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和菓子屋はやぶさ

和菓子屋――はやぶさに着いたのは、昼近くだった。もうすでに店の中のテラスに敷物を敷いて、その上にコンパクトの畳が備えられていた。準備はすでに茶道部の数人で整えられていた。
 テラスからは、むせ返るような樹木の緑の匂いときれいな景色で、下方の小道側の小川からは、耳に心地よいせせらぎの音が聞こえる。こんな日の茶道のイベントには、最高の自然な演出であるようだ。心が落ち着く。
 川や滝の水の音には、癒しの力があるらしい。留まることがない。小鳥達はどこかへ行っているのか、時が止まっているような静寂さだ。ただ、水が流れている。神秘的な空間がそこに在る。
 そして、すでに、お客のふたりほどが、店の外で待っていた。
 今回は、ある流派で中堅どころの講師の方が、日本から来られて、こちらで指導をされる。公開お稽古である。茶道部員は皆、年齢もそこそこで、若い頃に花嫁修業などで、茶道をある程度習ってきた経験が多いメンバーであるので、基本ができている。
 特別に問題もなく、和気あいあいとスムーズに、イベントは終了した。流派の違いはあれど、そこはこの外国の土地では、互いに学び合いながら、それぞれがゆるく妥協をすることができる。ここでの茶道の和で、ひとつの醍醐味がある。始終、べんさんは楽しそうに和菓子をキッチンから運びながら、目立たぬように垣間見ていた。
 今日、下の町から来ている茶道部員は七人だったので、いつもの半分の人数だった。割合も丁度良く、サクサクと流れるようにお稽古は終了した。皆は、それぞれがべんさんに予約していたらしいお赤飯などを受け取り帰り支度を始めた。
 その頃、ケランダの自然を満喫して、あちらこちらと写真を撮りに行っていたるりが戻ってきた。
「あら、ちょうどいいところだった。もうすぐ帰ろうと思ってた」
「美樹さん、確か四時には終ると言ってましたよ」
「そうだっけ、最近忘れちゃうからねぇ。自分の言った事」
「それを言うな! ほら、おれも忘れてたよ。抹茶金時だっけどらやき。それとカスタードのとゴマに小豆どらやきがふたつずつ、みたらし団子とユーカリ団子、えっと、おはぎは今日ないから、大福でいいって言ってたよね」
「あれ、わたしもまだ頼めます? べんさん」
「いいよ。美人には作っちゃうよ」ということになり、皆が帰った後もはやぶさのテラス席で、わたしとるりはどらやきのできるのを待つことになった。町にいる来なかった友達におみやにするため、和菓子をわたしは持って帰る。るりもどらやきを各種類でリクエストした。
 茶道部の皆が帰った後でよかったが、おしゃべりは、ふたりの女子でもつきない。待つ時間は気にならない。今日のこの七人のメンバーよりるりは若く、また実際の年よりもずっと若く見える。
「そうでした。べんさんとお店も撮りたかったんです。最初にお店の前とか、茶道の様子も撮ったんですが、もう少し撮らせてください」
「いいよ。なんなら、おれの素顔を撮ってよ」
「それって、スッピンという意味?」
「スッピンはスッピンでしょ。男で化粧しないし……素のおれ! ありのまま」
 わたしとるりは思わず笑った。
「べんさんは、裏も表もないでしょ。いつもありのままじゃない」
 わたしは、どらやきの生地を四角い鉄板の上に、器用に丸くおとしていくべんさんの手元を見た。
「そうだね。変わんないよ。変われない」
 るりは、表に出て正面からはやぶさ店内と、二メートルほどしかない頑丈な机の上にあるショーケースの間から見える、仕事をしているべんさんの横顔を撮っている。
 カメラのレンズと、ショーケースのガラスの二枚の重なる場所は、この人の奥底が見えることを拒んでいるようだ。ガラスは邪魔である。ガラスの間から見るそのうちの幾枚かのシャッターチャンスの一瞬に、ひとりの男のなにがしかの人生の真実でも垣間見れるのだろうか? カメラを握るるりの目は、べんさんの隠れた部分の、人生の縮図のひとコマをとらえようとしている。
 一瞬、真剣に、るりの目が鋭くなる。べんさんは、鉄板のどらやきの生地をおたまで取り上げてから、表のるりの方向をはにかみながら見た。るりもにこりと笑った。べんさんは、心の中で「おれの真実の内面を探らないでくれよ」と、本当は言っているようだ。
「あれ、あの神棚の下に貼ってある紙切れって以前からですか?」
 るりは、一年前にも数日間であるが観光にここを訪れている。 
 キッチンスペースの一部の頭上には頑丈な棚があるのだが、そこには、知人からいただいたという兜飾りの五月人形がある。
 南方向のその隣に、大宮氷川神社の神棚が祭られている。主祭神は須佐之男命であるが、氏神様はよくわからないらしい。足立区の氷川神社が地元であるが、ここに住む友人が、自分の手に余ると言い持ってきたという。それから、律儀なべんさんは、毎日米や水、塩などをお供えするが、それにどらやきが加わり、毎日拝んでいるらしい。榊はないので、そこにある似たような枝葉を探してきて切
ってくる。その近くの柱に、上からなんだか紙切れが十枚くらい画びょうなどでとめてある。
「これねぇ。なんだかみんなが貼ってっちゃうんだよね。願い事なんか書いて……」
「えっ、それってべんさんが神主さんみたいな感じじゃない。ケランダ山の上の小さな名もなき神社の神主!」
「いや、そんなわけないけどさ。そんな、人間できてないし、バチ当たるよ。でも、なんとなくひとりが貼ってったら、続いてこんな風になっちゃった」
 わたしも、それを眺めてみた。白い縦長の細い便箋や、コピー用紙などを切り取って、黒マジックや、ボールペンなどで文字が書かれている。願い事のようだ。なかには、色鉛筆で書いてあるものもある。小さく絵が書いてあったりもした。
「べんさんのご利益あるの? 叶ったとか」
 わたしは、るりと顔を合わせて少し首を傾げた。この頭上に祭られている神棚としめなわに、その下でなんちゃって山伏のような姿で働いているべんさんが、願い事を叶える人にどうして思えるのだろう。わたしは、べんさんの頭上から下まで、その偽者山伏姿を眺めてみた。
「それがさ、ちょっと前のことなんだけど、おれの友達の奥さんが妊娠してね。苦労してできた子だからさ、ちゃんと産まれてと思って、安産を願うために紙に安産祈願と書いてこっそりこの神棚の下に貼ったわけ。そうしたら、あとでバレてね。べんさんが、願ってくれたからだいじょうぶだったんだって喜ばれた」
「それから、こんな風になっちゃったの?」
「そう。それでたまっちゃうので、しばらく貼っておいてからここにも保管する。こんなにあるよ」
 べんさんんは仕事をしている手を休めて、シンクの反対側の引き出しを開けてみせた。そこに日本の空の菓子箱があり、ふたを開けると短冊のような紙切れの束が溢れんばかりに入っていた。
 わたしは、その中のいくつかを、口に出して読んでみた。
「楽しい旅行ができますように」、「無事にラウンドが成功しますように」。この国を一周しようというワーキングホリデーや、旅人は多い。また、なぜか多いのが、「どうかいい人にめぐり合えますように」とか、「恋愛がうまくいきますように」、「好きな人に気持ちが伝わりますように」などだ。一般的に、神社とかに一番多い恋愛お願い事のようだが、書いていくのは、観光客だろう。あまり上手に恋愛経験をしてきていないべんさんのところに、そんなお願い事は間違いのような気もする。そして、学校合格や、就職祈願みたいなものまである。
「これ、なによ! まるでここ神社じゃない? これじゃあ、べんさんが修行しなくちゃならないね」
「ほーっ! どらやき修行だな……」
「神様はどらやきだわ」
 べんさんとわたしは思わず笑った。
 今度は、わたしがべんさんと話している姿を、るりが少し離れたところから撮っている。パシャ! という大きな音はしないが、わたしはその方向を少し意識してポーズをとってしまった。
 カメラというのは不思議だ。被写体、つまり人の瞬間的な表情やまわりの空間に、写真というだけではない……なにかの風がふいてきたというような感性の気配があるようだ。感受性豊かな人――カメラマンには、それがわかる。隠してても、この人は周りの空気に、こんなセンスがあると見抜ける。
 その一瞬の風のふくチャンスを写真の中にどう表現できるか? 大げさに言うと、見る人にどんな大きな感動の嵐を与えられるかということを意識して、るりは思いをこめて、その風を狙っているようだ。そして、プロのピントを合わせる。
 るりが、時折感じてしまうデジャブ。それは、夢の中で観たことなのか……それとも前世などで本当にこの景色の中にいたのか……それは、いつもなにかのメッセージであると思わされる。
 ここでも起きるデジャブに、るりは、べんさんとその身のまわりのセンスを取り入れ……その風のメッセージを伝えようとカメラのシャッターを切る。
 べんさんは、なんだか自分が裁断をくだされるような気分がするのか、びくっとしたりする。でもすぐに慣れて、ピースマークをしながら照れ笑いをしていた。
 るりは、べんさんとはやぶさのなにを表現しようとしているのだろう。どんな風なメッセージがあるのだろう。
 わたしは、先ほどまでいらした、日本から来られた茶道の先生のお話を思い出していた。「皆さんと触れ合える人、交流ができるのはいい人です。そこでの存在そのものが空気。それで学べるのがいいのです。あるべき場所、そこにいるというだけで価値があるのです。わたくしのお家元の言葉で、お茶碗は地球、お抹茶は緑色で自然を表すという、すべての命としてあるべきものを大切にという教えがあります」
 べんさんは、茶道を知らないが、その心の中に、この基本的な教えを持っている。この星の自然の中で、厳しくひとりで、自由に生きるケランダの山伏だ。だから、そのオーラに惹かれて、旅人が願い事を書いた短冊を置いていく。本当に願い事が叶うという気がする。不安な気持ちが払拭される。
 ただし、わたしが思うに、この山伏はおもしろくて、近頃はヤンキーじじいに成りつつあるのだが……。
「もう、十分ほどでできるよ。お待たせして悪いねー」
「いいえ、時間はあるからわたし達はだいじょうぶ」
 着物を着ていても全然苦痛ではなくなった自分に、わたしは満足していた。夕方にはまだ早いうすらびがやさしく揺れて、そよ風がほほをなで気持ちがよい。もう少しこの山の上にいてもいいなと感じる。そう、まだ時間はある。
「あのー、今気づいたんですけど、ドラえもんのお人形が、前より増えていますね」      
 るりが、カメラを片手に、店先の天井から吊り下がる二十センチの身長のドラえもんのぬいぐるみを指差した。
「そういえば! どらやきだから、ドラえもんって思っていたけど、ここにあるなーっていうのも自然で、あんまり気にも留めていなか
った」
 わたしも店先に出て眺めてみた。それは、かわいらしいブランコに、ドラえもんと可憐な妹のドラミちゃんが、仲良く手をつないで乗っている。
「これ、どうしたの? 持ってきた?」
「それね。そのドラえもんはお客さんからもらったんだよ。前からいたよ。でも、ひとりじゃかわいそうだからさ、おれが日本からドラミちゃんを持ってきたんだ」
「このブランコも?」
「それは、作ったんだよ。その方がおもしろいでしょ」と、べんさんは笑った。
 わたしは、おもしろいというよりも、なんだかべんさんの心の奥底のどこかにあるだろう漂泊者のさびしさを感じた。それは、親と決別するようにして、反対されて出てきた自分も同じである。共感できる。
 べんさんは、親も亡くなり、母国のしがらみからも本当に決別してしまった。ドラミちゃんは、隠されたべんさんの願い……彼女というより、それを超えた未来からの魂の関係みたいだ。
 うそではない本当の人の愛――真の関係は、もしかしたらだれも、母親との胎内にいるときにあるのだと、わたしは思う。生と死の営みを包むお腹の中……永遠の海のような母の愛。しかし、その一方、反対にこうも思う。血縁とは、この世に生まれでてからは、この世はなんらかの修行の場であるから、それは本当の意味を持たないかも……とわたしは思うのだ。
 しかし、この世界で関わることや、出会う人にはすべて意味がある。以前にきっと、その魂と魂が出会ったことがあるのだろう。
 わたしと母親との関係は、過去に最悪だった。しかし、ほかにき
ょうだいもいないわたしには、この母親の最後は見送らなければならないのだ。それを自然に受け入れるようになったのは、最近のことである。
 自分の母と思うから、考え方も真っ向から違うこの人にぶつかってしまう。ひとりの人間として理解しようとすれば、大変な一生を送ってきたことに理解も生まれ、わたしが関わらなければならない――父母の面倒をみるという運命に、少し抵抗がなくなる。納得する。
「やっぱりさ、さびしいものだよ。両方逝っちゃってさ。いなくなれば、やっぱりさびしいよ」
「そうかぁ。つくづく実感するんだ」
 わたしは、着物の衿に手を当てて、軽く深呼吸をした。そして、店の下方の川べりから漂ってくるさわやかな緑の匂いを、すごく新鮮に感じていた。秋なのに新芽がでて、代わりに枯れて朽ちていく樹木――。
「そうなんだ。はじめは一年だけのつもりで来たんだ」
「日本を出たかった? わたしも……だけど」
「そう、そうなんだ。家を出たかった」
「自由になりたかった? しがらみを捨てたい」
「そうなんだよ。下町の和菓子屋を継ぐ使命が重かった。その前に、ほんの一年だけのつもりだったんだ。その後に、父親が病気になったのは、おれのせいかもしれないとちょっと責任を感じてさ、一度戻ったんだけど」
「お母さんとぶつかって、また出てしまった!」
「そう! でもおれは、これも、いつかはまた帰るつもりだったんだ」
「でも、お母さんとも最後の数ヶ月は一緒にいられたんだから、それはよかったんだと思うわ」
「まぁ、ふたりともガンだったからね。限りはあった。その後は、ここに住むという運命が決まっていたのかもしれないなぁ」
「そうよね。昔ながらの和菓子屋さんをひとりで経営するにも、競争の激しい東京でやっていくのは大変で、きっとお母さんもそれはわかっていたんだと思う。べんさんが行くときに、自分の病気のことを言わなかったのはきっと、べんさんにほかにも選択肢があることを知って、認めてあげたんじゃないかな。外国の日本料理のお店で働くというのも……」
「そう、一度ね、おやじが亡くなったあとに帰ったとき、洋菓子もやったんだよ。だけど、元々和菓子屋だからね。難しいよなぁ。だから、原点にかえる。それで、今やってんだよ。これは、おれの最後の挑戦なわけ……」
「外国人に?」
「そうさ、この国の人間にさ。だれもやっていないことをしてやろうと思った。アンコが苦手だと先入観のある人達に知らしめる。和菓子がおいしい、お茶がおいしい。って今じゃ、日本のお茶は世界中でブームだよなぁ」
「和菓子の良さをわかってもらう?」
「あえての挑戦。広めてやろうと……。長い間やってきて、経験あるしさ、作るものには自信を持ってる。それがおやじとおふくろに対する供養だと思ってんだよ。運よくここにはやぶさを作ることができたし、ここは自由な気持ちでいられて、楽しくできる。みんなフリーだし、なにより自然がいいしね」
「プライドだね!」
 るりはカメラを持つ右手をあげた。
「そして自由……ここはケランダ、ヒッピーの村」
 わたしは、返事の代わりに、着物のつばきの帯を右手で軽くポンと叩いた。

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