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アザミ/正しくない正しい世界

閑話:彼らと形而上の善悪論

 花が散っていく。
 かわいらしいピンクの花びらが、次々に散っていく。
「この花は?」
 長い長い沈黙の後、クマのぬいぐるみはそう言った。
「バーベナ」
 彼は短くそう答えた。
「花言葉は?」
 もうひとつ、クマはそう尋ねた。彼は一瞬、ためらうそぶりを見せた後、静かに囁くようにこう言った。
「……家族愛」
「……聞かなければよかった」
「君は僕の知っていることなら、大体知っているんだろう」
「再確認したくないだろ」
 花が散る。この花が、捨てられた『痛み』が、必要とされて散っていくのなら、どれほど良かっただろう。
 空はすでに暗くなっていた。ピンク色の花びらも、闇の中に溶けるようにして消えていく。元々、実体を伴って咲いていた花ではないから、夜でも、そうでなくても、散りゆくこの花に気づく者はいないだろう。
 街中の灯りから遠い住宅街だ。それなりの都会であるこの街でも、この辺りからなら光の強い星は見える。
 橋の下から見上げることができるのは、北の空。北極星は、どれほど長くこの場所で過ごしていても、晴れている限り必ず同じ場所で輝く。
 ピンクの花びらは、その北の空を目指して散っていくのだ。
「君の名前の星のところまで、飛んでいくのか」
「うーん、まぁ、確かに星になるっていうけどな……でもな、俺ら生きてるっぽいしな」
「ここから動けないのに、生きているかもしれないことに意味はあるのか」
「いや、お前そこを哲学しだすとキリがないだろ」
 足もとのクマに目をやる。いつもならくどくどとツッコミや説教がはじまるところだが、最近このクマのぬいぐるみは大人しい。
 彼は再び、北の空を見上げた。
 北極星。必ず北に輝く星。旅人に進むべき方角を教える、道しるべの星。こぐま座のα。
 クマのぬいぐるみの名前だ。北極星の別名、ポラリス。
「僕がこうやって花を咲かせていることが、良い事なのか悪い事なのか、考えている」
「考えても答えでないやつだぞ。幸も不幸もない、善も悪もない。ただ、お前が手を貸しても貸さなくても、ろくな結果にならないってだけだよ」
「なら、なおさら意味はあるのか」
 いつの間にか、全ての花は散っていた。後に残ったのは、外灯の光も届かない橋の下の闇色と、遠い街の明かりには負けることなく空に輝いている北極星。
 足もとにいる、星と同じ名前をしたクマは、明るい時に見ればところどころ焼け焦げてくすんだ色をしている。その理由を、彼は尋ねることができずにいる。
 その答えをポラリスが知っているなら、それは自分が見ないふりをしていることなのだろう。
 その答えをポラリスが知らないなら――。
「……熱い」
「……ん? この冬空でか? というか、俺たちに気温を感じることなんてあったか」
 ポラリスは首を傾げたが、彼は口をついて出た言葉などなかったことにするように、橋の下の闇に向かって歩いていく。
 ――もし、自分が何もしなかったとしても、その人間の運命は変わらないのか。
 起こったことは取り返せない。時を遡る力を持っているわけではないから。
 誰のものでも、どんなものでも、『痛み』であるなら花に変えられること。できることはそれだけで、それは彼にとって『何か』の意味がある。
 ただ、その意味を彼は知らない。ポラリスもきっと知らない。
 他人の『痛み』と引き換えに得られるものも、それが『善いこと』なのか『悪いこと』なのかも、彼も、誰も、知らないのだ。

Case.4 :アザミ/正しくない正しい世界

 妹が死んだ。
 次の春には小学校にあがるはずだった。真新しいランドセルを背負って、学校で友達を作って、そういう幸せな未来があったはずだ。
 真っ黒な枠に収まった妹の写真を見ながら、「それはないか」と思い直した。
 赤坂のぞみ。享年五歳。ベランダから転落して、事故死。
 あくまで表向きはだ。実際にはそうではない。
 兄の僕と母親以外に参列者のいない葬儀。葬儀屋は「最近、こういう家族葬は珍しくないよ」と、僕に笑って見せた。まるで言い訳でもするみたいにして。
 実際、言い訳でもしなければやっていられなかったに違いない。幼い命が失われたのに、泣きもしない家族。僕は泣く気持ちも失せているだけだけど、母親は淡々と事務的に葬儀の手続きをしているだけだ。何となく事情を察しているに違いない。
 僕は何もできなかった。せめてあと数年あれば、妹を連れて家を出ることができたかもしれない。何も持たなくても、すぐにでも妹を連れて出て行くべきだったのかもしれない。
 そうしたら、妹は、のぞみは母親に「殺される」ことはなかった。
 思えば、のぞみはここ最近、様子がおかしかった。
 いつも母親に殴られるたびに、泣いていた。怒鳴られるたびに身をすくめて、母親が去った後になって、一目散に僕のところまで駆けてきた。それなのに、亡くなる前の数日はずっとニコニコしていた。殴られても、罵倒されても、ニコニコ。母親の方が気味悪がって、殴る手を止めたくらいだ。
「いたいのいたいのとんでけ、ってしてもらったの。だからいたくないよ。ママものぞが泣かないいい子になったら、ニコニコしてくれるかなぁ?」
 妹は壊れてしまったのだろうか。あの時、連れて逃げればよかった。助けてもらえなくても、連れ戻されるだけかもしれないけれど、家を出るべきだった。
「気持ち悪い、いなくなって!」
 母親は、のぞみをベランダにしめ出した。
 玄関ではなく、逃げ場のないベランダに。真冬の夜に、たった五歳の女の子を。
 僕は助けたかった。何とかして、母の目を盗んでのぞみを連れ戻さないといけなかった。
 母親は僕の方には、滅多に手を上げない。僕は「ちゃんとした人との子だから」らしい。「お父さんに似てる」と、懐かしそうに嬉しそうに笑う。
 のぞみは違った。
 その「ちゃんとした人の父」に捨てられた後、俺を育てるために水商売をして、行きずりの客と寝てできた子供。母親が言うことには「誰の子かもわからない汚い子」だった。気づいた時には下ろせなくなったし、母子手当が増えると思って産んだ、と。
 我が親ながらひどいと思うし、僕ものぞみも少なからず傷ついた。
 僕だって手を上げられなかっただけで、別に可愛がられているわけではない。のぞみの世話をしているのはほとんど僕だったし、母親よりも自分の方がよほどのぞみの親に近かったと思う。
 だからやっぱり、僕が何とかしなければならなかったんだ。
 のぞみなりに、母親に見られることなくベランダから脱出する方法を考えたのか、それとも寒さで錯乱していたのか、それとも僕がみていない隙に母親に命令されたのか。
 とにかく、僕がお風呂からあがって、母親が部屋にいないのに気づいて、今がのぞみを部屋に入れるチャンスだと思ってベランダに駆けよって。
 カーテンを開けると、のぞみはベランダにあった洗濯物入れに使っていたプラスチックのカゴを踏み台にして、ベランダの柵を乗り越えていた。一瞬だけ振り返って、いつもみたいにニコニコ笑って、闇の向こうに消えて行った。
 警察は、事故として処理した。のぞみの身体にたくさんあったはずのアザには、何故か触れられなかった。「一応ね」と現場を検証した彼は、とても面倒くさそうにしていた。
 死亡診断書は、母が職場を介して紹介してもらった病院で。ろくな病院じゃない。
 知っている。だって、のぞみが殴られて大怪我をするたびに行っていたところだから。
 今でも、どうすればのぞみが死ななかったのか、わからない。僕はまだ十三歳だ。中学を卒業するまで、義務教育を終えるまで、あと一年と数ヶ月。アルバイトすらまともにできない。
 多分僕は、自分で言うのもだけど、学校のクラスメイトと比べれば賢い方だと思う。成績の問題じゃない。癇癪持ちの母親と一緒に暮らして、妹を庇いながら生活しているうちに、変に知恵がついた、という意味で。
 だけど僕はまだ子供で、できることはそう多くなかった。
『いたいのいたいのとんでけ、ってしてもらったの』
 そんなことを言い出してから、急に怪我をしても痛がらなくなった妹。僕が同じおまじないをやっても、泣き止まなかったのに。
 当たり前だ。そんな言葉で痛みが消えるわけがない。身体も心も、傷ついたままで何も変わらない。
(のぞみをあんな風にしたのは誰だ?)
 答えはわかりきっている。母親だ。妹がこんなことになるまで、何もできなかった僕のせいだ。
 だけど、のぞみがまるで『誰かに痛くなくしてもらった』みたいなことを言うから、もしかすると本当にそんな魔法みたいなことができるヤツがどこかにいたような気がしてきて。
後から考えると、それは単純に、何か原因を誰かに押し付けたくてたまらなかっただけだったのだとわかる。だけど、その時はそこまで考える余裕がなくて。
 のぞみの忌引きが明けて、クラスメイトに何だか気まずい顔をされ、同情の目を向けられて、元々親しい友達が少なかった僕は完全孤立状態だ。
 僕の母親が水商売をやっていること、シングルマザーで妙に歳の離れた兄妹なこと、その妹が急に事故で死んだこと。
 中学二年生はそれなりに馬鹿で、それなりに賢い。深く考えなくても「何か触れてはいけない」くらいはわかるし、それを上手く知らないふりをできるほどのアイデアはない。
 それは僕だってそうだ。僕だってどうしていいかわからない。
 だから僕とクラスメイトは、お互いを空気にすることにした。平和的解決法だ。
 することもないので、休み時間はクラスメイトの会話に耳を傾ける。どうでもいい話ばかりだ。平穏さが少し羨ましい。
 ぼんやりと聞き流して、自分の家がもう少し普通だったらあそこの男子みたいに下ネタでゲラゲラ笑っていただろうかとか、のぞみがあと十年生きていたら、あそこの女子みたいに、恋愛とかよくわからない願掛けとかで盛り上がれたのかもしれない。
 ぼんやりしていたら、急に会話が明確な意味を持って、耳に飛び込んできた。
「ほら、何かちょっと前にあったじゃん、変な都市伝説みたいなの」
「えーと、何だっけ」
「どっかの橋の下に行くと、痛いことを忘れられるとか、確かそんなやつ」
 頭の中で、のぞみが言っていたことと、女子の話が綺麗に繋がった。
 普段だったら絶対に信じない、よくわからない都市伝説なのに、なぜかその時はそれがのぞみの言っていたことだと確信できたのだ。
「その話、詳しく教えて」
 女子は驚いた顔をしていた。当然だろう、普段ほとんど話をしないのに、突然話しかけてきて、しかもこんな話題で。
 きっと、女子たちは僕が妹の死で悩んで、少しおかしくなっていると思ったんだろう。妹のことを忘れようと必死なのだと。実際、多分僕はおかしかったのだ。
 だけど、のぞみはおかしくなんてなかった。
 都市伝説は本物だったからだ。

***

 翌日、実際に行ってみた。都市伝説があると噂の花井橋は、案外うちの近くだ。
 ここなら、確かにのぞみの足でもたどりつけるだろう。
(多分、あの日だ)
 少し前に、のぞみが一時的に姿を消したことがあった。その日は僕がたまたま、進路用紙を提出していなかったことで担任に引きとめられていて、帰るのが遅くなった。そして、運が悪いことにいつも出勤になる夜まで寝ているか、近所のパチンコ屋にでも入り浸っているかの母が、たまたま家にいて起きていた。
 叩いたら泣いたから、うるさくて外に出した、というのが母親の言。
 これでよく児童相談所に通報されないものだと思うけれど、近所にそこまでお節介な人は残念ながらいなかった。僕自身、何度か自分でいこうかと考えた。だけど、結局元通りに家に戻った時、母親がどういう風に怒るのか想像がついたから、ためらってしまった。こんなことになるなら、ダメ元で通報しておくべきだったと心から思うけど。
 のぞみは、多分その時、僕を探しに行こうとしたのだろう。いつもなら学校から帰ってきている時間だから、近くを歩いていれば会えるはずだと。僕はそれと入れ違いになった。
 見つからなくて、すっかり暗くなって、母が出勤したら警察に届けてしまおうとぐるぐる考えて、だけど家に帰ってみるとのぞみは玄関の前に立っていた。顔を腫らしたまま、ニコニコと笑っていた。
 いなくなっている間に、のぞみはきっとこの橋に来たのだ。そして、「殴られても痛くないように」と、都市伝説にお願いした。きっとそういうことだ――。
 頭のすみでは「そんなバカなことあるはずない」と、思っている。非現実的すぎる。
 だから最初に『彼ら』を見た時、僕は「この人も同類かな」と思ったのだ。この寒い季節に、薄着でボロボロのクマのぬいぐるみなんて持ち歩いていたし、腕には包帯を巻いていたから。反射的に「家から追い出されたのか」と連想した。
 そんな家庭が近くにいくつもあってたまるものか。大体、この橋の下にいるなんて怪しすぎる。
 そう思い直した時には、彼は何とも言えない表情で黙ってこちらを見つめていた。やや気まずい。
「おい、お前、この前の子供の家族か」
 彼は黙ってこちらを見つめていた――はずだ。だけど、明らかに僕に話しかけているとしか思えない声がした。よく見ると、彼が小脇に抱えていたクマが、「やぁ」とでも言いたげに手を振っている。
 僕が疑念に満ちた眼差しをすると、クマは「いや、腹話術とかじゃないから」と否定した。僕の頭は「?」がいっぱいだったけれど、多分話が進まないと思ったのだろう。抗議するクマの首根っこをつまみながら、彼は同じ質問を僕に繰り返した。ただし、より具体的に。
「君は、以前に来た五、六歳くらいの女の子の家族か?」
 それが誰のことかなんて、言うまでもない。
 もう、彼がどうしてここにいるのかとか、どうしてぬいぐるみのクマが喋っているのかなど、どうでもよくなっていた。相手は都市伝説だ。何がどうなっていても不思議じゃない。
 それよりも僕にとって大切なことは――。
「どうしてのぞみを殺したんだ!」
 ――わかっている。本当は、彼が手を下したわけではないことくらい。遠因であって、原因ではないことくらい。それでも、彼がいなければのぞみは死ななかった。そう、その時は確信していた。そう思うしかなかった。
 彼は一瞬、何とも言えない表情をして、しばらく横目で首ねっこを掴んだままのクマを見ていた。クマは「……何か言ってやれよ」と、ややぞんざいにうながしたが、彼は黙りこんで何も言おうとしない。
 どれくらい、彼はクマを見つめていたのだろうか。ただ、いつのまにか複雑な感情が消え失せて、能面のような無表情に変わっていた。
 そして、そのままの表情で、淡々とこう尋ねたのだ。
「彼女はどうやって死んだんだ?」
 その時の僕の気持ちが、どれくらい嵐のようだったかは、きっと誰だって想像がつくと思う。
 僕はのぞみがどうして死ななければいけなかったのか、どうすれば助けられたのか、そればかり考えてここまで来たのに、諸悪の根源の――少なくとも、僕はそう思っていた彼が、のぞみが死んだ時の状況を聞いてくるなんて、許せないと思ったからだ。
「お前が殺したんだろ!?」
 彼は、否定しなかった。少しの間のあと、無表情のままで頷いた。
「そうかもしれない」
「かもしれないじゃない! 殺したんだ! 笑いながら、ベランダから落ちてった! お前が! のぞみに変なことをしたからだ」
「変なこと……じゃない。僕ができるのは、『痛み』なら何でも、花に変えることができるだけだ。彼女が望んだから、そうした。彼女が本当にいらなかったのか、本当は必要だったのかはわからない。ただ、枯れるのではなく散って行ったから、少なくとも君の妹は何もかも嫌になって飛び降りたんじゃないんだろう」
「何を意味のわからないこと言ってんだよ! 返せよ! のぞみを返せ!」
 僕が突き飛ばすと、彼はよろりと後ろにふらついた。僕は気づいていなかったけど、じりじりと迫っている間に、ずいぶんと川辺に追い詰めてしまっていたらしい。
 彼の「あ」という小さな呟きと共に、川の水がはねた。冬の川に落ちたのだ。
「……っ!?」
 これには、僕も動揺した。僕は、別に彼を殺したかったわけじゃない。のぞみの死に対して納得のいく理由がほしくてたまらなくて、全てを彼の責任にして解決しようとしただけだった。
 だから、彼が真冬の川に落ちて、しかもしばらく浮き上がってもこなかったものだから、僕は殺人を犯してしまったのではないかと思って、しばらく辺りを右往左往する羽目になった。
「ど、どうしよう……溺れてる? し、死んだ?」
 枯れた葦を描き分けて、川辺から水面を覗きこむ。改めて見下ろしてみると、浮き上がってこないほど深い川には見えなかった。ろくに柵もなかったくらいだから、さして危険な深さではないのだ。少なくとも、川べりの付近は。
 では、彼はどこにいったのか。青ざめた顔で探していると「こっちだ」と、平然とした顔で隣に這い上がってきて、僕は腰を抜かしてじりじりと後ずさった。
「おばけだ!」
「……君が落としたんだろう。だが、君の認識は恐らく、さほど間違いではない」
 よく見ると、川に落ちたはずなのに彼の服は濡れてもいない。さきほどと同じように、クマを小脇に抱えて、凍えた様子もなく何食わぬ顔で立っている。
「僕は死なない。生きているかもしれないが、少なくともこういうやり方では死ねない。消えられない」
 僕は、思わず自分の手を見た。さっき、彼を突き飛ばした手。
 思えば、いくら男子といっても、特に運動をやっているわけでもない僕が、簡単に人間一人を川に突き落とせるのがおかしい。手ごたえがなさすぎた。彼はボールみたいに軽く、落ちて行った。重さがほとんどなかったからだ。感触は、確かにあったのに。
 僕は都市伝説の内容を思い出していた。何でもいい。傷の痛みでも、心の痛みでも、何でも。痛いものを捨てたい、無くしたいと思ったら、その橋の下に行けば捨てることができる。取り戻したければもう一度橋に行けばいい。もういらないものなら、勝手になくなる。二度と戻らない。
 ――何のために?
 僕は、頭の端でそう思った。都市伝説には、大体『理由』がくっついている。トイレの花子さんが、トイレで死んだ女の子の霊だったり、口裂け女が、整形手術の失敗をした女性だったり。だけど、この都市伝説には明確な『理由』はなかった。だから、さして話題にもならなかったのだ。クラスの女子だって、何かのはずみで少し思い出したというだけで、詳しいことなんて何も知らなかった。
 だけど、僕は何となくだけど、彼の『理由』がわかってしまった気がした。僕は最初、彼が『同類』だと思ったのだ。もしそれなら、痛くて泣いていたのぞみに、彼は何を想っただろう。もしかすると、せめて痛くなくなるように、と考えたかもしれない。
 痛いのがとんでいくように、とのぞみを慰めたかもしれない。
 もし僕に、のぞみが『痛い思いをしなくなる』能力があったら、きっと使ったと思う。
 それが結果的には無意味になるかもしれない。彼女の問題を本質的に解決しないことをわかっていても、使ってしまっただろう。
「君に聞きたいことがあるが……不幸とは何だと思う?」
 黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。小脇にかかえたクマの、プラスチック製の瞳よりも、感情が全く見えてこない瞳。
 僕は背筋がぞくりとして、数歩後ずさった。
「な……何を」
 僕の声は震えている。すぐそこにいるはずの、彼の表情が、もうよくわからない。
「君たち兄妹の不幸は、この国のほとんどの人が『不幸』と認識する。だけど、それでも救う人間が現れなかったのは何故だ?」
「何を、言って……」
「君たちを不幸に追いやった、母親をそうさせた不幸は何だ?」
「……母親は!」
 不幸じゃない。母親は自分に不幸を与える相手で、不幸なんかじゃない。
 そう言いかえしたかったのに、言葉が途中で止まった。母が、もし普通に恋愛して結婚して、そして自分を産んでいたら。父親が母親のそばにいてくれたら。あるいは、のぞみを妊娠した時に、誰かが救ってくれる人がいたら。
 誰も不幸にならなかったかもしれない方法なんて、いくらでもある。僕が母親を「母さん」と普通に呼ぶ未来だって、のぞみが幼稚園の友達と遊んでいる未来だって、きっと実現できなかったわけじゃない。
 後から考えれば、いくらでも方法があったことがわかる。それが見つからなかったのは、僕の母親の『不幸』だ。僕が認めたくない、僕とのぞみを傷つけてきた人の『不幸』だ。
 僕らを不幸にした母を、不幸にした人間がいる。その人間たちを不幸においやった人もいる。不幸はどんどん繋がっていくのに、幸せはそこに入り込まない。
「不幸とは何だ? 救われないのは何故だ? 悪い人間だったからか? 違うことは、君と、君の妹が証明している。それじゃあ、誰もが認めるほど明らかに不幸な君たちすら救われないのに、誰にも認められない不幸を抱えた人間を、いったい誰が救うんだ?」
 そんなものは、屁理屈だ。不幸であろうがなかろうが、救われる人間は救われるし、救われない人間はとことん救われないのだ。助けを求めても無駄になることもあるし、助けを求められる状況にないこともある。助けてくれるのかと思えば、自分の想像と違っていたからと、再び蹴り落とすような人さえいる。
 だけど、そんな答えを彼に伝えて、何になるのだ。そんなの、幸も不幸も全て、単なる巡り合わせでしかないと言っているようなものじゃないか。
「理解されないのを我慢して、受け入れようとして、結局自分だけが排除された人間の孤独を誰が救うんだ? 全員が全員を思いやっていたのに、好意の矛先がずれてしまったせいでバラバラになった人間たちを誰が繋ぎなおすんだ? 虚構にすがって自分を奮い立たせていた人間が、虚構の世界にすら自分の居場所を見いだせなくなったら、どこへ向かえばいいんだ?」
「そんなの……そんなの、わかるわけないよ!」
 救われなかった。救えなかった。
 それだけが現実で、それ以上も以下もない。
 痛い思いをせずに死んだことが、もしかしたらのぞみにとっては、ひとかけらの救いだったかもしれない。
 だけどそれは、きっと『正解』じゃない。のぞみは死んだ。戻ってこない。目の前にいる、この『都市伝説』は、のぞみの命を取り戻してくれるわけじゃない。
「正しい方法なんて……誰も教えてくれなかったじゃないか! 正しい方法があったなら、教えてよ!」
 さっきまでアレだけ勝手にまくしたてていたくせに、彼は僕の疑問に答えなかった。かわりに、彼の腕にいたクマがやや頭をあげて、クリクリとしたプラスチックの黒い瞳を向けた。
「ないよ、正しい方法なんて」
「……のぞみが死なないで済んだ方法があったはずだ」
「ない。後から思いつく方法なんて、ないのと同じだ」
「じゃあ、間違っているのはこの世界だ。こんな風に世界ができてるのが悪い!」
 もう、言っていることがめちゃくちゃだ。自分でもわかっている。それでも――それでも僕は、頭のどこかで、どこかに誰も傷つかないで済む『正しい世界』があると信じたがっていた。
 だって、そう思わなければ、のぞみがただ理不尽に死んだみたいで――。
「世界が間違っているわけじゃない。正しい方法もない。正しくない方法も、正しい方法も、世界の在り方の一つでしかない。だから、この世界は正しくなくても、正しいんだ」
「そんなことない……のぞみが助かる方法が、あった……絶対」
「助かる方法はあった。後から出てくる正解は、正解ではあっても無意味だ。それで世界は正しくならない。必ずしも正しくないのが、この世界の正しさだ」
「そんな……」
 卵が先か、ひよこが先かみたいな、理論でのぞみは死んだのか。
 そう言いたかった。言えなかった。わかっている――本当はわかっている。時間を巻き戻す方法なんてないのだから、起こったことが全てで、結果は変わらない。最悪の結果を認めたくないから、何度も、何度も正しい選択肢を探そうとする。
「だって……こんな風に終わるなんて……間違っているよ……」
 間違っている。正しくない。それでも、不幸な結末を変えることができない、『正しい』世界。
 誰かに不幸を承認されても、救われるとは限らない世界。
 僕は気づいてしまった。のぞみに『痛み』がなくなったとして、それはのぞみがニコニコ笑っていた理由になんかじゃないいうことに。
 ニコニコしていれば母親は機嫌が良くなって、のぞみを愛してくれるかもしれない。実際にはそんなことはなかった。母親は最後まで、のぞみに愛情は向けなかった。いくら小さな子供だって、気が付いたはずだ。笑うことに意味はないと。だって、ご機嫌取りしても無駄だったのだから。
 なら、どうしてのぞみは笑っていたのだろう?
 そんなの、決まっている。のぞみを庇っていたのは、のぞみが唯一信頼していてくれたのは――僕だから。僕に向けて笑っていたんじゃないか。
「ひとつ……聞いていい?」
 彼は、小さく「俺はほとんど何もしらないが」と小さく念を押した。
 ついさっきまで、感情がない作り物のように見えたり、わけのわからない怪物のように見えていた彼が、今はほとんど人間のように見える。同情なのか後悔なのか、もっと他の何かなのか。彼の眼差しには感情がある。彼は、本当は人間なのかもしれない。おばけに近いと言っていたけど、お化けだって死ぬ前は人間だったのだろうから。
「痛みを花に変える、ってさっき言った?」
「ああ。咲く方の花だな。どんな花が咲くかは、君がなくしたいと思う痛みによる。例えば――妹を失った痛みを捨てていくこともできる」
「それはいい」
「だろうな」
 彼は淡々とそう告げた。都市伝説なんて、大体出会ってしまったら最後、特定のことをするまで逃げられないとか、そういうネタが定番なのに、別に自分から何かを要求する気はないらしい。この橋の噂が、さして広がらなかった理由のひとつのように思った。
「僕が今捨てたい痛みで、花を咲かせたら、何が咲くの?」
「やってみなければわからないが……やってみるか? 枯れれば、永遠にそれは君の元に戻らない。散るなら、いつか戻るかもしれない。そういうものだ」
 僕の『痛み』が枯れるのか、散るのか。それすらも、咲いてみなければわからないということか。
 どちらでもいいと思った。どちらであっても――のぞみはもう帰ってこない。
「やってみて」
「……わかった」
 特別に何かをしたわけじゃない。僕に触れたわけでもないし、地面に触れたわけでも。
 ただ、彼が頷いたその時から地面がぽつぽつと光りはじめて、やがてそれは細長く茎を伸ばして、とげのある丸い蕾から、赤紫色の花を咲かせた。
 たまに空き地に生えているのを見る。たしか――。
「アザミ?」
「……花言葉は『復讐』だ」
「…………」
「アザミの花言葉には『独立』というのもあるな」
 ――僕はまだ、中学生だ。
 母親に復讐することも、母親から独立することも、難しいだろう。できないわけではないが、難しい。そして、そんなことをしても『自分が求める正解』は出てこない。
 これから僕は、時間をかけて母親とどう向き合うのか、のぞみのことにどう折り合いをつけるのかを考えなければならない。全て切り捨てるのか、いつか許せる時がくるのか、償わせることになるのか。
 だけどそれは、きっと今じゃない。
「枯れるか、散るかは今決まるわけじゃない。君が決めた時に、そういう風になるというだけだ」
「うん」
「妹の話もきくか?」
「何が咲いた」
「バーベナ。後で調べてみるといい。かわいらしい花だから」
「花言葉は?」
「……『家族愛』だ。安心しろ、彼女はちゃんと持って行った」
 家族愛。のぞみが母から与えて欲しくて、ついに与えられなかったもの。
 あんなに求めていたものを失って、それでも笑っていたのだ。あの小さくてかわいそうな妹は。僕のために。僕のためだけに。
 もしかすると、のぞみは自分を助けることで、僕まで自分と同じ目にあうと考えたのかもしれない。僕に危害が及ばないように、小さな頭で一生懸命考えて、そして「いなくなろう」と考えたのかもしれない。それで安心だと。
「……復讐なんて、意味ないよ」
 僕は、決めなくてはいけない。僕のために笑って、僕のためだと思って死んだのかもしれない妹の死を、せめて『間違い』にしないために。
 この正しくない正しい世界で、幸せになる方法を探すのだ。
 赤紫の細くて弱弱しい花びらが散って、風に乗って溶けていく。

Re:閑話:彼らと形而上の善悪論

 少年が去った後、彼はしばらく橋を見上げていた。
 地上では、まだアザミの花が少しずつ散っていく最中だった。人を傷つけるトゲを持った花。彼の復讐心の残滓。
「おいハナ、お前、さっきしばらく水の中沈んでたよな。何ですぐあがってこなかった?」
 クマのぬいぐるみが、彼の小脇にかかえられたまま、やや猜疑心に満ちた声音でそう尋ねた。
 彼はそっけなく答える。
「景色を見ていた。川底から見える空。案外この川の水は透明だな」
「お前な、もちろん、そういう状況になかったのわかってるよな?」
 腕の中から身をよじって地上に転がり落ちると、クマはぽふぽふと彼の足もとを叩いた。といっても、綿しか入っていない手でたたかれても、重みがない。
「僕は前にもあんな風に、川に沈んだことがある気がする」
「…………そうか」
 クマのぬいぐるみは、腕を精いっぱいにもちあげて、彼の包帯で巻かれた腕を指した。
「それを取ってみな、ハナ」
「……取れるのか、これ」
「巻かれているだけなんだから、そりゃ取れるだろ」
 どこか釈然としない顔で、彼は右腕の包帯を解いていく。ぱらぱらと細長い白い包帯が地面に落ちて、肌が見えた。
 赤くただれた肌。火傷の痕。
 彼は、ちらとクマのぬいぐるみを見やる。黒くすすけて、ところどころが焦げたぬいぐるみ。
「僕は……君と一緒に燃えたのか?」
「正確に言うと、燃やした、の方が近いな。でも俺は別にお前に燃やされた覚えはないぞ」
「…………」
 火傷、熱の感触、水の底から見えた世界。
 正しくて、正しくなくて、ただひたすらに『行動に対する結果』だけを突き付けてくるのが、この世界だ。彼はひとまず、この世界をそういう風に定義することにした。
 それがこの社会にとって善であるか悪であるかは、関係ない。
 結果がどうなるかはわからない。どれだけ不幸になっても最後まで愛を持っていた幼い子供も、自分が死んで星になるなんて思っていなかっただろう。どうにもできない復讐心を捨てて行くしかなかった少年も、これからどうなるかなんて誰もわからない。彼にも、あの少年本人にも。
「なぁ、ハナ」
 ハナ。このクマが付けた仮の名前。花を咲かせるハナ。男には不向きなあだ名だ。
「俺もお前に聞きたいことがあるんだ」
「君の方から聞くのは珍しいな」
 いつもいつも、彼の方からこのクマのぬいぐるみに尋ねてばかりいた。何もわからない。名前も、過去も、未来のことも。自分が本当はどこかで生きているということも、推測でしかないのに――。
 それなのに、このクマ――ポラリスはこう言ったのだ。
「お前、どうして俺に『ポラリス』って名前をつけたんだ?」
 その答えを、多分彼は知っていた。だけど、答えは出てこなかった。黒く澱んだ霧の向こう側にあるはずのその『理由』を前に、彼はいつも『ポラリス』が言っていたあの言葉を投げつけるしかなかったのだ。
「君が知らないことを、僕が知っているわけないだろう?」

しおり