいいけど、無愛想でちょっと怖いっていうか」
 友達はそんなことを言うけれど、私はむしろ、自分しかしらない藤宮君を知っているみたいで、少し優越感を感じるくらいで。だって、他の誰も知らないのだ。藤宮君が、マジメに花言葉を勉強して来たり、花の芽が出ないことを毎日部の帳簿に気にして書いていたり、そういう男子だということを。
 そうやって、季節が過ぎて、期末テストの時期になって――。
「ああああ……」
 放課後の校舎裏、花壇の裏で頭を抱えていると、藤宮君がシャベルを片手に顔をあげた。毎日みているけど、なんてシャベルとジャージの似合わない男子だろう。
「どうかしたか」
「赤点とりました……追試で点が取れないと夏季補修」
「教科は」
「数学と物理と歴史」
「多い……」
「前日にちょっと……一夜漬けしすぎて眠くて……」
「本末転倒だな……」
 ものすごい正論でえぐられた。確かに、決して成績が良いとは言えないものの、赤点は割と回避できていたのに、この失態なのでぐうの音も出ない。
 しかも藤宮君は、私と同じように毎日部活をしていて、もう陽が長いのに星が出るのを待ってから帰ることも多くて、その間もちろん勉強しているわけでもなくて――。
「何で学年上位なの藤宮君……頭の出来をわけて……」
「……勉強教えるか?」
「え、本当?」
 ――その頃には、私はかなり、藤宮君のことが好きになっていたと思う。
 無愛想で物静かで頭が良くて、少し変だけど冷たいわけじゃない。こうやって気を使ってもくれる。
 それから、数日、部活を早めに切り上げて、駅前のファーストフードショップで勉強を教えてもらった。藤宮君は教え方が上手だった。はっきりいって、先生より藤宮君に授業をしてほしいくらい。ノートも綺麗で、わかりやすくて、なるほど学年上位……とため息が出た。
 おかげで追試も無事にクリアできた。そして、急に寂しくなった。夏休み中は、交代で花の様子を見に来ることになっていたけど、毎日のようには藤宮君に会えなくなる。
 ――そこで、初めて恋を自覚した。
 補習を免れたお祝いにと、理由をつけて街に誘って、その場で勢いあまって告白。我ながら猪突猛進だ。
「好きだから、付き合ってください」
「僕はそういうのは全然わかっていないけど、それでもいいなら」
「待って、わかってないのにOKしないで」
「男女の付きあい? なのはわかっている……が」
「……ならOKかな?」
 今にして思えば、全然OKじゃなかった。私も藤宮君も、この時もう少し深く考えるべきだったし、何となく理由があることを察してはいたのだから、藤宮君のことをもっと時間をかけて知らないといけなかった。
 だけど、私は特別なところなんて一つもないただの女子高生で、物分かり良く察することなんてできなくて……舞い上がって浮かれていた。多分、藤宮君も初めてのことに混乱していて、そしてだいぶ焦っていた。
 決定的にズレていることに、お互い気づかないままに、夏休みに一緒に花壇の世話をしたり、課題のわからないところを教えてもらったりして過ごした。
 彼の家に初めて行ったのも、課題を教えてもらうのにファーストフード店ばかりでは落ち着かない、という理由をこじつけたからだ。
 花井駅から徒歩十五分。橋を渡った向こうの、建て売りっぽい川沿いの一軒家。
「花井に橋は一か所しかないから、行けばうちの場所が大体わかる」
「え、ここしかないの」
「この先をもう少し歩いたら隣の地区」
「あー、なるほどねー」
 正直どうでもよかったけど、知った風な感じで頷いて。だけど、結局、藤宮君の家に行ったのはたった二回だ。初めて行った時は、あまりの殺風景さに驚いた。本棚と机とベッドしかない。本棚も参考書と図鑑ばかりで、漫画が一冊もない。
「嘘でしょ、マンガを読まない男子っているの?」
「ここに……」
 珍しくバツの悪そうな顔をしたのが何だかおかしくて、ちょっとだけ悪いことをしたみたいな気分になって、次に行く時は駅前の店で目に留まったクマのぬいぐるみを買って持っていった。
 男子にクマのぬいぐるみなんて、と思うけれども、藤宮君は嫌な顔ひとつせず、本棚の上、一番真ん中に飾ってくれた。殺風景な部屋に突然のクマ。自分で買ってきておいてだけど、藤宮君なら大切にしてくれるのだろうと思った。
 だけどその日が、私が元気な藤宮君を見た最後になった。
夏休みが終わりに近づいたあの日、もうだいぶ日が傾いていて。藤宮君はいつも、駅まで送ってくれていた。
 今思えば、夏休みなのに、二回とも藤宮君の家族は不在で、顔も合わせなかった。藤宮君は私が家族と出かけていて行かなかった日でも、学校に花壇の世話をしにいっていた。後から思い返してみると、どうして藤宮君があそこまで一人でいたことに気づかなかったんだろうと思う。
 多分、私も理解者であるようなふりをして、心のどこかでは藤宮君を『他とは違うよくわからない男子』だと思っていたのだろう。話せば答えてくれるのに。優しいのに。勉強だってできるし、教え方が上手いし、いいところがたくさんあるのに。知っていたはずなのに――。
「もう少しで新学期だねー。そういえば、進路相談あるんだっけ。藤宮君、どこ行くか決めた?」
「決めてない」
「藤宮君、頭いいし、どこでも狙えそうだよね。私、どうしよっかなー」
 素直に、一緒の大学に行きたいと言えばよかった。藤宮君が私には絶対無理な偏差値の大学を目指しているなら別だけど、そうじゃないなら、勉強も頑張ろうと思って。それを理由に勉強会をまた開こうと思って。
 せっかく付き合い始めたのに、何一つ進展しないことに、少しやきもきしていたのもある。藤宮君は、手を握ることひとつさえしないから。本当に付き合っているのか、疑問なところもあって。
「どうでもいい。どこでも」
 やがて藤宮君がぽつりと呟いて、私は足を止めた。
「どうでもよくはないでしょ? 将来かかってるんだし」
 自分と一緒に、という選択肢すら、藤宮君の中にはなかったのだ。そのことに、無性に腹が立ってしまった。自分だけが特別だと思っていたから。
 藤宮君はどんな顔をしていただろう。逆光だったし、うつむいていたから、その時はよく見えなくて。見えなかったから、あんなことを言えたんだ、きっと。
「藤宮君、どうして、そうやって距離とろうとするの?」
「別に距離はとっていない」
「とってるじゃん。私たち、付き合ってるよね? 彼氏と彼女だよね? もっと理解しあいたいとか思わないの?」
 うつむいた藤宮君が、何かを言おうと口を開いた。だけど、結局、言葉は出てこなかった。
 もう少しだけ、彼の言葉を待っていればよかったのかもしれない。もう少しだけ、落ち着いて、冷静になるだけで、多分全く違う結果になっていたと思う。
 だけど、私は本当に、特別なことなんて何もないただの女子高生で、勝手に彼に裏切られた気持ちになって、勝手に傷ついて、その痛みで心がいっぱいだった。
「私が傷ついている理由、何もわからないんでしょ!?」
 ただ、藤宮君と一緒にいたかっただけだった。
 彼のことが好きだった。
 だけど、私の恋心だけではなく、理不尽な怒りにすら、彼は何も答えてくれなかった。
「藤宮君は人の痛みがわからない人間なんでしょ!」
 そこまでいっても、彼は何も――だから、私も余計に哀しくなって。
「藤宮君なんて、いなくなっちゃえばいいんだ!」
 そう叫んで、走り出した。
 彼は追いかけてこなかった。泣いて駆けて行ったから、道行く人が驚いた顔をしてじろじろ見てくるのがみじめだった。電車に乗って、自宅の最寄り駅に着いた頃になって、ようやく頭が冷えて青ざめた。
 藤宮君の携帯番号は知っていた。だけど、ほとんどそれを使ったことはない。藤宮君との約束はいつも部活の時で、次に会う場所と時間を決めれば、必ず私よりも早く来て待っていた。
 いつも、いつも静かに、私を待っていた。あのベンチで星を眺めていた時みたいに。
 メッセージを送る勇気も、電話をする勇気もなくて、翌日意を決して花壇に行っても、藤宮君は来なくて。後悔でいっぱいになって、でも真面目な藤宮君はきっと新学期にはちゃんと学校に来るはずだから、その時に謝って仲直りしようと思って。
 だけど、新学期になっても藤宮君は来なかった。先生は「事故で入院した」と言ったけど、クラスではみんな噂していたから、真実は簡単に広まった。
 藤宮君は、恐らく自殺未遂をして、意識不明の重体になっていた。橋から落ちたらしい。
 元々あまり家族と仲が良くなかったとか、進路の紙もずっと白紙で出していたとか、弟が一人いるとか、家が火事になったから家族は入院した藤宮君を放って引越しの準備をしているとか。
 藤宮君のことを怖い、近寄りがたいといって避けていたクラスメイトが、私の知らなかった藤宮君のことを噂しているのを聞いて――そして、次の席替えの頃にはみんな忘れていた。
 一人分の空席の理由を、私以外の誰も気にしなくなっていた。

***

 私の長い思い出話を聞いて、千里さんは「うーん」と難しい顔でうつむいてしまった。
「ごめんね、後味の悪い話をして……完全に私が悪かったな、とは思ってるんだけど」
「いや、その……こう、大事なところで言うべきことを言ってくれないのって、腹がたつのはわかります」
 千里さんが、何やら心当たりのありそうな様子で頷く。私はすっかり氷の溶けきったアイスコーヒーを、ストローでかき混ぜた。
「それとは別にですね、あの橋で変な噂が流れたのを思い出して」
「噂って……つまり、藤宮君に関係ありそうなことで?」
「関係ある……かはわからないですけど、あの橋の下にいくと『痛いこと』を何でも一つ捨てられるって話があって。何だかよくわからないふんわりした噂だったし、すぐに皆忘れていたけど……ただ、啓太が死んだ後に幼馴染と花を供えにいった時に、気になることが」
「どんな?」
 千里さんの言葉に、私は思わず身を乗り出した。そんな、非科学的な都市伝説に、何かがあるわけない。だけど、バラバラのピースも全て揃えれば、藤宮君に繋がるような気がして。
「散っていく花が見えたんです。青い花。もう冬になっていたし、花なんてどこにも咲いていなかったのに」
 ――冬には咲かないはずの、花。
 あの河原には、冬の花はなかった。それは、さっき、自分の目で見ていたから知っている。
「……お代、ここに置いておくね! ごちそうさま!」
「あ、綾香さん!」
 千里さんが止めるのも構わずに、私は雑にお札を数枚置いて、走って店を出た。
 もう陽が傾いている。冬の夕暮れは早い。夏の終わりのあの日とは似ても似つかないはずなのに、なぜか全く同じように見えた。
 あの日、駅から引き返していれば、何かが変わっていただろうか。
 うつむいて、よく見えなかったと思った藤宮君の顔。違う。認めたくないから、記憶からのけものにしていただけだ。
 あの時、藤宮君は今までみたこともなかったような顔をしていた。
 泣きたいのに泣けない、泣く方法がわからないような顔をして、そこにいたのに――。

Re:閑話:彼らと終幕に至る×××

「――藤宮君」
 懐かしい、声が聞こえた気がした。
「藤宮君、そこにいるの?」
 それは、誰の名前だろう。自分はそういう名前だっただろうか。
 藤宮――、――、×××、…………、……………………。
「おい、ハナ」
「…………それは僕の名前じゃない」
 ポラリスの声がした。答えた自分の声が、自分のモノではないように聞こえた。
 ――どうすれば良かったのだろう?
 ――どう答えれば『正解』だったのだろう?
 ――人の『痛み』とはなんだろう?
 ――それがわからないから、自分は×××…………。
「おい、ハナ」
「だから、それは……僕の名前じゃない!」
 夕暮れの河原の風景が、にじんでぼやけていく。自分が泣いていることに、しばらくしてから気が付いた。
 結局、自分ではたどり着けなかった。見つけられなかった。誰かの『痛み』にふれて、運命を少しずつ捻じ曲げただけで、どうにもできなかった。
 ――どうして僕はこんなところで……。
 もっと、はやく『いなくなって』しまいたかったはずなのに、どうしてこんな場所に、ずっと。
「藤宮君、私、ずっと言いたいことがあって――」
 きっと、ずっと会いたくて、だけど絶対に出会ってはいけなかったはずの、彼女。
 誰にも関わらず、星だけを見つめて歩いていけば、傷つけることもなかったはずの――。
「おい、ハナ……」
「………………」
 ポラリスのその呼びかけに、答える言葉も持たずに。
 気が付いたら辺り一面が、白い花に包まれていた。
 春に咲く花。この時期に咲くには、早すぎる。彼女が最初に教えてくれた、いくつかの花のうちの一つ。
「え? 花? 何これ……ポピー?」
 彼女の戸惑った声が、聞こえる。
 ――そうだ。これが僕の『痛み』だ。
 彼女に忘れてほしかった。自分のことを思いだしてほしくなかった。傷つけたことをなかったことにしたかった。いなくなってしまいたかった。

 ――白いポピーの花言葉は『忘却』、そして『眠り』。

しおり