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アネモネ/見たこともない顔で

閑話:彼らが消えてから戻るまで

 白いポピーの花の群れの中に、一匹のクマのぬいぐるみが立っていた。
「貴方もしかして……」
「そうだけど、違う」
 彼女の呼びかけを、『ポラリス』は途中で遮った。
「俺はあんたがあいつにやったクマのぬいぐるみの姿かもしれないが、そのものじゃない」
「どういうこと」
「あいつが自問自答するために作った、仮の姿だ。言ってしまえばイマジナリーフレンドだな。とはいえ、あいつの存在自体が、ブレまくってるから、何ともいえないが。とにかく、俺はあいつの一部分であって、固有の存在じゃないってことだ」
 『ポラリス』は、できるだけわかりやすく彼女に状況を説明したつもりであるが、かえってきたのは「はぁー?」という懐疑的ため息だった。
「口調も一人称も何もかも違いますけど」
「そこにつっこむのかよ。いや、ブレてなくて安心したけどよ」
 無意識にしろ、ハナはポラリスのことを別個の存在と認識して作りだしていたわけだから、何もかも本人と同じになる理由はない。
 彼女は納得いかなさそうな顔をして、それでもポラリスと目線を合わせるように屈む。
「で、藤宮君はどこ」
「わからない」
「一部だって言ったくせに」
 責められても、わからないものはわからない。無数に咲いた白いポピーと共に、ハナは姿を消した。
「でも、俺が存在しているから、まだ消えてはいない」
「わかった。また来る」
 彼女はすっくと立ち上がり、弾丸のように駆けて行った。
 その背中を見送って、ポラリスはこの花が枯れるのか、それとも散っていくのかを考えていた。

Case.6:アネモネ/見たこともない顔で

 三年前まで、俺は兄のことが大嫌いだった。
 今も別に好きではないが、どちらかというと同情の方が強い。
 月に一回、俺は親には秘密にして、生まれ育った故郷の街に行く。電車で一時間半くらい。
 三年前の兄と同じ高校二年になった俺は、中二の夏まで暮らした街に向かう電車で、来年の受験のことやら何やらをぼんやり考えている。
 兄とはほとんど会話をした覚えがない。いつも部屋で本を読んでいて、晴れた日の夜には隣の部屋で窓を開ける音がした。夜中でもお構いなしなので正直、やめてほしいとずっと思っていたけど、話しかけるのもイヤで放置していた。
 冬の寒い日でも、平気で窓を開けるのだ。星を見ていたのだと知ったのは、かなり後になってからだった。
 真向かいが川で開けていたし、閑静な住宅街だから街中よりは静かで暗いといっても、街灯もあるからそこまで星は見えない。それでも晴れていれば毎日、兄は星を見ていた。
 俺が兄について知っているのは、星が好きだったことくらいだ。
 家族旅行にすら、兄はついてこなかった。親も、途中からは「どうせあんたはこないんでしょ」と言っていた。思えば、その辺で何かおかしいと感じなければならなかったのだろうけど、当時は兄のことをひたすらに嫌っていたから、特に何も思わなかったのだ。
 バイトも部活もしていないのに、遅くまで帰ってこない。
 高校二年になって、急に部活に入った。何故か園芸部。本当に意味がわからなかった。
 そして俺が中学二年、兄が高校二年の夏休み、少し遅めの夏季休暇をとった両親と俺が、兄を置いて旅行にいっている間に――兄は自殺未遂を起こした。
 それから三年と数か月。兄は昏睡したまま、ずっと目を覚まさない。
 今もこの街で入院したままの兄の存在を、まるでなかったことにするように両親は引越しを決めた。俺が翌年受験だから、転校も早い方がいい。そう言って――兄をなかったことにした。
 だけど俺はそこまでは割りきれなくて、こうして電車で一時間半の距離を電車で移動して、月に一回お見舞いに行く。兄は眠っているだけなので、本当にただ顔を見て帰るだけだ。変に噂をされても面倒だから、こちらにいる友達にも声はかけない。――というか、気まずさからなのか、ほとんど連絡してくる奴はいなかったし、俺も連絡しなかった。
 友情は儚い。引越し先でも友達はできたし、高校ではスタートラインは同じだから何の問題もなかったけれど、それでも一人として友達が残らなかったのは、何となく心のしこりになって残った。
 こんなことになったのに、誰からも連絡がこない。兄と自分に、どれくらい違いがあるのだろうか。
 そう思ったのは、兄のスマホのロック番号をたまたま探し当ててしまってからだった。誕生日にしてあったのだ。捻りがなさすぎるが、兄は誕生日が祝ってもらえなくても、気にせずに自室にこもっていたし、こんなことになるまで、兄の誕生日を思い出せなかったくらいだった。
 両親が解約もせずに放置している兄のスマホを、俺は密かに隠し持っている。家族分まとめてカードで落としているから、本当に存在すら忘れているのだろう。
 その、兄のスマホには、二件しか番号が登録されていなかった。一つは『家』、もう一つは『北村』だ。
 北村さんが誰なのか、俺は知らない。
 ただ、兄の見舞いに行くときは必ず持っていく。万が一でも、連絡があるかもしれないから。
 多分、それが誰であっても、相手がどう思っていようとも、きっと兄にとっては大切な相手だったのだろうから。
 いつも通り、病室に入って、花も飾られていない枕元で、変わらず寝ている兄の横顔を眺める。
 左腕には酷い火傷痕が残っているのに、顔にはほとんど痕がない。火事になった家から飛び出して、家の向かいの橋から落ちた。一酸化炭素中毒と、火傷と、落ちた時に頭部を打ったのと。どれが主原因かはわからないけれど、ずっと目を覚まさない。
 顔見知りになった看護婦に軽く挨拶をして、十五分もしたら気まずくなって外に出る。どこに行くでもなく、また電車に揺られて帰るのだ。親に詮索されない程度の時間に、しれっとした顔で家に帰る。
 今日もそのはずだった。
 バイブの音がする。
 自分のスマホを出して、違うと気づいた。となると、バイブの振動の発信源は――。
 着信画面に『北村』の字があった時、どうすればいいかわからなかった。
 十秒くらい経って、ハッとして電話を取った。留守番電話すら設定してないあたり、兄らしいというかなんというか。
「もしもし?」
『藤宮君?』
「違います」
 脊髄反射でそう答えて、相手が「あっ、間違いました」と言ったところで我に返った。間違いだけど間違いじゃない。
「えーと、違います! 違いますけど、藤宮です!」
『はぁー?』
 すごい剣幕で聞き返された。何か思っていたのと違う。しかもよく考えたらこの声、女性だ。まさかの女性。
「弟です。藤宮透の弟!」
『あーーーー!』
 電話口で納得の声。賑やかな人だ。全く兄のイメージと繋がらない。繋がらないのだが。
『藤宮君のことで聞きたいことがあるから居場所教えてください』
 何となく、あの兄と付き合うことができた理由がわかった気がした。

***

 病院近くで待っていて、と一方的に話をつけられて、俺は北村さんを待つことになった。強引な人だ。
 何だかすごく強めの、ギラギラした感じの女子を想像していたら、現れたのはロングヘアにチェスターコート、ニットのスカートを履いた綺麗めの女子大生で、俺は心なしか背筋を伸ばした。男の性である。
 病院近くのコーヒーショップで、落ち着きなくブレンドにミルクを入れる。格好をつけてブラックで飲もうと思ったけど、思っていたより苦かった。
「ごめんね、急に」
 北村さんはニコニコとよく笑っている。ますます無愛想で無口だった兄とは頭の中で繋がらない。
「いえ……。あ、うちに連絡してもいいですか。黙って出てきてるんで、遅くなると心配するから」
「あ、そっか。まだ高校生だよね」
「二年です」
「二年かー。あ、私は大学生です。藤宮君……お兄さんと同じ歳」
 何となく長引きそうだったので、土曜日なのをいいことに『今日は友達の家に泊まる』とウソをついた。実際、こういう時に泊めてくれる友達がいないわけではないし、最悪、ネカフェで始発まで過ごすくらいの手持ちはある。夜道で補導されないように注意しなければならないが。
「花井橋に行きましょうか」
「えっ?」
 てっきり、兄のお見舞いに来るつもりなのかと思えば、違うらしい。
「お見舞いはいつでもできるけど、花井橋にはなるべく早く戻りたいから。大丈夫。藤宮君の生存と病室番号聞けただけで、私的にはだいぶ収穫」
「そうですか」
「ここからだと一時間くらいかかるし、積もる話は途中で」
「そうですか」
 ポンポンと話を進められて、口を挟む隙がない。慌ててミルク多めのコーヒーを飲み干した。
 俺が慌てているうちに、北村さんがお会計を済ませていて、二人で店を出た。最寄駅に向かうバスを待つ。
「タクシー使えばもっと早いけど、変な話するから、運転手さんに聞かれるのはちょっとね」
「変な話?」
「そう。結構ファンタジーな話をするから、頑張ってついてきて」
 初対面から三十分で、街を引き回されることになった時点で、かなり頑張ってついてきていると思うのだが、さらに頑張らないといけないらしい。
 そんな俺の内心はともかく、バス待ち、バスに乗って駅へ行っている間に彼女が語ったのは、確かにだいぶ荒唐無稽の話だった。
「都市伝説? えーと、つまり、兄貴が?」
「多分、その都市伝説の謎の人が、藤宮君だと私は思っている。季節外れの花としゃべるクマを見たのが、私の幻覚じゃなければね」
「はぁ……」
 気の抜けた息を吐いたところで、バスは駅前にたどり着いた。駅から電車に乗り換えて、花井駅まで約十五分。乗り換えの待ち時間を含めても二十分。そこから更に橋まで約十五分歩く。確かに一時間コースだ。
「で、どう? 何かこれだなー、とか思うことあった? 弟君」
「章です。文章の章でアキラ」
「章君ね、オッケー。一番最初に自己紹介すべきだったわね。私は北村綾香。ええと、藤宮君の元カノ」
「はあ……元カノ……元カノ!?」
「別れたワケじゃないから元じゃないかもしれないけど、少なくともケンカ別れしたまま藤宮君があんなことになったから、今は付き合ってないし、元でいっかなって」
「いやそうじゃなくて……兄貴に……カノジョ?」
「弟君言いたいことはよくわかるわ……」
「章です」
「あ、そうそう、章君ね」
 彼女なんて俺もいたことがないのに、あの無口無愛想社会性ゼロの兄に彼女がいたとは。しかも結構美人の。普段話す機会のない綺麗な女子大生にドキドキしていただけに、気まずさと羞恥と始まる前に終わった恋の痛みが押し寄せてくる。辛い。元カノ、元カノって。
 ショックを受けている内に電車が来て、半ば放心しながら背中を押されて乗り込んだ。休日とはいえ、まだ時間はさほど遅くないので、住宅街方面に向かう電車内は空いている。車両は、ほとんど二人で貸切みたいになっていた。
 電車が走り始めてほどなくして、ぽつりと北村さんが語りはじめた。
「知ってた? 藤宮君、意外におしゃべりなのよ」
「…………はい?」
「自分からは話しかけてこないけどね。話しかけたら、聞いてもいないのに星の話をしだすし、園芸部が部員足りなくてピンチだって言ったら翌日には入部届を持ってきたし、幽霊部員でもよかったのに毎日部活に出るし、植えた花の花言葉まで、ひとつひとつ丁寧に調べてくるの」
 兄が、星をずっと見ていたのは知っている。だけど、園芸部に急に入部した理由も、花を育てていたことも、何も知らない。
「赤点を取ったら、難しい問題をひとつずつ丁寧に教えてくれた。藤宮君はね、多分自分の考えを言葉にするきっかけを作るのが苦手なだけだったんだな、って今は思うよ。少しも笑わないのに、星のことを話している時は何だか楽しそうだった。花を育てるのも……多分楽しかったんだと思う。藤宮君が残していた種や苗に関するメモ、あんまりにも綺麗でわかりやすかったから、顧問の先生が保存版にしていたもの」
「そう……ですか」
 自分の知らない兄の姿が、そこにある。いつも、いつも、家でずっと独りだった。家族とすら話さなかった。家族の誰も――話しかけようとしなかった。
「あのノート、今も残ってるのかな。わからないけど、卒業する時にはまだあったよ。藤宮君が戻って来た時に、って先生が残してくれた。皮肉だけど、藤宮君が休学扱いになって部活に籍が残ってたおかげで、廃部寸前だったのに、新入生が来るまで部がなくならずに済んだから」
 だんだん、電車が花井に近づいていく。車両にはまだ、二人きり。
「藤宮君、クマのぬいぐるみを持って橋から飛び降りたんだって?」
「あ、それも知ってたんですか?」
「そのクマ、私が買って藤宮君に押し付けたのだから」
「あ、なるほど……」
 兄の部屋に何故、クマのぬいぐるみがあったのか、ずっと不思議だった。
 警察の検証が終わった後、焦げた上に川に落ちてぐしゃぐしゃになったそのぬいぐるみは捨てられてしまったのだけど、何故死のうとした兄がぬいぐるみを持って飛び出したのかもわからない。
「そのクマを渡して、でもその後にケンカして……というか、私が一方的に怒っちゃって……、だから藤宮君が自殺しようとしたきっかけは多分、私なんだ。……ごめんね」
 もうすぐ花井なのに、まるで空気を読んだみたいに人が来ない。ただ、静かに電車の行く音が響いた。
「俺は……あんなことになるまで、本当に兄貴のことが嫌いで」
 急に、何を言い出しているんだ。自分でもそう思う。だけど北村さんは、嫌な顔をするわけでもなく、ただ黙って俺の言葉の続きを待っていた。
「家族旅行にも来ないし、家族とも話さないし、全然何考えているのかわからなくて……そしてある日突然、糸が切れたみたいに自殺未遂していなくなった。生きてるのに、ずっと起きないで、結局何も言わないまま届かないところに行って……俺はどうするのが正解だったんだ……」
「……正解、なんてないよ」
 北村さんはそう答えた。
「でも、北村さんとケンカしなくたって、多分いつか兄貴はこういうことになったんだ。どこかで上手くいかなくなって、いなくなったんだ。それはきっと、俺や親がそういう風に兄貴を追い詰めたからだ」
「……結果がこうなったから、そう思うだけだよ」
 北村さんが、ただ事実だけを述べるみたいに、淡々とそう呟いた。実際、そうなんだろう。結果が全てで、何かが起こった後になってから、できたはずの「もしも」を考えたって意味はない。
「兄が……その、自殺しようとしたのは、間違いないと思うんですけど、変な点がいくつかあって」
「うん?」
 そこで、北村さんはやや怪訝な顔をして、俺を見た。
「夏だったし、灯油とかストックしてたわけでもなくて、物置にキャンプに行った時の残りの炭があったからそれを燃やしてたんです。エアコンつけずに、窓も閉めきって。多分練炭自殺っぽいことを、家でやろうとしてたんだろうって。失敗しても一人で熱中症起こして死ぬだろうし、って考えたんだろうって」
「夏だもんね……」
「だから、家を火事にするつもりはなかったんだと思うんです。何かのはずみで炭の入れ物を倒して、結果的にちょっと火事にはなったけど、近所の人が煙に気づいてすぐに通報してくれたし」
 あの界隈は、住宅が密集している。ヘタをすると一帯が大火事だ。消防署は割と近くにあったし、川沿いで出火元も特定しやすかっただろうから、恐らく消防車は煙が出てそう時間がかからずに到着した。実際、家は、二階の兄の部屋以外はあまり燃えていなかった。
「それで、警察の人が、火が燃え移ってしまったから、熱くて苦しくて、錯乱して飛び出したんじゃないかって言ってたんですけど」
「けど?」
「兄貴、両親が大切にしていたものとか、アルバムとか、俺の教科書やノートとか、好きなゲームとか、全部燃えにくいであろう倉庫に移動させてたんです。万が一、火事になったらって考えたんだと思う。これから死のうと考えていたはずなのに、変に冷静というか……遺書も何も残ってなかったのに、そういうところだけしっかりと後始末を考えていたというか」
「ああ……なんか藤宮君らしいというか、なんというか」
 北村さんが複雑な顔をする。だけど、疑問には思わなかったようだ。弟の自分よりも兄と親しかった彼女にとっては、さほど不思議な感じはないのだろう。
 ここにきて、今まで知らなかった兄の一面が、色々判明して困惑している。
「でも、北村さんから、あのぬいぐるみの話を聞いて、ひとつ思い出したことがあって――」
『花井~花井です』
 電車が止まる。花井についてしまった。北村さんは「歩きながら話ましょ」とさっさと行ってしまって、俺は慌ててその後を追った。
 駅を出て、駅前から住宅街へと向かう道を歩きながら「それで?」と続きを促される。
「あのぬいぐるみ、俺は何で持っていたのか知らなかったけど……もしかすると、兄貴、ぬいぐるみに燃え移った火を消そうと思って川に行ったんじゃないかって……」
 ぴたりと、北村さんが足を止めた。雑踏の中で、彼女が目を丸くしてこちらを見ている。
「変だと思ったんだ……ぬいぐるみを持っていたこともだけど、何で川だったんだろうって。ぬいぐるみが燃えて、そこで急に我に返って、とにかく水のある場所へってなったんだ、きっと……。兄貴、左腕の、特に手首から先が酷いやけどになってて……とっさにぬいぐるみを掴んで走ったんだ、多分……」
 兄の火傷は掌から腕にかけて、腰や足にもあったが、ほとんどは左腕だった。顔はほぼ無傷だ。家の火事で焼けたのではなくて、火が燃え移ったぬいぐるみを持って走ったのだ。ぬいぐるみなんて、あっという間に燃える。だから家の中で消そうと思ったら、下手をすると燃え広がる。だからって川に自分ごと飛び込むことはないと思うし、やっぱり錯乱もしていたのだろう。だけど結果的に、家はあまり燃えずに済んだし、兄は――生きながらえた。
「あのクマのぬいぐるみが燃えたことに気付かなければ、多分兄はそのまま死んでいたし、下手をすると家ももっと燃えて大事になってたかもしれない……あのぬいぐるみのおかげで、兄は助かったんだと思います」
 北村さんは、何か言いたげに口を開いて、だけど何も言わなかった。ただ「ついてきて」と言いたげに一回だけ手招きをした。
 俺はその後をついて歩きながら、ぽつぽつと、今までずっと心の奥底にたまっていた澱みを話した。北村さんは振り返らない。だから聞こえているのかわからなかった。それでも――。
「今でこそ割と丈夫ですけど、俺は小さい頃はあんまり身体強くなくて、保育園に入るまで入退院を結構していたんです。親はつきっきりで、兄貴は祖母の元に放りだされてた。俺が人並みに健康になって、小学校にあがるころに、祖母が亡くなって……だから俺は祖母のことは全然知らなくて……ただ、葬式で兄貴が泣きも笑いもしなかったのが怖いと思ってた。でも違ったんだ。兄貴の時間は、あそこで止まってたんだ。祖母にばかり預けられていた兄は家では全然話さなくて、親も俺にかかりきりだったから……それで、だんだん兄だけが置いてけぼりになってて」
 兄に星の図鑑を買い与えたのも、星の話をしたのも祖母だった。祖母の家は郊外の山奥にあったらしいから、星が良く見えたのだろう。今はその家も、もうない。
 この街の自宅も、火事になった上に兄が自殺未遂を起こして、近所で噂されるようになったからと、逃げるように引越しをすることになった。
 両親が処分するように言った兄の本には、祖母からの手紙が挟まっていた。星のことがたくさん書かれていた。ほとんど知らなかった祖母のことを知ると共に、俺はその時になって初めて兄が窓を開けて、何を見ていたのかを知った。
「兄貴があんなことになって……両親がどっちも、全然心配してなくて。むしろ怒ってて。もちろん、ローンが残っているのに家が焼けたとか、引っ越さないといけないとか、兄貴の治療費だって結局親が出さなけりゃいけないとか、色々あるのはわかります。でも、本当に怖くなったんです……一歩間違ったら、兄みたいになってたのは、俺の方だったかもしれないって」
 俺は兄貴のことなんて、さっぱり理解する気がなくて、兄貴も理解されようと思っていないみたいで。
 だから、両親が兄に対して冷たいのも、自業自得だとしか思っていなかった。
 だけど、兄は俺が大切にしているものも、両親が大切にしているものも、全部知っていた。何も言わなかっただけで、家族が何を大切にしているのか、ちゃんと見ていた。見ていなかったのは俺たちの方だった。
「兄貴が、最後の最後で、これだけはなくしたくないと思ったものが……北村さんとの思い出だったんなら、北村さんが兄貴を追い詰めたわけじゃない……と思います。むしろ、北村さんが……助けてくれたんだ……」
 いつの間にか、駅前の商店街をすぎて、あの橋が近づいていた。
 兄が飛び降りた橋。
 その橋の手前で、北村さんがようやく足を止めた。
「あのね、章君。この話の登場人物はね、全員悪いし、全員悪くないいよ」
「……へ?」
「藤宮君は、自分から何かを話していれば、もっと違う風になったかもしれない。でも、章君やご両親が、藤宮君をないがしろにしてたことがなくなるわけじゃない。私が藤宮君を傷つけるようなことを言ったのだって事実。全員悪い。でも、それが何かの罪に問われるわけじゃない。だから誰も悪くない」
 そんなのは、屁理屈だ。そう思うけど、言い返せなかったのは、結局こんな話をしても、すでに手遅れなことをああだこうだ言ってもどうにもならないことを、俺もよくわかっていたからだ。
「本当に、ちょっとしたことでびっくりするくらい人を好きになったり、どうしようもないことでびっくりするほど人を嫌いになったり、人間ってそういう生き物でしょ。だから簡単に全部が、パズルのピースみたいにはまったりとかしないの。何となくスキマ空いちゃったけど、埋まったからいいか! くらいのノリで生きないとダメ」
「は、はぁ……」
「それができない性格だったから、藤宮君は今でもずっと探してるんだと思う。私がその場の感情に任せて言ったことの答えを、ずっとずっと探してる。まだ、多分あそこにいるんだよ」
 花井橋は、三年前と変わらずにそこにあった。三年前までは当たり前に、近所の景色の一部としてあったその橋。
 北村さんは、橋の脇にある遊歩道への階段を下りていく。俺も、黙ってそれに従った。
 冬風が、河川敷の枯草をざわつかせている。その中で、何故か白い花がたくさん咲いている場所があった。その花に埋もれるようにして、ところどころが焦げたクマのぬいぐるみが立っている。確かに見覚えがある。そのぬいぐるみは――。
「君の名前を聞いていなかったね」
 北村さんが、そう言った。
「ポラリスだよ」
 クマのぬいぐるみが、そう答えたのを、俺は何故か不思議と納得したような気持ちで聞いていた。

***

「北海道か」
 あの夏の日、俺が両親と旅行に行く前日、兄がそうぽつりとこぼした。
 話しかけられたわけじゃない。独り言だ。目線はこちらを見ていなかった。
「いかないっていったくせに」
 イヤミ半分にそう言うと、聞こえていたのだろう。一瞬だけこちらを見て、だけどすぐに兄は目をそらした。
「ポラリスの方だ」
 俺は星のことなんて何も知らなくて、兄が星が好きだということすら知らなくて――だから、本当にワケのわからないことを言っていると思って。
 だけど、妙に気になって『ポラリス』をスマホで検索した。北極星。年中いつでも北に輝く星。
 かつては、旅人の目印になった星。こぐま座のα。
 今にして思えば、学校のことなどで普段は必要なことしか報告してこない兄が、家族に聞こえる場所で独り言を言うなんて、だいぶおかしかった。あの時、こうしていればなんて、今更言っても仕方がない。だけど、あの時、兄にその星の話を聞いていれば、違った今があったかもしれない。
 目印の星を見失った兄は、旅行に行っている間に自分が星になろうとして、失敗した。
 そして、目印の星の名前をもったクマのぬいぐるみが、橋の下で待っている。

***

「俺の役目はここまでだ」
 名前も知らない、白い花がだんだん花びらを散らしていく。ポラリスの、プラスチック製の真っ黒な瞳が、白い花びらの行方を見つめている。
「散るんだな、この花は」
「散るのと枯れるのは、違うの?」
「散った花はまた咲くかもしれない。だが、枯れたらもう咲かない。二度と戻らない」
「そっか。じゃあ……藤宮君もちゃんと戻ってくるかもしれないんだね」
 北村さんとポラリスが、一体何のことを話しているのか、俺にはよくわからなかった。ただ、何となく、兄は「ちゃんと戻ってはこない」という前提になっていることだけが、気にかかった。
「…………戻れるかは、わからない」
 急に、北村さんともクマとも違う、別の声が聞こえてくる。聞き覚えがある、だけど馴染みがあるほどでもない声。
 ただ、クマのぬいぐるみの向こう側に、ついさっきまではいなかったはずの人影が見えた。
「兄貴……」
「そうだったみたいだな」
 彼は、まるで他人事のように淡々と呟いた。
 十七歳の、『藤宮透』。高校二年生の夏。この橋から飛び降りた時のまま、何も変わらない姿でそこにいる。まず北村さんを見て、気まずそうに目をそらした先にいた俺を見た。
「俺は……」
 何かを言わなければならないと思った。だけど何を言えばいいのかわからない。喉の奥に言葉がからまったまま、出てこない。
 三年、ずっと寝ている横顔しかみていなかった。それまでの十三年も、ほとんど兄と向き合ってこなかった。今更何を言えるのか。
「白いポピーの花言葉は、『忘却』だ」
 兄が――『藤宮透』がそう言った。
「今更戻っても、それはもう僕じゃないかもしれない。僕は僕を消したかった。ある意味で、それはきちんと成就した。だけど、それと同じくらい、知りたかった。僕が無くしたものが何なのか、どうしたら他と同じように『痛みのわかる』人間になれるのか」
 火傷で赤くただれたその手が、ポピーを一輪手折る。その花はすぐに散って、白い花びらが冬空の向こう側に溶けて消えた。
「痛みの感情なんて、誰も同じじゃない。ひとつとして同じ花は咲かない。枯れることもあれば、散ることもある。誰も他人の痛みを本当に理解することはできない。花が咲くまで、誰もその花がどんな風に咲くのかを知らない。今まで見た同じ種類の花を想像して、きっとこんな花が咲くだろうと考えているだけなんだ」
 どうして、彼がそんなことを言うのか、わからない。
 都市伝説は、何でもひとつ痛みを捨てられるというものだった。それがこの『白いポピー』だとしたら、兄は『忘却』が痛みだと感じているということだ。それはつまり……。
「僕はもうすぐ、ここからいなくなる」
「まさか……」
 死ぬのか。消えるってそういうことなのか。
 兄の魂がここに残っていたから死ななかっただけで、兄は、本当は三年前に死んでいたのか。
 すがるように目を向けると、彼がややバツが悪そうに目をそらした。こんな顔、三年前までの兄は見せたことがなかったのに。
「どうなるかはわからない。でも、多分元の自分はいなくなる。そう望んで僕はここに自分を捨ててしまった。だけど、知りたいことへの未練があったから……ポラリスが一緒だったから、ここに残った」
 彼は、足元に立っていたクマのぬいぐるみを拾い上げた。
「やっと君の疑問に答えられる。君の名前をつけた理由だ」
「……答えなくてもいいぜ、俺の役目はもう終わったからな。それに、もう俺にもわかってるよ。お前が思い出したんだから」
「そうだな。僕が知っていることを、君が知らないはずがなかった」
 ポラリス。いつでも北の空に輝く星。こぐま座のα。旅人が迷わないための、目印の星だ。
 北村さんにもらったぬいぐるみに、その名前をつけたのは――。
 俺は、泣きたい気持ちになりながら、拳を握りしめていた。自分にも、兄にも腹が立っていた。何となくわかっていた。もう時間があまりない。少なくとも、今の『彼』と話すことができる時間は、きっと。
「あのさ、兄貴。俺は兄貴のこと、ずっと嫌いだった」
「知ってる」
「でも、いなくなってほしかったわけじゃない。本当に……」
「……知ってる。この先は保証できないけど」
 白い花が散る。『忘却』が答えなのか、それでいいのか、もっと他に何かないのか、ぐるぐると考える。
 その時、北村さんが立ち上がった。
「藤宮君、あのね、今からいうことをよく聞いて。一瞬で忘れるかもしれないけど、この瞬間だけでもいいからよく聞いて」
 ものすごい早口でまくしたてたので、俺も兄も、戸惑って――正直に言えばやや引いていた。ポラリスだけが「おお」と妙に気の抜けた声をあげた。
「私ね、ほんっとーに藤宮君のこと大嫌い」
 その時の、兄の顔といったら、本当に今まで見たこともない顔をしていた。多分、自分も似たような顔をしていたと思う。もう二度と兄とは会えないかもしれない。多分、ここにいる兄は生霊みたいなもので、兄がどうにかなれば――いや、ならなかったとしても『役目を終えて消える』はずなのだ。
 それが、力強く「大嫌い」宣言をされたら、戸惑わないわけがない。
「話しかければきちんと答えてくれるのにぼんやりと一人の殻に閉じこもってたところとか、本当は優しいところがあるのに黙ってるから全然わからないところとか、怒ってもいいところで怒らないで勝手に傷ついていなくなっちゃうところとか、そういうところ! 本当に大嫌い! それが私を傷つけたの! そのせいでこの三年間、ずっと私は藤宮君のことを忘れられなかったの! 多分、この先も一生忘れられないの! 藤宮君が、勝手に私の前から消えたせいで!」
 それは――『嫌い』という感情で封じ込めた、彼女の中の『痛い』思い出。
「藤宮君がわからなかったのは人の痛みなんかじゃないよ。自分が傷ついているってことだよ。怒ってよ、私は勝手なことを言ったんだよ。勝手に怒って勝手に傷ついたのに、藤宮君が傷ついたって伝えなかったから、それで結果的に私は本当に藤宮君に傷つけられたんだよ! 傷ついたら痛いでしょ? 苦しいでしょ? 一人になったら寂しいでしょ? 当たり前じゃないの?」
 北村さんの叫びを、俺はただ、黙って聞いていた。
 傷つけた。傷つけたことに、気が付かなかった。傷ついたことを悟らせないまま、勝手に消えようとして、それが自分を傷つけた人たちを傷つけた。
 それはある意味、最も理にかなった復讐だったかもしれない。だけど、復讐をするには『藤宮透』は、悪意が足りなかった。自分が傷ついた意味と、他人を傷つけた意味を、自分の中に閉じ込めてこの橋の下に縛られていた。
 白い花が一斉に、散っていく。そして、かわりに別の花が咲いていく。
 赤い、赤い花。さっきまで咲いていたポピーと少し似ているけど、違う。
「藤宮君……私は、私が傷つけてしまった貴方のことが、私を傷つけた貴方のことが――今でも、大嫌いで、大好きよだよ」
 赤い花が、河原に次々と咲いて、散っていく。
 白の花びらの後を追うように、赤の花びらが次々と冬の空に溶けていく。
「この花は――」
 咲いては散っていく赤い、赤い花に囲まれて、兄は――藤宮透は、見たこともない顔で笑っていた。
 そして、その花の色彩の中で、彼とぬいぐるみのクマの姿は一緒になって、霧がかすむようにして消えて行った。
「あの花はね……アネモネだよ」
 北村さんが、最後に残った一輪を手に取った。不思議と、その花だけは消えなかった。
 どう考えても、こんな季節に咲く花じゃないのに。他の花は全部散ってしまったのに。
「アネモネの花言葉はね、『見捨てられた』っていうの」
「えっ……」
 思わず青くなった俺に、北村さんは「アハハ」、と困ったように笑った。
「でもね、赤いアネモネだと『君を愛する』になるのよ」
「えええ……」
 そんな、愛の告白みたいな。
 ――いや、告白だったのだろう。兄なりの、北村さんへの答えだったのだろう。
 赤いアネモネだけを残して、もうどこにいったのかもわからないけれど。
 その時、不意にスマホが鳴った。こんな時に、と思いつつも親だったらどうしようかと思って出してみると、病院からだった。
「ま、まさか兄貴に何か……」
 恐る恐る電話に出ると――。


エピローグ:彼らと道しるべの星

 兄は、三年半弱の昏睡状態から、奇跡的に意識を取り戻した。
 だけど、昏睡する以前の記憶を全て失っていた。全生活史健忘、という状態らしい。
 忘れているのは自分に関する記憶だけで、たとえば日常生活のことや、勉強したことなどの記憶はほとんど失われていなかった。脳障害なのか、心理的原因の障害なのかは、これから検査やカウンセリングをして調べていくしかない。
 何せ三年ぶりに意識が回復したとあって、当然ながら家族に連絡がいった。こっそりとお見舞いに通っていたことがバレてしまったわけだ。兄はさっぱり記憶がないのに、俺と親との不穏な様子を見せられることになってしまい、困惑していた。ちなみに、北村さんは部外者なので一度帰るしかなく、大変不満そうだった。
 そういうわけで、その日はこちらにいる親戚の家に泊まらせてもらい、親は翌日午後に来るということになった。俺は午前中のうちに来てほしいことを北村さんに伝えた。朝、面会時間が始まる前に、北村さんと待ち合わせして、時間を待って一緒に入った。今日の検査が終わり次第、面会ができるはずだ。
 記憶喪失になって、しかも昏睡から覚めたばかりで不安定なところだ。本当は、知らない人間ばかりが押しかけるというのはストレスになるからダメなのだろう。だけど、どうしてもと土下座する勢いで頼み込んだ。看護師さんも、お見舞いに俺しかこないあたりで、何となく親と兄の不仲を察していたのだろう。兄と仲がよかった人がいるので、と説得したことで何となしに思う所があったようだった。
 三年も寝ていたので、兄はまだ起き上がることもできない。目を開けているだけで、本当はまだ意識がないんじゃないかと不安になりかけたが、俺と北村さんが傍にくるとちらりと目線を投げた。
「初めましての方がいいのかな。北村綾香です。よろしく」
 ニコニコと笑う北村さんに、兄はやや戸惑ったようで、説明を求めるように俺を見てきた。俺は前日に会っているので、弟だとちゃんと認識してくれている。とはいえ、記憶を失う前は、弟の俺も兄とは不仲だったわけで、家族としての対応を求めてくる兄が新鮮で複雑で仕方がない。
「ええと、その、北村さんは、兄貴の高校のクラスメイトで、同じ部活で」
「元カノです! 一応別れたわけじゃないから、今もカノジョかもしれないけど、忘れちゃったらしいしお友達からお願いします!」
「……北村さん!」
 話をややこしくしないでほしい。兄貴が見たこともない顔をしている。本当に見たこともない顔をしている。
「あははは、すごい、藤宮君、記憶喪失前でも見たことない顔してる。表情筋のリハビリができるね!」
「き……北村さん……」
 もはやどこから突っ込んでいいのかもよくわからないが、兄は少しだけ笑っていた。
 一周回って面白くなってきたらしい。俺も何だかおかしくなってしまって、笑った。もう笑うしかない。気が付いたら、近くにいた看護師さんまで笑っていた。本当、笑うしかない。
「ねぇ、藤宮君」
 北村さんが、兄の手を握る。火傷でただれた手。手術で見た目はある程度綺麗になっても、きっと元通りにはならない。兄が傷つき、傷つけられた名残。最後の最後で、今はない思い出にすがった手。
「この先、生きていたっていいことなんて、ひとつもないかもしれない。辛くて痛くて、寂しくて、どうしようもないことばっかりかもしれない。必ず幸せになれるなんて言わないよ。でも――」
 その傷ついた手を、彼女は離さないように、握りしめた。
「でも、私は思うよ。生きてることは、終わっていないってことだから。終わらないために、生きて。この先、昔のことを思いだしても、思い出せなくても、続きがあるなら、終わりじゃないよ」
 傷ついて『痛い』と思った先に、まだまだ人生は続いていく。
 兄はこれから、自分が家の中で孤立していた現実を改めて知ることになるだろうし、左手が動かないまま生きていかなければいけない。俺はそんな兄と両親の複雑なやり取りをこの先ずっと見ていかなければならない。北村さんだって、兄と以前の関係に戻れるわけじゃないだろう。
 兄があの橋の下で、『痛み』を捨てることを手伝った人たちだって、捨てた痛みに見切りをつけて、あるいはまた拾って、だけどその先を生きていく。
 道しるべを探すように、生きていくのだ。きっと――。

***

 春になって、兄は退院した。
 とはいえ、リハビリは続く。足には大きな損傷がなかったし、まだ若くて筋力が戻りやすかったから、補助があれば歩けるようにはなっていた。それでも、まだ長距離の移動は無理だ。記憶だって少しも戻っていない。
 両親は記憶喪失の兄をだいぶ持て余している。だけどずっと放置していたことに関しては、俺がこっそり見舞いにいっていたこともあってか、やや罪悪感が芽生えたらしい。リハビリは自宅近くの病院で継続して行えるように、手続きを行ってくれた。
 春休みになって、再び実家に帰省したという北村さんが、今日この街を発つ兄の様子を見にやってきた。夜に発つ特急の券を買ってしまったので時間があったし、兄が急に「花井橋を見たい」と言いだしたこともあって、三人で行くことになったのだ。
「……川に落ちないでね」
「別に落ちたいわけじゃないが……一応、記憶が戻るきっかけになるかもしれないだろう」
 長距離移動が大変なので、バス停二つ分の距離なのに無駄にバスに乗った。
 花井橋は相変わらずそこにあって、だけど俺たちが育った家はもうそこにはなくて、河原はあの赤いアネモネが咲いた日に比べると、ずいぶん緑に色づいている。
「……何も思い出せないな」
「そりゃ、簡単に思い出したら苦労しないんじゃない?」
「藤宮君、変なところにマジメよねぇ」
 三者三様のコメントを残して、花井橋で空を見上げる。
 兄はすっかり疲れて、欄干に背を預け、座りこんでいた。まだそこまで体力がない。
「藤宮君、メールするね。ちゃんと返事をしてね。実家に帰る時は、途中下車で藤宮君ちの近くに寄ってくから」
「そこまで無理して会わなくても」
「返事してね」
「…………わかった」
 兄はスマホを眺め、うなだれた。今日も突然、北村さんからメールがきて、しばらく返事をしていなかったら電話がかかってきて、という顛末だった。ちなみに北村さんに情報を流したのは俺だ。俺としても、もうここまで来ると、どうにかして北村さんに兄の人間性を鍛えていただきたい気持ちでいっぱいなのだった。
 その後、三人でまた、徒歩十五分の距離をバスに乗って、駅前について特急の止まる駅まで向かう。
 北村さんはホームまで見送りに来てくれた。
「これは私からの餞別です」
 北村さんが手渡してくれたのは、紫色の花と小さなクマのぬいぐるみだった。
「そのクマは二代目ポラリスなので、大事にしてね」
 兄はやや困った顔で俺を見る。多分「一代目は?」と聞きたいのだろうが、俺も詳しく知っているわけじゃないし、そもそも話し出したらキリがないので見ないふりをした。だけど、何だかこんなやり取りをするのが当たり前になっていることが、兄が記憶喪失になる前よりもよほど兄弟らしくて、何となくむずがゆい気持ちになる。
「じゃ、またね」
 数日後に会うみたいなノリで、北村さんは別れを告げた。
 特急が走り出す。兄は窓際に、小さなクマと花を置いた。
「何の花だろう?」
「アネモネだ。紫のアネモネ」
 兄には、花の種類がわかるらしい。そういえば、園芸部で花のことを勉強していたのだったか。そういうことはきちんと覚えているらしい。
「紫のアネモネの花言葉って?」
「アネモネ? 紫は……確か」
「確か?」
「………………『貴方を信じて待つ』」
 やや顔を赤くして、そっぽを向く。俺は壮絶なノロケを聞かされた気持ちになって、肩を落とした。本当に、兄が目を覚まして以来、見たことのない顔ばかり見せられている。
 電車は走る。街中を抜けて、郊外の建物の少ない地域に差し掛かり、山や建物の黒い影の向こう、群青に染まる空には星が見えた。北の空。いつでもそこにある目印の星。
「どうして俺は、花言葉なんて知ってるんだろう」
 クマと同じ名前をした星を見つめながら、兄がぽつりとつぶやいた。
「いつかわかるんじゃない?」
 俺は適当に、そう答えた。
 そのいつかに、未来が繋がっているならそれでいい。
 良い事なんかひとつもないかもしれない。哀しくて、辛いことばかりかもしれない。
 痛くて苦しくて、もう終わりにしたいばかりかもしれない。
 だけどその『痛み』の向こう側に、いつかわかるかもしれない、何かが待っている。
「知らない花の名前と意味が、わかるかもしれないなら、それでいいじゃん」
「……そうかもしれない」
 電車は走る。空に輝くポラリスは、やがて次の街並みのビル群に飲みこまれて見えなくなる。だけどその先に星はある。
 見えなくても、星はそこにある。花だって、毎年同じで違う花を咲かせる。
「きっと、綺麗な花が咲くよ」
 兄がどんな花を想像しているのか、俺にはわからない。
 だけど、あの日見た赤いアネモネの答えが、この紫のアネモネなのだとしたら――この先に訪れる「いつか」は痛くて苦しいものではないはずだ。

 ――その美しく綺麗な花が見られる未来が、早く訪れますように。

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