バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

ワスレナグサ/知らないどこかでお幸せに

閑話:彼らの哲学的方法論

 花井橋は、特別特徴もない、新興住宅地の中でも割合古い区画にかけられた川のたもとにある橋だ。
 川はさほど広くもなく、小川というほど細くもなく、そこそこに整備されて、そこそこに放置されて、コンクリートブロックで固められた川べりにも、川の脇を通るアスファルトの遊歩道も、やや雑草に侵略されている。
 その、どこにでもありそうな、地味で目立たない橋の下に、一人と一匹はいるのだった。
「誰もこないな」
「ここ、ただの橋だからな」
「僕たちは都市伝説だったんじゃなかったのか」
「都市伝説になるにはあと数年がんばらないとダメだろ」
 無意味な会話が、川の流れる音と混ざり合って消える。
「僕はなんでこの橋の下にいるんだろううな?」
「お前、今更そこに疑問を抱くのかよ」
 誰にも聞こえない声。誰にも聞かれない声。
 一人は左腕に包帯を巻いた、歳は十七、八ほどの青年。
 一匹は、ところどころ焼け焦げてくすんだ色になっているクマのぬいぐるみ。
 彼らはずっとこの場所にいる。春も夏も秋も冬もずっと。どれくらいの時間が経ったのかはよくわからない。
 もしかすると、四季が何度か巡ったと思い込んでいるだけで、実は数ヶ月もいないのかもしれない。もしかすると、十年も二十年もここにいるのかもしれない。花井橋は新興住宅地にある歴史の浅い橋だが、それでも整備のイマイチな欄干がところどころ錆びる程度には古びている。
「何でこの橋の下にいるのか、今まで考えても仕方がないと思っていた」
「いや待てよ、考えろよ。割と大事だろ、そこは」
「確かめる方法がない。僕も君もここから動けない」
 あまりに暇だから、彼らにも河原を散歩してみたこともあった。しかし、どこへ歩いても、気がついたら彼らはこの橋の下にいた。橋の上に昇ることすらできない。無限回廊のように、どこに言ってもこの場所に繋がってしまう。
「ここから動けないから、誰かが来るのを待つしかない」
「そうだな」
「だが、誰もこない」
「そりゃ、滅多にこないだろ。こんな場所に」
 何せ、ただの橋だ。多くの人が、ただの通り道としてしか認識していない、周りに特別何かがあるわけでもない場所。
「もっと有名な都市伝説になるしかないのか?」
「いやいや、その前にどうしてこうなったのか考えろよ」
「だから、さっききちんと、どうしてこの橋にいるのかについて疑問を抱いただろう」
 彼らの会話は、いつも堂々巡りをする。他にできることがないからだ。
 いつからどうして、この橋の下にいるのか知らない。自分がどこの誰かなのかも知らない。クマのぬいぐるみには『ポラリス』と言う名前があったが、そもそも何故、クマのぬいぐるみが喋るのか知らない。
 ポラリスは、それでも青年よりも何かを知っている風でもあるが――。
「君がはぐらかさずに教えてくれれば早いのに」
「だからお前が知らないことは、俺も知らないんだって言ってんだろ」
 この調子で、何も教えてはくれないのだった。
「お前、疑問に思うことと、思った結果の因果関係が逆転してんだよ。もうちょっと考えてからものを言えよ」
「どういうことだ」
「知らないことを、思い出せないことを知るために、お前はここにいるんじゃないのかよ。どうしてここにいるかより、どうやったらここから出られるのかを気にしろってことだ」
「その方法がアレか?」
「アレだ。今のところ、お前にできるのそれしかないだろ。花咲か兄ちゃん」
「その呼び方はやめてくれ……」
 誰も来ない橋の下、誰も聞こえない二人の会話は、風に流れて消えていく。
 いつからいるのか、いつまでいるのか。ただただ、できることと言えば――。

「おい、久々に誰か来たぜ」
 橋の傍らにある階段を、降りてくる人影がある。
「今度はどんな花だろうな」
「さあな。咲かせてみてのお楽しみだぜ」
 誰かの『痛み』を花に変える。
 それが彼らにできる唯一の手がかりで、曖昧で哲学的な方法論だった。

Case.2:ワスレナグサ/知らないどこかでお幸せに

 懺悔をひとつ、聞いてほしいんだ。
 どこの誰に言いたいわけでもない。最悪、この懺悔が誰にもとどかなくてもいい。
 ただ、自分の中だけにおさめておくのが少し難しくなってきたから、耳に入ったら独り言だと思って聞き流してくれていい。
 俺の、佐藤啓太という、その辺にいるただの大学生の戯言だよ。
 別に許されなくてもいいんだ。そんな権利は俺にはないし。
 ただ、今もずっと後悔していることがある。俺の恋人と親友のことだ。どちらも『元』をつけるべきかもしれないけれど。

 結論だけ先に言おう。
 俺はあいつらを裏切ってしまった。
 そして、卑怯にも二人から逃げ出そうと画策している。

***

 俺がその橋の噂を聞いたのは、色々と整理をしたい気持ちになって、久しぶりに実家に帰ってきた時だった。
 なんでも、その橋の下に行くと、なんでもひとつだけ『痛み』を捨てられるのだという。
「って言っても、あそこただの橋だろ」
 小中学校までは、単なる通学路だった。高校は別ルートだったので、通り道ですらなくなった。子供の頃から高校卒業までこの近くに住んでいたのに、そんな噂話は一度だって聞いたことがない。
「大体、なんだよ、痛みを捨てるって。ふつうに意味わかんねーよ」
 せめてもう少しわかりやすくできなかったものなのか。今日聞いたばかりの謎の都市伝説に、ダメ出しをしたくなってしまった。
 それでも足が向いたのは、その橋が実家から徒歩五分という割と軽率に行ける場所にあったからだ。散歩に最適。
 それともう一つは、どうせもう地元に戻ることなどないのだから、最後に何かにあやかっておいて、運良くその『痛み』とやらがなくなればいいと思ったからだった。
 俺のやや美化された記憶よりもだいぶボロくなったその橋は、子供の頃通学した時よりもだいぶ小さく見える。この新興住宅地は建売の住宅がミシミシとひしめいていて、広い庭付きの家などほとんどない。そのせいもあってか、戸建が多い割にペットを飼う家は少なく、この川沿いの遊歩道も、犬の散歩をする人すらいなかった。
 誰も使っていなければ自然と荒れる。遊歩道というにはややワイルドになっている橋の下に降りると、最近冷たさを増した風が金色に染まったススキを揺らしていた。
「で、どうすりゃいいんだろな。痛みを捨てるって、何だ?」
「さぁ、なんだろうな」
「おわっ! ?」
 突然背中から声をかけられて、俺は思わず前のめりになり、枯れた雑草に足をひっかけ、無様に草むらの中にダイブした。
「どんくさいヤツ」
 何だか聞き捨てのならないセリフまで降ってきたが、驚いても仕方がないと思うのだ。
「心臓止まるかと思った……」
 さっきまで、確かに俺はひとりきりだった。間違いなくひとりきりだった。
 なまじ地元であるだけに、ご近所さんに川辺で遊んでいるところを見られるのはなんだか億劫だったので、橋の上にも下にも、誰もいないことを確認していたからだ。
 草むらからのろのろ起き上がってみると、仏像みたいに無愛想な野郎が、妙に薄汚れたクマのぬいぐるみを小脇に抱えて立っていた。
「寒っ! 見るだけで寒っ!」
 もうそろそろ冬が訪れようとしているのに、この男、半袖のパーカー姿なのだ。左腕は包帯が巻かれているから、そのせいなのかもしれないが、上着くらい羽織ってほしい。
「おい、寒そうだってよ」
「……と言っても、着替える方法はないし、別に俺は寒くない」
「腹話術!?」
「「違う」」
「ハモった! 芸が細かい!」
 突然忍者のように現れて、小脇のクマとひとり漫才を始めたこの男を、俺はどう受け止めれば良かったのだろう。
「もしかしてアレか、その左腕の包帯は封印された何か的なヤツか。わかるぞ。多くの男子が通る道だからな。ん、いや、さすがにその歳だとそろそろそういう時期は卒業しといた方がいいんじゃないか?」
 仏頂面のそいつの顔に、ややイラッとしたらしき影が差す。
 それと同時に、小脇に抱えられていたクマが動きだし、俺の目の前にのしのしと歩いてきた。
 ――歩いてきたのだ。ぬいぐるみが、自分の足で。
「僕の存在を中二病の妄想扱いしてんじゃないぜ」
「……ん?」
「言っておくけど、ラジコンでもないし腹話術でもないからな。毎回言われるので訂正しとくぞ」
「……んん?」
 ナチュラルに喋るクマを前に、思わず頭部をバシバシと叩いてしまったが、ただのふわふわぬいぐるみだった。そして「何するんだテメエ」というガラの悪い文句が飛んできた。
「そのガラが悪いクマはポラリスという」
 ややイラっとしていたのは一瞬だったようで、仏頂面男は淡々と無感情にクマの紹介をしてくれた。
 だが、違う、そうじゃない。俺が知りたい情報はそこじゃない。
「一応確認しておくが、君はこの橋の『痛み』に関する噂を聞いてきたのか? それとも通りすがりの青年Aか?」
「こんな地元民にも打ち捨てられた場所にわざわざ通りすがるか! それだよそれ、何かよくわからない『痛み』がどうのってヤツだ!」
 仏頂面男は、少しの間、黙って俺の方を見ていた。
 やがて、何か確認するように(ポラリスとかいう性格の割にファンシーな名前の)クマへと目をやる。クマの目はまごうことなきプラスチック製なので、全く感情は読み取れない。が、どうやら何らかのアイコンタクトはとれているらしい。仏頂面男が納得したようにうなずいた。
「わかった。システムを説明すると、君が捨てたい『痛み』を教えてくれれば、僕がそれを花に変える。花が咲いている間は、君はその『痛み』から解放される。以上だ」
「システムって」
 なるほど全然わからない。
 わからないが――そもそも、理解できたところで何だというのだろう。元々、雲をつかむような、何の保証もない話じゃないか。曖昧で、とらえどころのない噂じゃないか。
 意味がわからなくても、これが河原でコケて頭を打った俺の見ている夢でも、いいじゃないか。
 大切なのは、俺が求めていることが、万が一でも実現できる可能性があるのか。それだけだ。
「なぁ、『痛み』を捨てられるって聞いたが」
「ああ、そうだな」
「それは、俺以外……その、俺が知っている誰かの痛みでもできるのか」
「無理だ」
 ――即答だった。
 それなりに期待をもって聞いたのに、世知辛い。これが夢なら、アテにもならない都市伝説なら、ウソでもいいから「できる」と言って欲しかった。
「直接ここに来た人間じゃなければ、できない」
「連れて来られたらどうにかなるってことか?」
「ならない。僕は誰にでも見えるわけじゃない。僕を必要としていないやつには、多分見えない」
「多分って」
「試したことはないが、誰でも僕とポラリスの存在を感知できるわけではない、と思う。君は知らないと思うが、ここを散歩コースに使うご老人は意外といる。毎日見かけるわけではないが……気付かれたことはない」
「……マジか」
 こんな寂れた遊歩道でも、利用者が皆無ではないようだ。そんな個人的は置いておくとして、問題は『痛み』についてどうするかだ。
 俺は――自分が傷つけた相手から、これから更に傷つけるのであろう相手から、『痛み』をなくしたかった。そうすれば、あとは地元に二度と帰らなければいいだけだ。彼らが俺のことなんて何とも思わずに過ごしてくれれば、それでいい。
 だけど、それはできないという。俺が何とかして、彼らをここに連れて来たとしても、確実ではない。
 ――それなら。
「あー、じゃあいいや」
「……やめるのか?」
「いや、せっかくだし、俺の『痛み』とやらは持って行ってくれ」
 機会があるのなら、使わないのは損だ。
 人間、あの時ああしていれば、なんて後悔はいくらだってできるのだから。
「俺の『痛み』なら何でもいいのか?」
「ああ。基本的には。肉体的な痛みでも、精神的な痛みでも、何でも」
 それは、不幸中の幸いというべきだろうか。
 なら、捨てるものなんて決まっている。
「俺がいつか死んだ時に、痛くないようにしてくれ。苦しい死に方は嫌だ」
「はぁー? お前、もっとリアルタイムで何かないのかよ」
 クマがクレームをつけてきたが、華麗に無視。
 俺にとっては、自分が今痛いと思っていることなんて、自業自得でしかないことだ。それを捨ててヘラヘラ生きていたって、どこかでツケが回って来るだろう。
 だが、死ぬ時くらいは楽をしたい。それがいつかはわからないが、苦しくてみじめな死に方なんて嫌だ。
「これはできるか?」
 仏頂面男はやや考え込んだ後、少しためらいがちに頷いた。
「……できる」
「じゃあ、そうしてくれ。ぜひそうしてくれ。……あ、誤解ないように言っておくけど、自殺したいわけじゃないからな。俺は死にたくないし、死ぬしかないって時にめちゃくちゃ痛いのなんてごめんってだけだからな」
 彼は何か考え込んでいるようだった。
 俺の意図を測りかねているのか、それとも俺の選択に何か言いたいことがあるのか。
 どちらにしろ、他人の痛みはどうにもできないというなら、俺としてはこの要求が通らなければ諦めるより他にない。
「わかった。やろう」
「ありがとなー、恩に着るぞ、謎の中二病野郎」
「そういう名前ではない」
「名前教えろよ、一応覚えておくから」
「名前は覚えていない。でも中二病ではない」
 記憶喪失ということか。中二病ではないことを強調してきたのは、その点が多いに不本意だからなのか。
「そいつのことはハナちゃんって呼んでやれよな。俺がつけたあだ名だ。かわいいだろ」
「ハナちゃん」
「やめろ。覚えなくてもいい」
 ハナちゃんも不服らしい。わからないでもないが。
 俺は満足して、橋の上へと昇る階段へと足を運んだ。用事が済んだのだから、長居は無用だ。
「どんな花が咲くか興味はないのか?」
 ハナ(仮)の声が聞こえてきたが、俺は振り返らなかった。
「興味ない。俺はガーデニング、趣味じゃないからさ」

***

 俺には、親友がいた。名前を鈴井慎也という。
 俺には、幼馴染がいた。名前を小野千里という。
 千里とは家が同じ通り沿いで、幼稚園の頃からの付き合い。慎也は中学の時に親の転勤で引っ越してきて、それ以来の親友だ。
 どちらも、俺にとっては大切だった。慎也や千里にとっても、きっと俺は大切な存在だった。少なくとも、あんなことになる前は。
 きっかけは、慎也が千里への告白を、俺に依頼してきたことだった。
「なぁ、千里とお前って幼馴染だろ?だからさ、さりげなく聞き出してほしいんだよ。誰が好きなのかをさ」
「は? 自分で聞けよ。知らぬ仲でもないんだからさ」
 俺と親友ということは、俺と幼馴染で、ずっと同じ学校で付き合いの深い千里とも、それなりに仲が良いわけだ。だから、慎也が千里に惚れていても、おかしいとは思わなかったし、告白したら普通にうまくいくんじゃないかと考えていた。今にしてみれば、随分と鈍感だったものだと呆れる。
「なまじそれなりに仲がいいだけに、改めて告白しづらいだろ! 今更って感じだろ!」
「そういうものかぁ?」
 若干、釈然としない気持ちになりつつも、それでも慎也の頼みを受けた。慎也はいい奴だ。明るいし、これで頼りになることもあるし、歴史は苦手だが数学は意外と得意だ。俺と千里にとっては、数学の課題における救世主である。
 千里だって、気が強くてたまに口が悪いけれど、顔はかわいいし、委員長などをこなすしっかりもので、慎也と二人ならいいカップルになりそうだと思った。
 少しだけ寂しいとも思う。それを俺は、二人がくっつくことで、俺だけ恋人なしになるからだと解釈した。
 それが思い違いだと知ったのは、千里にそれとなく慎也のことをどう思うか聞いた時だった。
「デリカシーない」
 千里は、俺に対してそんな辛口の評価を下した。
「どうしてだよ。……そりゃー、慎也は俺に頼まず自分で言えよって思わないでもないけどさ」
「それもあるけど……はぁー、ホント、にっぶい」
 大げさにため息をつかれた。
 この辺りで、いくらなんでも、俺にだって多少は千里の言いたい事がわかっていたんだ。だけど、認めるわけにはいかなかった。恐らく、千里もそう思っていたから、今まで黙っていた。俺が無遠慮に、親友と自分をくっつけようと画策するまでは。
「私、アンタのことが好きなんだけど」
「……は?」
「慎也がダメってわけじゃなくてね。私は、啓太が好きなの。いくら仲が良いっていってもね、好きな相手に、別の男紹介されるって結構キツいよ」
 多分、この時、彼女は彼女なりに、誠意を尽くして本音を言ってくれたのだと思う。むしろ、はっきり言わなければ、俺は絶対に脳内で理由をこじつけて、慎也と付き合うように説得しにかかっただろう。そうすれば、丸く収まるからだ。少なくとも、居心地のいい三人の関係を失わないで済むからだ。
 だけどそれは、千里の気持ちを犠牲にするということで、慎也の想いに対して嘘をつくということだ。
 だから、千里ははっきりと俺に言ったのだ。慎也の想いに答えられない。理由は好きな相手が慎也ではなく、俺の方だからだと。
 さらに、もっと最悪なことが起こった。
 俺はその時、どうして慎也と千里が上手くいったら寂しく思うのか、わかってしまったのだ。
 幼馴染だから、慎也が千里を好きなのはうっすらと分かっていたから、目をそらしていただけで、本当は自分も――。
 どの選択をしたって、誰かが傷つく。 誰も傷つかない選択肢がない。 
 慎也の想いを通せば千里が傷つく。
 千里の想いを通せば慎也が傷つく。
 自分の想いを通すなら、どちらに対しても不誠実だ。
 このままなかったことにもできない。慎也の想いも、千里の想いも、自分自身の感情にも気づいてしまった。
 悩んだ末に、俺が出した結論は、慎也に全部打ち明けることだった。
 慎也は千里が好きで、千里は俺が好きで、俺も千里が好きで、でも、誰も今の関係を壊したいわけじゃない。だけど全員の気持ちがかみ合わないまま、今更元通りにも戻れない。
 だから、正直に全てを話すことが、親友に対する一番誠実な答えであるように思えたのだ。
「……いいじゃん。俺は、千里が好きな奴がお前でよかったな、って思うよ。お前が千里を好きになるのもわかると思うし」
 慎也は笑ってそう言ってくれて。
 俺と千里は付き合うことになって。
 だけど、皆で一緒に地元の大学にいくはずだったのに、慎也は急に「やりたいことができたから」と言って進路を変えた。
 俺も何だか気まずくなって、進路を遠くの大学にした。
 千里は志望校を変えなかった。
 そうやって、俺たちは結局バラバラになったんだ。
 それでも、千里とは幼馴染で家族ぐるみの付き合いもあった手前、大学にいった後もしばらくは遠距離恋愛をしていた。
 一年経って、俺は地元に帰ってくることがほとんどなくなった。もう一年経って、電話やメールの回数が減っていった。そしてもう一年――。
 俺は自分で壊してしまった関係を清算するために、帰ってきたのだ。

***

 卑怯な逃げだと言われたらそうなのかもしれない。
 ただ、直接会うのははばかられた。何せ千里の両親は俺が赤ちゃんだった頃から知っているわけで、当然のように俺と千里が付き合っていることも知っている。遠距離になってから疎遠になったことを、千里が親に話しているかどうかはわからない。だが、どちらにしても千里の家に行かない方がいいだろう。
 ラインだと既読通知を確認したくなってしまうから、ショートメールで簡潔に送った。
 もう会えない。さようなら。今までごめん。
 送ったのはそれだけだ。言いたいことはいくつもあったけど、最適な言葉が見つからなかった。
 だが、返事はすぐにきた。
『親に聞いた。帰ってるんでしょ。家に行くから待ってて』
 さすがというべきか、千里は行動が早い。はっきりと自分の意見を言うタイプだからな。そう思って、今更のように離れがたさと申し訳なさが同時に押し寄せてきた。
 家に帰るわけにはいかない。電話の電源を切っておこう。そう思って電源ボタンに手をかけた時、もう一通ショートメールが帰ってきた。
『今から行く。二時間後にはつく』
 慎也からだった。慎也が地元を離れて、俺とは別の遠くの大学に行って。メールをしたのも、メールを送られたのもこれが初めてだ。お互い気まずかったし、千里とどういう関係になっているか、報告なんてできるはずもない。
 その慎也が、二時間後に地元に帰ってくるという。おそらく、新幹線を使って一時間半。そこから、駅でタクシーに乗って十分かからない。彼がどこにいるかわからないが、最短コースですぐに飛んで来るということだ。
「マジかよ……」
 この三年近く、俺たちはバラバラだったはずだ。
 だから、今更それが繋がることなんてありえないはずだったんだ。
 この一言で、俺は勝手に全部割り切って、恨まれても何しても、忘れてその後の人生を生きるつもりで。
 それなのに、どうして――。
「なんで、大切な親友みたいに扱うんだよ、お前ら……」
 そりゃあ、誰が本当に悪かったのかと言えば、特別に悪いことをしたやつなんていない。誰かが誰かに答えてしまえば、誰かの恋が破れる。誰にもこたえなければ、誰の想いも成就しない。たまたま三人の中で、好きが一方通行になっただけ。
 もし、大学に行ってからなら、交友範囲も増えてもっと穏便に済ませられたかもしれない。何が一番悪かったかといえば、運が悪かったというのが一番大きい。
 でも、結局壊れてしまったのだ。
 あの時、俺はどうするべきだった? どうすれば誰も傷つかなかった? 答えなんて出ない。
 これから二人をもっと傷つけるのに、親友のように扱わないでくれ。
 もう関わらないで、そっとしておいて、いつか記憶が薄れて何も感じなくなってくれればそれでいいから。いっそ、勝手に人間関係を凝らして、一方的に言い捨てていなくなる奴なんだと、軽蔑していてほしかった。
 そう思っているのに。願っているのに、どうして。
 それから二時間、俺は散々迷って、躊躇って、それでも実家の近くに足を運んだ。だけど、家に入る勇気はなかった。千里とは疎遠になっていることを、家族には言っていない。家族ぐるみの付き合いなのだから、きっと千里は俺の家にあげてもらって待っているだろう。
 千里と慎也が今も連絡をとりあっているかはわからないが、特に場所の確認をするメールは来なかったところをみると、千里に俺の家で合流するように言われたか、確実に会えるのは俺の家だと考えているか、どちらかだ。
 このまま、家に帰らず姿を消せば、二人に会わずに済むだろうか。
 誰も俺のことを知らない遠くに行ってしまえば、いつか二人は俺のことを忘れてくれるだろうか。
 ぐるぐると思考の迷路にはまりながら、それでも足は家の方へと向いた。
 見つからなければいいのだ。二人にバレなければ。もしかしたら、遠目に二人の姿を見るくらいならできるのではないか。
 迷って、散々行ったり戻ったりしているうちに、気がつけば二時間近く経っていた。実家に向かうルートなんて限られている。むしろ慎也と鉢合わせなかったのが奇跡と言っていい。
 それなのに、やっぱり俺は、心のどこかで二人に会いたかったのだろう。ただ謝りたかったのか、本心では友達に戻れる期待をしていたのか。それすらももうわからない。
 遠目に見られれば、満足すると思った。よくよく考えてみれば、家で待っている人間を遠目に見られると思っている時点でだいぶおかしい。
 おかしいのだ。どうしてこの寒い秋の末に、二人はわざわざ玄関口で俺を待っていたのだろう。
 玄関に誰かいることには気がついていたのに、どうして俺は引き返さなかったのだろう。
「待って、啓太!」
 これは千里の声だ、忘れるはずもない。
 だけど振り返れなかった。ほかに、どうすればいいかわからなかった。
 この先、どうなるかまでは考えが及ばなかった。
 橋の下で自分が、何を願ったのかも忘れていた。
「おい、走るなって!」
 これは慎也だ。二人の声が聞こえなくなるところまで、逃げなければ。
 その一心で走っているうちに、気がつけば花井橋に戻ってきていた。
 反射的に、俺は錆びついた階段を降りて遊歩道に向かう。滅多に人が通らない場所。少なくとも、二人に捕まっても生まれ育った近所の界隈にやり取りを見られることはないからだ。
 河原には、花が咲いている。青い花。名前は知らない。前に来た時はなかったから、これは多分、ハナが咲かせたものだ。俺の痛みと引き換えに咲く花。
 そう認識した辺りで、一歩も動けなくなった。息が完全に上がっている。全力で走ったのなんて、いつ以来だろう。頭がぐらぐらしたが、追いついた二人の顔を見たら目が覚めた。
 結局、ひっそりと二人の前から姿を消すことなんて、できなかった。
 何も言わないでいた方が、二人とも早く忘れてくれただろうか。
 懺悔できるものなら、したかった。結果論でも、三人の関係を崩したのは、自分だ。きっと疎遠にならずに済んだ方法があったはずだ。あれからずっと、今まで、気づいたらそればかり考えている。
「なぁ、大丈夫か?」
 慎也が心配そうに駆け寄ってくる。俺はそれを手で制した。
「……近、づくな」
 息が続かない。二人の顔が良く見えないのは、涙がにじんでいるからなのか、酸欠で目がかすんでいるからなのかもわからない。
「あのさ、啓太。何か一人で背負いこんでるみたいだけど、私たち、別に嫌いあってたわけじゃないでしょ? 気まずくなったのは事実だけど……だから……」
 だから、どうすれば良かったというのだ。
 答えなんて、どこにもない。だから、千里もそれ以上は言えない。
「……忘れてくれ」
 俺にはもう、それしか言えない。
「俺のことは、忘れてくれ……」
「何言ってんだよ、忘れるわけないだろ」
 慎也が伸ばした手を、振り払った。やっぱり駄目だった。会わなければ良かった。
「忘れてくれ、忘れてくれ……俺の知らないところで、勝手に幸せになっててくれよ!」
 もう、二人と会うことはない。すれ違うこともない。そんな権利もない。
 だから忘れて欲しい。忘れて、何もなかったように、二人がどこかで幸せになってくれればそれ以上は、望まないから。
「啓太!」
 千里の悲鳴のような声が、聞こえる。
 足から力が抜けて、視界がひっくり返った。やや遅れて、自分があおむけに倒れたことを知った。
 二人が駆け寄って、心配そうにこちらを覗きこんで、かすかにしっかりしろ、とか救急車を、とか言っているのが聞こえてきた。
 俺は、ぼやけていく視界の端に、クマのぬいぐるみを抱えたハナがいるのを見る。
 ああ、そうか。びっくりするくらいに、あっさりと、何の感覚もなかったから驚いたけれど、それもそのはずだ。
 ――俺は、死ぬ時に痛くないようにしてくれ、と彼に言ったんだ。

***

 余命一年。心臓の病気だそうだ。移植しても助かる見込みは低い。そもそも、この短期間に、手術する体力が残っているうちに、ドナーが見つかる見込みは薄い。俺の前に、何人もドナー待ちがいるのだから。
 死んだら、あの二人は後悔するかもしれない。できれば忘れていてほしい。忘れてくれるわけがない。あの二人のことはよく知っているから。
 想い出としがらみの生前葬をしにきたのに、一番忘れて欲しい二人の前で、なんて笑うに笑えないじゃないか。
「僕は多分結構長くこの橋の下にいるし、これで割と色んな人間を見てきたつもりだが」
「ああ」
「死んで戻ってきたやつは君が初めてだ」
「ごめんな? 予定ではあと半年くらいは頑張れるはずだったんだけどな!」
 季節外れの青い花が咲き乱れる河川敷で、俺は説教される気分で正座していた。・
 ハナの能面のように動かない無表情のおかげで、いたたまれなさがすごい。
 身体がまだ動くうちに、大切なものだけをもって、恐らく最期を迎えることになる病院にいく予定だった。それが、思い通りに行かずに走って逃げて、発作を起こしてよりにもよって二人の前で死亡とか、本当に俺は何のためにこの街に戻ってきたのだ。アホか。アホだ。
「僕も幽霊のようなものだが、幽霊にあったのは初めてだ」
「何か本当ごめんな!」
 遠回しに攻められている気がする。
 橋の下で、青い花は鮮やかな色で辺りを埋め尽くしていた。
「なぁ、これさ、俺ので咲いたやつだよなぁ」
「そうだが」
「やっぱ聞いとけばよかったな。何て花なんだ?」
「聞きたいのか?」
 ハナはやや目を伏せた。ずっとピクリと動かない表情が、やや動く時は不満や難色を示す時である。短い付き合いながら、何となく学習した。
「ん? 何か恥ずかしい感じの名前だったりするのか?」
「いや……それは、ただの……ワスレナグサだ」
「……………………はぁ」
 その時、俺はどんな顔をしていたのだろう。
 どんな顔をすればよかったのだろう。
 花になんて興味がない俺だって、その花の花言葉くらいは知っていた。
「忘れようと思って忘れるものでもないだろう」
 ハナのそれは、慰めのつもりだったのか、ただの事実確認か。
 忘れてくれ。忘れてくれ。何事もなかったかのように、どうか知らないどこかで幸せになって――たまに、一番幸せだった頃の俺のことを思い出してくれ。
 何て身勝手な願いだ。あんな、二人のトラウマになるような死に方しておいて・
「はぁ、成仏してくるわ」
「……成仏できるのか?」
「お前と違って」
「そうか」
 納得したようにうなずいたハナであるが、あれだけうるさいポラリスが一言も喋らない。
 俺はその理由が何となくわかったが、せめて気持ちよく召されたいので、あえて声はかけなかった。
 ただ、餞別かわりに、彼に一言添えておく。
「あのさ、俺は死んだからわかることがあるが」
「ん? なんだ?」
「お前、多分まだ死んでないぜ」

Re:閑話:彼らの哲学的方法論

「僕は生霊だったのか?」
「いや、俺に聞かれてもな」
 彼の問いに、クマのぬいぐるみはきちんと答えを返すことがほとんどない。
 ただ、リアル幽霊になってしまったあの青年が言うには、彼の『本体』は今でもどこかで生きているということになる。
「手がかりを得られたという意味では、確かにこれは方法論として正しいのかもしれないが」
「まぁ、わかるぞ。ほとんど事故とはいえ、相手に死なれるとな」
 ポラリスがしたり顔(をしたように見えるしぐさ)で、ややふんぞり返りながら頷いた・
 彼が亡くなったからなのか、それとも彼の魂はまだ成仏をせずその辺をうろつきまわっているのか、ワスレナグサはまだこの河原を埋めている。
 そこに、喪服を着た二人の若者が、橋の上から降りてきた。彼らには、ここはただの寂しい河原にしか見えないだろう。
 男と女。菊の花束を、そっと河原に供えて手を合わせた。
「はぁー、バカみたい」
 どこか拗ねたように、女が言う。
「バカっていうことはないだろ。そりゃ、何でギリギリまで何も言わなかったんだとか思うけど、あいつだってなりたくて病気になったわけじゃないだろうし」
「そうだけど、私たちに一方的に別れを告げて、すっきりしようとか考えたのがバカなのよ」
「死んだやつ相手にキッツいわ」
 まるでずっと仲がいい友人どうしてあったかのように、彼らはそこで、しばらく語りあっていた。
「こんなことになるなら、一緒の大学に行きゃよかったな。アイツとバカなこともっとやりたかった」
「先に逃亡したの慎也でしょ」
「そうだけど、気まずいだろ」
「私と啓太だって気まずかったですけど?」
「でも、俺が啓太に頼みごとしたのが発端でさ」
「私が啓太じゃなくて慎也が好きだったら話が早かったね。啓太より早く出会ってたらワンチャンあったくらいには、慎也のことも友人として好きよ」
「さりげなく二重にフるな」
 男は渋い顔をしたが、冗談めかした口調の割に、女の方は笑ってはいなかった。
「そりゃ、ショックじゃないって言ったら嘘だもん。十年後くらいに彼氏いなかったら出直して」
「ああ、うん、そうだな……」
 言葉を濁した後、男はやや自虐的に笑った。
「俺が別の女を好きになってたら、円満解決だったんだけどな」
「何いってんの」
 女の方も、やや自虐するような笑みを浮かべる。
「私たち、仲が良かったでしょ。仲が良い男女と、見知らぬ男女が恋愛に発展する可能性、どっちが高いかなんて明らかじゃない」
「それもそうか」
「そうよ。だから、私たち、本当にちょっと運が悪かったのよね」
「啓太の病気だって、運が悪かったんだもんな」
「そうよ。だから、啓太が成仏できなくて困ることがないように、私たち、勝手に幸せにならないとダメなの」
「あいつ、言うだけいって、すごい安らかに死にやがってな」
「本当よ。あの状態なら相当苦しかったはずなのに、眠るみたいだったよね。天国で今頃私たちに土下座してるんじゃない、きっと」
「あー、やってそうだな」
 やがて、彼らは菊の花束だけを残して、階段をのぼり、橋へと戻っていく。しかし、一度だけ立ち止まった。
「あれ……今、青い花が見えなかった?」
「んー? でも花咲いてなかっただろ?」
 立ち止まったのは一瞬のこと。またすぐに歩きはじめる。
 二人の人影が橋の上に消えて行った後、それを追うように、はらはらと青い花びらが舞い始めた。
「枯れるのではなく、散るんだな」
 ワスレナグサは、天国まで持っていくつもりらしい。
 忘れないで、忘れないで。
 青い花びらが、散っていく。

 ――俺が知らないどこかで、俺が知ることができないどこかで、どうか幸せになってくれ。

しおり