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クロッカス/空気は友達になれない

プロローグ:彼らの哲学的命題

 痛みとは、何だろう?
 叩かれたら痛いだろう。血が流れたら痛いだろう。
 だけど、血の流れない『痛み』は、誰が、どうやって知るのだろう。
 それが自分には、よくわからない。
「お前が知らないことを、俺が知るわけないだろう」
 彼は、『ポラリス』はそう答えて、黒々とした眼差しを向けた。
「けがをしたわけでもないのに痛いというのは、どういうことだ」
「哲学的な質問だが、それがわからないからお前はだいぶヤバいんだぞ」
「そうか?」
「そうだよ。あと、何度でもいうけど、お前がわからないことを俺が知るわけないからな」
「身体のつくりが違うからか」
「それは事実だがそういうことじゃない」
時として『ポラリス』の語ることはひどく曖昧で、それこそ『哲学』のようだ。
答えの出ない問いは、すぐそこを流れている川の水音と混ざり合って消えて行く。
「どちらもわからないなら、知りようもない」
「思考を投げるな。考える頭がないのか。だからお前はずっとここにいるんだ。推測しろ」
「難しい注文だ」
川辺を風が駆けていく。名も知らぬ草花が揺れる。
それを一緒に眺めながら、『ポラリス』がぽつりと呟いた。
「多分、花のようなものじゃないか」
「何が?」
「お前の疑問の話だよ。痛みとは何か」
「花……?」
 育つもの、咲くもの、散るもの、枯れるもの。
 そういうものが『痛み』の正体なのだとしたら、自分の『痛み』はどんな花だったのだろう。
 わからない。
 わからないからずっと、自分はここから離れられずにいる。
「痛みが花になるなら――」
 この場所にどれだけ花を咲かせれば、自分には『それ』が理解できるのだろう?

「今日は誰か来ると思うか、ポラリス」
「そんなの、俺に聞くなよ」

 誰も聞こえない声で、いつかは誰かに聞こえるかもしれない声が、そう述べた。

Case.1:クロッカス/空気は友達になれない

 私、笹野智香は、空気だ。
 空気だから、そこにいても、普段は誰も気にしていない。たいして好かれもしなければ、嫌われもしない。
 そんな私にも友達はいる。むしろ、学校で友達の一人もいないなんて、クラスで浮きまくりだ。そこそこに友達がいるということも含めて、私は空気なんだ。
 私の『友達』は、中学以来の友人である入江真菜と、彼女の仲間たち。
 入江真菜――マナは、友人たちの中心だ。彼女には特に仲が良い小原未央――ミオちゃんという親友がいて、その下に何人かの友人グループがいる。何となくかたまってできた女子の友達グループ。私もたまたま、マナと中学から友達だったから、グループに自然に加入していただけ。
 女子に限らず、どこの学校でもよく見る、ありがちな学校内の人間関係がここには存在している。ほんのりとリーダー格が決まっていて、その下がいる。
 私はヒエラルキーの一番下。空気。
 何となくグループの中にいて、何となくいても邪険にはされなくて、特別大事にされることもない。そういう空気。いじめられているわけでもない。皆で一緒に遊ぶ時は呼ばれる。誰かだけで行く時は呼ばれない。
 たまに呼ばれるのを忘れられることもある。そういう空気。存在感ゼロ。
「トモカはもっと自己主張しなよ~」
 しています。結構しています。みんな聞いていないだけです。自己主張が過ぎると「え、今その話をするの?」って顔をされるので、そこから先にいかないだけです。
 そうは言えないので、曖昧に笑う。
 みんなが好きなテレビやドラマの話が、私にはいまいちピンとこない。最初はかみ合っていたはずの話題が、だんだんかみ合わなくなっていく。無理してノってみても、ノリきれない。私が興味のある話をしても、みんなまともに取り合わない。だって、興味がないから。
 いつか、自分も話題に入れる機会がある。いつか、私が好きなものをみんなが気に入ってくれることがある。だけど、なかなかその機会が巡ってこないまま、ズレだけが大きくなっていく。好きなことを主張すれば空気が読めない人になるから、だんだん空気になっていく。空気が読めない空気って、何その皮肉。
 みんな、マナが好きなものが好き。マナはミオちゃんの好きなものなら、大体好きになる。
 だから、みんなマナとミオちゃんが好き。
 私は――どうだろう。二人とも、面白いし、明るいし、好きだとは思うけど、趣味はそこまであわない。趣味が合わなくても、話が合う人はもちろんいるのだろうけど。
 何だかこの空気が最近は、重苦しくてとても痛い。
 友達でいたいのに、友達といて楽しいのに、たまに自分の『空気』ぶりに耐えられなくなる。
 ――いっそ友達なんてやめられるほど、一人でも生きていけるほど、強くなれたらよかったのに。
 そしたらきっと、この痛い空気から抜け出して、『空気』じゃない自分になれるかもしれないのに。
「そういえばさー、なんだっけ?ハナサキ橋だっけ?ウワサになってたよね」
「えー、なんだっけ?春頃だっけ?実際行ってみた人いるのかな」
(あれ?何の話?)
 いつから話題が変わっていたのだろう。私は気づいてもいなかった。会話にほとんど参加していない、ただいるだけだから、あまり真剣に聞かなくなっていた。こうなったのも、いつからだろう。
 それとなく耳を傾けていると、昨晩やっていたバラエティで都市伝説の特集をやっていた話から流れてきたみたい。
「何それ知らな~い」
「都市伝説だよー。その橋の下に行くと、一番『痛い』ことをひとつ、捨てられる」
「痛いことって何? 意味わかんなくない?」
 都市伝説なんてどれも曖昧で不確かなものだけど、花子さんでも口裂け女でも何でも、わかりやすい象徴的なものがある。どんなものが出てくるか、そうすれば何ができるか。信憑性はないけど、そういうオチみたなものがちゃんとある。
 この噂がパッと出て、だけどすぐに忘れられたのは、あまりにも曖昧でわかりづらくて、何をすればどうなるのかさっぱりわからないからだ。だから試してみよう、やってみよう、という人がいない。私だって、本当にこの瞬間まで忘れていた。
「っていうか、そういうこと信じて実行するのがイタくない?」
「確かに~」
 みんな笑っていたけれど、私はあまり笑えなかった。
 痛い、痛い。
 私だけが笑っていないことに、誰も気がつかないこの空気が痛い。

***

 そこは、特になにかいわれがあるわけでもない場所だった。歴史だって大してない。新興住宅街を分断して走る川にかけられた橋だ。昔この地に何かがあって……なんてエピソードだって、きっと出てこない。そんな根拠がある話なら、もっと皆の記憶に残っただろうから。
 河川敷が散歩できるようになっていて、橋の片側には河川敷に降りられるような階段がついている。ただ、あまり整備されていないようで、手すりはさびて雑草だらけだ。
 噂では、『きさらぎ駅』とか、異世界に行ける駅みたいなノリで、『はなさき橋』と呼ばれていたけれど。
「花井橋じゃん……」
 この地区が花井という場所だから、かけられた橋も花井橋。本当に、ただの小さな橋だった。普通すぎて名前もきちんと憶えられていない橋だ。
「何でわざわざ住所まで調べちゃったんだろ」
 ため息をひとつついた。さすがにあの場で詳細な場所を聞くのははばかられたので(多分知っている人もいなさそうだったし)ネットでしばらく地元関連の噂を検索してしまったのだ。そんな苦労までして調べて、本当にただの微妙な橋だったので、がっくりとしてしまった。
 それでも、あの微妙な『痛さ』から逃げられるなら、やってみてもいいかもしれないと思ったのだ。
 ――ここでは、自分にとって『痛いこと』をひとつ捨てられる。
 漠然とした都市伝説。『痛いこと』は何でもいいらしい。ケガの痛みでもいいし、辛いことがあったとか、そういう曖昧な感情の問題でもいい。
 ただ、このやりどころのない、時折胃をギュッと掴まれるような息苦しさ、胸の痛さから解放されたかった。理屈はどうでもよかった。占いでも、おまじないでも、都市伝説でも、何だっていい。
 錆びついた手すりを握って階段を下りる。
 特に何もない。雑草でところどころ割れた、アスファルトの遊歩道があるだけ。
「そうだよねー。何もないよねー」
 現実に、そんな不可思議なことは起こらない。ここはただの河原。私の自己満足で来ただけ。
 少しいたたまれない気持ちにはなったけれど、誰にも見られていないし、知られることもないのだからどうでもいいのだ。
 帰って漫画でも読もう。気分転換は大事。そう、思って――。
「何か用か」
 無愛想な声が響いた。
「ひゃっ!?」
「幽霊を見たような声を出すな」
「似たようなものじゃないの?」
 振り返ると、先ほどまでは何も、誰もいなかったはずのその場所に、男の子が立っている。多分高校生くらい。高校二年の私と、それほど変わらない。
 とにかく無愛想で、怒っている風でもなく、笑っているわけでもなく、表情らしきものが恐ろしくない。仮面みたいに無表情。その無表情の男の子が、何だかボロボロになったクマのぬいぐるみを抱えている。
 それだけでも、何だか頭の中に疑問符がたくさん浮かんできたのだけど、彼の腕にぐるぐる包帯が巻かれているのを見て「何となくヤバいのかな」と考えた。
 幽霊でも生きている人間でも、包帯まみれの腕でボロいぬいぐるみを抱えている男子、という絵面が何となく、普通じゃない。はっきりと言えば、ちょっとイタい人に見える。
「おい、何かいえよ」
「口が悪い」
「………………腹話術?」
 今、ぬいぐるみからも声が聞こえたような。腹話術だとしたらそれはそれで、イタい人率が跳ね上がるけど、ぬいぐるみが喋ったのなら――。
「腹話術じゃないっての。おい、離せ、勘違いされてるぞ」
 包帯男子の腕からクマのぬいぐるみが飛び出して、私の足もとにぽふぽふと軽い足音を立てて歩み寄ってきた。しばらく思考停止。
「えーと……………………ラジコン?」
「違うっての」
 答えたのは、クマの方。
「…………幽霊?」
「多分、そっちの方が近い」
 答えたのは包帯男子の方。
「ゆうれい…………」
 再びしばらく、思考停止。
「幽霊さんは……都市伝説の……痛みがどうのとかいう……アレですか?」
「質問が漠然としているな。多分、そうだ」
 包帯男子は意外ときちんと喋る。表情は全く動かないけど。
「そこのクマはポラリスという名前だ。何かよくわからないが、動くし喋る」
「え、わからないの?」
「僕は気づいたらここにいたし、そのクマも気づいたら動いて喋っていた。ポラリスという名前は僕が付けたらしいけど、正直全く覚えがない」
「……はぁ」
 状況がよくわからなくなってきた。それと同時に、何となく危機感もそがれてしまった。別に話しても危ないことはなさそうだ。
「こいつ、ここに来る前のこと覚えてないんだよ」
 クマ――ポラリスが、どことなくドヤ顔でそう答える。正確にはぬいぐるみに表情はないけど、声音からなんとなくドヤ顔をされている気がした。包帯男子よりもよほど感情豊かだ。
「で、貴方の方の名前は」
「知らない。覚えてない。少年Aでいい」
「それじゃ犯罪者だよ……」
 さすがにそれはあんまりすぎる。どう対応すればいいのかわからなくなっていると、心なしかドヤ顔(のような気がする)ポラリスが、かわりに答えてくれた。
「そいつは通称ハナちゃんだ」
「ハナちゃん」
 思わず繰り返してしまった。
「男だけど、まあいいだろ。どうせ通称だ。本人名前覚えてないからな」
「……ハナちゃん」
 心なしか、全く表情が変わらなかった少年Aの眉間に、ややしわが寄った気がする。せめて、ちゃん付けは辞めておこう。ほんのりとそう思う。
「それで、ハナさんはどうしてここに」
「それは僕の方が聞きたい。覚えていないんだ。とりあえず名前がハナさんでないことは確かだ」
 やはり不本であるらしい。
「えーと、じゃあ帰ります……」
「アンタ何しにきたんだ」
「何をしにって……」
 都市伝説が本当にならないかな、と謎の期待をして。
 そんなこと言えるわけがない。目の前にいる、よくわからないクマとハナ(仮)を前にしてもだ。そんなこと、あるわけがない。信じてきたくせに、認められない。
 冗談であってほしい。何もなければ、ちょっと散歩しただけだと思って、自分一人が恥ずかしいだけで、終わるから――。
「君がここに『痛み』を捨てに来たようだから出てきたのに、もう帰ろうとする。だから、何をしに来たんだ聞いている」
 ――終わらせたいのに。
 何でもひとつ、痛みをひとつ、捨てられる。
 ふんわりとして、現実感のない、都市伝説。それが目の前の包帯男子&変なクマのぬいぐるみ。
「いやだって、そんなこと、できるはず……ないし」
「信じる、信じないは任せる」
 ピクリとも表情を変えず、ハナ(仮)が淡々とそう告げた。
 何もないところから、音もなく現れた彼。喋るクマのぬいぐるみのポラリス。ポラリスはよく見ると、古びてボロボロなわけではなかった。焦げて、すすけている。何故、どうして、なんて今更思わない。
 だって、彼等は『幽霊』に近いものだと言ったのだ。だから、きっと「そういうもの」なのだろう。
「君の『痛み』は俺が咲かせる。だけど、その先にあるものの保証はしない」
「咲かせる?」
 思っていたよりも哲学的な話になって、私は首をかしげる。もっとこう、光ったり、変な呪文を唱えたりとか、そういうものかと思っていたからだ。
「痛みとは、花に似るもの。とそこのクマが言っている」
「おい、ハナ、俺に責任転嫁するな。俺はお前のよくわからん質問にテキトー言っただけだ」
「テキトーでも何でも言ったのはお前だ。何にしろ、僕には何故か知らないがそういうことができるらしい。痛みを何でもひとつ花に変える」
 なるほど、それで彼は『ハナ』という似合わない仮名をポラリスにつけられたわけだ。
「はなさき橋って名前と勘違いされたの、そのせいね」
「ん? この橋、そう呼ばれてるのか? いるのは花咲かじじいじゃなくて、兄ちゃんだけど」
 ポラリスが横やりを入れるのを軽く小突いて、ハナはややため息を混ぜながら続きを述べた。
「何が咲くかは君の『痛み』の種類による。僕は『痛み』とは何かを知りたい。花は単に、俺にとって目に見える形が、たまたまそれだったんだろう」
 都市伝説が曖昧になる理由がわかった気がする。哲学的すぎる解説で、困惑しかない。
「教えてくれ。何でもいいんだ。僕は本当に、知りたいだけだ。別に何かを引き換えにしろとは言わない。ただ……」
「ただ?」
「痛みを花に変えた後、君の心境がどう変化しても、僕は責任を持てない。だから、『痛み』がなくなることの意味は良く考えてくれ」
 願い事には、叶えるために何かを犠牲にしなければいけない。良くある話だ。それなのに、ハナはそれもいらないという。ただ、痛みを花に変えるだけ。
 その先の意味を考えろというからには、それはハッピーエンドを迎えない可能性ももちろんあるということだろう。実際に、都市伝説を実行して、失敗した人もきっといるのだ。
 ――それでも。
 ずっとずっと、この心のもやもやを、息の詰まるような胸の痛みが消えてしまえばいいと思っている。友達なのに、友達でいたいのに、どんどんズレていくことが哀しくて苦しくて痛いから、こんなものがなければもっと気楽に毎日を過ごせると思っている。
 友達に、友達として扱われていないことなんて、気にしないようになりたいだけ。
「いいよ。私の『痛み』でいいなら」
 だかた、私は決断をしなければならなかった。
「そうか」
 ハナの答えは短いものだった。ただ、無表情な彼が少しだけ、ほんの少しだけ目をそらして、どこか懺悔でもするように何事かと呟いて――。
 その時、ぼんやりと、河原一面の空気が変わった気がした。いや、実際に変わったのだ。薄汚れた、ひび割れだらけのアスファルト地面が、うすぼんやりと光りはじめる。
(な、何これ……)
 光はやがて、次々に様々な色の花に変わった。紫、赤、白。緑の細長い小さな葉。葉に不似合いなほど大きな花弁。その花は。
「クロッカスかぁ。お前、意外なもの咲かせるなぁ」
 ポラリスがどこか呆れたような声音でそう言って、小さな体で私を見上げた。河原一面の、クロッカス。
「言っておくが、選んだのはお前だからな。苦情は受付ないぜ」
「ク、クマ……」
「ポラリスだって言ってんだろ」
「この花……どうなってるの?」
 ハナは『痛み』を花にすると言ったけれど、こんな風に一面に咲き乱れるとは思わなかった。
 クロッカスは風に揺れながら、鮮やかな色彩で河原を埋め尽くしている。この時期に咲く花じゃない。それくらいは私も知っている。春先に、通学路にある花壇で見たことがあるから。
「あ、あのさ……もし、この花が枯れたらどうなるの?」
「お前がやっぱりこの『痛み』が必要だと思えば、勝手にこの花は散るし、『痛み』もお前に戻る。お前がこんなものいらないって思えば勝手に枯れる。お前の元には戻らない」
 ハナは答えない。ポラリスが、かわりに私の疑問に答えてくれた。
「そう……そう、なんだ」
 クロッカス。
 私の友達への屈折した感情は、クロッカス。
「本当……意外と綺麗な花だね……」
 どうしてか、そんな感想しか出てこなかった。咲くのなら、もっと気持ちの悪い花が咲くかと思った。ハエトリグサとか、ラフレシアとか。本当に、醜くてどうしようもない花が咲くような気がしていたのに。
 私が満足いくまで花を眺めて、ようやく家に帰ることを決めるまで、ハナはそこにずっといた。
 ポラリスはとりとめのない話をしていたけれど、ハナは何も話さなかった。ただ、クロッカスの花をじっと、何か探し物でもするみたいに端から端まで見て回るだけだった。
 多分、探し物は見つかっていない。

***

  ――私は空気だ。
 空気であることを、私だけが自覚している。
 ただ、グループのメンバーを水増しするだけの、人の形をした空気。
 痛みを引き換えにするということを、私はその時はまだあまり実感していなかったと思う。
 変にもやもやすることがなければ、友達として問題なくやっていける気がしていただけ。あるいは、友達との関係を気にかかることすらなくなるだけ。そんな風に、思っていた。
 学校は、クローズドサークルだ。
 クラス替えがない限り、毎日同じ教室で、同じ顔ぶれと会うことになる。
 クラスが変わったところで、完全に人間関係が清算されるわけでもなく、学年、部活、帰り道、色々な場所で繋がって、それは少なくとも卒業までは続く。
 私たちは、どれほど心にもやもやを抱えていても、表面上は仲良く正しく生活しなければならない。
 泣いても、笑っても、ケンカをしても、元通りに生活をしていかなければならない。
 それが社会性を育むと言えば、そうなのかもしれない。そうやって、自分の感情に折り合いをつけながら人とつながっていく術を覚えていかなければならないのだろう。
 それを、私はいまいちわかっていなかった気がする。
「それでさ、昨日のドラマでさー」
「あ、見た見た! 超カッコ良かったよねー」
 結果的に言えば、『痛み』がなくなっても、私の心の中にあるもやもやは特に晴れなかった。
 マナとミオちゃんは今日も楽しそうで、皆もそれを見て楽しそうにする。
 今日も変わらず、ノリが悪いのは私だけだ。ただ、居心地の悪さが消えた分やや冷静に自分の立場を見ることができて、改めて私だけがこのグループ内では空気で、異端なのだとわかっただけ。
(最初はこんなのじゃなかったんだけどな)
 マナたちと友達になった時のことを思いだそうとして、いつだったか、なんだったかなかなか思い出せなくて、ようやく『同じマンガが好きだった』というきっかけだったことを思い出した。
 そのマンガは今も大好き。ずっと好き。語ろうと思えばいくらだって楽しく語れる。
 だけどマナはそうではなかっただけ。興味の対象がすぐ他に移った。ミオちゃんは、私が好きなものを、あまり好きにならない。だからだろう、ズレていったのは。
 ミオちゃんが嫌いなわけではない。仲良くなりたかった。だけど、あまり合わなかった。マナは私よりも、ミオちゃんとの方が、もっと仲が良かった。ただそれだけのことだ。別に何の不思議もない。
 いじめられていたわけではない。仲間外れにもされていない。
 上手くやれないもどかしさからくる心の痛みがなくなれば、それにともなって罪悪感や後ろめたさも一緒に消えてしまった。友達なのに、友達の中で立ち回ることが下手な自分が申し訳ないとか、そんな考えが抜け落ちたみたいだ。
 はっきりと言えば、冷めたのだと思う。
 閉じられた狭い人間関係。誰かとケンカするなんて珍しいことではないけれど、決裂してしまったらどうなるかわからないほど、バカじゃなかった。だから、ずっと『合わないけどそれはたまたまだ』と思い込んでいただけだ。
 苦しさや痛みの正体は、多分『期待』だった。いつかどうにかなれる。少なくとも嫌われていない。みんなの輪の中に入ることは許されている。その程度には好かれているのだから、いつかは皆と同じように笑うことができるという期待。それが『痛み』と一緒に消えてなくなった。
 私はどうしてここにいるのだろう。
 ――私は、いつからこの中で『友達』でいられなくなったんだろう?
 今日も明日もずっと空気だ。昨日も一昨日もその前も。
 マナやミオちゃんからみれば、私の重さはそんなものだった。天秤にかけたって、空気の重さなんて計ることはできない。
 空気とは友達になれるはずがない。空気を友達なんて呼ばない。
 私は、自分が『空気』と感じた時点で、とっくに友達から外れてしまったんじゃないか。ただ、狭い世界で『友達』じゃなくなることのリスクを天秤にかけられて、それとなく存在を許されていただけなんじゃないか、って。
「なんか最近、トモカおとなしいね」
 マナが、ふと私の存在を思い出したようにそう言った。
 前なら、こんな時嬉しかった。自分の存在がようやく認知されたようで、調子に乗っていらない話をして、ミオちゃんあたりに少し白けた顔をされたりして、それでまた黙る。
 何を期待していたのだろう。このグループではマナとミオちゃんが正義だから、少なくともミオちゃんと合わなかった時点で、私は空気から昇格することなんてない。マナも、そこまで私を好きじゃない。友達だけど、そこまで大事にするほどではない。その程度だから。
「何かあった?」
 今更、どうして友達のような事を聞くのだろう。本当は興味なんてないのに。今までそんなこと、聞いたこともないくせに。
「私って、みんなの何かな? 本当に友達なのかな?」
 だから、言ってしまった。思った事を口に出してしまった。
 マナが傷ついた顔をして、皆が驚いた顔をして、ミオちゃんが怒った顔をする。
 それでも、口に出してしまったものは止まらない。
「都合のいい時だけ、数字合わせみたいに友達扱いされて、気が向いた時だけ話を振られて、誰も私の話は聞いてなくて、それって友達なの? 私、友達なの?」
 今まで本当は薄々感じていて、叫びたくてたまらなかったことが溢れてくる。
 ――私は本当に『友達』なの?
 何も見ていないのに、何も聞いていないのに。私の話には興味がなくて、ずっと真面目に聞いていなかったくせに。何をどうしたら『友達』なのか、私にもわからない。
「ねえ、答えて。マナ……、私たちはいつから友達じゃなくなったの?」
 私の考える『友達』と、マナやミオちゃんの考える『友達』の定義がわからない。
「……酷い。私、ずっとトモカは友達だと思ってたのに」
「そうだよ、トモカ、急に何言いだしてんの」
「謝りなよ」
 皆が口々に言う。誰も私の味方はしない。
 それはそうだろう。狭いコミュニティをわざわざ破壊しているのは、私。誰がどう見ても、今、余計なことを言って波風を立たせているのは私。
 マナが泣きはじめた。ミオちゃんが何か言っている。何を言っているのか、よく聞こえない。
 今が放課後で良かった。さすがにマナが泣きはじめたあたりで、周りがざわつき始めた。昼休みだったら、この後に更に授業があったのだ。いたたまれないどころじゃない。
 ――『痛み』がないというのは、こういうことだ。
 マナが泣いても、ミオちゃんが怒っても、私はモヤモヤとした二人への疑念が湧くばかりだった。
 申し訳ないと思うことができない。私の『痛み』はあの河原においてきてしまったから。私の『痛み』は『いつか二人に友達として認めてもらえるという期待』でできていたから。それがなくなったら、もう何もなかった。
 私は空気で、二人の友達ではない。
 そう感じた時点で、私の中でも、二人は友達じゃなくて、空気と同じになっていたんだ。
 ただただ、居心地が悪いだけの『空気』になっていたんだ。
 ――これから、どうしよう。
 まだ、高校二年。あと一年と半分くらい、私はこれから『友達』をクラスメイトの前で傷つけたはみ出し者になる。
 だけど、もう私は『空気』じゃない。
 空気だって、強く吹けば『嵐』になるだろう。
 静まればその内忘れられるのかもしれないけど、それでも――私は『空気』なんかじゃない。
 誰に憎まれても、恨まれても。
 それは存在され認められないことと、どちらがマシなんだろう?

***

 橋の下には、彼らがいた。
 最初から、私が来ることがわかっていたみたいに、そこに立っていた。
「……自己責任だからな」
 ポラリスが、念を押してくる。
「わかってるよ」
 私は河原にかがんで、散っていく花を見ていた。
 鮮やかな色をしていた、クロッカスの花。それが、どんどん散っていく。花びらが風に舞って、空気の中に溶けて消えていく。
 私の『痛み』が、私の中に帰る。
 涙が、頬を伝って落ちた。
「……哀しくないわけ、ないじゃない」
 友達になりたかった。友達でいたかった。友達になれなかった。友達を捨ててしまった。
 全部自分が選んだことで、自分が望まなかったことだった。
 戻ってきた痛みと一緒に、涙がどんどん溢れてくる。結局『空気』にしかなれなかったのも、知らないうちに皆を『空気』にしたのも、自分自身でしかない。自業自得だと言われても仕方ない。
「それでも……友達でいたかった……」
 空気とは友達になれない。空気はいてもいなくても、どうでもいい。ただ、強く風が吹けば、嫌がる人が多いというだけ。
「私だって、皆と同じものを好きになりたかった……皆と同じものに興味を持ちたかった……皆にも……同じものを好きになってほしかったよぉ……」
 どうして、最初に好きになったものを、最初に心を繋いだものを、ずっと好きでいてくれないのだろう。どうして、皆が次々好きになる色んなものを、自分は好きになれなかったのだろう。
「私の努力が足りないの? 私の性格が悪いの? ずっと同じものを好きではいけないの? 皆と同じものをそろって好きじゃなければ、友達でいられないの?」
 きっと――本当は、皆がどこかで、周りに合わせながら生きていて。
 きっと――私が、皆よりも上手くできていなかっただけ。
 何となくそれはわかっていて、だからこそ、どうして自分だけ、という思いも捨てきれない。
 ノリが悪い。空気が読めない。ダメな自分。本当にそれだけだろうか? 息苦しくなって、痛くてたまらないいばらの道を歩くことが、本当に『友情』なのだろうか。
 誰もそれが『正しい』なんて、証明することができないのに。『友達』の輪の中で多数決されたものが、天秤にかけられて重かったものを支持していくことが、本当に『友情』の証明になるのだろうか。
 私の天秤がどちらに傾いているかなんて、誰も気にかけたりはしないのに。
「…………」
 ハナは私の疑問に、答えなかった。ただ、河川敷に座って、花びらが消えていく様をじっと見ている。
 やがて、ぽつりと、独り言のように小さく呟いた。
「クロッカスの花言葉は『青春の喜び』だ」
「……何それ……、私の青春、散っているじゃない」
「だが、紫のクロッカスに限って言えば、花言葉は『愛の後悔』になる」
 それを聞いた時の私は、ハナにはどんな風に見えただろう。きっと酷い顔をしていたんだろうと思う。
 ハナは別段笑わなかった。彼も、ポラリスも、ただ散る花を見送るだけだ。
 そして私は、彼の足もとにまだ数輪のクロッカスが残っているのを見つけた。紫でも白でもなく、黄色いクロッカス。
「ねえ、黄色いクロッカスの花言葉は知ってる?」
「黄色は……『私を信じて』だ」
「……はは、そっか……そっかぁ」
 散らないまま、枯れた花の『痛み』は帰ってこない。
 最後の最後まで残ったのは、結局『信じて欲しい期待』だった。
「どうする?」
 短くそう問われて、私は首を横に振る。
「放っておいて。勝手に枯れると思うから」
 他の花と一緒に散ってしまわなかったのだから、それはもういらないのだ。なくてもいいのだ。
 期待されたいなんて、思わなくていいのだ。
「私は、これからは私の信じたいものを信じるから」
 ――だから、さようなら。空気だった私の『期待』。
「そうか」
 返事も、短かった。
 花が散る。一面のクロッカスも、残っていた黄色い花も、全てが風で舞い上がって、夕方の金色の中に溶けて。
 そこにはもう、少年の姿も、クマのぬいぐるみの姿も残っていなかった。
「……さよなら」
 この橋が、なかなか都市伝説にならない理由がわかった気がする。
 曖昧でわかりづらくて。それも多分あるのだろうけど。
 こんな痛くて、恥ずかしくて、滑稽で――こんなことを、誰かに話すことなんてできない。
 痛すぎて、誰にも言えない。
「ありがとう」
 痛くて恥ずかしい自分を、少しだけでも持って行ってくれて、ありがとう。
 狭い、狭いあの『友達』の世界で、私はこれからつまはじきになって生きていくけれど。
 きっと今日のことを後悔することもたくさんあるのだろうけれど。
 それでも、この『痛み』が教えてくれたものは、誰にも言えなくても、何にもならなくても、一生忘れたりはしないだろう。

Re:プロローグ:彼らの哲学的命題 After

「なぁ、何で僕は花言葉なんて知っているんだろうな」
「お前が知っているからだろ」
「答えになっていないが」
「お前が知らない理由を、俺に聞くなと言ってるんだよ」
 散る花を見送って、数日後。
 今日も一人と一匹は、橋の下で哲学的命題について不毛な会話を続けている。
「それよりもさ、お前、オキャクサンを無視したな」
「オキャクサン?」
「来てただろ。あの女の『オトモダチ』だよ」
 確かに、一人、この橋の下に来ていた。
 クロッカスの女子と同じ制服を着た、歳も同じくらいの女子。
『トモカがここに来ていたっていうから』
『あんなののこと忘れなよ。シカトしてたじゃん』
『それは私たちが無視してたからでしょ』
 友人らしき女子と、騒がしく河原を右往左往して、やがて諦めて帰って行った。
 彼女たちに、『トモカ』と同じことをしてやろうと思えば、きっとできたのだろう。
 だが、彼はそれをしなかった。
「黄色いクロッカスは、もう枯れていたから」
「あー、うん、なるほどな」
 トモカというあの少女に、彼ができることはもうない。彼女は選んだし、選ぶように仕向けたのは結果的には自分だ。
 そして――。
「あの女子に頼まれて花を咲かせても、黄色いクロッカスしか咲かないぞ」
「……そりゃやめた方がいいな、ウン。お前、いい判断したぞ」
 ポラリスが珍しく、同意を示してきた。
 いつも、何かしら難癖をつけてくることの方が多いので、彼としては拍子抜けである。
 『トモカ』の心に、信じて欲しい気持ちすらなくなっているなら、『友達』の後悔を取り去ってやることにも、意味などない。『友達』の中に生まれた彼女への罪悪感を消して、正当化することにしかならない。
「青春に後悔はつきものだ。十年も経てば黒歴史になるんじゃないか?」
「そういうものか?」
「多分そうだよ。花だって、ずっと咲き続けるわけじゃないだろ」
 何度も散って、種を残して再び根を張り、また咲いて。
 そうやって花は続いていく。
「痛みは何度も繰り返すもの、ということか?」
「そうは言ってないけど、そういうこともあるよな。枯れてなければな」
 何度も、何度も。青春の喜びは散っても、再び花は咲く。痛みを伴っても、それはいつか青春の思い出の一部になる。
 『トモカ』の中でも、いつかそうなる日がくるのだろうか。
「痛みが喜びに変わることなんてあるのか?」
「それじゃただのマゾだぞ」
「たとえ話だ。痛みの記憶が救いになることは、あるのか?」
 ポラリスはプラスチックの瞳で、じっと彼を見上げて、そしていつもの言葉を繰り返した。
「お前が知らないことは俺も知らないよ。自分で考えな」

しおり